第3話

翌朝はまた三人で食事をしたけど、僕は授業が始まる前に職員室に行かなければならなかったから、先に一人で寮を出た。

堀井とは口を利いている暇も、口を利く気もなかったから、今朝は腹が立つようなことは何もなかった。

が、しかし───

担任について教室に入った時、そこに奴の姿を見つけ、さらに用意された席が奴の隣で、その上教科書がまだないために奴と机をつけなければならなかったのには心底うんざりした。

誰かの陰謀か、はたまた嫌がらせか───クソッ!!


つけた机の真ん中に教科書が置かれたが、僕はたとえ視界の隅にでも奴の姿を入れたくなくて、奴の居る左側の肘を立て、こめかみのあたりに手を当て右側ばかりを見ていた。

少しして、その肘をカクンと倒された。

何だよ!? と思って横目でにらみつけると、堀井が冷静な表情でチラリと前方に目くばせした。

その視線を追うと、教壇に立つ先生と目が合ってしまった。

ありゃ……。

僕は仕方なく肘をおろした。

でも出来るだけ左側は見ないようにした。

時々、教科書のページをめくる堀井の右手が視界に入って来るけど───

見まいとすると逆にその視界の隅をかすめる手が気になるもので……。

案外 綺麗な手だった。

女性のような美しさじゃなく、ガタイに似合う大きくて骨太の、でも指は長くて、爪は半月のはっきりと見える桜色で、親指のつけ根あたりは肉厚で……。

包容力のありそうな大きくて暖かそうな手。

「器用だな」

「え……」

ささやくように言われ、顔を上げた。

堀井が僕の右手を見ていた。

僕は無意識にシャープペンを回していたのだ。

「ああ……」

僕はもう一度回すと、それからこれは意識していないと出来ない逆回しもやってみせた。

堀井はじっと僕の手元を見てる。

それからシャープペンを握ると挑戦し始めた。

だが何度やっても、開いたノートの上にポトリ、パタリと落ちてしまう。

堀井の目がもう一度やって見せろと催促していた。

僕は少しだけゆっくりと回して見せた。

堀井がまたチャレンジする。

やっぱりダメ。

僕は手をそえて、最初のペンの握り方から教える。

堀井の目は真剣だ。

そう、そのまま手首は動かさず親指を軸に、人差し指は真っ直ぐ、中指で押し出すように……。

カラ〜ン───

「堀井ィ、何遊んでる!?」

「すみません」

先生の声が飛び、堀井は立ち上がって謝罪すると、床に飛んだシャープペンを拾い席に戻った。

僕は下を向いたまま、必死で笑いをこらえていた。


堀井は休み時間も、次も、次の授業中もずっと練習してた。

僕はそんな堀井を半ば呆れてじっと見てた。

四時間目に突入する頃には五回に一回くらいは成功するようになってた。

成功すると目元が微かに笑い、“どうだ”と言わんばかりに僕のほうを見る。

僕は人差し指だけの拍手を贈ってやる。

無表情でいやに落ち着き払ってるかと思うと、こんなことに一所懸命になって、大人なんだか子供なんだかわかんないよな。

あ、堀井って奥二重なんだ。ホリの深い顔してるよな。鼻筋も高いし。

いい男の部類に入るんだろうな、こういう顔は……。

身長高いし、肩幅広いし、胸板厚いし、足も長いし。

こんな山の中の男子校でなけりゃ、女の子にもてるんだろうな。

あ、ダメだ。だんだん卑屈になりそう。

そっと息を吐いて堀井の横顔から目を離そうとした時、堀井がフイとこちらを見た。

バチッと、本当に音がしそうなくらいに視線が合ってしまって、離すに離せなくなってしまった。

堀井はじっと真っ直ぐに僕を見つめてくる。

その瞳の色は深くて、堀井が何を考えているのかわからない。

どうしよう。

かすかに頬が紅潮したが、意地で目を離さずにいたら、堀井のほうから逸らしてきた。

ホゥと息をつきかけたが、途中でとめた。

堀井は僕から目を離したわけじゃなかった。視線をずらしただけだった。

堀井の目は、僕の口元を見てた。それからあごのライン。首筋、肩、腕、そしてその視線は下に降りていく。

腿のあたりまで降りた視線が、スウッと顔まで戻ってくる。

再び目が合った時、鼓動が跳ね上がった。

顔が熱くなるのを感じた。

な、何……考えてるんだ!?こいつ……。

わからない。静かすぎて。怖いくらいに……。

え、怖い?

