3-8

「うはははは!楽しいですか楽しいですよね先輩!!」

「キシシシシ!いやあ全く面白みの一つも感じない!!」

 背中から飛び込むように倒れ、その拍子で何十枚もの紙切れが宙を舞った。

 芸術的なまでに部屋全体、天井めがけて浮かぶそれは、数秒も経たず自重によってバサバサと軽い音を立てて落ちてゆく。

 紙切れの数枚が俺の顔を覆う。

 例えば自動車、例えば鳥、例えば風景……紙きれどれもに描かれ、下手な絵と上手い絵が交互に並んでいる。

「大丈夫かい後輩クン」

「……心が折れそうです」

 被さる紙から透けていた蛍光灯の光に影が出来て、モネが覗き込んでいることが分かる。

 消え入りそうな声で答えると、溜息が聞こえてくる。

 ただ頭上ではなく、もっと別の場所から。

「なにやってるのよあんたたち」

 呆れたような声色でその軽い口調には見下すような意味合いが含まれている。

 杏の声だ。

「見て分からないか」

「あんたみたいな芸術センスの欠片もない奴のすることなんて分かる訳ないじゃない。というかなんで顔に紙を乗せたまんま?それで会話するなんて失礼じゃない?」

 何を言うにしても棘のあるやつだなあ、もうちょっと疲弊した同級生への愛は無いのか。

「ただ今戻りました。すみません遅くなって」

 今度は少し気恥ずかしそうな温かい声――筆木のものだろう。

「お疲れ様です、仲直りは出来ましたか?」

「はい、おかげさまで。迷惑をかけてしまい申し訳ありません」

「ちょっと先輩、こんな奴に謝んないでいいですよ。調子に乗るだけなので」

「こんな奴とはなんだ、こんな奴とは」

「床に寝そべったまま微動だにせずに会話してる馬鹿なんてこんな奴で十分なのよっ!!」

「なにおう!?」

 あまりに的を射た言い分に何も言い訳が思いつかない。

 数日会わなかっただけで論争が上手くなっているとでもいうのか……!?

「大体意味不明なのよ!!なにをどうしたらそうなるの?ふざけるのもいい加減にして!」

「まあまあ二人とも。私たちはちょっと遊んでただけだよ。絵しりとりとか、イラスト当てゲームとか、落書きとか。そういうもので暇潰し」

 「その途中で盛大に後輩クンがこけてしまってね」モネは俺に被さる紙切れたちを払って、体を引っ張り立ち上がるように促した。

「……暇潰しにしては本格的だと思いますけど」

 杏の視線の先――机の上にはいくつかの画材が整列している。

 サインペンや鉛筆、文房具に限らず、油彩の下地剤、ペインティングナイフ、油絵具など絵を描くための道具たち。

 それらは全て彼女の私物であり、そのほとんどを暇潰しに使わせてもらった。

 周囲に散らばる紙切れの色とりどりの落書きはこれらを用いて描かれたものである。

 画材を持ち歩いているとは聞いていたが、まさかこんなに大量にあるとは思っていなかった。

 恐るべしパレット・モネ。

 

