馬車を降りる

うさみゆづる

馬車を降りる

 行き場のない馬車に乗っています。こんなに煌びやかで装飾だらけのこの馬車は、一体どこのお城の舞踏会へ行くのですか、といつも聞きたくなるのに、実際は、同じところをぐるぐる走り回るだけのお遊戯であるということが虚しい。もう何度見たかわからない、この遊園地の象徴とも言える大きな赤煉瓦の時計塔を横目に流していると、今まさにお城の門を抜けたところです! なんて雰囲気を醸し出す壮大でメルヘンな音楽が、御者もいない馬車の頭上を流れた。メリーゴーラウンド。宮殿はどこにも見あたらない。

 子どもの頃は瞬きするたび目に映るものが変わって、目まぐるしくも花畑のように鮮やかな日々が多かったように思う。雨の日の交差点は水溜りに信号機のネオンが溶かされて、それが一つのアトラクションだったし、掃除機の黒いホースに跨って空はいつか飛べると信じていた。人魚にも、お姫様にも、王子様にも、昔はなんにだってなれると信じていて、しかし、それは時が経つにつれ消しゴムみたいに少しずつ削れてゆくものであったから、今は残りカス程度の存在感。だけど時どき抵抗として、大人になんかなりたくないな、と心の中で言ってみる。言ったところで変わりはしない現実に言ってみる。大人になんかなりたくないな。しかし今日は思わぬことに口からこぼれていたようで、すかさず向かいの席からは、ピーターパンかよ、と声が飛ぶ。

「乗り移ってた?」「移ってた移ってた」小さな石の連なるイヤリングを風に吹かれた風鈴のように軽やかに揺らしながら、椿は馬車の窓枠にゆっくり丁寧頬杖ついて、

「まあ、わかるけどね」

 眉根をきゅっと寄せて困ったように笑った。

 小学生からの付き合いである彼女とは、もう人生の半分以上を共に過ごしているのではないだろうか。中学で別れてからは遊ぶ機会もめっきり減ってしまったけれど、高校に上がった今でも、こうしてたまに顔を合わせてはお互いの近況を報告したりの関係が続いていて、この付かず離れずという心地よい距離感をつくる椿が好きだと同時に、会うたび大人みたいな落ち着きを手に入れていく彼女が、私は少し恐ろしい。なんだか一人だけ、ネバーランドに置いて行かれたような気持ちになる。

「親にさ、なりたい職業とかないのって聞かれるけどわかんないんだよね。今までずっと勉強だけしてきたのに、いきなり言われても困るよ」

「将来どんな自分でいたいかで考えたらいいんじゃない。楽しく過ごしたいとか、お金持ちになりたいとか。そしたら少しは現実味湧くかも」

 馬車の走る勢いが段々と失われてゆくのを一人寂しく感じながら私は彼女にそう提案する。あまり深く考えず、ほとんど適当に言ったつもりだったけれど、思いのほか真剣な表情で反芻する椿に、

「渚はどんな人でいたい?」

 と聞き返され、つられて私も真面目に考え始める。

 どんな人でいたいかなんて、そんなの全然わからない。自分でもわからないものを人に易々と押しつけてしまったことは申し訳なく思うし、反省するけれども、だってそれは、私には椿さえいればどんな人間でいようが生きていけるような気がすると言う自負から生まれてきたものだったのだ。逆に椿がいないのならば、金持ちになろうが、愉快な暮らしを手に入れようが、途端に生きる力を失くして、まるで路地裏で人知れず横たわる野良猫のように無力感などを感じながらただ死を待つだけになるのだろう。

 ともあれ、椿のその問いに応えるならば、面白味はないけれども、優しい人、というのが私の頭の中でずっと主張をし続けている。優しい人。いいじゃないか。ありふれているけど、目指したい人物像にはこれ以上ないくらいうってつけだろう。そう思いながらいざ口にしてみると今度は、「具体的にどんな」と聞かれてしまい、私は再び頭を悩ませる。

「漠然としすぎてて、逆に現実味なくない」

「うーん……なんかこう、いい感じに、優しい人?」

「いい感じって。ガバガバだなあ、どういう感じよ」

 椿の小鳥が囀るみたいな笑い声に、険しく顔を顰めていた私もなぜだかだんだん楽しくなり、

「わかんない。むずかしーよ」

 と喉から跳ねるように笑ってなんとなし、背もたれにドスンと身体を預けたら、思っていたよりも硬い木製の座席が後頭部と肩甲骨に厚い音を立ててぶつかり、その間に挟まれた肉が押し潰された。逃すこともできない痛みが溜まってゆく。近づいたと思ったら遠ざかったり、遠ざかったと思ったら近づいたりという鈍い余韻を残す痛みと、それから、馬車を囲うように燦々と降る白や橙色をした光のまぶしさに、思わずぎゅっと目をつぶったら、ちょうどスタッフの案内が始まって私たちは馬車を降りた。

 メリーゴーラウンドの外側はすでに薄暗い膜が張っている。星なのか、はたまた飛行機なのかわからないくらい光の粒は川底の砂金ほどしか見当たらないけれど、冬の冷たく澄んだ空気に月は輪郭をにじませることなく、くっきりと美しく浮かんでいることが唯一の救いであるかのように感じる。そのすぐ下では、ぼうと硬い明るさを放つメリーゴーラウンドが道行く人々の目を容易く奪って離さず、私たちも、再び光を振りまき始めたそれに圧倒されながら、横並びになって少し離れたところに立ち尽くした。

「来年もまた来よ」

 囁くように吐いた息が、椿自身の赤くなった鼻先をすっぽり覆ってほのかに光る。その奥のほうで名残惜しそうにぐらぐら揺れる瞳を見ていたら、私まで泣きたくなってきて、頼むからそんな顔をしてくれるなと思った。帰りたくないのは私も同じだった。

 スマホより一回り大きなカイロを掴んでいた手を茶色いコートのポケットから引き抜いて、マフラーにうずまっていた顔を出す。温かい口の中で舌を転がしながら「うん」と言うと、急に唇がぷるぷる震えてきて、このままじゃ情けない声が出ると思い開きかけていた口を閉じ、震えがようやくマシになった時、もう一度口を開いたら、やっぱり情けない声が出た。

「また、来よう」


 耳の穴に脳を直接殴るような音が入り込み、急いで目覚ましを止めた。毎日胸の中で泡立つような苛立ちと共に朝を迎えている。カーテンの隙間から漏れる糸みたいな光すら今はまぶしく、タオルケットを頭のてっぺんまで力一杯引き上げ、腕だけ中から突き出し机上のスマホを乱暴に掴み取る。朝七時。仰向けになってぼんやり画面を見ていたら、スマホが顔にするりと落ちて目が覚めた。

 最近、同じ夢ばかり見ている。去年の年末、椿と遊園地に行ったのを汗ばむ六月になっても反復している。あの日以降も彼女とは何度か会うことがあって、大抵がお菓子をつつき、映画を見て、駄弁る。そういう一日だったけど、時計の針が一周する速度は他の何をしている時より速く感じた。そうして帰り際には、いつもどちらかが帰りたくないと渋り出す、というのを繰り返すのが今では定番になりつつある。最後に椿と会ったのは今月の半ば、その時に決めた次の約束は八月初旬。間にあるこの一ヶ月半近い空白が私は酷く退屈で、この頃はそれが待ちきれないから、あの冬の日のことを何度も反芻しているのではないかと思うまでになっている。私は私の、日々を楽しむ力が、少しだけ足りないのかも知れない。

 むくんだ脚で台所に降り、コップ一杯の水を注いで、薄い唇の間にさらさらと流し込むと乾いた身体がたちまち水分を吸収しだし、縮んだ肉がゆっくりと広がって油をさしたように軽やかになる。隣の居間の、朝の情報番組が映ったテレビの前に私はだらしなくべたりと座り込むと、あちこち跳ねる頭を撫でた。所々絡んだ毛束が指の股に引っかかり、いつもなら丁寧にほぐすところを無理やり梳き通したせいで、髪の毛がぷちぷちと抜けた。濃い色がほとんどを占める中、本来の髪色になりきれなかった色素の薄い毛が、肌触りのいい朝の光に透けてきらきらと金色に美しく輝く。

 ゴミ箱を太腿の上に手繰り寄せ手のひらに絡まった髪を一本一本摘み上げていると、洗面所から出てきた出勤前の母に、

「今日がっこう?」

 と聞かれ、私はちらりと一瞥し、

「うん」

 と返事をするも、肝心の母音は口内に取り残され、「ん」とだけ鼻に小さく抜け出てくる。聞こえなかったろうと思い、もう一度はっきり発声し直そうと口を開けたら、一拍遅れて母が、

「出る前に流しの食器だけ洗っといて」

 と素っ気なく放ったので、少し声が出た。この独特の間は母が昔から使う癖のひとつで、話を聞いてくれているのかいないのか、いつも見当つかなくて、どうしたらいいのかわからなくなることがしょっちゅうあった。実際、こちらが一生懸命話しているのに聞いていないこともあったし、その都度私が「聞いてる?」と確認するのがここ数年、母と会話をする上での通例になり始めている。

 母はそのまま換気扇の下までやってくるとヤニや油で茶色く変色した壁に寄りかかった。コンロの上に置かれたタバコに手を伸ばし、流れるように一本抜き取る。口に咥えておもむろに火をつければ、先端の方から上がる煙が、ぱたぱたと健気に回るプラスチックのはねに吸い込まれていく。そこから逃れてきたらしいわずかな臭いは密やかに私の鼻を掠め、粘膜をジリジリ焼き付けながら目の奥にのぼる。

「ちゃんと鍵閉めていってね」

 口から出た息は、白く霧散しながら母自身の丸い鼻を覆った。それからまた吸って、吐いてを数回繰り返した後、母はグラスに注がれた麦茶を飲み干して流しに置き、仕事用のバッグを肩にさげると忙しなく家を出て行く。七時半。お気に入りの曲をスマホで流して、私も支度をしようとのろのろ立ち上がった。

 小さい頃は、大人になる前にこの世界から自然と離脱するのだという妙な確信があった。気づかぬうちに風や鳥になって、あるいは透明になって、そのままさっぱり消えるんだと思っていた。いやいや、そんなわけあるまい、世界はそんなに突飛じゃないと、この頓珍漢な思い込みに気づいたのは、現実が現実味を失ったまま生きていこうとする速度を加速し始めた頃で、自分の手持ち無沙汰な身体が恐ろしくてたまらなくなった夜がある。

 洗顔後の水浸しになった手のひら。薄手のシャツとデニムのズボンを通した手脚。なだらかに膨らんだ胸と尻。たびたびこの身体の持ち主が誰かわからなくなり、鏡の前に立ってはじめて自分のものだと認識できるようになる。いつも中身を置いてけぼりにして、外側は知らぬ間にたくさんのグループに所属していく。大人らしいとか、子どもらしいとか、何をもってらしさとするのか曖昧なまま分類されることが怖い。わかりやすい記号にしたぶんあぶれたものが多すぎて、結局、的外れな理解を主張されるのが昔から苦しくて仕方なかった。

 寝癖を直して洗面所から台所に戻ると、母に言われた通り流しの食器を手際よく洗って、水切りかごに移していく。肉体にこもっていた熱が、水や泡と共に排水溝へ流れ落ちる。昨夜準備しておいたリュックを弾ませながら背負って、窓の鍵を順繰りに見ると靴を履いた。玄関の重い引き戸を開ける。六月下旬の湿った熱風が勢いよく吹きつけ、首筋に汗が滴れる。

 玄関の鍵を閉めながら、電車の時刻をスマホで確認していると、『今日、授業くる?』という通知が画面上部に顔を出した。親指を少し彷徨わせてからそれを軽くタップしアプリを開くと、はてなを浮かべた愛らしい絵柄のペンギンがトークルームに現れる。ほまれとのトークはこのシリーズのスタンプがほぼ全ての文章のお尻についていて、こざっぱりした椿のトークに比べるとずいぶん賑やかだった。私は簡潔に『いく』と打って送信、数秒もしないうちにほまれから『まってる』と絵文字付きで返信が来る。それを勝手に頭の中で彼女のおさなげな声が読み上げてきて無性に苛つき、駅に向かう足が速くなる。


 駅前のコンビニで買ったお昼ご飯を広げる私の向かい側で、ほまれは両肘を支えにして教科書をひたすら見下ろしていた。昼の談話室に吹き込む風がいたずらにページを捲るのが鬱陶しく、筆箱を重しに乗せてやる横では、彼女の書いた数式が本人の手によってペンを突き刺すように塗りつぶされる。結果は薄々わかっているものの、私はそれをふし目がちになぞって、「どう?」と聞いた。するとほまれは弱々しくおどけながら、「わかんない」と誤魔化すように笑うから、内心苛立つ。どこがわからないの。全部。私はフォークを置いて口内ですり潰していたサラダを嚥下し、さらに噛み砕いた説明を頭の中で組み立てた。しかしそれでもほまれはわからないと、今にも泣き出しそうに顎の肉で下唇を押し上げて口をへの字にする。

「わたし、なぎちゃんと違って頭わるいからさ。説明してもらっても全然、わかんなくて。授業にもついていけなくて」

 だんだん湿り気を帯びていくほまれの声に、小学生の頃と何も変わらないなあと思う。

 初めて椿とクラスが別れた年、私は初めてほまれと同じクラスになった。ほまれは当時から同年代と比べて背も高く、大人びた顔立ちをしていたので、誰よりも大人の外見に近い生徒だったけれど、それに反して、実際の年齢よりも妙におさない言動が彼女を酷くアンバランスに見せていた。要因の一つとして、彼女は上手くいかないことがあるとすぐ焦ったように頭を掻きむしって、自分を捲し立てはじめるということがあった。何がほまれをそれほどまでに駆り立てるのか知らないけれど、どうして、と泣きながら何度も口をわななかせる姿は、自分で自分を混乱に招いているようにも見えたものである。最初は友好的な態度だったクラスメイトも、この姿を繰り返し目にしたあとは露骨に嫌悪感をあらわにして嫌がらせをするようになり、また、その方法は驚くほどに多種多様だった。嫌いなくせにわざと物を隠してみたり、ほまれをバイ菌扱いしてみたり、聞こえるように悪口言ってみたり。とにかく、他人を不快にさせるものがほとんどで、毎度それを庇いながらほまれを宥めるのにも骨が折れたのに、ある日、たまたま通りがかった印刷室の前で担任に呼び止められ、丸つけの終わった書き取り帳を教室に運んで欲しいという頼みのついでみたいに、彼女のお世話係の認定を受けた時はさすがに半笑いになっていた口角がぷるぷる震えたものである。

