3-9
「だ、だいじょうぶだった?」
各々好きな事をして過ごしている部室内、どこからともなく現れたアクアマリンの毛玉――もとい上守は俺に話しかけた。
椅子に座り、今日の宿題に取り掛かろうとしていて、上守は俺の椅子と向かう机の隙間、足元からひょっこりと顔を出している。
「大丈夫ってなにがですか?」
「え、ええと……い、いっぱいみんなにいじめられてたから怪我無いかなって」
不安そうな顔をして周囲をうろちょろと回る、どこか傷があるのではないかと探しているのだろうか。
その様子は間の抜けた天然さがあり、小動物的な可愛らしさがあった。
思わず笑みが零れ、それを上守は嗤われたと勘違いし、ショックを受けているようだった。
忙しい人だなあ。
「あのくらいじゃれ合いの範疇ですよ……どこかのタイミングでやり返すつもりではありますけど」
「ひえっ」
「安心してください、先輩は復讐の範囲外なので」
「よかったあ」とあからさまな安心を呟いて、表情は明るくなる。
元々それが不安要素で話しかけてきたのだろう、俺への心配が別になくなったわけではないが、集団暴行事件が隠れ蓑にされたというのは少し傷付く。
「そういえば先輩は彫刻とかが得意なんですよね?作品って見ることできますか」
「え、う、うん。写真になっちゃうけど……見てみる?」
にやにやと不気味に口元を緩ませながら、オーバーオールのポケットに手を入れ、取り出したのは携帯だった。
両手でたどたどしく操作をして、「感想、言って欲しいな」上守はずいと携帯電話を近づけ、そしてじわじわと体ごと寄せてくる。
携帯を持たない手は腰に回され、足は体に沿わせて絡めていく。
「な、なにしてるんですか先輩」
「うへ…早く言ってくれないと、食べちゃうぞ」
「よろしくお願いしま」頭に強い衝撃が伝わる、忌々しげに振り向くと汚物を見るような視線を下す杏の姿があった。
手には丸めた雑誌が持たれている、さっきまで読んでいたものだろう。
「死ねロリコン」
「双方合意なら犯罪にはならないはずだ」
「ロリコンを!否定しろ!死ね!!」
雑誌の刀身で俺の頭を三度台詞に合わせて叩くと、舌打ちをして自分の席へと戻っていった。
この間にも上守の侵攻は進んでおり、俺のふとももにぺたんと座って、体は抱きしめるように密着させている。
絵具と粉塵の臭い、その中に柑橘系の爽やかな香りが混じって頭が混乱する。
薄い体だが女の子の柔らかさがあって、抱き枕を膝に乗せているような眠くなる温かさが襲ってくる。
荒い呼吸と激しい鼓動――そこまで堪能したところで、三人の視線が後ろから深く刺さってきた。
惜しいがそろそろ感想を言わないと。
彼女が自分の携帯の液晶に表示していたのは、青色の仮面だった。
仮面と言っても舞踏会に付けていくようなものではなく、人の生皮を剥製にしたような、頭を球体と捉えたとき耳を含まず前半分を切り取って、目や頭髪を取り除いたような代物。
一瞬本物の人の皮かと錯覚するほど精巧に作られていて――『人体を用いた狂気的な作品を作っている』という噂はここから来ていたのかと納得する。
精解に巧く作られてはいるもののリアリティは無いと感じた。
というのも目玉や髪の毛といった”加えれば気持ち悪くなる部分”、それを人として正しく付与すると不快の谷へと突き落とされそうな要素は削ぎ落されているのだ。
顔の凹凸は最小限に、唇の膨らみは抑えて、けれどキャラクターのように愛嬌のある具合にはならず、綱渡りのように不気味と不快の曖昧な境界を歩いていた。
目を引くのはこの仮面の表情、引きつるような笑み、誤魔化しや嘘、逃げることを前提とした立ち回りで他人を傷付けず――なにより自分を守るためのそれ。
「筆木先輩だ」
「はい、筆木です。分からない問題でもありましたか?ってまだいちゃいちゃしてるんですか、感想を言ってしまえばすぐに恥ずかしくなって離れてくれるので、早くした方が身のためですよ」
「別に先輩を呼んだわけでは」
なにを言っているのか分からないという風に首を傾げ、筆木は自分のパソコンに視界を戻した。
「上守先輩」
「ふひっ……な、なにかな」
