閑話-3

 約三時間、昼になるまでにイラストは完成された。

 その少女だけではなく背景、緻密な装飾を要所要所に加えられており、クオリティの高さは申し分ない。

 普通この出来栄えなら人によっては丸一日かかるらしいので、杏は筆も早いようだった。

 絵をよく見る。

 夕暮れの教室の中濃紺の髪をもつ少女は物憂げな表情でこちらを見て、抱きつく数瞬前のように手を広げている。

 うちの高校の制服に近いセーラー、病弱に見える青白い肌、大和撫子然とした顔つきで、目は甘く垂れている愛らしい少女。

 あのときの幽霊少女によく似ていて、しかしどうも違うものにも見えた。

「当たり前でしょ?人物画じゃなくてイラストだもの、可愛くなるように情報の取捨選択と肉付けは当然してるわ。そのまま人を描いても気持ち悪くなるだけだし」

 杏は怒るように説明した、イラストの出来とは関係の無い話だが批判されたような気分になったのだろう。

 俺も言葉が悪かった、ともかく目の前に映し出されたイラストはとても上手い、知識の無い自分から見てもこれが同級生の手から生み出されたというのが不思議なくらい綺麗だと思う。

「上手な絵だよ。批判する部分なんて一つもない、お前が描いたとは思えないくらい丁寧なイラスト。かけてる時間も短いし、どうすれば人気を集められるか計算をしてるみたいだし、なんというか誤解してた。イラストの上手さだけが才能の物差しじゃないんだな、お前は凄い奴だ」

「ありがと、私天才だし当然の評価ね。それはそれとして、上から目線でなんかむかつく」

「お前は俺を嫌うために嫌いな場所を探してないか?」

 「馬鹿じゃないの?」と一蹴され、腑に落ちないような顔で俺を睨む。

「あんたは私を認めたのよね?」

「まあな、間違いなく天才だと思ったぞ」

「納得いかないわね、納得というより肩透かしかしら。認められたら好きになれると思ったのにまだ嫌いなままだわ」

「喧嘩売ってんのか」

「好感度がマックスまで行かずともマイナスからゼロくらいには持ち直すと思ってたのにそんな感覚すらないの……ねえ、本心から、心の底から天才って思ってるのよね?」

「思ってる思ってる、というかお前がそう簡単に人を好きになれないって言ったんじゃねえか」

「そうだけど」

 考え込むように顎に手を当てて黙ること数分間、彼女は椅子から降りて、そこに敷かれたクッションをポンポンと叩いた。

「あんた絵描きなさい」

「どういうことだ?」

「私の凄さをいまいち理解できてないと思うのよ、それって描いてないから分からないんじゃない?だから一枚、いちキャラでも描けば分かるはず!」

「いやいやなに名案みたいな顔をしてんだ!俺は十分理解できてるって!ほら上守ちゃん曰く俺の目は良いらしいし!!」

「私が納得できないから行ってんの。ほら、早く座った」

「イラストレイターの前で絵を描けと?絶対嫌だぞ、ましてお前の前だと思うと更に嫌だ」

「なにおう!?……じゃあタブレットとか貸してあげるからそれで描きなさい。絶対見ないから」

 杏がいつも学校へ持ってきていた、愛用のそれとペンを渡され、躊躇いながらカーペットの上に座る。

「本当に見ないだろうな?」

「見ないって、しつこいわね。資料とか教本とかそこら辺に色々あるから見ながら描いてみたら」

 そう言って彼女は自室の扉に手をかけ、

「俺をここに一人にするつもりか!?誰かに見つかったら終わるぞ!俺の人生が!」

「大丈夫よ、家族には入るなっていつも言ってるし。あとすぐに戻るわ、喉が渇いたの」

 つっけどんに杏は告げて、呼び止める間もなく扉を閉める。

 追いかけるわけにもいかず、仕方なく受け取ったタブレットに目を落とす。

 そこには既に絵を描くためのアプリが開かれ、ファイルが新規作成された画面――ディスプレイに映っていたようなものであった。

「どうやったら描けるんだ?」

 首を捻り、恐る恐るペンで画面を触れる。

 すると黒い点が打たれ、滑らせると歪んだ線が引かれた。

 硬い機械に描いているのに紙に文字を書いているような感覚に近く、いくつか落書きをしてみる。

 