「あのね、渚ちゃんならわかってくれると思うけど、ほまれちゃんには苦手なことがたくさんあるの。それが満足に出来なかったりすると、ほら。泣き出しちゃったりするの見たことあるでしょう。おうちの方も少し大変みたいで、だからね、ほまれちゃんが困っているとき渚ちゃんが助けてくれて、本当に助かる。これからもほまれちゃんのこと、おねがいね」

 両腕にクラスメイト三十人分の重みをどしりと抱えさせられ、まず肩の肉が重力に耐えきれずびりりと伸び、次に足が、沼にいるわけでもないのに床に沈んでいっている気がして、私はもう本当にどうしようかと思った。担任は再び大きなうるさい機械に向き直り、

「人数分印刷し終えたら戻るから」

 と吐き捨てると一瞬のうちに私の存在を認識から消し去って作業に戻った。私はそれに衝撃を受けながらも、はい、と頷いて教室に向かったのだが、この少しの衝撃でぱたぱたと崩れ落ちてしまいそうなノートの山を見るたび、廊下に叩きつけてやりたくなり、でもやっぱり出来なくて、見えない足元に注意を向けながら廊下を歩いた。階段で一度つかえ、後ろから何人も勢いよく駆け上がってくるたび、巻き上がった風の衝撃で転げ落ちるんじゃないかという不安に苛まれた。

 去年もクラスメイトにいじめられていたのだとほまれに打ち明けられた時には、そうだろうな、と彼女の無頓着な身だしなみや噛み合わない会話を脳裏に思い出していた。深刻そうにこぼすわりに、自分を省みない彼女が滑稽で、この子には一体何が見えているのだろうと不思議に思った。自分を愚鈍と称して泣くほまれに見慣れた頃、私はいつものように彼女を宥め、立方体の体積の求め方を教えようとしていたのだけれども、その日はなぜだか上手くいってくれず、気づくとほまれを椅子から突き落とし、それを見下ろしていたこともあった。

 教室の音という音が止み、誰かの息を飲む音だけが鮮明に聞こえ、眼球の上辺りに喉仏がこくりと上下に動く映像が流れる。楽しげに彼女をいじめていた生徒すら、おののきで表情が凍りついているのが笑える。肺から上がやけに熱く、肩で息をしている。まつげより内側にある粘膜に触れてくる空気が冷たい。普段なら余韻を引きずって泣き止むほまれがこの時ばかりはぴたりと黙って、まろく潤った瞳を見開き、私を見つめていたのを今でも鮮明に思い出せる。そうして次には、今から泣きますという呼吸法をしだして、また泣いたことも。その赤ん坊のような風体がたまらなく憎くて、泣きたいのはこっちだ、と騒がしくなってきた廊下に耳を傾けながら、ぐつぐつと煮えたぎる頭で思ったのだ。

 駆けつけた教師たちは「どうしたの」と声を張り上げて、慌ただしく教室に入ってきた。倒れた机と椅子、床に尻餅ついて泣く生徒、それを見下ろしてる生徒。糸で引かれるみたいに全員、目を順に泳がせると状況を把握したようで、学年主任が真っ先に私へ歩み寄り、手首をぞんざいにひっ掴んで無理やり振り向かせた。問い詰めなくてもわかるこの惨状に、あなたがやったの、とわざわざ聞くので、自分の口から言わせたいのだなと理解し、素直に肯定すると、再び、どうして、と問われた。どうして。答えたところで認めてくれないだろうことは容易く予想できるのに、聞く意味がわからなかった。それより、私の目線に合わせてしゃがんだ学年主任が喋るたびに、細かく揺すってくる握り込まれた両手が酷く痛んだ。腕が痛んだ。突き飛ばした時の衝撃が切り離されずにまだ身体の中で残っていたらしく、肉の繊維をびりびりと細かく震わせて、私を痛めつけた。

 ほまれが保健室に運ばれたあと、遅れて到着した担任は私と共に別室へ移動し、教室は引き続き自習ということになった。連れられて行った資料室は、錆びついた古めかしいパイプ椅子に腰を下ろすだけで、小窓から差し込む光の中に埃が舞う。煙のように吹き上がったと思えば、次の瞬間にはきらきらと雪のように宙を漂いながら落ちてゆく光景は美しく、それを追いかけて目の前の長机に手のひらを滑らせると指先には浜辺の砂みたいな、少しざらついた白い粉がついた。担任は、どうしてあんなことをしたの、と私に聞いた。

「いやになったからです。ほまれの面倒見るの」

 担任の口元を見つめて言う。するとわずかに隙間を空けていた血色のいい唇が四方に伸び、内側の赤い粘膜に満遍なく触れさすような深い息を吸い始めた。膨らんだ胸をゆっくり沈ませながら、はあ、と湿ったため息をつく。資料室の埃っぽい空気がふわりと動く。

「渚ちゃんの気持ち、わかるよ。先生も少しほまれちゃんが苦手。だけど彼女も彼女なりにすごく頑張ってるのを一番近くにいる渚ちゃんには知っていて欲しかった。どうしてこうなる前に言ってくれなかったの?」

 普段、嫌々やってると言う態度を開けっ広げにしてほまれの相手をする担任が、この時ばかりは声をわざと張り詰めさせ、教師という威厳を取り戻そうと躍起になっているのがおかしくて仕方なく、同時に少し億劫だった。私にとってこの人はとっくに教師ではなく、ただの大人の人でしかない。口元から表情を丁寧に観察しながら徐々に視線を上げてゆき、ようやっと目があった担任の瞳は、正義感で熱っぽくゆらゆら揺れていた。

「あなたはこのクラスの誰よりもやさしくて賢いと思ってる。だから先生はほまれちゃんのことを頼んだんだよ」

 それなのに、とでも言いたげに寄せられた眉根の間の白い肉が少し盛り上がり、目元に淡い影をつくる。その奥から覗く瞳は、長く細いまつげに縁取られ、机に反射した光に黒目の赤みを照らされ、どっしりした強さと存在感を放ち、私を静かに責め立てた。

「嫌なら嫌ってきちんと口で言いなさい。暴力に甘えないで」

 押し出すような太く強烈な語尾に私は、なら、と言い返したかったのに、一足先に担任に涙ぐまれてしまって、舌先まで転がってきた言葉の行き場を完全に失くした。口内で暴れまわる言葉は、そのまま来た道を戻って喉を下り、肺を通り過ぎると腹の中にぼとんと音を立てて落ち、再びそこで薄い皮の上を駆けずりまわる。熱が腹を殴り、産みつけられた何百もの卵が次々に孵っていくような、激しく動く感情があった。

 なら、ほまれが泣くのは、一体なんだと言うのか。泣いていたって、誰も助けてくれはしないのに、転んだあと自分の脚で立ち上がろうという気概も見せず、いつまでも地べたに尻をつきながら泣き喚き、腕を広げて誰かに立たせてもらうのを待っている、それが甘えと一体どう違うのか、納得させて欲しかった。涙ぐむのとどう違うのか、教えて欲しかった。

 放課後、ほまれと私の親が担任に呼び寄せられ、私達は改めて校長室で話をすることとなった。ほまれの母親は彼女の親というだけあり、ひょろ長く、失礼だがいかにも気弱そうで、ひっつめた頭からこぼれる硬くゴワゴワした髪の毛が、なんだか疲労を濃く映し出している。ほまれの母親は私が加害者にも関わらず、こちらが謝罪するなり追いかけるように「この子が何かお嬢さんの気に触ることでもしたんでしょう」と頭を下げた。言い慣れているのか、するりと唇から滑り落ちてくるようなその口調はほまれからも聞いたことがある。だが頻繁に私へ、持てる者は与えよ、という要約の信念を言い聞かせている母がそれに、はあそうですか、と納得するはずもなく、「どんな理由があっても暴力だけは認められない」と鋭く反発。言葉の一文字目をどぎつく破裂させて相手を圧倒させるその声は、私に向けられたものではないのに、心臓に尖ったものを食い込ませる。

 当事者そっちのけで大人達ががやがや言い合っているのをよそに、私はずっと向かいのソファに沈むほまれの、何かを堪えるような顔をじっと見つめていた。

 脚を、挫かれたのかもしれない。それが頭の中に今まで一瞬でも過らなかったと言えば、嘘になる。いつまでも座り込んでいるのは、もともと彼女に立てる脚なんかないからで、だから助けを待つことしかできないのだと。しかし、それを認めてしまったら、私は一生、ほまれの涙にひれ伏さなければならなくなる気がして受け入れられず、そして、私もまた彼女の脚を挫いた者の一人なのだと自覚すると、憎らしさと罪悪感とが一緒くたになって轟々と燃え上がり、内側から私を容赦なく焼いていった。そして今も焼かれている。

 次年度、ほまれは特別支援学級へ移動した。前々から話は家族間で上がっていたそうだけど、父親が他の子と同じように育てたいと猛反対していたらしく、離婚をきっかけに、おざなりになっていたその話にけりをつけたと最後、ほまれ本人から聞いた。やがて小学校を卒業すると私は近くの中学へ、彼女は特別支援学級のある中学にそれぞれ進学、そして再び通信制高校で再会と相成ったのであるが、私は変わらず、彼女が愚かに見えて仕方ない。どうして自分を侵害した人間と未だ関係を続けようと思えるのか、怯えた目で私の顔色をうかがうくせに、勉強教えて、と擦り寄るほまれの、あの甘えた鬱陶しい視線を、何度振り払いたいと思ったか。先生に聞いたほうがわかりやすいよ、と遠回しに断るも通じず、「だけど、なぎちゃんに教えて欲しいんだよね」と返事されるたび、今度こそ私に殺意を抱いてくれたらと願いながら、あの時よりさらに強く突き飛ばしてやりたくなる。

 努力のできる人は好き、進もうとしているから。私だってできる限りそれを支えてあげられたらとも思うけど、ほまれのはそぶりを一瞬見せるだけで、本当は誰かにまだ面倒見られてるという安心感を得たいだけのポーズなんでした。もしかするとそれが彼女にとっての努力、あるいは前へ進むにあたって必要な工程の一つなのかもしれないけれど、私は親じゃないから、自分の時間を費やしてまで面倒見ることなんてできなかった。しかし、そうしていざほまれの隣を離れようと試みても、強迫的とさえ言える使命のような、信念のようなものに後ろ髪を引かれ、どちらにも振り切れない自分がいる、その事実が心底いやでたまらない。

「次授業あるからもう行くね。あとは先生に聞いて」

 なんとなしに見たスマホの時刻にこれ幸い、荷物をざっとまとめて立ち上がると私は素っ気なくそう放ち、談話室を出る生徒たちにさっさと紛れていく。びたりと後をつけてくるあの視線から早く逃れたくて歩幅を精一杯広くすると、きつく締めすぎた厚底サンダルのベルトが容赦なく踵に食い込んできてピリリとか細い痛みが走った。擦れて肉と離れた皮が次第に内部に水を溜め、血を滲ませながら破れて濡れる。逃げるな、と誰かが言った気がして踵に鉛が積まれてく。


 *


 赤信号に変わってしまった。黄色でギリギリ交差点を渡り終えた前方車両がどんどん遠ざかっていくのを、白線前で止まった車内で見ている。隣で「ここの信号長いんだよなあ」と母が悔しそうに呟くこの道路はよく利用する最寄駅へと続いていて、私たちが姉を迎えに行くのと同様にそれらしき自動車たちが長い列を成し、燦々と散らしているあらゆる光が夜の濃い闇にぼうと滲んで、まるで絵具をこぼしたように鮮やかである。雨の日だったら地面にも色が溶けてチカチカ反射しもっときれいに見えただろうに、そう思うと、耳の奥でタイヤが水を貼り付けては辺りに飛び散らかしてゆく、ぱしゃぱしゃという軽くて瑞々しい音が次第に聞こえてきた。ぱしゃぱしゃ、ねえ、ぱしゃぱしゃ、バイト、ぱしゃぱしゃ、やんないの、ぱしゃぱしゃ。「ねえ」

「なに」

「働かないの」母から唐突に突きつけられた言葉に、一瞬詰まる。勝手に自分がこの場の空気をかたくしたのがわかり、動揺を気づかれぬよう私は出来るだけ平静を装った声で、煮え切らないを返事する。「うーん」

「南町のドラッグストア募集してたよ。時給九百円、いいじゃん」

「うん」

「聞いてる?」

「聞いてる」

 去年の夏、初めてのバイトを一日で辞めてから、母は募集の張り紙を見たやら、人伝に聞いたやらと、以前より頻繁に働くことを勧めるようになった。せっかく時間の作りやすい通信制に通っているのだから、と母は言い、また先生にも言われた。もちろん私もそう思っている、もっと言うと中学の時から早く働きたい、お金を貯めたい、だなんて思っていたわけだけれど、現実はいつだって無情なのである。あれから一年経った今でも、新しく見つけた求人情報の、サイト画面にぽつんとある青い応募ボタンすら押せていない。前のバイトで起きたことがふと頭にちらついて、親指がまるで機能しなくなるのだ。

 何も教えられないままホールに立たされ放置される恐怖、そうして何も出来ずにただただ説教聞かされているみじめさ、制服着た同年代が友達と楽しくおしゃべりしてるのを遠目で見ているあのむなしさ、私一体何してんだろう、と思わずにいられない空気感をまた味わうんではないか思うと、私もう何も出来なくなっちゃった。しかしその深刻さを誰も知ろうとはしない。

 信号が青に変わり、車が発進すると間もなく駅が見えてくる。ロータリーはすでに送迎の車でいっぱい、その傍らにある駐車場もいっぱい。そろそろじわじわとアクセル踏みながら横並びに続く車と車の間を進んでいったちょうどその時、目の前のスペースに空きができ、急いでそこへ駐車する。と、同時にホームへ電車が入る。

「あれだ、たぶんあれに乗ってる」

 母がフロントガラスのすみで滲んでいる光を見つめて顎で指す。

「ねえ、お姉ちゃんと同じところで働けば?」

「やだ」

「どうして。知ってる人がいれば安心するでしょう」

「だから、そうゆうことじゃないってゆうか」

 誰がいてもいなくても同じってゆうか、母がいつも突然引っ張り出してくるこの話題について、そう説明しようとするたび、毎度自分が言い訳じみたことを喋っている気がしていやになる。確かに言い訳じゃないはずなのに、この頃はそうかそうでないかという判断も危うく、もしかすると本当は、自分は大間違いしていて、反対に他人のほうが正しいのではないか、と言い聞かすみたいに反芻しては、だんだん自分を信じていられなくなった。母が半分捲し立てるみたいに「そんなことばっかり言ってたらいつまで経っても出来ないんじゃない?」と語気を強めたのを聞き、この人にとってはやはり言い訳なのだとぼんやり思う。

