4-8

 十分か十五分、彼女が教室から出てそのくらい経ったとき、緊張していることに気が付く。

 体に走る緩まない悪寒、呼吸がやけに浅いのを半笑いで誤魔化した――いつか筆木と対峙したときもこんな具合になっていたな。

 立ち上がり、深呼吸をする。

 震える口で大きく、深く息を吸い、静かに目を閉じる。

 ようやく、ようやくだ。

 幽霊少女の影を追いかけて、第二美術部に半ば強制的に入らされて、杏に嫌われて、筆木に敬遠されて、モネに気に入られて、上守に好かれて、ト書にからかわれて。

 それだけではない、サッカーから離れて、浅野の人生を狂わせて、自分の目標すら見失って。

 全くなんて遠い回り道、一目惚れというにはあまりに複雑で、青春というにはあまりに稚拙で、俺一人ではここまで辿り着くことは決して無かっただろう。

 これが恋心を発端としているのだから笑えてくる。

 ……多くの天才を見た。

 思い込みの激しい小説家、環境に左右されやすい油絵師、手の届く範囲だけを幸せにしたい彫刻家、曖昧を絵に描いたような劇作家、そして天才に固執するイラストレイター。

 彼らは俺より色々なものを失っていて、俺より色々なものを身に付けていた。

 多くの凡才を見た――その凡才の中には、才能を捨てたスポーツ選手も含まれている。

 凡才は天才に敵わず、望みを叶えることすら能わない。

 

 強く、とても強く五月の柔らかい涼し気な風が教室に吹き込む。

 凡才の俺はきっと今から失恋するのだ。

 

 目を開くと、ただ少女が一人、佇んでいた。

 窓際、物憂げな表情で外の景色で見ている。

 濃紺の髪は長く腰のあたりまで伸びて、この高校の制服を着てはいるがスカーフはない。

 大和撫子然とした顔つきで、目は甘く垂れている愛らしい少女。

 優し気で、不思議な笑みをたたえ、少しつまらなそうに溜息を吐いた。

 彼女は窓の外を見るのを止めて、ちらとこちらを見る。

「…………」

 少女は俺に驚くでもなく、会釈をするでもなく、ただ柔らかく口角を上げた。

 ここへ初めて訪れたときとほとんど変わらない素振りで淡々と、機械的に、幽霊のように。

 動悸が激しくなるのを誤魔化すように言葉を捻り出す。

「今度は逃げないんだな」

「……逃げないよ、そういう約束だから」

 か細く揺蕩う花のような可愛らしい声で告げる。

 初めて聞いた彼女の声、初めての会話。

 カーテンを持ち上げるように再び風が吹いて、口の中いっぱいに青色が溢れてくる。

 言いたいことが多くて、話したいことが沢山あって、もし少しでも口を開けばとめどなく色々なことを聞いてしまいそうで、唇を軽く噛んでそれを静止させる。

 何も言わない俺に、不思議そうに少女は小首を傾げて微笑む。

 現実味の無い所作と儚さ、それは人ならざるもののようで――だから俺は彼女を幽霊と表現したのだと再確認した。

 そこから会話は無く、やりとりらしいやりとりも無く、ただこんな幸せな時間が過ぎていけばよいと強く思う。

「けど……そうもいかないよな」

 独り言を呟き、溜息を吐く。

 いつか決着を付けなくてはいけなくて、その”いつか”とはきっと今日この時間なのだ。

 

「もう終わりにしましょう。ト書先輩」


 その台詞に幽霊少女は唖然とするような表情を見せる。

 小さな口をあんぐりと開いて、唐突な発言に頭の処理が追い付いていないような顔をして――

「百葉の疑問の二つ目『どうしていたずらをしたか』について答えてなかったね」

 彼女は杏に化けていたときのように姿を現すことなく、幽霊少女の声色のまま語る。

 それは元の姿に戻る必要が無いから。

 幽霊少女のこの容姿は非実在のものであり、誰かを模して造られたわけでも、誰かになりすますためのものでもない。

 実在しない誰かになりきるのなら、俺が彼女をト書だと容認すれば、この姿もまたト書の一側面に成り得る。

 これは仮設の根拠でもあった。

 幽霊少女とト書が同一人物である根拠でもある。

『取材。あの手の天才が恋に落ちたらどうなるか知っておきたかったの』

「……どういうことですか」

「ちょうど役作り中で、百葉が相手役にちょうどよかった。ぶつかったときに体を触ったでしょ、あのときに人とは違う何かがあるなって気が付いたの。それで咄嗟に目的地とは全然違う、私が迷いようがない場所――第二美術室だってとぼけた。地図も複雑に書いたのは迷ってもらうため、私が着く前に扉が開かれると困るから」

