ひとり

あば あばば

ひとり

 朝。目が覚めて、手を伸ばして、スマホのタイマーを止めて、起き上がって、頭を掻いて、あくびをして、外の暗さを確かめる。うっすら赤い。時計を見なくてもわかってる。朝五時半。タイマー鳴ったんだから当たり前だ。

 これから三十分で顔を洗って、髪をとかして、着替えて、化粧して、ゲロ吐いて、歯磨いて、適度な笑顔を貼り付けて、会社に行かなきゃいけない。時間ずらさないと座れないし、座らないと寝れないし、早めに行ってあれとあれを終わらせとかなきゃいけない。じゃないと、また帰りが遅くなる……

「ん……」

 小さな声に振り向くと、隣で寝ていたカホが薄眼を開けて私の姿を追っていた。洗面所に行く前に、その頰をなでて、小さいおでこにキスをする。それから唇にも。

「もう仕事……?」

 さすがに起こしてしまった。人差し指で制して、まだ寝てていいよと言う。若者には睡眠が必要だ。私たち汚れた大人とは違う。今日は学校も休みなんだし。

「おやすみ」

 もう一度唇を近づけると、彼女の方から吸い付いてきた。口を離してから一言、

「ユキちゃん、くさい」

「まだ歯磨いてないから」と返して、洗面所に向かう。

 私は幸せ者だ。人生に求めていたものはすべて、この部屋の中にある。欲しかった椅子。欲しかった服。欲しかったテーブルと、欲しかった恋人。だから耐えられる。もう一日。それからもう一日。


 昼時にいったん会社を抜け出して、自宅に電話をかける。

「もしもし? ああ……うん、別になんでもないんだけど」

 耳元から聞こえてくるため息。ほんのり、彼女の香りがするようだ。いつも公園から電話するから、植え込みのツツジの匂いと記憶が混じっているのかもしれない。

「大丈夫。ちゃんと食べるから……カホ、お母さんみたいなこと言ってるよ」

 小学生のくせに。と、公共の場だから声には出さないけど。

「うん。作り置きのカレー、食べてね」

 バカなカップルみたいに受話器越しにキスしようと思ったけど、恥ずかしいのでやめておいた。電話を切ると、自然とため息がもれる。夢から覚めたような感じ。


 カホと同居するようになったのは、半年前のことだ。カホは姉の再婚相手の連れ子で、姉夫婦が事故で二人とも死んじゃったから、私が引き取って育てることになった。

 向こうの祖父母とか、他にもっとしっかりした親類もいたはずなんだけど。カホが転校したくないってことと、彼女自身が「私のとこがいい」って言うので、とりあえず小学校卒業までうちで預かることになった。

 それから数ヶ月の間に、なんでだか……こういうことになった。

 もちろん、私から手を出したわけじゃない。女が好きって言ったって、小学生相手になんて、考えたこともなかったし……実際、今でもキスと添い寝以上はしてないし。彼女の方がどこまで本気なのかも、はっきりとは分かってない。子供の恋愛ごっこに付き合わされてるだけなのかも。大人っぽいことに憧れる年頃だ。

 問題は、私の方。私は間違いなく、彼女に恋してる。


 帰り道、もう十時近くなっていたけど、閉店間際のスーパーで食材をたっぷり買った。ついでにカホのためのお菓子も。ココナッツサブレが好きなんだ。前にたべっ子どうぶつを買ってったら、子供扱いするなって怒られたっけ。もう六年生だしね。

 六年生。十二歳。背はもう私の肩ぐらいある。足の太さは私の半分ぐらいしかない。胸も半分ぐらいかな。髪は自分の腰ぐらいまであって、ずっと伸ばしてるんだって言ってた。外に出ると、妖精みたいに跳ね回る……やっぱり、子供だ。

 私は先月で二十九になった。何年経っても、彼女が私に追いつくことはない。


「ユキちゃん! おかえりィー」

 彼女はフローリングの上でうつ伏せに寝そべって、ゲーム機をやっていた。私に気づくと床をコロンと転がって、お腹を見せて笑う。

「ただいま」

 膨らんだビニール袋をテーブルに置いて、微笑み返す。私が心から笑えるのは、この部屋に帰った時だけだ。部屋をちらりと見渡すと、台所がきれいに片付いていた。

「洗い物、やっといたよ。偉いでしょ?」

 偉い、偉い、と言って頭を撫でると、今度は鬱陶しそうにはねのける。矛盾した反応が、子供っぽくて可愛らしい。抱きしめたくなる。でも、今はやめておく。

 と、鞄の中で震える音がした。電話だ。

 仕事だろうか。何か問題? せっかく今週は土日出て早めにケリつけてきたのに。これ以上バカなこと言うようなら、上司も取引先も同僚も全員刺し殺してやる。

 胃がきゅうっと鳴る。伸ばしかけた手が止まる。

「ユキちゃん、電話出ないの?」

 震え続ける鞄を見て、カホが不安そうに尋ねる。私はやさしい顔をしたいのに、それができずに固まってしまう。彼女に嘘の顔は見せたくない。苦い顔をする私を見て、カホは不意に立ち上がると、私の鞄からスマホを取り出して、迷いなく通話拒否のボタンに触れた。