「誰だって最初は不安だよ、そうしてだんだん慣れていくんだから。それに、世の中そんなに意地悪な人ばかりじゃない、今回は運が悪かっただけと思ってもう少し頑張ってみたら? 自分が思っているより世界は広いんだってこと、あなたは知ったほうがいいよ」

 頑張れと言われて、また、図星を指されて、瞬間的に腹が煮えくり返ったのに、すぐさま下降したせいで怒りとも取れない感情だけがそのまま腹に残った。水の中に放り投げられた焼け石みたいに、ぶくぶく泡をふかしながら熱を失ってゆく感覚。そうしてそのままどこまでも深く沈んでゆく感覚。不完全燃焼。沈黙が辛くて、皮のめくれかけた唇を開き、何か言おうとしたその瞬間、足下に置かれた母のバッグの中でブブッと携帯が小刻みにバイブ音を鳴らした。姉からだった。きっと、 どこにいるか、と言う内容のメッセージだろう、母は青白い光で顔を照らし出し指先を素早く画面に打ち付けると、すぐに光を落として再びバッグへと携帯をしまう。

「もう来るって」

「そう」

「歩いて返ってくれば良いのにね。送り迎え大変なんだけど」

「暗いじゃん。最近ここらで不審者出たって広報もあったし」

「そうだけどさ、やってもらって当たり前と思ってるのがムカつくんだよ」

 母はいつも自分の中で表面張力のようなものを張っているんじゃないかと思っている。一度不満を漏らすと、それまでなんとか抑えていた力が一気に決壊してしまい気の済むまで、たとえ同じことだろうとも言い続ける。最近会社で起こった出来事から、果てには自分の子供の頃にまで飛ぶそのレパートリーの多さにはいつも驚かされる。母は私にいつまでも過去のことを引きずるなと言うけれど、私からしてみれば母のほうが過去をズルズルと引き摺って手放せないで、自分というものを唯一確立させる拠り所として機能させているように思えてならない。

 母の愚痴に適当に相槌打ちながら、と言っても単調すぎると聞き流されていると思われ話がさらに長くなるので、しっかりと聞いていますよをアピールするための少しだけ大袈裟な反応を時折し、話を右から左に流してゆく。昔はそれこそ大真面目に、親身になって聞いていたものだけど、極限まで相手との境を薄めたせいでどこまで自分なのか、とんとわからなくなり、他人の感情を自分のと勘違いしてると気づいてからは恐ろしくなってやめちゃった。それを冷たくなったね、なんて評する人もいるけれど、その言葉に否とわざわざ言ってやれるほど興味を持たなくなった私は、確かに少し、冷たくなってしまったのかもしれない。

 姉が戻っても、母の愚痴は止まらなかった。今度は、父が家事をやらないくせに、飯だけは時間通りに出ないと怒るとか、仕事の不満を家に持ち込んで家族に当たるとか、届いた姉の学費明細を見て初めて値段を知ったととぼけ不機嫌になるだとか、標的は完全に姉から父へと移行して、激しさも一層増していった。自己中心的でほんとに子どもっぽい、お姉ちゃんもそう思うでしょ、ハンドル切りながら後部座席に座る姉へ同意を求める声が右耳にびりびり聞こえて痛い。しかしその勢いとは裏腹に、姉はうんだかまあだかはぐらかして決定的な明言を避け、早々にその四角い画面の中へ逃げ込むんだから、ずるい。どこにも行けなくなった苛立ちが、最終的にどこへ着地するかなんてわかりきっているくせに。割りを食うのはいつも私だった。

「渚はわかってくれるでしょ?」

 母が真っ直ぐ前を向いて言った。以前、全くおんなじ声音で「うちの家族ってすごく仲良いと思わない?」と言っていたのが脳裏に思い出され、思わず反応が遅れる。姉に負けず劣らず曖昧な返事をする私に、母はまたもや不服といった横顔を見せ矢継ぎ早に、どこがどう嫌なのかを懇切丁寧に説明してくるので、今度ははっきりと、でも少し滑稽さを残しておきたくて、

「そうね、そういうとこ、あるよね」

 と半笑いで言った。するとそのうち今回も、父は言っても仕方のない人なのだ、と言う結論に至ってしまうから、いつまで経っても進めない。誰かに何かへ押し込められるのを嫌うのに、私たちはいとも容易く誰かを何かに押し込める。それをこうして直視するたび、着実に数秒ずつ、自分が愚かな生き物になってゆくのがわかって、それがたまらなく許せず、今すぐ身をちりぢりに引き裂いてやりたくなるのに、かといって、寄りかかって停滞を望む甘えた自分のこともなぜだか無視することができず、その中途半端さにまた、消えてしまいたいなあ、と思った。


 授業の時間も、こうして真面目に勉強してる時間も、最近はてんで集中できずにいる。大きく教科書広げてみたって、あの細々とした文字を追ってるうちに頭はぐるぐる渦を巻いてしまうし、なら動画でも流してみようかしらと、気分転換にアプリ開いて解説動画を流しても、まるで頭に入らないんだから困る。それなのに、突然全ての情報が様々なものと複雑にもつれ合いながらインプットされ出す時もあって、自分の身体の中なのに、目がまわるような気さえしました。そうして、いざ記憶の引き出しを開けた時、いちいち絡まった糸をほぐさなきゃ知識を正しく使えないのが面倒なのだけど、まあ、使えるんだから使いましょう、と仕方なくそんな心持ちで生きている。いつかそれに我慢ならなくなって、蓄えることを投げ出したら、私、きっとダメ人間になるんだろう。しかし、なりたくないと思えば思うほどに、そういう未来が濃くはっきりと脳裏に映し出されて、この頃は、それが予言のように思えてならない。

 勉強机に左耳をべたりとつけて、ノートへ垂直に下ろされるシャープペンシルのコンコンという音を聞く。やらなければならないことができない時、これをするだけで罪悪感や焦りが少しだけ誤魔化せるような気がする。まだ机から離れていない、まだペンを離していない、と思うことで勉強に時間を費やした時と同じ時間の使い方をしたみたいな錯覚を一瞬感じることができるけど、代わりにふと正気に戻った時、ダメージは二倍になって私を襲う。

 結局戻って来ない集中力の代わりにやってきた眠気に従い、ベッドに身体を投げて枕に顔を埋めていると、階段のほうから「なぎさぁ!」という声が大きく響いてきた。母の声である。聞こえないふりしてそのまま無視を決め込んでも私を呼ぶ声は止まず、やがて根負けした私は億劫な気持ちを頭で枕にすり付け、のろのろと起き上がり一階に向かった。下りると台所では母が夕飯の支度を、その隣の居間ではテレビを見る姉と父の姿が見え、その時初めて父が帰宅していたことを知った。

 母は私が来たことを確認するなり、

「野菜切ってくれない?」

 とまな板に目配せをした。彼女の手元のフライパンにはジューっと音を立てて溶き卵が薄く広げられ、崩しきれなかった白身にいち早く色がついてゆく。

 おろしていた髪に手櫛を通し、素早く一つにまとめてから冷蔵庫の前にしゃがみ込み、取っ手に指を差し込んで野菜室を開けると、柔らかな冷気がふわりと床を這った。足の指にぶつかっては霧散するように薄まってゆくそれを感じながら、「どれ使うの」と中を漁っていると、突然、居間からどっと笑い声が上がり、思わず顔がそちらを向く。

「なんで美波には言わないの」

「言ってもやらないの知ってるでしょ。あの人たちは家事を自分の仕事じゃないと思ってるから」

 トマトときゅうりとハム出して、母は出来上がった薄焼き卵をキッチンペーパーの上に敷き、また溶き卵を薄くフライパンに広げながら言った。プツプツ焼ける音に混じって聞こえる呑気な笑い声を耳に、取り出したトマトへ包丁を入れる。刃が鈍くなっていたのか、潰れ気味な切り口からゼリー状の赤い汁がまな板を濡らしてゆく。

 夏になるとこの家は冷やし中華が多くなる。そうめんと違って、茹でずに水でほぐすだけの中華麺は、手間もかからず安くて美味しいということで母がよく買ってくるのだ。その頻度の高さにまたかと文句も飛ぶけれど、いつの間にか、どこの会社の麺が一番美味しいなどという話になっているのを見ると、これからも変わらず食卓に並び続けるのだろう。

 居間の座卓に皿を並べ全員が席に着いたのを見計らうと、手を合わせて食事を始める。皆が真っ先に麺に手をつける中、私はその上の錦糸卵を一、二本箸で摘んで口に含んでいると、「渚は昔からお父さん子だったな」とテレビを見ていた父が言った。画面には若手俳優の幼少期の映像が流されており、その下では【おじいちゃん子だった拓人さん】という字幕と、恥ずかしそうに顔を隠す本人が小さなワイプの中に映っている。

「抱っこだおんぶだ、よく言っててさ」

「違うよ、渚はお母さんが好きなんだよ、ねー」

「別に、どっちも普通だけど」

 固まり始めた麺に箸を突き刺して、ぐちゅぐちゅと下品に音を立てながら皿の底をほぐしてゆく。飛び散ったつゆが頬に冷たい。

 いつかも、友達に同じことを言われたことがある。渚はわたしのほうが好きだよね、好きなんでしょ。なんてふうに腕をするりと絡められ、その子が肩に寄るたび頬に触れる柔らかい栗色の髪の毛がくすぐったくて、身を捩ったことがある。好き、というものを比べたことがなく、だからその時は本当に困ってしまって、嫌いでないなら好きなのだろうと、適当に、二人とも好きだよと伝えたものだけど、今なら少しだけ彼女たちの言う好きというものがわかるような気がする。私の“好き”というと、やはり、椿以外にないだろう。確かに、腕を絡めてあの柔らかな指の間に自分の指を押し込めてみたくもなるのかもしれない。そうして胸元に寄りかかっていたずらに抱きついて、ふと顔を上げてみたら、想像の中の椿の顔にぶわりと黒くもやがかかって、ああ、なんだが急に馬鹿馬鹿しくなった。

 食事を終え、そろそろ集中できる頃でしょうと部屋に戻って勉強を始めるも、しかし、なかなか進まないそれにまた下へ降り、気分転換、今度はシャワーを浴びることにした。タイル張りの風呂場はもう夏真っ盛りだというのに少しひんやりとしていて、心なしか空気も青く、その冷たさが火照った身体に気持ち良くしみる。

 椅子に腰かけて初めて目線の合う、横へ伸びるように張られた細い鏡は、多少曇りながらも私の姿を鮮明に映し出している。そばかすをまぶした肩、血管が透ける皮膚の薄い乳房、まるく線を描く腰、下るにつれ細くなる脚。中学の時、この肉体が嫌で嫌で仕方なく、毎晩のように泣いて、そんな自分はきっと男になりたいのだ、と本気で思っていたのを思い出すと、なんとも言えない気持ちが胸に広がる。結局それは勘違いに終わって、勘違いだったけれどそこまで的外れでもなかったから、余計に苦しく辛かったのだ。

 きっと誰だって他人から、舐めるような視線を常に浴びていたくはないだろうし、どこへ行くにもあとをつけられたくはないだろう。そしてそれをクラスメイトにからかわれたくもないだろうし、からかわれて満更でもなくなった相手に、より過激なことをされて、学校行かなくなったって、いっそ男になりたいと思ったって、何もおかしくないはずだ。あの頃の私にはごくごく自然な流れであったにも関わらず、だけどあなたの決めたことでしょう、と足りない出席日数に対して、教師から自己責任を押し付けられた時は怒りや悲しみを通り越して、いっそ何も感じることができなかった。

「確かに飯田も悪いと思うけどさあ、終わったことなんだし。半田も思わせぶりなことしてたんじゃない? もう許してあげなよ」

 なんて、むしろ相手が被害者だと言わんばかりの言葉を吐き出す、肉に埋もれた教師の喉を、筆箱に入ったボールペンで突き刺してやりたかったし、順位が暴落してもなお第一志望を諦めきれない私を鼻で笑ったその人を、階段から突き落としてやりたかった。しかし本当にそうしてしまったら今度こそ私はお縄になるだろうから、少しでも楽になるため誰かに打ち明けるにとどまったのだけど、そこでも、おかしい、とただ一言返されて悲しくなり、でも確かに、私はおかしくなったのかもしれないとも思い、だとしたら一体どこでどう間違えたんだろうと思った。何もかも間違っていたように思われるし、間違っていなかったようにも思われる。ただ一つ言えるのは、私はおかしな自分をそこまで必死になって脱しようとはしておらず、そうしてそれが今自覚できる間違いの一つなのかもしれない、ということだけだった。


 *


 血の味がする。と、驚いて指先を見たら爪の中が赤黒く濡れていた。ぬめる下唇は舌を滑らせただけで針に刺されたような細い痛みが走り、またとろりと唇を濡らした。

 口が寂しいのかなんなのか、昔から無意識に唇を触る癖がある。そのせいか荒れていない時はないのではないかというほど、常に唇には血が滲んでいた。それを人に指摘されるのが恥ずかしく、一時期はマスクを四六時中つけていたり、最近ではずるむけになるのが嫌だからと、毎日欠かさずワセリンを塗ってささくれのない唇にしているけれども、いつの間にか爪の先で器用に皮を剥がしているんだからキリがない。また振り出しに戻ってしまった、そう思いながらティッシュを唇で噛み、仄かに広がる甘い匂いを味わっていると、机で音楽を流していたスマホが、ガガガッと細かく震えた。開いてみるとそれはほまれからで、

『なぎちゃんに相談したいことがあるんだけど……』

 といつになくこざっぱりした文言が白い吹き出しを背景に表示されていた。既読をつけてしまった以上、放置するわけにも行かず私は、

『どうした?』

 とすかさず返信すると数秒空けて、

『急にごめん あのね、今学校辞めようかなって悩んでて……どうしたらいいと思う?』

 とこれまた消沈した言葉がほまれから送られてきた。

 もったいぶるような文面に面倒臭さを覚えつつ、しかしそれを抑えて、なるべく優しく見えるように努め、私は『なにかあったの? 話してくれない?』とまた返信するとほまれはポツポツそのいきさつを話し始めた。