 男のような女のような、若々しくも老いぼれて、含蓄がありそうで軽薄、義に厚く情けない無貌の怪物。

 ト書きげきは観劇するように、感激するように告げる。

「想像以上だった。第二美術部への入部、部員の引き戻しは想定内だったけど、私まで辿り着くのに一か月もかからないなんて感動しちゃった。本当はいくつか救済措置があったのに。だから勝負内容もかなり難しくしたのよ。本当はゴールデンウィークまで付き合ってもらうはずだったのに、それも難なくクリア……惚れ惚れする手際ね」

「こちらとしては最悪ですけどね。あなたがト書先輩だって気付いたときにはかなり凹みました、というか今も凹んでます」

「あらどうして?この姿は私なのに」

「いや本来は関西弁の、快活な方でしょ。俺が好きだったのはそっちの幽霊の女の子の方で」

 ト書は首を傾げ、何か勘付いたような表情で笑った。

「惜しいなあ、一つ勘違いしている。というより私の嘘にまだ気が付いていない」

 ふわりとこちらに肉薄し、俺の首に両手をかける、さながら死神が死期に迫る者の首に鎌をそえるように。

「私は脚本家ではなく、女優だよ。演技の天才はあっても、本を書く才能は――ト書を著す才能はない。これでも子役上がりの俳優で、ドラマも何本か出演してる……ほら、こんな学校だからバレると結構面倒くさそうでしょ?ト書きげきは本名で、芸名は別にあるけど、容姿が女優に瓜二つの生徒がいるってなるとそれだけで話題に上がる。噂になる。それは避けたかった」

「噂ね」

「だから嘘をついた、何もでまかせを吐くのは口だけじゃない。私の本当の姿はこっち、関西弁のぱっつんの方はフェイク。それに加えて色んな姿に変装して、強固なフィルターを作ったの。みんなには出来ない私だけの芸当、いわゆる二段階認証だよ。今どきでしょう?」

 ト書は俺の首から腕をそっと離して数歩下がる。

 手は背後に組まれて、前かがみになるように俺の顔を覗いた。

 

「要はまだ、百葉は失恋していない」


『大丈夫。私はきっと君のことを好きになるから』


「諦めないでほしいな」

 

 濃紺の髪が揺れて、病弱そうな肌に影を作る。

 その影の中で静かに笑っている表情はまさしく俺の憧れた幽霊少女のものであった。

 けれどこれを俺が好きだった女の子だと認めていいのだろうか。

 なにもかもト書の腹黒い策略によるもので、この恋心すら彼女の計算結果でしかなくて、まんまと手のひらの上で踊っていただけで――鋭い視線をト書に向ける、睨み返すでも鼻で笑うでもなく彼女は口角を微かに上げるだけであった。

 まるで受け入れるかのような優しい笑みで、結末を静かに見守っていた。

 許容と静観。

 まるで良識のある観客みたいだ、他人の人生に散々介入しておいてそんなつれないことがあるか。

 きっと彼女は俺の反応を楽しんでいる、悪趣味にも憧れの人と現実とのギャップに苦しむ姿を面白く思っている。

 笑った。

 楽しくて、つい笑ってしまった。

 

「分かっていませんね、先輩。俺はあんたの想像以上にあんたのことが好きですよ」

「そうなんだ、それが百葉のこた、え……今、なんて」

 一歩、ト書に近づく。

「一目惚れして勝手に冷めるくらいの熱量ならサッカー部は辞めないし、部員集めなんて七面倒くさいことしないんですよ。あんたの性格がどのくらい捻くれてても、拗らせてても、くどくても、うざくても、馬鹿みたいで、苦し紛れで、噓に塗れてて、どきつくても、好きなままです、大好きです」

 一歩、また一歩と迫ってゆくうちにト書との距離は、歩幅一つ分も無くなっていた。

 自分からキスをしてきた癖に顔は真っ赤に染まっていて、口はわなわなと震えている。

 そんな姿も愛らしいと思えてしまう。

「てっきり俺はあっけなく振られてしまうって思ってました。けどチャンスが貰えるなら、どちらに転んでも構わないと思っているなら、答えは一つです」

「分かった分かった!分かったよもう、そんなに求愛しないでよまったく……予想外だな、嫌われると思ったのに。こんなに百葉が純愛だなんて」

「褒めてますか?」

「皮肉だよ、どちらかと言えば」

 何が可笑しいのかひとしきり笑った後に、呼吸を整えて目を瞑る。

 しばらくするとむず痒そうな表情をして片眼を開く。

「……待ってるんだけど?」

「え、あ、そんな急にですか!?」

「初対面で私から出来たんだ、このくらいわけないよ」

 心臓の音がうるさく聞こえて集中が出来ない、顔が熱い。

 ト書の両肩を優しく掴んで、息を止め、唇を近づける。

 視線は逸らしようがなく彼女を見ていた。

 長いまつ毛、綺麗で艶やかな濃紺の髪、病弱なくらい白く綺麗な肌、ふっくらと潤んだ桜色の唇――顔を離して、彼女は優しく柔らかに微笑んだ。

「好きだよ百葉」

 二度目のキスはずっと甘い。

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