「……はい、オッケー。ちなみにユキちゃんのお母さんからだったよ」

 体の力が抜ける。電話一つでこんなに疲れるなんて。すっかり病んでる。仕事しすぎだ。カホがいなかったら、また通院始まるとこだった。薬飲むのは好きじゃない。

「ありがと」

 抱き寄せて、額にキスをする。そのまま自然と、顔を下げて唇に。息が荒くなる。

「ン……」

 抑えなきゃ。相手は小学生なんだから。舌入れといて、今さらって感じもするけど。でも、それだけはやっちゃいけない。彼女にとっても、自分にとっても絶対によくない。取り返しがつかない。

 唇を離して、鼻で深呼吸する。息が荒くなってるのは私の方だけだった。カホはもうけろりとして、テレビの方へ走っていった。

「もう寝なきゃダメだよ。明日も学校あるんだから」

 ハァーイと間延びした返事をして、カホはまた床を転がっていった。長い髪が床に散らばって、部屋中に子供の甘い匂いを広げている。

 物憂げに……それともただ眠たげに、カホは真っ暗なベランダの外を眺める。大きな目。当たり前だけど、私にも姉にも似ていない。薄い唇。何度も口をつけたはずなのに、ちょっと触れたら破けてしまいそうな気がする。


 初めて会った時から、私は確かにこの子が気になっていた。

 姉の京子が再婚するって話を聞いた時、私の反応は冷たかった。あまり姉妹で仲は良くない。姉はいやな女だ。だから、またどうせ似合いの馬鹿男に引っかかったんだろうと思ってた。それは間違いじゃなかったけど。

 その新しい旦那と、初めて顔合わせした時のことだ。私は大して興味もなくて、適当に相槌打ちながら話を受け流していた。車の話とか。酒の話とか。京子が一応釘を刺したのか、女の話はしなかった。

 脂ぎった男の顔を見たくなくて、ふっと視線をそらすと、隣の和室の襖が薄く開いていた。彼女はそこからこっちを覗いていた。口を小さく開いて、じっと上目遣いに。探られてるのがわかった。賢い目だ。

 彼女は私の姉をまだ信用していなかった。新参者は敵だ。それで、敵と一緒に現れた私もまた敵なのかどうか、見定めようとしていたらしい。子供っぽい大人の下で育つと、子供は自然と大人びる。私がそうだった。

 その疑い深い目が、私の目と合う。一瞬、お互いの視線が絡みついたまま止まった。別の場所で育った同族を見つけたような、不思議な親近感があった。私が首を傾げて見つめると、向こうも首を傾げた。ふっと視線を逸らすと、猫みたいにさっと逃げた。

 衝動的に、私はその後を追いかけたくなった。彼女が行く場所を見届けたかった。どこか、私の知らない場所に連れて行ってくれるんじゃないかって気がして。

「カホちゃん、いるの? こっち来て、ユキおばさんに挨拶して」

 姉の言葉で、私は現実に引き戻された。少女はどこへも逃げずに、いつのまにか姉の隣に立っていた。ホットパンツ履いたお尻の後ろで手を組んで、じっと私を見ていた。

「こんにちは」

 同じ言葉を返して、薄く笑うと、彼女も同じように笑った。その時、彼女が警戒を解いたのが分かった。私は信用されたのだ。それが、自分でも不思議なくらい嬉しかった。私はこんな風に、誰かにまっすぐ信用されたのは初めてだったのかもしれない。

 それから、彼女は時々私の部屋に遊びに来るようになった。最初は親子で、それからときどき一人で。私はずっと下心があったんだろうか。それとも、彼女が私を好きなのを見ているうちに……? わからない。


 信用されないこと。信用しないこと。大体、二つでセットになっている。

「あなたは能力がないんだから、余計なことしようとしないで! あなたのせいで、こっちが残業するはめになってるの、わかんない?」

 誰がこんな非道いことを言ってる? 分かってる。私だ。

「クソ女」

 面と向かって捨て台詞を言われても、私はもう動じない。動じないからクソ女なんだ。

 ちくしょう、はやく彼女に電話しないと。そうしないと、どんどん嫌な人間になっていく。自分の内側から湧き出してくる汚泥に埋もれて、息もできなくなっていく。美しいものに触れていないと、どうしてこんなことまでして生き延びているのかわからなくなっていく。


「いつまでこんな風に暮らせると思う?」

 寝床で、彼女を腕に抱え込みながら、ぽつりと口にした。カホはきょとんとした顔で言う。

「いつまでもじゃないの?」

 私は苦笑する。いつまでもじゃないよ。私は歳をとるし、カホは中学生になるし、仕事もいつまで続けられるかわからない。私が誰かに殺されるか、私が誰かを殺してしまう前に辞めなきゃ。