『勉強についていけなくて……わかんないままどんどん進んでいっちゃったから、今月もあんまり授業出れてなくて』

『大変だよね、科目も多いし 先生には相談したりした? 難しいようなら教科しぼることもできると思うよ』

『うん……』

『もし辞めたとして、なにかやりたいことはあるの? ごめん、文字だとキツく聞こえるかもだけど』

 テスト範囲のページを捲る手を止めて、彼女の返答を待つ。しかし言葉選びを間違えてしまったのか、先程のこ気味いいキャッチボールが嘘のように薔薇のアイコンは沈黙した。しまった、と思って慌てて何か打ち込み紙飛行機のマークをタップしようとしたその時、ようやくほまれから返事が来る。

『やりたいことはこれと言ってない やっぱ辞めないほうがいいのかな?』

 ふと、ほまれの、例のあの顔が浮かんで、すると途端に憎くなって、ため息が出た。誰かに決めて欲しいという思いが滲む文面に嫌気がさした。誰かに選択を委ねるということは、委ねた人物が選択したことの責任を負うと言うことだけど、この場ではその責任も押し付けられてしまいそうな空気感がある。

 どう返信しようか少し迷って、『わからない』ととにかく一言送り、そしてまた迷って結局数行ほどの文章をほまれに送った。

『でも別に三年で卒業する必要はないと思うよ 学校側も自分のペースでいいって言ってるんだし お母さんはなんて?』

『もったいないんじゃない?って でも通うのはわたしだからわたしが無理なら仕方ないんじゃないって どうしよ』

『ほまれがしんどいと思うなら私は止めないし、別にやりたいことがあってもなくてもそれは尊重されるべき選択だと思うよ』

『うん』

『どこか引っかかりや迷いがあるんなら先生に相談してみるのもいいと思う』

『わかった 話聞いてくれてありがとう』

『いいえ 納得できる選択をしてね』

 その返信を最後に、私はスマホを閉じた。咥えていたティッシュはもう隅の方まで唾液で半透明に湿って、真ん中には赤くしみが広がっていた。唇のぬめりは取れ、代わりにワセリンを塗った。

 登校日である翌日、やはりほまれは授業に来なかった。テスト前ということもあり、職員室の前に貼られた出欠表は普段より異様に出席率が高く、逆に欠席を表す空欄が目立っている。しかし夏休みが明けるとこれが二分の一に減り、冬休み明けにはその半分近くにまで減るのだから、やはり何かを続けることはとても根気のいることなのだ、と見るたびしみじみ思う。

 なんとなくその空欄をしばらくの間ぼおっと眺めていたら、「半田さん」と後ろから誰かに呼びかけられ、声のする方を向いてみるとそこには足立先生が立っていた。足立先生は私とほまれの担任だが、クラスで集まる機会などほとんどないため、私には彼女が担任だという感覚があまりない。しかし、何かと気にかけて貰っているからか、こうしていざ話すとなっても、他の教師と話すよりかは変に緊張しなくて済んだ。

 先生は首から下げた名札を揺らしながら、

「最近どう? バイトは新しく見つかった?」

 とスタスタ私の方へ歩み寄った。

「いえ、バイトは……なんていうか、挫けたっていうか」

「挫けた?」

「怖くって。ちょっと、トラウマで」

「特殊な体験だったからね。でも、ああいうのばかりじゃないから大丈夫だよ。いい経験だったと思えば」

 私は「はあ」だか「うーん」だか、言葉を曖昧にして黙り込んだ。先生の言うように、私だって本当はそう思いたかったけれども、現実はそうもいかないのだ。どうにもあれがそこまで稀有な状況だったとは到底思えず、むしろこの世の中に溢れかえっているにも関わらず黙認されている、そう言う問題なのではないか、と見て見ぬ振りすることが出来なかった。もしかすると先生は、私が不安を増幅させぬようにと気を利かせて言ったのかもしれないけれど、その効果は全くの逆で、もしまたバイトを始めて同じことが起きたらと思うとたまらなく、私は今にも涙が溢れてしまいそうな気さえした。

 そんな私を先生は気遣うように、しかし確信したような口調で、

「まあ、焦らなくてもね、時間はたくさんあるし。それにあなたなら大丈夫、どこでもうまくいくと思うから」

 と楽観的に笑った。

 それからまた少し、二人でたわいないお話をして、途中身振り手振りなんかも交えて、私たちの横を通り過ぎて行く人をちらりと見、それが数人になったところで、いよいよ別れることとなったのだが、その時、先生が突然思い出したように、

「あっ」

 と声を上げた。宙に突き出した肉付きのいい白い手が私を手招きした。

「忘れてた。あなたに聞きたいことがあるんだった」

「聞きたいこと?」

「林ほまれさんって半田さんと仲が良かったでしょう? 彼女、最近登校してないみたいだったから、心配で。半田さん、林さんと最近会ったりした?」

「会ってはないですけど連絡はとりました」

 先生は「そう」と反芻するみたいに何度か頷くと、今度は口許でゆるく微笑した。

「あとで電話してみようかしら。半田さんも、何かあったら遠慮なく相談して。電話でも、学校でも、どちらでもいいから」

「はい」

「それじゃあ、ありがとう。テストまであと少しだけど頑張って」

 そう言って職員室へ踵を返す先生を見送って、私もそろそろ帰ろうかと、学校を出たらなんだか急に切なくなって、薄暗いホームで長い行列の一部になりながら、到着した満員電車へ誤魔化すみたいに飛び乗った。

 その夜、父は不機嫌になって帰ってきた。父は帰るなり、あらゆる動作に乱暴な物音を立てて私たちに威嚇し、家中に不機嫌を撒き散らした後、コップを一つ割った。ガラスが砕ける、ガシャンッという針金のような音をまだ耳に残しながら、古い新聞紙へ破片をよけて片付けている母に、「子どもみたい」と私が愚痴ると「いつものことでしょ」と母は眉間に皺を寄せて、また一つ破片をよけた。それから、テレビの音しか聞こえない中で夕飯を済まし、私がお風呂から上がると、父は酒を飲んで気分を良くしたらしく、さっきのことなんかまるで覚えていないみたいにケロッとして、お笑い番組を観て笑っているのだ。

 何に対してと言うこともなく、ただ漠然と、早く終わってしまえなどと思い、ああ、もうとにかく今日は疲れてしまって、なんとも言えない心地で部屋へ戻って、私はベッドの中に急いで潜り込んだ。

 ずっと前に、酒の飲み過ぎだと、母が父に怒ったことがあったけれども、あの時は本当に大変だった。アルコール度数が高くて、値段の安い缶の酒をテーブルに打ち付けながらキッと鋭く睨まれて、その次にガラス戸がビリビリ震えるくらい、呂律の回らない舌でめちゃくちゃに怒鳴られて、まるで顔を熟れたトマトみたいに真っ赤にして憤怒するその風体に、殺されるとすら思ったのだから、それに比べれば今日のことなんて、可愛いものである。あれっきり、私たちは父にそんなことはもちろん言えなくなっていたし、私は、金が酒代に消え「お金がない」と嘆く母の愚痴を聞いているしかなかったけれど、それが最善のはずだったと信じたい。

 思い出したら、急に目頭が熱くなって、また、鼻の付け根のあたりもピリピリと痛みだして、惨めでたまらなくって、泣きたくないのにヒッヒッと喉の奥が泣いた。泣くたび、泣けば許されると思ってんのか、という父の言葉が頭によぎり、そう思われたくなくて、無様な姿を晒したくなくて、我慢しようとすればするほど、勝手に熱い涙が滲んできた。ほまれもきっと同じ気持ちだったに違いないと、今になってようやく理解できたと同時に後悔した。私たちは涙を免罪符にして許されたいとか思っているんではなく、どうしようもない怒りや悲しみが涙となって止めどなく溢れてしまい、自分じゃどうしようもないのだ。免罪符に泣く卑怯なやつだと思われているのが、狂いそうなくらい、悔しくて、たまらないのだ。

 翌朝、目が覚めると視界に圧迫感があり、やけに目元が熱いなと思って洗面所に行って顔を見ると、瞼がぱんぱんに腫れていた。二重の皺はぴっちりと伸び、まつ毛も下を向いて、瞬きするのも大変で、蒸したタオルを当てたらやっとスッキリした感じがしたけれども、むくみは全くと言っていいほど取れず、まあ、もう少し時間が経てば治るだろうと思い直して、私はテレビをつけた。映ったのはニュース番組で、どうやら一昨日、男子高校生が踏切で自殺しようとした人を助けて表彰されたということらしかった。真っ直ぐで逞しい顔つきの彼は記者に、

「怖くなかった?」

 と聞かれると、考えるように少し目を泳がせてから、

「怖いとかっていうより、焦りのほうが強かったですね。はやく助けなきゃって思って、なんとか身体が動いた感じ」

 と緊張して答えた。それからまた、記者とのいくつかの質疑応答が続いたらしい映像が流れて、最後には、

「生きていたら、多分、いいこともこれからたくさんあるかもしれないから、頑張って生きて欲しい」

 という言葉で締め括られ、画面は次のニュースへと切り替わった。

 ほんの数分のことだったけれども、私は昨日の悲しみがぶり返したように泣きたくなった。顔も名前も知らないのに、自殺しようとした人の気持ちを思って、辛くなった。

 彼の起こした行動はきっと正しい、のかも知れない。しかし、それによってその人が救われたのか、と聞かれると途端にわからなくなる。生きて欲しい、というのは本当に無責任な言葉である。生きて欲しい人に「生きたい」と思ってもらえるまで、自分が支えてあげられるわけでもないのに、ただ自分の願望だけが先走って、「生きて欲しい」なんて言葉が出る。しかし、いざ支えるとなっても、それだって大変に違いないのだ。いつ共倒れになるともわからない。生き残ったあの人は周りに一体どちらの「生きて欲しい」を与えられたのだろう。そう何日も思いを馳せては、よくないほうばかりが頭に浮かんで泣きたくなって、やっとそれが落ち着いたと思えば、テストは翌日にまで迫っていた。

 相変わらず勉強は手につかなかったけれども、間近にそうも言っていられず、教科書書き写したり、読み上げたり、穴埋めしたり、無理やり頭に叩き込んでいたら、また途中でいつものお手伝いに駆り出されて、勉強などというのはやはり名ばかりでしかなく、なんだか疲れてため息吐こうとしたら、嗚咽が出てくるんじゃないかと心配になって、口を閉じた。下に降り、不服ながらも母から菜箸を受け取ると、フライパンに豚肉を広げて焼いてゆく。

「ねえ、明日テストなんだけど」

 肉がジジジと震えながら焼けていく様子をぼんやり眺めていると、不意にそんな言葉が出た。そうして次に、「美波に頼んでくれない?」という言葉が思いの外、意地悪な声音で転がり出て、けれども、まあいいか、と諦めのような感情が湧き、どうともせず、そのまま母の返事を待った。すると母は、茹でているパスタを鍋の中でほぐしながら、

「やると思う?」

 と不機嫌に言った。

「やってもちゃんとやらないし、手間が増えるだけじゃん」

「やらせないからだよ。いつも私ばっか」

「でた、“私ばっか”。すぐそういうこと言う」

「本当のことでしょ」

「私がアンタくらいの頃なんて、もっと苦労してたけどね。それに比べたら、アンタは恵まれてるほう」

 食べる物も着る物も家だってある、学校だって行けてる、それを当たり前と思っちゃいけないんだよ。と母は言って、私はそれを聞きながら、間違えたなと思った。誰より幸福だ、不幸だ、なんて話をしたいんじゃない。でもそんなことを指摘するのも疲れて、聞き流して、黙って菜箸で肉を裏返し、一口大のカット野菜を袋から出して炒めた。野菜のわずかな水分が肉を蒸す。あぶれた蒸気が換気扇に吸い込まれてゆく。

「ていうか、テスト勉強なんて毎日コツコツとやるもんだよ。昼間家にいて暇なんだからできるでしょう」

「それは、そうだけど」

「一日だけ頑張ったって、結果は大して変わらないよ。さ、ご飯よそって」

 母が大皿に上げたパスタへ赤茶色のソースをかける。甘く、匂いが立ち込める。

「炭水化物に炭水化物って、やば」

「野菜もあるでしょ」

「少しね」

 せっせとお皿をテーブルに並べていって、皆の着席を待ち、揃うといつものように食事をする。音はあるのに静かな空間。濃い味付けのはずなのに、味がしないように感じるのはなぜなのだろう。いつか、食事が作業になってしまった、という人の話を聞いたことがあるけれど、それと同じで、私も食事が腹を満たすだけの、ただの作業になってしまったのだろうか、そう思ったら、切なくなって咀嚼の数が多くなる。皿に取り分けたパスタをフォークで巻き、舌に乗せても、甘いような、ほんのり辛いような気がするだけで、本当に自分が味を感じているのか、わからない。最初にご飯を平らげて、食器をカチンと片付け始めたのは父だった。向かい合う姉の正面からすくっと立ち上がり、流しで一人、皿洗い。蛇口の水の勢いはいつも強い。水切りカゴに並べる時、上手く出来ないとすぐに声を荒げて舌打ちするのを、私はいつもなんでもない顔して黙っているけど、本当はとても恐ろしい。自分が他人にとってどれだけ脅威か理解していない人間は、時に無邪気に人を恐怖へ陥れる。そして、そんなつもりなかったと首を振る。悪気がなければ、罪ではないの? 聞いてみたい人がたくさんいる。

 しかし今日はそんな恐ろしさを感じることもなく食事を終えることができた。お風呂も何もかも、全部済ませて、あとは眠るだけの身体で滑り込んだベッドは、冷感シーツのおかげでひんやりと気持ちがいい。両脚を包むように張り付く薄いタオルケットは、私に尾ビレを生やしている。これなら海の夢を見ても、どこまでも泳いでいけそう。灯を消して、扇風機が吹かせる風に腹を撫でられながら眠った。

 翌朝、電車の窓からは本物の海が見えた。このお日和に海面は細かなラメを散らしたようにきらきらと光っていて、思わずぎゅっと下まぶたに力が入る。空と海の境界線近くには、私の小指の爪よりも小さい、大きな帆を張った船が見え、そのもっと手前には、薄い波がいくつか立って、混じり合いながら、こちらに押し寄せてくるのが見えた。私が乗車した頃には、まだちらほら空いていた座席だけれども、ほんの数駅過ぎただけでつり革や手すりにつかまる人の数はぐっと増えていった。クールビズした会社員、扇子を仰ぎながら進行方向を見つめる老人、スマホをしきりに操作する高校生、イヤホン耳に突っ込んで本を読む大学生。冷房は効いているはずなのに、車内の密度が高いせいか、全くそんな気がしない。

