風見俊介――高校三年の春から――・1

「なんで僕の細胞の中に別の生き物が寄生してるんだよ。そう思うとキモいよな、このゾウリムシみたいなやつ」


 僕はテキストブックに大々的に描かれた細胞内小器官――ミトコンドリアの構造図と、事細かに書かれたミクロの世界の解説に愚痴をこぼしていた。


「しょうがないじゃない、ミトコンドリアってそういうものだから。大体、生きてくのに必要なエネルギーを作ってくれる、ありがた~い存在なんだから、日々感謝しなくちゃ」


 向かいの卓上でノートを広げている綾は、こともなげに返事をして上目遣いで僕を一瞥した。


「男にはもっとスケールのでっかい勉強が必要だ。天文学とか地学とかそっちは得意なんだけどなぁ」


 座ったままうーんと伸びをして天井を仰ぐ。


「文句言わないの。生物の世界はとってもちっちゃいけど、宇宙よりもはるかに複雑で神秘的なんだからね。このひとつでもおかしくなったら一大事なんだからね。


 ……まぁ、四角い机をまぁーるく拭くようなテキトー男の俊介に、分子生物学は異世界なんですねぇ」


 見下されたような気がしたので即座に応戦する。


「なんだとぉ、じゃあ異世界転生した僕の魔法を聞いてみろ。カイトーケイ! クエンサンカイロ! デンシデンタツケイ! ほら覚えた覚えた、今日は生物はここまでってことでいいよな?」


「ちゃんと漢字で書けるように練習してね」


「あう、バレたか。でも今は程々でいいよな。まだ四月だ、時間は残されている!」


 月城高等学校の放課後の図書室は学生たちの憩いの場となっていた。そしてざわついた図書室は遠慮なしに会話ができるから、綾に勉強を教えてもらうのには都合の良い場所でもあった。


 もっぱら才女で通っていた綾は、幼馴染のよしみなのか、テスト前には自身の勉強がてら僕の講師になってくれる。手抜きが得意技の僕が労せずしてそれなりの成績を収めることが出来ていたのは、綾の無償の貢献によるところが大きい。


 頬杖をついて、まじまじと綾の真剣な顔をうかがう。


「まったく、中身はしっかりしてるのに見た目と声のギャップがありすぎるよなぁ、綾は」


「むぅ、同じこと何百回も言うなぁ!」


 綾はその突っ込みに、ぷぅ、と頬を膨らませてみせた。


 実のところ綾は他の女子と変わったところがあるのだ。


 まずは、その「外見」だ。


 高校最後の年を迎えたというのに、身長は140センチ程度と小柄で僕と頭ひとつ以上の差がある。


 しかもその上、優しげな垂れ目に愛らしいアヒル口のせいで童顔に見える。ランドセルを背負わせても違和感はなさそうだ。


 一度リクエストしたけれど激しく断られたので、もうおおっぴらには言い出せない。綾は小柄なことがコンプレックスなのだろう。機嫌を損ねたら今後、色々不便になる。


 それから、「声色」が特徴的だ。


 綾は空気が抜けてゆくようなウィスパーボイスを発する。というよりは、その声しか発することができないらしい。


 だから綾がどんなに怒ったとしても、その声はまるで穏やかな天使の歌声のようにしか感じられない。結果として、僕は綾の厳しい突っ込みを食らっても一ミリも腹が立つことがなかった。


 それどころか、綾が会話を交わした男子はその声に魅了され恋心すら抱いてしまう場合があるのだ。そして僕は、綾にその気はないよと恋の終焉を宣告する不遇な役回りとなった。


「それにしても本当にお人好しだよな、頼んでもいないのにマン・ツー・ウーマンの講師やってくれるんだから」


 僕は自分の言葉に自画自賛しつつ深く頷く。ところが綾は表情を緩めることなくぽろっとこぼした。


「でもね、あたしに頼りっきりじゃダメだからね」


 一瞬、寂しげに見えたが、僕は気のせいだろうと思った。


 勉強に飽きたので行き交う学生たちをぼんやりと眺めていると、視界に僕の「お目当て」が飛び込んできた。視線がその「お目当て」に釘付けになる。綾も気づいたようだ。


 視線の先にいるのは、本棚に手を伸ばす別クラスの女子生徒、川端かわばた弥生やよい。誰もが知る、ミス成城高校の女子だ。


 この高校にミスコンは存在しないが、開催されたら彼女が優勝するだろうと男子は皆、評している。華々しさと静謐さが共存し、孤高の美女というフレーズがそぐう。紅く艶のある唇と綺麗に縁取られた二重まぶた、それに神秘的なほどに色素の薄い眼はいずれも日本人離れしている。


