ぜんぶ、天使(きみ)のせい

秋月一成

プロローグ

 冷え切った病室の中、風見かざみ俊介しゅんすけ松下まつした倫太郎りんたろうの目前に立ちはだかり胸ぐらを掴んだ。


「……おい、何のつもりだ、風見」


 精悍な顔つきの倫太郎は、肉食動物のような鋭い眼光で俊介を見据えて言う。


「松下、お前、綾を傷つけておいて、今更何ノコノコ現れてやがるんだ! すぐに消えろ!」


 怒りを抑えることができないでいる俊介は拳を握りしめた。


 ――綾、本当はこいつのこと、今でも憎んでいるんだろ? 僕がきっちり落とし前をつけるから見ていろよ。


 一触即発の二人の隣には、ベッドに横たわる鳥海とりうみあやの姿がある。綾は俊介の同級生であり幼馴染でもある。


 綾の肌は病室の薄明りの中、幻想的な淡いライムイエローの光を放っていた。 さらに綾の顔立ちは、高校卒業から四年以上経ったというのに、相変わらずいとけなく見えた。


 まさに、「天使症候群エンジェル・シンドローム」の症状だった。


 俊介の脳裏には五年前の光景が蘇る。悪夢にも似た光景だ。


 かつて高校時代、俊介は偶然見てしまった。夕暮れの公園で綾と倫太郎が抱き合っている姿を。


 綾は瞳を潤ませて、覚悟を決めたかのように、その小柄な躰を倫太郎の胸に預けていた。


 外見が少女のような綾と強面の倫太郎は誰の目から見ても不似合いだ。けれどその状況を目の当たりにした以上、二人には深い関係があるのだと信じざるを得なかった。


 以来、俊介は綾と距離を置くようになってしまったが、半年も経たないうちに、ひとり寂し気な表情でいる綾を見かけるようになった。


 意志の強い綾が一度決めた相手に対して安易に別れを切り出すはずなんてない。だから別れの理由は倫太郎に捨てられたに違いない。綾はこの男の毒牙にかかったのだと思えてならなかった。


 俊介は握りしめた拳を振り上げる。


 だが、その腕はあっさりと倫太郎の手のひらに受け止められた。俊介は掴まれた腕に力を込めるがびくともしない。力の差は歴然だった。


「離せよ、お前を殴ってやる! でないと綾に顔向けできない――ッ!」


 ところが倫太郎は、奇妙なくらいに落ち着き払った声で俊介を諭す。


「まあ、その手を下げろ。取り敢えずお前が何にもわかってなかったことが理解できただけでも、来た甲斐があったってもんだ」


 斜め上からの台詞と冷静な態度がなおさら俊介の神経を逆撫でする。


「綾のことをわかってないのはお前の方だろ! 綾はなぁ、いつだってひたむきで健気で純粋なやつだった! それなのにお前は……ッ!」


 倫太郎は俊介の腕を強引に下ろし、掴んだ手とは反対の手を俊介の血走った目の前に差し出した。


「仕方ない奴だな、じゃあこれを見てみろ」


 倫太郎の節瘤ふしこぶ立った大きな手は、鈍い銀色に光るオブジェを掴んでいた。円い土台の中心から一本の柱が立っていて、その上にドーム状の丸い傘がついている。傘からはワイヤーで四頭の馬が吊るされている。傘の部分は回せるようで、手のひらの上で馬がゆらゆらと不規則に揺れていた。


 どうやら回転木馬を象ったオブジェのようだ。


「これは、俺が鳥海から預かったものだ」


「綾から預かっただと?」


 俊介はただでさえ険しい表情だったがさらに眉根を寄せる。


「ああ、受け取ったのは高校時代だがな。だが、今のお前がこいつを受け取れるのかどうか、試してみたいんだ。この回転木馬がお前を受容するのかをさ」


 オブジェがずいっと俊介の目の前に差し出される。


 俊介は倫太郎の奇妙な発言の意図を確かめようとオブジェに手を伸ばした。


 その瞬間、眩しい火花がオブジェから飛び散った。


「痛ッ!」


 指から腕を伝って全身へと激痛が走った。俊介は驚き派手に身を翻す。


「……やはり鳥海の言っていたことは本当だったか」


 倫太郎はオブジェを指先で弾いたが、四頭の馬がくるくると回るだけだった。


 一方の俊介はオブジェに触れた手のひらに痛みを残していた。険しい表情で倫太郎を睨みつける。


「スタンガンかよ、それ。僕を騙したのか?」


「いや、鳥海自身が、俺からお前には渡すことはできないと言っていたんだ」


 そういう松下の面持ちは妙に緊張していた。


「本当のところ、鳥海はお前にこれを渡したかったはずだ。こいつには鳥海の『想い』が詰まっているんだからな」


「綾の『想い』……だと? 何でお前にそんなことがわかるんだよ」


 俊介はあからさまに動揺していた。倫太郎が俊介の知らない、綾の本心を理解しているかのような口ぶりだったからだ。


 ――この回転木馬のオブジェには、一体どんな秘密があるっていうんだ。


 俊介は横たわる綾に視線を落とした。するといつからだろうか、綾の瞳からはポロポロと澄んだ涙がこぼれ落ちていた。


 涙の雫は、肌が発する淡い光を映して、イエローダイヤモンドのような神秘的な美しさを醸し出していた。


 皮肉にも「天使症候群」という病名が似合ってしまう、秩序立った美しさでもある。


「鳥海は今、 お前に『想い』を伝えられなかったことを猛烈に後悔しているはずだ。まあ、思い出してみろよ、高校時代あのころをさ」


 そう言う倫太郎の細めた目はどこか憂いを帯びていて、非道な人間と称されていた高校時代の印象とはまるで違っていた。


 だからなのだろうか、俊介は倫太郎に対する怒りが消えたわけではなかったが、倫太郎のいう、かつての自分と綾の関係を振り返る。


 あの頃の、綾の遠慮のない笑顔が脳裏に浮かぶ。


 囁くような吐息の声も、甘い梅花のような匂いも、細い指先でペンを走らせて描く綺麗な字も、次々と思い出していた。


「綾……なんでお前は……」


 俊介は自分の頭を抱え、髪をくしゃっ、と握った。


 けれども俊介はまだ知らなかった。


 この涙の源流となった、綾のひたむきな想いを。


 時を越えて二人を繋げる、『回転木馬』がもたらす奇跡の物語を――




==「天使症候群」とは==


 二年前、その疾患の病因が解明された。


 ミトコンドリアにおける、特定の遺伝子変異が原因となる先天性疾患である。


 幼少期は無症状だが、思春期から成長が遅れ、小柄で童顔となり、また齢を経るにつれ徐々に運動能力が低下する。


 異常ミトコンドリアが崩壊しながら自家蛍光を発し、皮膚が緑黄色に輝く。疾患の進展に伴い、蛍光の範囲が広がってゆく。


 治療法はなく、ほとんどの患者が二十歳代のうちに死亡する。親から子への遺伝性はない。


 若くして輝きながら天に召される患者に対し、慰めとしてつけられた病名――それが「天使症候群」である。

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