 いくつ目かの駅に止まり、すでに乗っている乗客が乗り込んでくる乗客を避けようと、わずかに身体を動かして間を詰める。私の近くにも新しい乗客がやって来て、人と人の隙間からその様子を覗いてみると、向こう側には小さな子供を連れた若い母親の姿が見えた。傍らには大きなキャリーケースを引いており、単純に考えると、目的地は終点の温泉地らしかった。終点へはあと五駅ほどの長さがある。私は覚悟を決めて、緊張しながら荷物を持って立ち上がり、

「あの、よかったらここどうぞ」

 と手を胸のあたりまで挙げて、その母親に声をかけると、思いがけず掠れた声が出て、恥ずかしさのあまり胸の手でそのまま顔を隠したくなった。しかし、そんなわけにもいかず、焦りで心臓ドクドク言わせながら相手の様子を伺っていると、どうやらその声は彼女らにしっかり届いてくれていたようで、母親は子の手を引き、人波を掻き分けて目の前に現れ、

「すみません、ありがとうございます」

 と何度か頭を下げると、今度は子にもそれを促して、

「お姉さんが席譲ってくれるって。ちーくん、なんて言うの?」

 と瑞々しく黒目を光らせるまんまるの瞳を覗き込んだ。すると子もその意図を理解して、私に人見知りしながら、

「ありがとお」

 と舌ったらずに言った。きっとその子にとっては暗に言いなさいと言われたから言った、ただそれだけのことなのだろうけれど、私にとっては身の内が柔らかく解れるような、そういう一瞬だったように思う。中学の時にも、似たような気持ちになったことがある。同級生に毎朝必ず「おはよう」と挨拶してくれる子がいて、特別仲が良いとかそういうわけではなく、ただ毎朝挨拶を交わす、ただそれだけの関係だったのだけど、しかしそれのおかげで、嫌な一日を我慢して過ごすことだってできたのだ。何気ないことで人は人を救っているし、救われているのだと、強く思っている。

 席を立ってからは、目の前で私がつり革に掴まっていても親子は気まずかろうと思い、早々にその場を離れ、隣車両に続くドア付近で手すりに掴まりながら車窓の向こうを眺めた。電車が進めば進むほど、海はだんだんと遠ざかり、やがて道路を挟むと、そのまた向こうには厚いコンクリートの塀が迫り上げて、もうほとんど海なんか見えてこない。車内も海面の照り返しがなくなってしまったからか、全体が翳って見え、まぶた同士の間隔も緩やかに広がっていった。

 そんな景色が十分ほど続いた末に止まった駅は、乗車する人よりも降車する人の数のほうが多かった。見れば高校生が多く、オリーブ色を基調とし、ネクタイやボタンに深い金色を使って上品にまとめ上げているその制服は、私がもともと第一志望としていた学校のものだった。そういえば最寄駅だったなあ、などとぼんやり思い出していると、ある一人の生徒に目が留まった。背の高い男の子だった。友人らしき人物と大口開けて笑いながらお話ししている横顔に既視感が宿り、首を捻る。どこかで会った気がするのだ。誰だろう、と穴が開くほど彼を車内から見つめていたら、何かを感じ取ったらしい彼がふとこちらを振り返り、ついに目があった。正面から見た彼はやはり見覚えがあり、顔の輪郭や唇の形、鼻の形を順に丁寧になぞってゆくと、瞳を捉えたところで突然、目の前が真っ白になって全てがみるみるうちに崩れ落ちていった気がした。

 私は、あの視線を知っている、嫌というほど、知っている。彼は、中学の時、私を舐めるように見てきた彼だ。頭がそう理解した途端、自分の立っているところだけ大きな地震が起きているのではないかと思うほど、両脚がガクガクと震えて、視界が渦を巻いた。急速に内臓が冷えてゆくのを感じるのに、いつもより速くバクバクと血を巡らせている心臓が、どこか可笑しい。息ばかり吸い込んで吐き出せない肺が苦しかった。奥歯がミシンで布を縫い付ける時のように細かく鳴った。頭の中で“飯田”という名前が赤く浮かび上がり、もう、泣きそうで、咄嗟に目を逸らすまでの時間が永遠のようにも感じられた。

 駅を発車して、もう飯田は居ないとわかっていても、私はなかなか顔を上げることができず、靴のキズばかり見つめていた。これはこの前階段上った時の、これは躓いた時の、これが砂利道歩いた時、そしてこれが、ああ、これが、絶望というやつなのだろうか。悲しみとも、怒りとも取れないこれが。絶望とは、大波に攫われるような重々しいものだとばかり思っていたけど、実際は、大波は大波でも攫うなどせず、ただびしょ濡れにするだけして静かに引き返し、その濡れた身体へ潮風が刻みつけるように吹く、そういうものだったのか。

 やっと忘れられそうだった人間に容易く俯かせられるのが悔しくて、いつまでも形のないものに囚われ続ける自分がみじめで、しかたなかった。私だけが足踏みをして、ずっと進めないでいる。その事実にまたくらりと眩暈がして、握りしめている手すりに体重をかける。この鉄の棒だけが、今の私の唯一の頼りだった。


 テストが惨敗であろうことは数日後に通知される結果を確認せずとも明白だったが、私にはもうそんなことに構っていられるほど余裕はなかった。どうでもよかった。気を抜けば簡単に崩れ落ちてしまいそうな、気力のない身体を抱えて切実に思うのは、一刻も早く私をどうにかしてくれ、ということだけだった。もはや自分ではどうすることもできない深さまで沈み込んでいる私は、人の手を借りるしか方法はないのだけれども、果たして本当に私をどうにかできる人なんて存在するのだろうか、と考えると少し、怪しかった。

「今一番、何がつらい?」

 たまたま出くわした足立先生に、ほとんど衝動的に話を聞いて欲しいと頼み込み、相談室で向かい合っている今。開口一番、先生にそう聞かれて、すでに後悔が胸の中を満たしている。この意図的に作り出された、空間ごと絞り上げるような緊張感のある空気が大嫌いだったことを思い出し、先ほどより冷静さを取り戻した頭が、もしかするとまた説教されるかも知れない、上から目線に的外れな指摘をされるかも知れない、とうるさく警笛を鳴らしていて、つくづく判断力が鈍ったと思った。軽率な行動を確実だと思い込んだ少し前の自分を呪った。

 しかし、こちらから頼んでおきながら、帰りたさ一心で適当に言葉を並べる私とは裏腹に、先生は考え込むような仕草で真剣に話を聞いてくれているようだった。私が言葉を詰まらせれば急かすことなく待ち続け、憶測で言葉を理解しようとはせずにきちんと問い返し、うん、うん、と何度もうなづいた。それに少し絆されて私はつい、全部どうでもよくなった、と小さく本音を漏らしたら、

「わかるよ。そういうとき、あるよね」

 と望んでいないことを先生に言われて、温まってきていた気持ちが、その時一気に冷めてしまったのがわかった。私はそんな彼女が、野良猫を物陰から誘おうとして、ふいに物音を立ててしまい、警戒しながらも近寄ろうとしていた猫に逃げられた人間のようだと思った。そうして私はその野良猫のようだとも思った。

 私は、共感など求めていない。共感されると、急に自分の痛みが矮小化されたように感じるから、共感なんか、されたくない。同情なんて、もっとされたくない。認めてくれるだけでいい、それなのに。とそこまで考えた時、私は勝手に先生に期待して失望したのだと気づき、なんて、図々しいのだろうと自分が心底嫌になった。先生には私を助ける義務などなく、ましてや医者でもカウンセラーでもない。もしそうだったとしても、共倒れが目に見えているのに、躊躇なく、相手に寄りかかって潰すなんて迷惑をかけたくはなく、だったら自分一人で潰れた方がマシなくらいだと思ったけれども、そうすると、やはり私をどうにかできる人なんてどこにもいないのだ、という確信が胸を切り裂き、やるせなさに声を上げて泣きたくなった。

 口を開けたら、もうその先の自分のことを制御できなくなるのではないか、そんな恐れで黙り込み、そのまま長い時間が経ったように思う。その間も先生は私の言葉を待ち続けていたけど、それがもう簡単には現れないと察したのか、タイミングを伺うようにして今度は彼女がおずおずと口を開いた。

「半田さんって進学希望だったっけ」

「一応」

「調べてみたりした? 色んな学校があって面白いよ、時間があれば背後の本棚にもそういうのあるから見てみて」

 誘うように喋る声を半分聞き流しながら、机の木目を目で辿る。飴色の西日が身体を半分染め上げる。

「ここの学校はいろいろな事情のある子が多くてね。進学したくてもできない生徒さんが多いから、そのぶん進学希望の子には出来る限り力になりたいと思ってるんだけど……正直言うと、半田さんのことはあんまり心配してなかったんだよ。去年の学習は滞りなく終えられてたし、バイトも自分から応募したりして、自分の力でどんどん切り開いていけてたから。でも今日こうして話聞いてると、半田さんには解決されないままずっと放置されている問題があったんだね。それで今辛くなってるんだってわかった」

 そう言うと先生は身じろいで、今まで背もたれに預けていた上半身を前のめりにすると、軽く組ませた両手を身体の前に出し一呼吸置いてから、

「半田さんはさ、どうしたい?」

 と言った。

「今年は休んで、また来年から頑張るって言う手もあるし、定期的にここに来る心理士の先生がいるんだけどね、その先生のカウンセリングを受けてみるって言う手もある。半田さんはこれから、どうしたい?」

 跳ねるように上がった語尾が、変に間延びして耳の中で揺れながら響いてくる。

 どうしたいか、なんて、わからない。休んだところで根本的な解決につながるとは、到底思えない。休養が明けたらまたずるずるとだらしなく悲しみを引きずって、崩れたり起き上がってみたりしながらしぶとく生きていくのだろうし、かといってカウンセリングを受け、これまで何度もしてきた説明をまた一から、物語でも読み聞かせるかのようにやり直さなければならないのかと思うと、疲労で身体が重くなり、すぅと気が遠くなっていった。理解される保証はないけれど、それに全てを賭して縋れるほど正気を失っていないことが、この時ばかりは少し不幸なのかも知れないと思った。

 八方塞がり。でも、早く楽になりたくて、気持ちだけ先走った口が、

「どうにかしたい」

 と堪えきれずにこぼしたら、

「じゃあ、ちょっと待ってて」

 と言って先生は急に立ち上がり、部屋を出て、職員室の方へずんずん戻っていった。取り残された私は訳も分からず、ただ言われた通りにしばらく部屋で一人先生を待って、やがて戻ってきた彼女の手の中に、出ていった時にはなかった青色のファイルがあるのに気づいた。側面を見ればそれには捲り過ぎて手汗を吸い形の歪んだ古い紙が何十枚も挟まれており、右上のほうでビビットな色の紙付箋がいくつか捩れながら飛び出している。先生はまた椅子にどっしりと腰を下ろすと、ファイルを開いた。よく見えないが、印刷された表の中には日付らしき数字と文字がびっしり書き込まれている。一緒に持ってきたポールペンを右手に握り、紙の上でトントンと何かを捉えたように軽く叩いたあと、先生はようやく顔を上げて、

「今月はもう予約が埋まっちゃってるから、来月かな。夏休み入っちゃってるけど。来月ならある程度都合のいい日にカウンセリング予約できるけど、試しにしてみる? 合わなかったらやめればいいし、やってみる価値はあると思うよ」

 と言った。その瞬間、この場から一刻も早く逃げ出したくてたまらなくなった。

 ああ、私はなんて申しわけのないことをしているんだろう。最初からカウンセリングなんて受けようとも思っていないのに、思わせぶりなことを言って、予約日を確認するだけのそんなに手間のかかることではないにしても、他人が私のために使ってくれた時間を、本人の前で、こんなにも容易くドブに捨てようとしている。先生はきっと、そんなの気にすることじゃない、とかいうかも知れないけど、そうじゃない。私が嫌なんだ。誰かを傷つけたい訳じゃないのに、傷つけてばかりいる自分が嫌で嫌でしかたなく、胸が引き千切られるみたいに、どうしようもなく痛んで苦しいのだ。

 結局カウンセリングは断ったけれども、先生は「気が変わったらいつでも連絡して」と嫌な顔ひとつせず私を見送ってくれた。しかし私のほうはいつまでもそれに拘っていて、駅の階段を降りるごとに、夏なのに冷たく湿った靴音が責め立てるように胸のあたりを浸潤した。電車に乗る頃にはもうぐっちょりと濡れて、ならいっそそのまま腐れよと思いながら暗い窓に視線を移すと、そこには瞳をてらてら揺らしている若い女の顔が映っていた。


 *


 夏休みに入ってから一度も外に出ていない。それどころか、昼間は一日中カーテンを閉め切ったカビ臭い部屋で眠りに浸っているし、ついにはお風呂に入るのも、歯を磨くのさえ面倒臭くなって、私は、糸が切れて綿の飛び出したぬいぐるみみたいに、どこもかしこもボロボロだった。いつも満遍なくおでこに広がっていた前髪は脂ぎって束になり、小鼻には小さなニキビがぽつぽつとでき始め、何か、自分の身体を茶色い薄い膜が覆っている気がし、拭い去ろうと身を捩ったら、立てていた膝の裏から汗が垂れた。起き上がってその汗を手の甲で雑に拭うと、昨日にはなかった黒いシミがシーツを汚しているのに気づき、咄嗟に股の間に手を当てる。ひやり。案の定、そこは湿っていた。

 生理だ。言われてみれば腰が重だるいような気もする。前回は月初めに来たから、周期的にはあと何日か猶予があったけれども、計画通りにいかないのが生理というものである。思うように動いてくれない鉛みたいに重い身体を頑張って立ち上がらせ、ベッドからシーツを剥ぎ取り、私は迷わず洗面所に向かった。血の汚れはそのまま洗濯機で洗っても綺麗に落ちてはくれないから、一度手洗いして、あらかた綺麗になってから洗濯機に回さないといけないのが面倒だ。この時、食器を洗う感覚でお湯を使うと、血の中のタンパク質が固まってシミになり、余計に取れなくなるから冬場でも水を使わなければならず、それがとても辛い。冷たさに皮膚が突っ張ったようになり、下手に触ると破けてしまうんじゃないかとさえ思う。