 サッカーボール、ペン立て、ギター、読んだことのある漫画のキャラクター。

 

 描いては消して、描いては直して、描いては手を止めて、描いては首を傾げて、描いては調べて。


 線が引き終わると、次は色を塗ってみたくなる。

 ペンの色を変えてそこに落としてみるが上手くいかない、ちらと電源がつけっぱなしの杏の画面を見て、どこにどうやって色を塗っているのか確認する。

 レイヤーなんてものがあるのか、ペンの種類も変えないといけないらしい。


 にじませて、影を落として、光を入れて、色を変えて、変形させて。


 何度も杏のイラストを盗み見て、教本や画集も開きっぱなしで、自分の携帯の写真フォルダを流し見て、普段見ていた景色より複雑な色合いと図形の集合であることに眩暈がして、タブレットに映る稚拙な絵が嫌になりながら、当たり前だと頭を振ってペンを握る。


 失敗を繰り返し、たまに成功に見える失敗をしながら、描いていた。

「ここがおかしいから…………線が歪んでるせいかな、でもこれ以上上手く引けないし…………あっ良い色、そうでもないかも…………レイヤー間違えてる、終わった…………」

「すごい集中力ね」

 頭上からいきなり聞こえてきた声に肩を震わせて驚き、それを悟られないよう平静を保つ。

「見てたなら早く声かけろよ」

 上を向くとやけに嬉しそうな、にまにまと恍惚の表情を浮かべる杏の姿が。

 素早くタブレットを抱えて、画面を隠す。

「かけたわよ、部屋入るときにね。けど全然気付いてなくて面白かったから放置したの」

「性格悪いな」

「知ってる、私の誇りよ」

 むしろ誉め言葉だと胸を張る彼女にじと、と視線を向ける。

 杏は話を変えるようにふうと息をついた。

「もう遅いけど、どうする?夜ご飯何食べたい?」

「そんなことしたらすぐに俺の存在に気が付かれるんじゃないのか?というか夜ってまだ昼くらい、だ、ろ……」

 『外を見ろ』というジェスチャーに倣って窓のある方向へと首を曲げ、声を失った。

 そこには昼前で太陽が真上に上がり切らないような青い空と雲がいくつか浮かぶ程度の景色があった、まるで早朝のような。

 おかしい、時間が巻き戻るわけがない、抱えたタブレットに急いで目を落とし、時刻を確認する。

 十七時だ。もう一度空を見る、梅雨に入らない程度の春、このくらいの時期だと夕焼けも見えず、少し暗く、ちょうど朝の青空と似ている。

 杏のイラストが完成したのは十時前後だったはずだから……俺は七時間こうしていたことになる。

「俺の七時間は一体どこに」

「あー分かるわあ、私も集中しちゃうと時間溶けるから。始めたてだとなおのことね」

 夢中でタブレットを触っているうちにこんな時間になるとは、俺は新しいおもちゃを貰った子供なのだろうか。

「仕方ない、学校は明日行くか」

 手に持つタブレットをローデスクの上に伏せるように置いて、広げていた教本の類を全て棚に戻し、立ち上がる。

「ご相伴に預かることもやぶさかではないけど時間が時間だし。帰るよ」

「なに言ってんの?馬鹿じゃないの」

「それは俺に食べていけと暗に言っているのか?お前は俺のことが嫌いだと思っていたがただのツンデレだったのか」

「馬鹿が加速したわね。午後五時なんてみんな起きてるに決まってるから大人しくしてろって言ってるの。コンビニで何か買ってくるから好き嫌いがあるか聞いたのよ」

「『夜ご飯何食べたい?』が”コンビニで買い物してくる”だと思うわけないだろ!そんな分かりずらい聞き方あるか!」

「私があんた如きに作ってあげるわけないでしょ!?二人分の料理を自分の部屋に持っていくのも不自然だし!」

 言い方は腹が立つがそりゃそうだと納得した。