この僕が怖い?

いや、待て!

今まで色んなことをしてきた。

中学の時に高校生と対峙した時だって、怖いなんて思ったことなかった。

父さんのことだって、母さんが出て行ってからは怖いなんて思わなくなった。

そんな僕が、そんなはず……。


その時、チャイムが鳴った。

目が合った時と同じように堀井はフイと前を向いた。

堀井にはわからないように、詰めていた息をそっと吐いた。


昼休み、田上がまた僕と堀井を誘いに来た。

田上は隣のクラスだった。

ごったがえしている食堂で、やっと空いているテーブルを見つけて席に着くと、堀井は今度は箸回しに挑戦している。

田上はそんな堀井をキョトンと見ている。

ホントにこいつは何考えてるんだか……。


いつの間にか、僕と堀井はつるんでるのが当たり前になっていた。

食事の時と寮の消灯前の自由時間にそこに田上が加わることがほとんどだけど、田上は面倒見の良さと人好きのする明るさからか、結構人気者だ。上級生からも声を掛けられたりしている。

堀井は、と言うと───

どうやら同級生の奴らから一目置かれる存在らしい。気軽に声を掛けてくる奴は田上しかいない。

けれど、嫌われ者という訳でもないらしい。

必要があって話し掛けてくる連中の表情を見れば、それはわかる。

そして僕は、と言えば、堀井と居るせいか、僕にも気軽に声を掛ける奴は少ない。

さすがに二十四時間ずっと堀井と居るわけじゃないから、話しかけられるのは大抵一人か、田上と居る時だ。

堀井がどういう男なのか、みんなからするとどんな存在なのか、奴とつるんではいるものの、日頃たいした会話もしない僕には未だに謎が多かった。


「すごいね」

「え?」

弾んだ声とともに肩を叩かれ、振り向いた。

クラス委員長の伊藤だった。

「あの堀井が真剣になってるよ」

伊藤が敵ゴールを守る堀井を肩越しに見る。

「堀井、運動神経バツグンみたいだね」

僕の息も弾んでる。

こんなに真剣に体育の授業を受けたのは本当に久しぶりだ。

「ああ、中学の時はあちこちの運動部から引っ張りだこだった」

「堀井と同じ中学?」

「そうだよ。ここの附属が山の麓にある」

「へえ」

敵が攻め上がって来たので、一旦伊藤と離れる。

ボールをカットに入って、味方にパスしてゴール前に走るが、パスカットされそうになってボールは外に出た。

「中野はハンドの経験あるの?」

また伊藤が側に来た。

「うん、ちょっとだけね」

「どうりで」

伊藤がさわやかな、という表現がピッタリの笑顔を見せた。

優等生然とした奴は嫌いだ。内心では僕みたいな人間とは関わりたくないと思ってるのが透けて見える。

だけど、この伊藤はそういう感じは全くしなかった。

そう。ハンドボールは僕が最初にちゃんと入学試験を受けて入った中学で、少しだけやったことがある。

部に所属してたわけじゃないけど、あそこの部長が何故か僕を気に入ってくれて、時々遊びに行ってた。

弱小クラブだったから、部内の紅白戦の頭数合わせに呼ばれたりして、試合のあとジュース奢ってもらったりして、楽しかったよな、結構……。

「中野、行ったぞ!」

誰かの声で我にかえる。

ドリブルで攻め上がって来たところをカットした。

すぐに味方にパスして、今度はこっちが攻め上がる。

そうだ。来い!

走りこみながらパスをもらって、ゴール前。

誰もいない。

一、二、三歩目で地を蹴って、堀井の目が僕の右手にあるのを瞬時に見て、左手に持ちかえる。

地を蹴る足が逆になるけど、左手は体の捻りだけでも打つことが出来る。あの時の部長が感激してた技だ。

もらった!

と、思った瞬間、喉に衝撃が来た。

続いて後頭部。そして背中にも……。

星が見えた。

ああ、本当に見えるものなんだ。って感心してたら、堀井の顔が見えた。

何か言ってる。

怖いくらい真剣な顔で、何か怒鳴ってるみたいだ。

ダメだ。堀井、聞こえない。

頭の中、わんわんしてて……。

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