 洗面器に水を溜めてその中にズボンとパンツを沈ませてから、体液によってベタついた身体をまず綺麗にしようと思い、シャワーを浴びた。

 髪はお湯で根元から揉み込むように洗い、ごわついた毛に柔らかさを取り戻させる。そうしてシャンプー、次に保湿のためにコンディショナーを塗り込み、ボディソープで汗や垢、身体についたコンディショナーをもろとも落とす。最後、丁寧に泡立てた洗顔料で顔を洗い流せば、ようやっとあの茶色い膜が溶けていったように思い、ほっと息をついた。今まで当たり前のように出来ていた人の営みというものが、近頃まるで出来なくなっている。中学の時の担任なら、きっと今の私を、鼻で笑って蔑むくらいしそうなものだけど、その顔を思い浮かべたら思わず笑えた。

 お風呂を出て、あらかた汚れを落とした洗濯物も洗濯機に回した後、歯ブラシを口の中に突っ込みながらスマホを見ると、ほまれからメッセージが来ていることに気づいた。どうやらこの前の話に決着がついたようで、今年中は高校を続けるとの旨がそこには書かれていた。

『おつかれ』

『とりあえず保留ってだけだけどね 来年の3月までにどっちか選ぶって感じで今は落ち着いたかな』

『そっか 方向性だけでも決まってよかったよ』

『ありがとうね なぎちゃんに相談してよかった』

 友達と撮ったのだろうか、ほまれを含め三人の女の子が写ったプリクラ画像にいつのまにか変わっていた彼女のアイコンは、今日もやはり、愛嬌の中にどこか弱々しさを感じさせる文章を吹き出す。一方で私は『どういたしまして』と一言、見る人が見れば冷たいなどという評価を受けるだろう素っ気ない言葉を返し、スマホを閉じた。

 歯ブラシをシャコシャコと出し入れしながら、タオルで髪を撫でつけ乾かす。水分を搾り取るように右手で髪を引っ張ったら、頭を傾けたはずみで口から白い唾液が垂れ、着替えた黒いシャツに白い円ができた。キャミソールなどのインナーを着ずに、下着の上からそのまま被ったせいで、腹へ直にその感触が伝い、ひやりとし、やるせなかった。

 ピーピーと洗濯完了のお知らせが鳴り、洗濯物を取り出しにいく。汚れは綺麗さっぱり落ちて、もうどこにあったかもわからない。ベランダに出て、シーツは布団はさみで柵に留め、ほかは洗濯ハンガーに吊るすと含んだ水の重みで新しく干し始めた洗濯物のほうにハンガーが傾く。ぬるい風が鼻を撫で、雲に隠れていた太陽が顔を出す。

 お昼におにぎりを握っていたら、母が帰ってきた。いつもより早い帰りにどうしたのかと聞くと、今日は半休をとっていたらしい。手には仕事用のバッグだけでなく、ずっしりと重みを持った白いコンビニの袋を下げていて、中には鶏そぼろ弁当がふたつ。どうやら私の分のお弁当も買ってきてくれたようだった。母は皿に盛られたおにぎりと私の手を交互に見るなり、

「あ、作ってた?」

 と惜しそうな声をあげた。

「作ってた」

「買ってくって連絡入れとけばよかったね。食べれる? 無理なら夜に回してもいいけど」

「食べるよ。これ、好きだし」

 指についた米粒を唇で摘み取り、奥歯で咀嚼しながら言う。すると小さな塩の塊がカリッとかわいい音で砕けて、舌の上に溜まった唾液がわずかに辛くなる。

 母は私の返事に「そう」と短く反応すると、弁当を電子レンジに放り込み、慣れた手つきで操作してそれを温めた。ヴーンとざらついた唸り声をあげて動き始める電子レンジをよそに、私は流しに置いていた炊飯器の釜を泡まみれのスポンジで洗い出した。潰れて釜底やその側面にこびりついた米粒は、水に濡れてぬるつき、意地悪にスポンジを滑らせてなかなか剥がれてはくれない。それならと思い、今度は肩から力を入れるように擦り上げると、少しずつスポンジに米粒が絡まって、釜は次第にもとのさらりとした肌触りに戻ってゆく。それを何度か繰り返して最後はお湯でよくすすぎ、汚れの浮いた泡が完全に流れ切ったのを確認してから水切りかごに置けば、またいつでも米を炊ける状態になる。

 流しの下の収納棚の取手に引っ掛けてあるタオルで、私はすっかりふやけて皺々になってしまった手をごしごし拭いていると、

「最後に外出たの、いつ?」

 母がなんの脈絡もなく、タバコを咥えながら唐突にそう言った。それはもうほとんど、説教じみた文句が始まる合図のようなものになっていて、私は、また何か口うるさく言われるんじゃないかと思うとうんざりしたような気持ちになり、本当は正確な日数を覚えているにも関わらず、わざと「忘れた」と白々しく嘘をついた。しかし、母はそれを特に気にするそぶりも見せず、タバコの先端にポッと火をつけて赤く光らせた後、ため息のような煙を吐くだけである。

「どっか遊び行ってきなよ」

「行くとこない」

「じゃあ、掃除機かけるとかさ。家にいるんだからそれくらいできるでしょ。どうせすることないんだから」

 何かを言われるたび、のどの奥が迫り上がってくるものを堰き止めるようにぎゅーっと締まって、苦しさが身体の深くで溜まり、今にもはち切れんばかりに膨らんでいるのにすんでのところではち切れず、それをずっと保ちながらじわじわと染み出させているような気がした。いつだか、それがとうとう顔に出てしまい母に無表情を注意されて、もっと笑いなよ、と言われことがあったけれども、どうして楽しくもないのに笑わなければならないのか、私にはわからない。そんなの逆に刻みつけるようなものではないのか。

 電子レンジが鳴り、私は中の弁当を取り出してもう一つの冷えた弁当を温め始めると、それを見ながら母が叱りつけるように、

「夏休みだからって怠けていい訳じゃないからね。生活リズムは崩しちゃダメだよ」

 と言った。そうしてまた口を窄めてタバコを吸いだし、煙の立ち上る先端を赤くすると焼けて白くなった部分を灰皿のふちでポトリと叩き落とす。

「もう子供じゃないんだからちゃんとして。あんたの面倒なんて見ないからね」

 ため息するように煙を吐く。私が息を吸うたびそれが煙のまま鼻の中にむわりと入り込んで、粘膜をジリジリ焼きながら頭に上ってゆく。うん、と返事をしておにぎりを一口かじると、心細そさが溢れてたまらなくなり、なんとか押さえ込もうとまた一口かじって飲み込んだら、今度は違う感情が顔を出してきて、もう、だめなのだと思った。


 翌朝、私は久しぶりに目覚ましに合わせた時間に起きることができた。というのも、今日は待ちに待った椿と遊ぶ日なのである。眠気と億劫な気持ちをなんとか噛み殺しながら洗顔をいつもより丁寧に行った後、お小遣いで買った一枚二百円の特別な日に使う顔パックをし、むくみを取るため手についた美容液で首元をマッサージ。そうして肌に液が浸透するまでのあいだ、熱で傷まないようヘアオイルのつけた髪をコテで慎重に巻いていくのだが、この面倒くささすら覚える行為は、別に誰かに会うための義務でもなんでもない。実際、普段の私なら簡単に身だしなみを整えるだけで終わらせただろうし、わざわざ髪を傷ませてまでヘアスタイルに拘ったりはしないけれども、ではなぜ、今日に限ってそんなことをするのかというと、椿に会うからだというほか理由はなく、また、理由なんてそれだけで充分だった。私はただ、一番最高な状態の私で彼女に会いたかった。そのためなら一枚二百円のパックだって躊躇なく開けられたし、毛を傷ませてでも髪を巻けた。それが楽しかった。

 パックを外して保湿した肌のベタつきをティッシュで軽く取り除き、少しずつ集めたコスメで化粧をしてゆくと、いつもより上手く引けたアイラインに自然と口角が上がる。クローゼットの中の少ない服でファッションショーを開催しながら、最終的に小花の散りばめられた藤色のワンピースを選び、白いベルトで爽やかにコントラスト付けて鏡の前に立つと、あの重かった身体は羽が生えたように軽くなる。仕上げにプラスチックで出来た透明な石の揺れるイヤリングを耳に下げ、スマホと財布、それからハンカチやリップなどの諸々をベルトと合わせた白いバッグに詰めると、私はいそいそ家を出た。

 晴天。陽の光を受けて白くばんやり発光するアスファルトが眩しい。蒸されるような熱い風が身体に覆い被さって、汗がじわりとにじんでくる。十分もあればすぐにバテてしまいそうな暑さだけれど、今の私なら、映画みたいに突然ミュージカルが始まっても軽やかに歌える自信がある。街の人々がゾンビになって襲ってきても、富士山が噴火しても、本当に、今ならなんだってできる気がするのだ。途中コンビニに寄ってお菓子とジュースを買ったらくじ引きのキャンペーンをやっていたらしく、店員に差し出された四角い箱の中から一枚くじを引くと、アイスキャンディが当たった。椿にあげようと思い、その場で交換してアイス用に小さな袋をもらうと、少しでも溶けにくくさせるために飲み物の間にアイスを差し込んだ。

「いらっしゃい」

 久しぶりに会った椿は前よりも髪が伸び、ポニーテールを高い位置で結べるようになっていた。仕草や声音はさらに落ち着いて大人っぽくなり、その姿はもはや別人のようにも感じられ、一瞬、あの時の静かな恐怖が私の背筋をスーッと撫でた。

 招かれるままに、揺れるしっぽの後を続いて行き着いた彼女の部屋は冷房が程よく効いている。私は渡されたクッションに腰を下ろして、買い込んだものを脚の短いテーブルに並べながら、

「髪伸びたね」

 と言うと、

「渚は、ちょっと痩せたんじゃない?」

 椿はそう笑って、ようやく私の知っている彼女の表情が見えたことに、内心ほっとする。

「最近、あんま食欲なくてさ」

「夏バテ? じゃ、スナック系よりアイスのが良かったか」

 彼女がおやつBOXと呼んでいる籐で編まれたカゴを両手に抱えて覗き込む。中にはポテトチップスの大袋、ヨーチビスケット、醤油せんべい、椿の好きな一口大のしっとりココアケーキなどが入っていて、全体的にポップな色合いをしている。

「いや、お菓子は別腹よ。私も買ってきてるし」

 首を振ってテーブルの上に視線をやる。

 おやつBOXのものと比べると、私の持ってきたお菓子は甘いものが多くを占めていて、きっと食べきれないだろうからとそのほとんどが小分けになっているものだ。乱雑になっていた袋を一つ一つ中身がわかりやすいように整列させてゆくと、端のほうで並んでいたペットボトルが目に入る。それは外気と中の温度の差によって表面に水滴が浮いており、また、それに挟んで冷やしていたアイスもすでに溶けていたようで袋がくたりとだらけている。私は棒のほうが上にくるようにして袋をつまみ、申し訳なく思いながら、凍らして食べて、と椿に手渡した。

「ありがと。ついでに氷とグラス持ってくるからちょっと待ってて」

 あいよーと気の抜けた返事をして椿を見送ると、私は部屋をゆるりと見渡した。彼女の部屋は、私の部屋で滲み出ているようなちぐはぐさが全くない。例えば、小学校に入学する時買ってもらうような、よくわからないキャラクターのデスクマットが付いている学習机の代わりに、ダークブラウンの洒落たモダンなデスクが部屋に入ってすぐの左を陣取っているし、タッセルに留められているカーテンはシンプルながら高級感のある紺色で窓際の輪郭をくっきりとさせている。処分の仕方がわからずに長い間クローゼットの中で放置したままのランドセルや、当時作った図工作品なんかの姿は一度も見たことがない。それどころかベッドの真向かいに画面の大きなテレビがでんと鎮座しているのだ、私とは住む世界がまるで違う。

 そんなことを思いながら、テレビ台の隣に立っている本棚へにじり寄って、本と一緒に詰められたDVDの背中を数えていたら、おや、とある違和感に気がついた。本来なら文庫本の後ろで隠れるように身を置く漫画本の列が綺麗さっぱり消えているのだ。かつて彼女の誕生日プレゼントに贈ったこともあるそれは、新刊が出るたび本屋に走って買い集めていたくらいだから、そう簡単に捨てられてしまうはずはないのだけれど。私は初めてこの部屋のちぐはぐさを見た気がした。

 やがて椿が部屋に戻り、別にやましいこともないのに本棚から慌てて離れ、そのまま映画を観て過ごすこと数時間。私はずっとあの真相を聞くことができずにいた。そもそもタイミングが見つからないというのもあるし、わざわざ聞き出すような内容でもないことも、それに拍車をかけている。

 二本目の映画を観終わり、一気に部屋が沈黙で溢れたことに一人で気まずくなっていると、それに気づいたかのように、椿が伸ばしていた背筋を小さく丸めてぷしゅりとサイダーの蓋を開けた。

「はあ〜終わっちゃったね。今年観た中で一番面白かったかも」

 そう言ってペットボトルを傾け、こくりと一度喉を鳴らす。それからテーブルに数個散らかしていたチョコを指先で探るように選び取って、捩れた包みの両端を引っ張り開け口元に押し込んだ。

「あたしあの人好き、夫人。すごい綺麗じゃない? そりゃ嫌な人だったけど、そこも含めて好き。賢くて、強いから」

「それ。なんかもう、見てて切なくてさ。夫人の衣装、何度も変わって楽しかったなあ」

「めっちゃ拘ってるよねー」

「ほんと。記憶消してまた最初から観たい」

 しみじみ、と言ったふうに私が呟くと、椿は「たしかに」と同意しつつもその表現に笑った。胸がじんとする。さっきまでの緊張がまるで嘘のようにすらすらと話せているのが嬉しくて、自分の顔が笑ったままそこで止まっているのがわかる。

 次はどれを観ようかと、リモコン片手にテレビ画面を色々操っていると、椿が背後のベッドに倒れ込んだ音がし、追い風のような空気の動きを肌で感じた。

「たまには、こうしてのんびりするのもいいね。最近忙しくて」

「勉強?」

「そ。夏休み入ってから、四六時中机に向かってる気がする。映画とか、まだ観れてるけど、漫画は没収されたし」

 脳裏にハッとあの本棚がチラつき、思わず「あんたのママ?」と聞くと、上半身を大の字にベッドへ沈めて天井を見上げる椿はうんと頷いて、「没収っていうか。捨てられたかもねえ」と笑った。