「いつまでもかもね」

 嘘をつく大人の顔をカホは知っている。だけど、今日は突っかかってはこなかった。私が疲れてるのをわかってるからだ。最高の恋人。

 ソファに寄りかかって、カホは優しい目で私を見つめる。子供に気を遣わせるなんて、最低のことだ。頭ではそう思ってても、この目を見ると私は、何もかも投げ捨てて、彼女に甘えたくなってしまう。たかだか十年ちょっとしか生きていないのに、どうしてこんな聖女みたいな目をするんだろう。

「おいで」

 カホは自分の両膝を叩いて、ふざけ顔で笑った。最初は笑ってかわしたけれど、彼女があまりにしつこく続けるので、仕方なく私もソファに横になって、彼女の膝に頭をのせた。少女の膝は骨ばって、あまり寝心地はよくなかった。

「よし、よし」

 私の荒れた髪をなでて、彼女は何を思うのだろう。頭が回らない。自分のことばかり考えてしまう。

 いつしか、私の右手が、カホの小さな腰に触れていた。無意識とは言え、自分がしようとしたことにぎょっとした。だけど、手を引けなかった。もしかすると、彼女もそれを……そんな考えがふつふつと上がってきて、追い払えない。でも、間違ってる。彼女は私の姪だ。子供だ。恋人じゃない。

 身動きがとれないまま、視線を上げると、カホはじっと私を見ていた。最初に会った時と同じ瞳。探っている。私のしようとしたことに気付いている。

「ありがとね」

 私は彼女の背中をポンと叩いて、手を離した。それから逃げるようにソファを立った。振り向くのが怖かった。今、カホはどんな目をしているだろう。それを見たら、終わってしまうような気がした。

 まだ、終わりにしたくない。私には、今の関係が必要なんだ。壊しちゃいけない。絶対に。


 翌日、職場で変化があった。シンプルに言えば、そこは私の職場じゃなくなった。

 この間の暴言のことで、上司に呼び出されて、売り言葉に買い言葉で、そういうことになった。しょうがない。少なくとも誰も死なずに済んだ。むしろいいことだ。私にとっても、周りにとっても。

 なのに……なのにどうして、私は指から血を出しているのか。会社の壁を殴ったからだ。ともあれ、自分の血でよかった。何がよかった? ちくしょう、意気地なしめ。


 駅でカホに電話しようとしたら、ちょうど着信履歴があった。

 母からだ。母とは話したくない。逡巡している間に、またスマホが震えた。逃げられそうにない。

「……もしもし?」

「ああ、ユキコ? どうしたの、その声。なんかあったの?」

 正直に話す気力はなかった。

「なんでも……何か用?」

 問い返すと、母は少し間を置いて先を続けた。

「あの……果歩ちゃんのことなんだけどね」

 この時に、すぐ電話を切るべきだったのに。私は疲れ切っていて、咄嗟に反応ができなかった。

「まだ早いんだけど、来年は高校の受験あるでしょう。京子は受験してないから、あんまりわかってないのよ。あんた、自分でいろいろ調べて一人でやってたし、京子に電話して教えてあげてよ。二人だけの姉妹なんだから」

 私はしばらく黙って動けずにいた。

 別に、現実と空想の区別がついてないわけじゃない。姉の京子は死んでない。本物のカホは家にはいない。私の部屋には誰もいない。

「……ちょっと、聞いてるの? あんた、すぐ自分の世界入っちゃうんだから。ちょっとは現実も見ないとダメよ」

 私はようやく指を動かして、無理やり通話を切った。


 私が欲しいものは、いつもこの世にはない。だからこうして、空想の友達、空想の恋人、空想の部屋を作って、それが本当のふりをして過ごす。趣味みたいなものだ。なるべく整合性のとれたディテールも考えて……人に言えば惨めに思われるだろうけど、それはそれなりに、幸せな時間だった。

 こんな風に、踏みにじられるまでは。母が悪いわけじゃない。でも、今はカホが必要だったんだ。逃げるためじゃない。明日、もう一日生きるために。そして、そのまた次の日も。もし、彼女が私の中で像を結ばなくなったら、私には明日起き上がる理由が、もう、ない。

 本物の「果歩」にはもう、何年も会っていない。彼女は私を好きなんかじゃなかった。私は勘違いして、彼女を怯えさせてしまった。でも、カホは違う。彼女は私を愛してくれる。彼女は私を許してくれる。私がどうなっても。私が何をしても。


 重い手つきで扉を開けると、廊下の奥にカホが立っていた。

「ユキちゃん」

 彼女は笑顔のほかに何も身につけず、白い肌が仄かに輝いて見えた。私はもう、自分の夢を拒否するのをやめていた。

 どうして、空想の中でまで、私は理性を保とうとしていたんだろう。これは私の姪じゃない。これは現実の子供でさえない。間違いなんて、どこにある? これはどこにもない部屋の物語なのに。ここには誰もいない。私はひとり。必要なものを得ようとしている。私は死にたくない。

「おいで。こっちへ」

 聖女のように微笑んで、手招きする少女のもとへ、私はゆっくりと歩き出した。


(おわり)

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