第52話 少女の過去
坂巻先生:「最初から……どこにも……どこにも無かった、のかよ……」
柳 由紀子:「えっ、何の話ですか」
坂巻先生:「恩を仇で返しやがってッ!!」
立ち上がった坂巻は白衣のポケットから刃物を取り出した。
細く鋭い銀色のメスだった。
柳 由紀子:「きゃぁあっ!?」
由紀子はメスを見た瞬間、反射的に立ち上がり後ずさる。
柳 由紀子:「やめてください! 坂巻先生ッ!!」
坂巻先生:「由紀子さんはワタシのものだ。誰にも渡さない。ワタシの幸せのためには由紀子さんが必要なんだ!!」
坂巻は由紀子に詰め寄り、その細い腕を掴みメスを首に近付ける。
柳 由紀子:「ひぃっ!!」
由紀子の瞳からは恐怖の涙が流れ出す。
恐怖に怯える顔すら愛しいとさえ思う坂巻は、もう善悪の判断は出来なかった。
血を見ることになっても、壊すことになったとしても、由紀子を手放したくなかった。
坂巻先生:「ワタシのものになると言え! 由紀子!!」
歪んだ愛情をぶつけられても、メスを向けられていても、由紀子は首を横に振った。
柳 由紀子:「嫌よ! ……助けて智也さん」
由紀子は亡き旦那の名を口にする。
だが願いも届かず、その名が坂巻の引き金となった。
由紀子の短い悲鳴とともに、診察室が赤くなる。
坂巻先生:「ワタシは医者です。どの血管を切ればいいかなんて、手に取るように分かります」
由紀子は血が噴き出す首を押えて、その場に倒れ込む。
心臓から勢い良く送り出される血液が、首から飛び出していく。
血の臭い。
生温く、ねっとりと鼻孔に張り付く、鉄の臭い。
押えても指の間から溢れる。
止めることなどできない。
香奈は全てを見てしまった。
香奈は自分は無傷なのに、由紀子が切られた場所と左側の首を右手で抑える。
柳 香奈:「お母さん!!」
思わず香奈は叫んでしまい、坂巻に自分の存在を教えてしまった。
坂巻は扉の陰から覗く香奈を睨んで笑いかける。
‟良い先生”はどこにもいない。
最初から存在しなかった。
優しい笑顔も、今は狂気に満ちていた。
坂巻先生:「お前も殺してやる」
殺人鬼となった坂巻先生が動き出す。
柳 香奈:「きゃぁぁぁあああああああっ!!」
香奈は耳を塞ぎたくなるような、高音の悲鳴を上げて足を必死に動かした。
香奈の悲鳴に病院内が騒ぎ出す。
柳 香奈:「先生がっ! お母さんをっ! お姉ちゃん!! 逃げなきゃ!!」
香奈は201号室に居る麗奈の元へ急いだ。
後ろでは騒ぎ出した看護師や患者が、メスを持った坂巻を見て悲鳴を上げている。
病院の外に逃げ出す前に蹴り飛ばしたり、メスで首を切ったりしながら、確実に坂巻は2階に向かって歩いていた。
他の人がターゲットになっているとはいえ、夕方の病院には人が少なく1階の人間を殺して2階に来るのは時間の問題だろう。
香奈は必死に走った。
お姉ちゃんを連れて早くここから逃げ出そう。
柳 香奈:「お母さん、お父さん……」
ここにいはいない2人に助けを求めながら走っていると、206号室に入院している細身の男の子が病室から顔を覗かせた。
一秀:「どうしたのそんな急いで?」
いつも鍵を隠したりして看護師を困らせて遊んでいる
一秀はお見舞いに来ている香奈とも面識があり、一緒に悪戯をしたこともあった。
柳 香奈:「だめ! 部屋に居て!! お母さんが殺されちゃったの!! もうすぐここにも来ちゃう!! 逃げて!!」
そう叫びながら香奈は走って一秀の前を通過した。
そして201号室に飛び込み、乱暴に扉を閉める。
柳 麗奈:「どうしたの!?」
窓の外を眺めていた麗奈は驚いて、泣いている香奈を見た。
柳 香奈:「お母さんが殺されちゃった!! 先生に殺されちゃった!!」
麗奈の顔を見て緊張が少し緩んだのか、香奈は前が見えなくなるほど大粒の涙を流し始めた。
麗奈は最初、状況が全く分からなかったが、廊下から聞こえる悲鳴や坂巻の怒鳴り声に受け入れがたい現実を理解した。
香奈はベッドに座る麗奈に抱き着き、お母さんお母さんと繰り返している。
柳 麗奈:「香奈だけでも逃げて。窓からなら逃げられるかもしれない」
柳 香奈:「ダメだよ一緒じゃなきゃ!」
柳 麗奈:「私は歩けないんだもん」
柳 香奈:「独りは嫌だよ!!」
麗奈は悲しいほど、冷静だった。
このままじゃ2人とも殺されてしまう。
柳 麗奈:「……香奈、お姉ちゃんの言う通りにしてくれる?」
柳 香奈:「うん!」
坂巻の声が近付いてくる。
麗奈は由紀子に貰った日記の最後のページに、慌てて文字を並べていく。
『さかまきせんせいが おかあさんをころした』
柳 麗奈:「これをガムテープでぐるぐる巻きにして、引き出しの天井の奥に張り付けて!!」
香奈は受け取った日記にガムテープを巻き、言われた通りの場所に日記を隠した。
柳 麗奈:「香奈、おいで」
柳 香奈:「……お姉ちゃん」
麗奈と香奈はベッドの上で涙で瞳を潤ませながら、強く抱き合った。
柳 麗奈:「私たちは双子だから、死ぬ時もずっと一緒だよ」
柳 香奈:「うん。最初から最後までずっと一緒」
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