「渚は? 最近どう?」

「どうって言われても。別にふつうだからなあ」

「えー、そんなことないでしょ。林さんとはどうなのよ、同じクラスだって言ってたじゃん」

「ほまれは……私と違って友達作るの上手いし、たまに勉強教えるくらいで、そんなんだよ」

 グラスの中の溶けかけた氷めがけてサイダーを注ぐと、しゃらしゃら泡が膨らみながら弾ける。それを鼻頭や頬に浴びながら唇へ滑らせようとすると、椿は勢いよくベッドから身体を起こして、

「本当に? なんか、あんたのこと心配になってくるんですけど」

 と言い、いつもなら波のように身を引いてゆくはずの彼女が、今日はやけに食い下がることを不審に思う。

「ていうか。なんなの突然、そんなこと聞いて」

 明らかに様子のおかしい椿に平常心を保ちたくてか、それともこの異変を感じる場から逃げ出したくてか、わからないけれども、とにかく、私は横に置いていた袋から煎餅を一つ取り出し、親指の付け根を使ってパキパキ割りながらおどけた。すると椿のさっきまでの賑やかさが途端に薄まって、その不自然なだんまりにさらに恐れを抱く。

「え、なになになになに。怖いんだけど。どしたの」

「あのさ、急にこういうこと言うのも、アレかもだけど」

「うん。なに、言って」

「あのね」

 躊躇いながらも切り出そうとする椿の声に、ドキドキしながら耳をすます。

「しばらく、遊ばないことにしよう」

「……なに?」

「だから、もう、遊べない」

 声にもならない掠れた温かい息が唇の隙間から漏れ出て、泣きたいと思う前に涙が目頭からしみ出して、ひとりでに口が、

「あんたのママ?」

 と言った。そういうことにしたかった。仕方ないと、諦めて、納得したかった。けれども椿はそれを裏切って、違う、と力強く否定する。

「あたしが、決めた。ごめん。でも、時は金なりだよ。大人にならないと。こうしてるのももちろん楽しいよ、でも時間は進むから。受験だってあるんだし。大丈夫だよ、渚なら。あたしがいなくても、ちゃんと生きていける」

 腑が、煮え繰り返りそうだった。椿の、なんてことないというような喋り方が、見えているものは同じなのに、私とはまるで捉え方が違うことを証明しているみたいで、嫌だった。

「私には椿しかいないのに」

 それなのに、と思ったら最後、怒りや悲しみという感情が腹の中でぐちゃぐちゃに溶け合い、吐き気と共に喉の奥をぞろぞろと逆流してくる。

「みんな、私なら大丈夫だっていう。いざ私が大丈夫じゃなくなったら、私が一人で、めちゃくちゃになって、おかしくなったと思ってる」

 流れてくる涙が邪魔で邪魔で、しかし、そんなのを払いのける気にもなれないくらい、気持ちが溢れて止まらなかった。

「どうして? 私は今まで一度も、子供でいたことなんかない。それをみんな、今になって、大人になれって言って、じゃあ私、今まで一体なんだったの? 大人じゃないなら、なんだったの?」

「わかってるよ。でもしょうがないじゃん。めちゃくちゃにされても、許せなくても、誰も待ってくれないんだから」

 喚き立てる私に椿はいよいよ苛立ちながら、自分にも私にも言い聞かせるように言い放った。それが余計に腹立たしくて、「納得できてないくせに!」と怒鳴ったら、椿はハッとした顔をして悔しげに眉間に皺を寄せ、それからゆっくりと下唇をぷるぷる押し上げて、うすら青い白目をきらりと光らせた。

「大人になんて、私がなれると思うの? 私は、私をめちゃくちゃにされたのが、許せないんじゃない。私だけが、勝手に泣き叫んで、誰かを憎んで、たった一人でおかしくなったと思われるのが、嫌なの。このまま大人になって、私をめちゃくちゃにした人たちの存在を、まるで、最初からなかったみたいにされるのが、嫌なの!」

 なんでよ、と力の抜けた声が出る。薄い肩が波打ち、指先がだんだん痺れてきて、これ以上ここにいればあらぬことを口走ってしまいそうで、私は急いで荷物を抱えて立ち上がり、

「もういい」

 投げやりにそう吐き捨てて家を出た。

 外は、いつのまにかしとしと雨が降っている。昨日、母に傘を持って行けと言われたことと、浮かれ過ぎて傘を持ってき忘れたことを同時に思い出し、馬鹿だなあと思った。

 駆け足にもならずに椿の家がある住宅街を抜けて、道路沿いに道を行くと交差点の信号に足止めされる。そこから伸びるように続く橋を渡ってシャッターの閉まったたばこ屋の角を曲がると、水を跳ね飛ばしながら猛スピードで道路を走るトラックにあわや巻き込まれそうになる。強く打ちつけてくる大粒の雨が痛みを伴って、またそれを思い知らせるように服に染み渡り、やがて皮膚の表面を覆った頃、疼くような痛みが腰と腹に響き始めたのを感じた。どうやら朝飲んできた痛み止めの薬が切れたようだった。あいにく薬の持ち合わせもなく、近くのコンビニも見つけられないまま、耐えているうちに痛みはどんどん強さを増し、私の背筋を丸めてゆく。せめて道の真ん中で動けなくなる前にと思い、仕方なく、通りがかった神社に入った。

 日に焼けて淡くなった朱色の鳥居をくぐって石畳を辿り、社の障子戸の正面にある傍に手すりのついた木造の小さな階段を上がって、文字の掠れた賽銭箱の隣に座り肩からもたれると、土埃とカビの匂いがふわりと湧き出る。屋根から垂れる細い糸のような雨水が私を外から隠してきて心細い。痛みに耐えながら、巻きの解けた前髪が張り付く額を賽銭箱に擦り付けていると、バッグが突然ブーッ、ブーッと連続的に震え始めた。手を突っ込んでその震えているものを引っ張り出し、見れば小さな画面には“林ほまれ”の文字が映っている。今一番会話したくない人物なのに、どうして彼女はいつもこういう時に現れるのだろう。私は囁きにも近い小さな声で電話に出た。「もしもし」

『あ、なぎちゃん? ごめんね急に。メッセ送ったんだけど既読つかなくて』

「いや、こっちこそ気づかなくてごめん。それで、どうしたの」

『旅行に行ってね、そのお土産。食べ物だからなるべく早く渡したくて、今家にいるか聞きたくて電話したんだけど……。もしかして、泣いてた?』

 気遣わしげな声が今ほど憎く思えたことはない。ほまれに気づかれてしまったことが悔しくて、反射的に「そんなことないよ」なんて否定の言葉が転げ出るけれども、彼女がそれを素直に信じるわけもなく、訝しげに『本当?』としつこく問い返してくる。

『わたしでよければ、話聞くよ』

「だから何にもないって」

『でも、泣いてる』

 優しく悲しげに耳もとで言われて、ようやくおさまってきていたはずの嗚咽がじわじわぶり返し、それと共に誘われた涙がほろりとこぼれた。うるさい、と思った。塞がり始めていた傷口だったのに、彼女に触れられたせいでまたぱっくりと傷が開いてしまったような心持ちになり、腹が立った。

 どうして人間という生き物は、言ってもわからないことなのに、閉ざされた扉を無理やりこじ開け、それによって出来た隙間から必死になって中身を覗き見るような真似をするのだろう。いつもそうだった。最初から理解しようなんて微塵も思っていないのに、自分なら理解できると根拠のない自信を持って、聞きたがる。言わなきゃわからないよ、と言われ、言ったってわからないだろう、と反論して柔らかい中身を守りたくなる。

「泣いてないよ」

『うそ』

「じゃあ何。ほまれに言って、どうにかなるの? ならないじゃん」

『だけど、だって、力になりたい』

「ならなくていい」

『どうして?』

「逆にどうして構うの? いつも私に怯えてるのはそっちじゃん」

 当てつけのように言ってやると、電話越しにほまれが涙ぐんだのが聞こえた。ナイフを振り回す手が止まらない。意味もなく人を傷つけることに戸惑いがなくなっている。八つ当たりだ。自分の痛みばかり気にして、他人に優しくなれないことが情けなくて苦しい、苦しくて、痛い。

「私はあんたの悪口言った。突き飛ばして怪我させた。いじめた。どうして? 何で私なの? あんたには他にたくさんいるでしょ」

 なりふり構わず、泣きながらスマホに怒鳴りつける私はさぞ醜いのだろう。肩口で水浸しになった顔を拭ったら、袖にマスカラの繊維が張り付き、滲んで黒く汚れた。誰かと話すたび、どんなに身なりを小綺麗に整えても、中身は全く美しくはならないことを突きつけられている気がして嫌になる。

 扇ぐ肩を、スッスッと鼻を鳴らしてなんとか整えていたその時、

『傷つけられたけど、でも、許したい』

 今まで静かだったほまれが、ふっとマイクに息を吹き込んだ。

『手を伸ばしてくれたのも、なぎちゃんだもん』その声は小さく震えている。

「違う、それは私がそうありたかったから、そうしたの。罪滅ぼしなんかじゃない。そんなことで覆ることじゃないでしょ。許しなんて欲しいと思ったこと一度もない」

 雨が、激しくなってきた。風に乗ってやって来た雨粒が、ぴちぴちと身体に体当たりして服が重くなり、吸い切れなかった雫が放り出した脚に這う。近くで耳を塞ぎたくなるほどの鋭いクラクションが鳴った。しかし、それに負けじと私も声を大きくする。

「私はあんたが嫌い。でもそれは、あんたのせいじゃない。ほまれはさ、私じゃなくて、信頼できる大人の人といたほうがいいよ、絶対」

『なに、なんで……なんでそうなるの? 今そういう話してないじゃんっ』

「だってそうでしょ。この話を私たちは避けて通れないんだから」

『なぎちゃんも、わたしを見捨てるんだ』

「そうだよ」

 いつのまにか立場が逆転して、自分がさっきよりもしっかりした口調で話せていることに驚く。そしてそれが彼女の一番柔らかくて弱いところを深く刺し、泣かせたのだった。いつもの展開といえばいつもの展開で、違うのは互いの姿が見えないということだけだけれども、私には彼女が今どんな顔をしているか、ありありと目に浮かべることができた。聞こえてくる啜り泣きはこの湿気た生ぬるい空気に冷たく染み渡り、私をくっきりとさせる。

「そう。私、無責任なの。恨みたければ恨めばいい、ほまれにはその権利がある。もういい? お土産ありがとう、でも、受け取らない」

 それじゃあ。勝手に話を終わらせて電話を切り、彼女がまたかけ直してこないよう急いで連絡先をブロックする。赤文字で“林ほまれさんをブロックしました。”と表示されたのを確認しスマホの電源を落とすと、それと連動するように私は放心状態になり、しばらく瞳が目の前の白糸しか捕らえられなかった。隔たり。実際はこうしてはっきり目視できないものだとしても、世の中にはこの白糸が誰の頭上からも垂れているのだと思う。被害者と加害者。弱者と強者。子供と大人。進む人と止まる人。あなたとわたし。時には今の私のように意識的にその糸を垂らし、自分にぐるぐる巻きつけて繭にすることもあるのだろうけれど、その良し悪しというのは簡単に決めることなどできない。上手くいけば痛みを減らせるし、下手をすれば周りの声が聞こえなくなる。そして今の私は、きっと後者だった。

 鼻で深く息をし、静かに肋骨を横隔膜で押し広げたり縮めたりしながら、濡れた左手から移ったスマホの水滴をハンカチで拭き取って、そのままお弁当のように丁寧に包み込むとバッグの中へしまった。すっかり重くなった身体を冷たく引き締まった脚で下から持ち上げて立ち、湿ってあちこち細かく縮れた髪を一つに寄せ集めてくくる。それから両手にワンピースの裾を集めてぎゅっと絞り上げると、体温を吸ってぬるくなった水がぱたぱたとしみ出し、握った指の関節を伝って、今度は座っていた階段から一段降りたところの板に素早く潜り込んでいった。生地は蛇腹に皺を作ったものの肌が透けることはなくなり、手から離すと所々空気を含ませながら肌に張りついてゆく。今朝の猛暑が嘘のように上から撫でつけてくる風が冷たい。

 この雨が止んだら、私はここを出て家に帰らなければならないのか。そう思うと、いっそどこか遠くへ逃げ出してしまいたくなった。世の中には、止まない雨はない、と言う言葉があるけれども、それはいつだって希望に満ち溢れているわけじゃない。止まない雨は、行きたい場所がある人にとって、おろしたての靴に泥水を被らせたり一張羅を濡らす厄介なものになるのだろうから止んだほうがいいのかもしれないけれど、行きたくない場所へ行く人にとっては、進めなければならない足を止める理由になってくれる優しさがあると思う。だから今雨が止んでしまうと、家に帰りたくないのに、私がここに留まる理由がなくなってしまうから、どうか雨よ、止んでくれるな。私を家に、返してくれるな。と強く思った。


 *


 貰うだけ貰って、口座に長い間放置していたバイト代の六千円をコンビニでおろし、これでどこまでいけるだろうと思案しながら夏休み明けの電車に乗っている。時間はちょうどお昼時だけれど、人の少ない車内ではなぜだか制服を着た高校生の姿がちらほら見え、私と同じくサボりだろうか、それとも早退、もしかすると病院から直接登校するのかも知れない、などと一人一人の背景を楽しく想像しているうちに、乗車するまえに抱えていた罪悪感が綺麗さっぱり吹き飛んでゆく気がして、楽しい。

 先日、学校からスマホに電話があった。画面には学校名しか表示されないが、かけてきた相手はきっと足立先生であり、最近はどんなふうに過ごしているか、という旨の電話だろうとおおよその見当はついていたけれど、私は結局その電話を取ることはなく、あの、人を無理やり揺さぶるようなコールが終わるまで徹底的に無視を決め込んだ。出たくなかったのである。私はもう、いかに口うるさく説教されずに済むか、ということでしか行動することが出来ず、最近では教師、いや大人というだけで拒否感が胸にしんしんとうず高く積り、そうと決まったわけではない人に対してもすでに逃げる準備が出来ている。しかし、今回はその逃げによって、皮肉にも説教のタネを増やしてしまった。次に会った時、「それじゃ社会でやっていけないよ」とか「嫌なこともやらなければいけないんだよ」とか、これまで散々突きつけられてきたことを、さも新しげに長々と聞かされるのではないかと思うと、さらにそれからも逃げ出したくなって、どうしようもなくなり、私は今、こうして当てもなく電車に乗っているという次第なのである。