「この仮面筆木先輩みたいですね。モデルにしたんですか?」
耳に生暖かい息がかかってくすぐったい……その息は感想を言ったのに終わらず、むしろ勢いを増して、俺へと肉薄する。
密着する体、そこから伝わる鼓動はずっと早く早く、小型犬のように絶え間なく聞こえてくる。
「なななっ、ななななな、なななななんなんなななな、な、な、ななんで、わかったの!?」
急な大声、この距離のそれはかなり威力があって思わず仰け反ってしまう。
耳痛い。
「あっ、ごごめんね」
「大丈夫ですよこのくらい。それにしても勘で言ったんですけどあってたんですね、いやあ良かった良かった。これで外してたら恥ずかしいですもんね」
「そ、そんなことないよ。それよりほら、こっちも見てみて」
「いやそろそろ離れてくれませんか」
「いいから」
「はい……」
どういうことだ、話が違う。
無視できそうもないから、画面に目を落とす。
手早く上守が画面をスクロールすると、のっぺらぼうの銅像のようなものが現れる。
体育座りに近い微妙な体勢の男の人の像で顔は作りかけらしく、ざっくりとあたりが付けられただけで終えていた。
緑青色の像、彼に顔は無いけれど体つきや筋肉の硬直具合、複雑な体勢から苦しそうという印象を受けた。
誰にも縛られず、何も課せられていないのに、彼は枷をかけられたように体を自らの両手できつく体を結んでいる。
自分のせいで思うようにいかない様子には既視感がある。
「これはモネ先輩ですかね」
モネ本人に反応されないように小さな声で囁く。
「…………」
「あの?」
驚いたようにぱちくりと瞬きをして、じっと俺の目を見つめる。
「え、衿谷ちゃんで合ってるよね?」
「はい俺は衿谷ですけど」
「第二美術部員の衿谷ちゃん、ふへ……おぼえた」
「高名な先輩に名前を憶えて頂けるのは光栄ですけど、なぜいま名前のくだりを挟むんですか」
「えへへ」
「ちょっと上守さん!?」
上守は俺の胸に両手を回し、愛玩動物のように頭をすりよせてきた。
愛嬌のある動きで、懐いた犬猫のような雰囲気があるものの、おおよそ初対面の男子高校生にしていい行為ではない。
いや先ほどからずっと許容できるものではなかったけれど、例のないスキンシップに甘んじていた俺が全面的に悪いのだけれど。
流石にこれ以上彼女の度を越えた行為をそのままにするのは良心が痛む。
両手で押さえ、上守との物理的な距離をはかる。
「あのですね上守先輩、今更ながら過度なスキンシップはやめておきましょう、俺に毒です」
「い、嫌だった?ごめんね」
おどおどと上守は問う。
「むしろ大歓迎なんですけど、清き男子高校生と女子高校生とのやり取りとしてはちとばかし破廉恥が過ぎると言いますか。何と言いますか」
「……わたしと衿谷ちゃんが先輩後輩の間柄だから、だめってこと?」
「理解が早くて助かります」
「じ、じゃあ付き合う?」
ガタガタッ!!
後方で椅子から転げるような音が聞こえる、それも三つ。
「何を考えているんですか!?出会って数時間も経っていない殿方とおおお付き合いだなんて、倫理観はどこに置いてきたんです!」
「思いとどまってカミカチャン!?こんな奴よりずっといい人がいるはずだよ!せめてもっと知り合ってからにした方が良いよ!」
「先輩のために言っておきますけど、こんな何の力もない奴と恋仲になったって良い事ひとつもないですよ!目下一番死ぬべき男ですし!!」
「先輩方が俺のことを嫌いなのは分かりました。けどそんなに言わなくてもいいんじゃないですかね!?」
友人に言われる悪口よりも、知り合いレベルの女子から告げられる本音の方が傷付くものだ。
文句は心の中にしまっておいて、溜息を付く。
「すみませんが、先輩と付き合うことはできません。俺には好きな人がいるので」
「そっか、ざんねん。じゃあうばるようにがんばるね」
「うばえ、今なんて」
「ふひへ……なんにも」
にまにまと柔らかく上守は笑う。
思ったよりも恐ろしい人に気に入られてしまったのかもしれない。
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