 なおかつジェットコースターのごとく緩急のついたBWHは、制服で包み隠したって悩殺ものだ。


 ひっそりと遠目に眺め、目の保養にいそしむ僕に対し、綾が前方からつま先でちょいちょいと脛を突っついてくる。


「まーた目を奪われてるぅ。あんまりじろじろ見てると逆に警戒されて蚊の涙ほどのチャンスもなくなっちゃうよ?」


 どうせ鼻の下が伸びていると言いたいのだろう。


「いいだろ、個人的に見て楽しむだけなら著作権は問題ない」


「うわっ、弥生さんの姿を脳内にコピーしてるんだ。しかもこんなに可愛い子をスルーしてさ」


「かわいい子ってどこどこ? ちなみにいまだに制服に着られている綾はアウト・オブ・眼中だ!」


「むぅ、二か国語を駆使してディスったな!」


「うるさい、この塩昆布!」


「しっ、しおこんぶって、どういう意味よっ!」


 ウィスパーボイスで怒ったところで、迫力はまるでない。むしろ心地よいそよ風だ。


「有難く思え、ちっちゃくても出汁だしが効いてるって意味だよ。褒め言葉だ」


「うむぅ、ミジンコほども褒められた気がしないの、なんか不思議~」


 綾はあからさまにふくれっ面を見せつけたけれど、僕の褒め言葉(綾にとっては意味不明かもしれない)は嫌いではないようだった。


 そして普段のなにげないやり取りは終わるはずだった。ところが、その日はまさかの出来事が起きた。


 僕と綾の会話に気づいたのか、弥生さんが驚いた顔をして僕たちに歩み寄ってきたのだ。突然の事態に僕は内心、慌てふためいた。


 弥生さんは綾の目の前で足を止めた。僕は急接近してきた弥生さんにちらちらと視線を送りながら察する。


 ――考えてみたら村人B程度の存在の僕に弥生さんが話しかけてくる理由なんてない。でも綾って弥生さんと知り合いだったのか?


 綾に目をやると、鳩が豆鉄砲を食らったような表情で弥生さんを見上げていた。綾と弥生さんが親しい間柄ではないことはすぐにわかった。


 弥生さんは息を整えてから、丁寧な言葉運びで綾に尋ねる。


「あなた、……ひょっとして『鳥海綾』ちゃん?」


「あっ、はい。そうですけど……」


 綾は出方をうかがうように慎重な返事をした。


 弥生さんはまじまじと綾の顔を見てから、ぐるりと綾の背中に回り込み、後ろ姿を眺めた。その後、まるで舐めまわすように顔から胸、そして背中まで視線を沿わせ、それからうーん、とうなって怪訝そうな顔をした。


 綾は困惑した表情を浮かべた。それから弥生さんの視線が僕の方に移動し、一言だけ尋ねる。


「もしかすると、あなたが『風見俊介』くん?」


 何故だかわからないが、弥生さんが僕の名前を知っていたことは驚きだ。たったそれだけのことなのに、男としての優越感が込み上げてくる。


 僕が首を縦に振ると、弥生さんの瞳孔が大きく見開かれた。


「うっそ、私ってすごいかも! ねえ、二人ってどういう関係なの?」


 驚嘆と感激の様子で、僕と綾を交互に指差す。けれど僕も綾も、弥生さんが僕たちを見て驚いている理由がさっぱりわからない。


 理由はともかく、これは願ってもないチャンスだと思った僕は即座に答えた。


「うん、ただの幼馴染。今、勉強教えてもらってるんだ。本当にいつもありがとうございます、綾様」


 そして綾に向かって両手を合わせ頭を下げる。恋人関係ではないということを強調したつもりだ。


「そそ、ただの幼馴染ですね」


 綾はあっさりと肯定したので、心の中で綾への感謝が湧き起こる。


「ところであたしに何かご用ですか?」


 綾が身を引きながらおそるおそる尋ねると、弥生さんは嬉々として鮮やかな紅の唇を開いた。


「ごめんね、私、おかしいことを言うかもしれないんだけどね。昨晩、あなたと見た目がほとんど一緒の女の子が夢に出てきたの。だから、あなたを見て驚いちゃった」


「夢……ですか?」


 綾は口をとんがらせて首をひねった。本当に理解不能な時、綾が見せる仕草だ。


「私、あなたたちのことは全然知らなかったのに、なのよ」


「へぇ、弥生さんのことは学年の男子みんな知ってるけどさ、僕を含めて」


 僕は弥生さんを意識しているという意を、そこはかとなく匂わせた。


 その時、綾は突然何かを思い出したかのように、勢いよく椅子から立ち上がった。


「あっ、あたし今日、大切な用があるのを忘れてた。早く帰らないといけないんだった!」


 そういって慌てて荷物をまとめ始める。


 滅多にドジを踏まない綾がそんなことを言い出したのは不自然だし、慌てっぷりがわざとらしい。昔から知る間柄だけに演技はすぐに見抜ける。


 つまり、ありがたいことに、綾は気を利かせてくれたようなのだ。


 僕は「あっ、そうなの? それじゃあまたな」と、あえて素っ気ない挨拶をしてみせた。


 しかも綾は僕の向かいの自分が座っていた椅子はきちんと仕舞い、僕の隣の席の椅子を引いたのだ。弥生さんにここに座ったらどう、という意味だ。


 それから「弥生さんの話、よく聞いておいて後で教えてね」と言い残し、去り際に振り向きウインクをしてみせた。


 ――サンキュな、綾!