 六千円で行ける場所は思うよりも広い、鈍行なら尚更だ。東も西も、人波寄せる大きな街へはなんとか行くことが出来るから、とりあえずそこを目指してみようと思い、座席の手すりにもたれかかりながら駅を一つ、二つ、三つと過ぎ行き、先ほど乗車してきた客が私よりも先に降車したりするのを何度か見送ったしながら、やがて窓の外に見慣れない景色が走り始めた頃、やっぱりどうせなら行けるところまで行ってみようか、なんて気持ちが気まぐれにぽつりと湧いてきた。人はこれを、無謀、と言うのだろうか。でもその無謀さが、私に身体の身軽さを、追い風にふっと気持ちよく吹かれた時のように思い出させ、もうこれしか方法がないように思われるのだ。どこか知らない街に降りて、その街の寂れたシャッター街に辛うじて看板をぽっと灯らせる小さな喫茶店にふらりと立ち寄り、具の多いホットサンドと甘いレモネードをいただいた後、カウンターの中で脚の長い丸椅子に座りながらタバコをふかす店主に、ここから少し離れたところにある松原の先の浜から見る日暮れはとても綺麗だと教えてもらい、そうしてまんまと一人そこへ向かって、琥珀色の光に溺れながら、実際に日暮れが泣きたいくらい綺麗だったことに心底安心し、出来ることなら、そのまま海に身を投げて溺れ死んでしまいたいけれど、そうもいかないのだろう。そもそも本気でどこかに行けるなんて、思っていない。ただもうこれしか方法がないような気がするから、祈るような気持ちでどこかを目指しているのだ。でも、どこかとは、一体どこだろう。いつか、メリーゴーラウンドの馬車は同じところをぐるぐる回るだけで行き場がなく虚しい、などと偉そうにしていたけれど、あれは、馬車に行き場がないのではなくて、私に行き場がなかったのだと、今、気がづいた。電車に乗っているとわかる、どこへでも行けるのにどこにも行き場がない。シンデレラは舞踏会に行くために馬車へ乗ったけれど、でも私は。

 そこまで考えて、やり場のなかった視線をそっと向かいの車窓に向けた。新しく停車した駅はどうやら住宅街の中にあるらしかった。片側は傾斜に沿って家が段々に立ち並び、上にゆくにつれ瓦屋根の家が、下にゆくにつれ箱型の家が多くなっている印象だった。駅と家を区別する錆びついた緑のフェンスの奥には、百日紅の枝がホームの客を誘うようにこちら側へと垂れている。鮮やかな赤紫色に咲くその花は、金魚の尾ひれをいくつも束ねたように華やかで、乗車のために並ぶ利用客の生気を少しずつ吸い取っているのではないかと思うほど力強い美しさがあり、蜜を求めてやって来たミツバチをことごとく丸呑みにしていそうだった。今は私が、あの花に生気を吸い取られているのかしら、と思うと、なんだかそわそわして落ち着かず、早く発進しないだろうかと、ぞろぞろ降車する人の背を眺めてドアが閉まるのを待っていたら、そのドアから老齢の男性が一人乗車したのが見えた。降りる人と違って唯一この車両に乗り込んできた人だからか、糸で引かれるみたいにそのおじいさんへ視線が向く。

 おじいさんは型崩れのない真っ黒なスーツを着ていた。それはまるで烏のようだけれども光沢はなく、サラリーマンが着ているものと比べるとどこか重々しい雰囲気を纏っている。手元のクラッチバッグもこれまた真っ黒で、しかしそれはバッグというより、彼の悲しみそのものを抱えているように見えた。その人は私の前を静かに通り過ぎると斜め向かいの席に腰を据えた。お香の匂いはしなかったから、葬式に行く途中だろうか。進行方向をぼんやりと見つめる乾いた瞳に光は見えない。

 人が死ぬって、どういうことなのだろう。私は結婚式に出たことはないけれども、これまで記憶にあるだけで三度、葬儀に参列したことがある。全員寿命を迎えての死で、だから葬儀も葬儀らしくない明るい弔いばかり、とりわけ曽祖母の葬儀は賑やかだった。明治末期に生まれた曽祖母は当時百七歳、市内最高齢で大往生。それだけ長く生きていると、いつ死んでもおかしくないという覚悟が自然と周囲に共有されるものだし、わかりやすく涙を流している人も少なく、私自身、頻繁に顔を合わせていたわけではなかったから曽祖母の死を悲しいと思える間もなく葬儀を終えてしまった。全ての葬儀が、そんな調子だった。

 

 ある駅を過ぎたところで急に混み合い始めた車内は、やがて繁華街近くの駅に止まるとこれまた急にすっからかんになった。ピーマンの肉詰めみたいにぴっちり人が詰まっていた時は角を曲がるだけで、その勢いで車両がひっくり返るのではないかとハラハラしたものだけど、今のこのがらんとした車内はそういう不安もなくのんびりしている。遮ってくるものが車内にない陽の光は、うなじの産毛を手のひらで優しく撫で上げるように差し込んできて、その心地よさに私はついうとうととうたた寝を始めてしまい、次に目が覚めた時、車内はまたすっかり窮屈さを取り戻してどこかの線路を走っていた。

 寝ている間に、私は一体どこまで来てしまったんだろうか。どこかへ行きたくて乗ったはずなのにそういう底冷えするような恐ろしさが胸から喉に迫り上がり、急いでスマホを開いて現在位置を確認し出した自分が阿呆らしくて泣きたくなる。窓から見える景色は、いつか、見たことのあるもののような気もするけれど、そうでないような気もして、ただ言えるのは、懐かしさが地を這って家となり、ビルとなり、車となり、人となり、生きている気がするということだけだ。乗客は私以外なぜか全員俯き、寝ているのか起きているのかすら確認できず、その光景は普段なら不気味とか異様だとか思えるはずなのに、今日はどうしてか頭が違和感ごと受け入れているのが不思議だった。やがて「○○○」という駅に止まり、大きなキャリーケースと太い肩掛けベルトのショルダーバッグを持ったやけに荷物の多いおばあさんを乗せると、彼女が手すりに掴まるのを待たずに電車は再びゆっくり前進し始めた。荷物の重みと前進する瞬間の力が重なってのしかかってくるのに耐えきれなかったのか、ふらりとよろめいて膝をつきそうになるおばあさんに思わず立ち上がって支えに入る。そうして半ば無理やり私の席に引っ張ってきて座らせると、彼女は顔に刻まれた皺をより深く黒くして、ありがとうねえ、と笑った。

「お嬢ちゃんは、どこかに行くの?」

 私の手の中に、お礼ということなのか、いちごみるくの飴を一粒握らせながらおばあさんが聞く。電車に乗っているのだから、どこかへ行くのは当たり前だろうと思い、私は、まあ、と無愛想に短く返事するけれども、おばあさんは粉の浮いてきそうな白い顔で上機嫌に微笑したまま何も言わず、私の手の甲を撫で続けている。いたたまれなくなった私は衝動的に彼女の手を軽く振り払うおうとするも、なぜだか急に外が気になり出して、顔は下に向けたまま上目遣いに窓の奥を見やった。暗い青が広がっている。それは電車がとうとう陸をはずれて海の上を走り始めていることを示していた。

「すごい、海だ」

「でもここには止まらないのよ」

「なんで?」

「今はクジラが浮かんでいないから、止めることができないの」

 おばあさんが不意に撫でる手を止めて答える。

 私はてっきり海面にぽつんと駅があって、ホームに降り立ったあとは次の電車が来るまで脚を海水につけて涼んだりできるのだとばかり思っていたから、おばあさんの言葉が残念で仕方がなかった。恋焦がれる海に触れられないばかりか、眺めるだけで終わりだなんてと思うと寂しさに涙が下まぶたの裏から滲み出てきて、頬に垂れ落ちる前にそれを拭い去ろうと人差し指の関節で濡れた目尻を強く擦ったら、抜けたまつげが目の中に入り、毛先が粘膜にぷすぷす刺してくる痛みでさらに涙があふれた。

 目の前が、水に絵の具を垂らしたようにぼやける。鼻の形、爪の大きさという細部の全てを溶かしておおまかな輪郭だけが残り、人間を大きな塊としてしか視認できなくなった視界にふと懐かしさが蘇った。唇の隙間へぬるくて辛い涙が滑り込む。鼓膜が衝撃に備えようと強く脈打つ。慌てて目元を手首でがしがし乱暴に擦ろうとすると、

「拭わなくていい」

 おばあさんは私の手首を掴んでその行為を止め、

「いいよ」

 とまた言い聞かせるように囁いた。その瞬間、私は背中に詰まれた重い荷がやっと下りたような心地がして、はあ、と思わず息を吐いた。

 目が覚めると、車内の座席は思い切り寝転がることができるくらいに空いており、今のは夢だったのだと悟った。電車は海の上など走っておらず、むしろ木々生い茂る山沿いを進み、どんどん街から離れていっているようだった。また、私の記憶も松の木何本分か過ぎて行くごとに薄れていっているようで、あの、私の手を撫でさすっていたおばあさんの顔を必死になって思い出そうとしても、結局、声すら思い出すことは出来なかった。

 私は、これまで薄々気づいていながら気づかないふりをしてきたものが、とうとう夢となって私自身に自覚させようとしたのかも知れないと思った。

 他人に優しくありたい。その始まりが“持てる者は与えよ”という母の信念からだったことは確かだけれども、ここまで強迫的なものになってしまったのは思い返せば中学の終わり頃からだったような気がする。私はその時、自分が持てる者だということに疑念を抱きつつあった。他人に優しさを与えれば与えるほどに摩耗してゆくような私が、本当に持てる者なのだろうか、持てる者とは自分のことを疎かにしてでも他人に与え続ける者のことをいうのだろうか。そんな考えをしきりに脳内で巡らせていたら、突然、頭の中が静かになって、凪いだ水面にぷかりと泡が浮かんできた時のように、もし私が持てる者でなかったのだとしたら、じゃあなぜ、私は今まで与えてもらえなかったのだろうか、という思いが胸の中で弾けた。それからはもう、目を逸らし続ける日々。しかし嫌でもちらつくその思いに気休めとして、あくまで他人事に、与える人がいないのならばそのぶんせめて私が与えようと奮い立ち、今思えばそれは自分を救うための行為だったような気もしているけれど、結局耐えきれず、崩れ落ちて、こうなっている、現実。

 私は、持てる者ではなかった。もうだめなのだ。唯一私を正気でいさせてくれた椿も、今はもういない。これから死ぬ気で生活を立て直したとして、それが何になろう。多くの人間がまるで義務教育みたいに進学する大学だって、返せもしない借金をしてまで行きたいとは思えず、また、たとえ進学したとしても途中で気力が尽きて無駄になるのだろうし、かといって働こうにも、職場の人間に業務を教えてもらえず放置されたらどうしよう、そうして待ってましたと言わんばかりに客の前で嬉々として罵られたらどうしよう、と不安でたまらなくなる。給料の入った通帳を開くたび、私の一時間にはたった九百円の価値しかないのだと悲しくなりながら、働く意味がわからなかった。けれどもそう打ち明ければ、それが仕事なのだから、と暗に人から諦めることを進められたり、生きていくには働かなければならないんだよ、と言われたりするのだろう。そんなことは私だってわかっている、けれど、だったら私は死んだほうがマシだった。泣き喚きながら生きるより、ずっとそのほうがマシだった。他人から見れば、馬鹿馬鹿しいことこの上ないのかも知れない。でも、一度そう思ったらもう止まれなくて、検索履歴が自殺というワードでいっぱいになるくらいとにかく死ぬ方法を調べた。練炭、首吊り、服薬、飛び込み。けれど結局、すんでのところで死にきれずにいる。生きたいからじゃない。失敗して、後遺症を抱えて、そのままズルズル生き長らえてしまうことが、怖かった。生きることが怖くて、死ねなかった。

 喉を締めて無理やり高くしたような声で次の停車駅がスピーカーからアナウンスされる。ここが限界かと思い、出口である車両の右側のドア前に立って駅を待つ。バックの中で何かが震えているけれど気づかないふりをして、徐々に大きくなる揺れに脚を踏ん張る。


 降りた駅は無人駅だった。ホームの真ん中あたりには東屋のような、腐りかけのベンチが置かれた古めかしい小屋とICカード用のずんぐりした改札機が設置されており、その簡素さが逆にこの場所の寂しさを色濃くしているようである。駅はかなり山深いところにあるらしく、周囲は天まで伸びるような木々が密集してそびえ立ち、見上げると駅と線路に沿ってぽっかり空に穴が空いている。少し前まで雨が降っていたのか、あたり一面には鼻の奥をじりじり焼くような土臭い匂いがむわりと立ち込めていて、その匂いごと深く息を吸い込んだら途端に悔しさが込み上げ、もうだめなのだ、と私は改めて思った。

 大人に、ならなければいけない。どうしてなのだろう、問いかけても答えが返ってくることはないけれど、それでもどうしてと思わずにいられなかった。諦めるたび、屈服させられる気がした。屈服させられてもなお抵抗してきたことさえ、今回のことで完全に膝をつかされたような気がした。もう、立ち上がる気力すらない。

 ICカードをタッチして悲鳴のような板の軋みを聞きながら、ベンチの、虫食いが少ない片側へと座り込む。アプリで次の折り返し電車が来る時間を確認しようとスマホを開いたら、留守番電話の通知が目に入った。学校からだった。日が翳り、紫がかった影が駅全体を覆いつくして沈黙する。静寂が慰めるように私に寄り添う。

 今の高校へ進学を決めた時、椿は友達が作りにくいんじゃないかと心配してくれていたけれど、本当のことを言うと、私はそのほうがよかった。一人でいるのもそんなに悪くない、だって孤独は、一人の時じゃなく誰かといる時に感じるものなのだから。しかしそれとももうおさらば、今まで散々逃げてきたことと向き合わなければいけない時がついに来てしまったのだ。まずは地に足をつけてみようと思い、電話アプリを開いて留守番電話を選択し、機械的な音声案内に従って番号を入れた。恐る恐る携帯を耳に当てると、軟骨部分にシリコンカバーの感触をさらりと感じる。雲が割れて、金色に光る切れ目から陽が地上を焼き付けるように差し込む。

 留守番電話が、再生する。

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馬車を降りる うさみゆづる @usamiusausa

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