 嫌いな奴を自室に上げるのは良くて料理をしてやるのは駄目な線引きはいまいち分からないけれど。

「嫌いなものは特にないよ。おにぎり四個くらい買ってきてほしいかな」

 ポケットに入れていた財布から小銭をつまみ出す。

 彼女の手渡すつもりが、断られてしまった。

「私稼いでるし、そのくらい奢るわよ。それよりそんなに食べれるの?」

「男子高校生の胃袋舐めんな、このくらい軽食だ軽食。というかいいのか、同級生なのに」

「はっ、まだ自分と私が同じレベルだと思ってるの?ノブレス・オブリージュってやつよ、喜んで待ってなさい」

 再び部屋を出ていく杏を見送って、タブレットを持ち上げる。

 今度は時間を忘れて、なんてことが無いように定期的に確認しながらペンを滑らせた。

 ノブレス・オブリージュね、最近知ったから使いたくなったみたいなワードチョイスだな。


 

「そういえば、なんで学校に行きたかったの?」

 唐突な問いに食べかけのおにぎりを詰まらせる。

 急いでペットボトルの麦茶を流し込み、ようやく落ち着いたところで杏の顔が半笑いなことに気が付いた。

 サンドイッチを小さくかじりながら、

「幽霊の女の子関係でしょ」

「なぜそれを」

「部活とか補修とかならそんな反応しないでしょ。分かりやすい」

「…………」

 こいつに言うんじゃなかったと深く反省した。

 馬鹿にされる分には腹が立つだけで済むが、からかわれるのは思考を読まれているようで不快感が強かった。

 睨みを利かせても肩を竦めるだけで議論するつもりすらないようである。

 諦めて、最後の一口になったおにぎりを口へ放り込む。

「……もしもお前が会えそうにない人に会わなければならないとしたらどうする。一週間以内に、学校で見つけないといけないとして」

「具体的なもしも話ね」

 ちらと杏は俺を見て、溜息がちに「そうね」と始めた。

「私ならなんでもするわ。頼れる人全員に頼るし、なんだったら学校も先生も利用する。自分の力量を越えたことしたいなら、自分以外の力を借りるしかないもの。例えば捜索網を張ったり、個人情報を上位者から聞いたり……あんたの住所も顧問から聞いたわけだし」

「えげつないな」

「効率重視しただけよ。ああでも、頼ったり、利用したり、借りたりする分にはいいけど、使うことはしない方が良いわ」

「ただの表現の違いにしか聞こえないんだけど」

「自分の足で稼げって言ってるの。他人は信用ならないから」

「サブカルの人間が言ってるとは思えないくらい古典的だな。分かったよ、参考にする」

 睨まれる前に両手を挙げて降参のジェスチャーを取る。

 残り三日、やれることはやるつもりだったけれど、自分の中で薄々気づいていたものが杏の発言で発露した。

「俺だけでは無理だ」

 筆木の再入部で調子に乗っていた。

 モネの引き戻しは杏の発案の賜物で、俺は全くの無駄骨だった。

 上守の登校は彼女の恋心のおかげ、俺や杏の意志は介在しなかった。

 

 名探偵にはなれず、誰もが憧れる主人公には数歩足りない、未熟な自分。

 人気者になりたいと言っておきながら、いざその地位を手に入れても興味なさげに振舞う小物な自分。

 才能があると認められたのにそれを投げうち、かといって夢を見つけたわけでもなく、ただ愚直に想い人を探している俗物の自分。

 足りないものが多すぎた、言い訳も出来ないくらいに。

「お前らを頼ってもいいか」

「”利用する”くらいは嘯きなさいよ」

 杏は不敵な笑みを漏らし、俺は苦笑いを浮かべた。

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