 僕の胸中は気の利く幼馴染に対して感謝の気持ちが溢れていた。手のひらを引いた椅子に向かって差し出して、「面白そうだね、詳しく聞かせてくれない?」と言ってのける。


 弥生さんは歩み寄り、僕の隣の椅子に腰を下ろした。それから周りに気を遣ったのか、そっと身を寄せてきた。ああ、早鐘を打つ胸を止める術はない。


「誰にも言わないで欲しいことなんだけど」


「大丈夫、僕、口は堅いから。それに不思議な話は大好物だよ」


 魅惑的な切り出し方を聞いて、目の前のテーブルが秘密の花園に見えてしまう。もはや周りの男子諸君は飛び交うカナブンでしかない。それから花園に佇む美しき姫、弥生さんは本題の続きを語り始めた。


「私の夢に出てきた綾ちゃんはね、囁くような声をしていたけど、おんなじ声が聞こえたから、あれ、と思って見てみたの。そしたら夢の中で見た女の子と同じ子がここにいたからほんと、驚いたのよ。


 私、予知能力があるのかもしれないって思っちゃった! だから夢で聞いた名前が本当に合っているかどうか確かめたくて声をかけたの」


「へー、すごい。何かの運命かもね」


 興味深そうに相槌を打つと、弥生さんはさらに目を輝かせて続ける。


「そう。それからね、こういったの。――『風見俊介』っていう男の子を見つけてね。仲良くなるといいことあるかもよ――ってね」


「えっ、僕のことも?」


 接点のない僕にとって、自分が弥生さんの夢に登場していたなんて、本当に予知夢なのかも、と思えなくもない。


「でもなんで僕が『風見俊介』だと思ったの?」


「あっ、それね、――あんまり特徴ないけど、いつもあたしのそばにいるからすぐわかると思う――って夢の中の綾ちゃんが言っていたから」


「はぁ、特徴がナイデスカ、ソウデスネ」


 確かにいつもそばにいるのは事実だし、髪型も今風なソフトツーブロックだし、体型も標準、綾の採点による顔面偏差値は中の上程度で、よくいる普通の高校生であり、これといった特徴はない。悔しいが言うことに現実味がある。


 それから弥生さんは、ぽっ、と頬を赤らめて俯き照れくさそうに提案した。


「そうそう、だからね、夢のお告げがあったし、その……もしよかったらなんだけどね、風見くん、私の友だちになってくれないかしら」


「やっ、弥生さんと、僕が友達に――っ!」


 ――なんという急展開だ! これを運命と言わずして何と呼ぶことができるだろう。まさに恋の女神が僕に微笑みかけているっ!


 千載一遇のチャンスだと思い、さらに攻勢をかける。


「でもさ、さっき綾が急いで立ち去ったように思えたんだけど、ひょっとしたら弥生さんに何か隠していることがあるのかなぁ。夢に現れたなんてファンタジーな展開っぽいし、実は僕の知らない秘密があったりして」


 僕は綾が自分に対する気遣いでそうしたのだと確信していたけれど、そんな風に察してみせたのは少々あざとい作戦を思いついたからだ。僕はその作戦を遂行する。


「もしも綾のことで何か気付いたことがあったら、弥生さんに連絡するよ。だから、その……連絡先教えてもらえないかな」


 ところが弥生さんはためらいを見せた。急に表情が真剣になり、さらに身を寄せて小声で伝える。


「あんまり私に関わると風見くんに迷惑がかかっちゃうかもしれないから、今日はここまでにしておくね」


「迷惑……?」


 それは僕が他の男子に嫉妬されるんじゃないかと心配している意味だと思った。僕の推理をよそに弥生さんは続ける。


「でも、もしもまた綾ちゃんが夢に出てきたら、その時は運命と思って、風見くんに必ず連絡するね。だから携帯の番号、教えてくれるかな」


「あっ、うん、わかった!」


 平然を装ってそう答えたが、僕の脳内ではその一言がこだましていた。


『運命と思って連絡するね……連絡するね……連絡するね……』


 慌ててノートの端を切り取り自分の携帯電話の番号を書き込む。周りの目に触れないように手のひらで隠して、その手を弥生さんの目の前に滑らせる。弥生さんは手のひらに隠された小さな紙切れを指先で摘み上げて胸元のポケットにしまい込んだ。


 ――よしっ!


 連絡先を受け取ってくれただけでも大きな進歩だと心の中でガッツポーズを決める。


 それから弥生さんは立ち上がって、振り返ることなく図書室を後にした。あえて素っ気なく振舞っているのだとわかっているのは、この図書室の生徒の中でも僕だけだろうなと、天にも昇る気持ちになっていた。




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