 床に降り積もった埃は俺の背中に移動していた、まあ掃除も長らくされていない教室で寝ればそうなるのは当然だった。

 見えないながら手で丁寧に払っていくが、妙に塊のような毛玉がくっついているような気がして、振り返り下を見て、無理に背後を確認する。

 そのとき首と頭の動きに視界は追従し、背中を見るその範囲の中に何かおかしなものを見る。

 たまたま目に入った筆木の背中にはアクアマリンの毛玉がくっついていた。

「ん?」

 じっと見つめていると、その毛玉はびくりと驚いたように筆木の影へと隠れてしまう。

「……筆木先輩、それなんですか?」

「それ?ああ上守さんのことですかね。はい、上守さん隠れてないで挨拶してください。杏さんとは別の新入部員さんですよ」

 「うえへっ」と可愛らしい呻き声と共におずおずと筆木の前に立つ。

 腰が引けておどおどと怖がる様子は抜けず、片手で筆木のセーラー服の裾を掴んだまま、目を伏せている女の子。

 小柄だがモネよりよっぽど大きく、杏と同じくらいの身長だが、弱気な性格が目に見えているせいでモネよりずっと小さく見えた。

 アクアマリン色の髪。

 長期間切っていないのか目元まで前髪は伸びており、一つ結びにして腰あたりまでだらんと垂れている。

 薄い前髪の壁の奥、瞳は柔らかくとろんとしている――全体の顔つきもとろけているような幼さが残っており、庇護欲をかきたてるものがあった。

 猫背にクマのある目、不健康そうなやせ細った体格――第一印象は自分とはかけ離れた正反対の少女だと思った。

 セーラー服の上から青の汚れたオーバーオールを着ていて、なんともギャップのある食い合わせだが、何故かしっくりくる、着こなしている。

 粉塵や木屑、オーバーオール中に飛び散った絵具が染み込み汚れていて、使い古したものであることを伺わせた。

 腹部についた大きなポケットは膨らんでいて、何か道具を入れているのだろう。

「あ、あの……上守加実花って名前、だよ。二年生、ち彫刻とか造詣とか、立体物を作るのが得意っじゃなくて好き、そう好き…………よ、よろしくね」

「衿谷百葉です。一年生で、好きなことは……特にないです。よろしくお願いします」

 上守の深いお辞儀に対して、会釈をする。

 「先輩って」と話し始める前に彼女はぴゅーっと筆木の背後に隠れてしまった。

 荒い息、「頑張った頑張ったよぅ……」という自分を鼓舞する声が僅かに聞こえてきた。

 彼女は幽霊少女ではない、一目見たときからそんな気はしていたが、性格が似ても似つかない。

「そうか、なるほど」

「今の新クラスになって何を言うべきか困ってる自己紹介みたいな会話で何が納得できたんだい?」

 独り言で呟いた言葉をモネに拾われてしまう。

 まずいなんて返そう、咄嗟に理由を捻り出す。

「いや今までにない可愛い人だなあと」

 それを言い終わるや否や、杏から鳩尾を突かれ、筆木からボディブローを食らい、モネから頬を叩かれ、杏から弁慶の泣き所を蹴られた。

「ぐっはあっ!?」

 驚きと痛みで入り混じる意識のまま床に倒れた。

 間髪入れず倒れた俺を四人が囲み、まず筆木が問う。

「その今までにない可愛い人っていうのは『新ジャンルの可愛さ』という意味ですか?それとも『可愛い人は初めて』という意味?どちらにしても折檻は必要ですが、一応聞いておきますね」

 続けてモネが口を開く。

「モテたいモテたいという割にはキミは人に気を遣わないよね。一度しっかりと反省すべきだとパレちゃんは思う、私たちは一度も褒められてないのに」

 そして杏が一言。

「ロリコン」

「お前だけ俺を二回攻撃しただろ。どさくさに紛れて日頃の鬱憤を晴らそうとしてるんじゃ痛い痛い!蹴るな蹴るな俺はボールじゃねえ!ちょっボールを狙うな!!死ぬ死ぬそこは本当に死ぬ!!」

 目の光を失い無心で俺への攻撃をし続ける杏から、うつ伏せでしゃがみ込み、大事な二球を死守する。

 俺がこいつらに何をしたというのだろうか。

 可愛らしいと先輩を評しただけでこれだ、俺の部活に在籍する本来の目的を知ったら彼らに殺されかけない。

 幽霊部員という部活に対して何かしこりがある状態から改善しようと努力をしているのに、こんな仕打ちはあんまりではないか。

 杏に関しては特に意味なく嫌いな相手を虐めているに過ぎない気がする、本当にこいつだけは許せない。

 いつかやり返してやる、悪趣味な噂を流すとかそういう陰湿な方法で追い込んでやる。

 ふつふつと杏、その他二名へのヘイトがふつふつと燃えてきたそのとき、

「あ、あの……」

 上守がか細い声で杏の服を裾をつまむ。

 ぴたりと俺への攻撃を止めて、ハイライトを取り戻す。

「み、見届けるよ……その、お願いね」

 ぺこりと頭を下げると、上守は今度は杏の背後へと隠れてしまった。

 見届ける?

 見た目にそぐわない仰々しい物言いに思考が傾くけれど、彼女の攻撃が止まったのをいいことに起き上がって、攻撃範囲から遠ざかる。

 運動能力はあるのに喧嘩に慣れていないせいで足元を掬われたが今度はそうもいかない……警戒のレベルを自分の中で二つ引き上げた。

 杏は嫌そうに深く溜息をつき、観念したように俺と目を合わせる。

 その目には信念が宿っているように思う。

「なんだよ、まだやるってのか?いいぜ、天才が故に先輩にいびられ続け、手に入れた鋼のメンタルとボディーが火を吹くってもんだ」

「かっこよくないねえ、それ」

「先輩うるさい」

 杏はぼそりと何かを呟いた。

「え、なに」

「……だから違うって言ったの!というか女の子相手に喧嘩しようなんてサイテー」

「先に多勢に無勢で殴る蹴るの暴行を働いたのはお前らだろうが」

 筆木とモネを見ると、ふいと視線をずらす。

 絶対に何かしらの形で仕返しするからな……熱い視線を送っていると、杏は咳払いをする。

「とにかく、私はあんたを見返すから。天才らしく作品で見返すから。その……首を長くして待ってなさいよ」

「お、おう。頑張ってください?」

 言い終わると顔を真っ赤にして、目を強く瞑り、そして苦しそうに続ける。

「あと先輩たち、幽霊部員を部員に引き戻して部活を存続させるの、私も手伝う」

「なんで急に?どういう風の吹き回し」

「う、うるさい!変な茶々入れんな!!」

 怒られてしまった。

 しかし本当に手伝ってくれるのならありがたい、二人目でこんなに入部が難航しているのだから人手はいくらあっても足りないくらいだろう。

 上守加実花は俺の探している幽霊少女ではなかった……残るはト書だけだが、モネの言う通り他の幽霊部員を放置して彼女を探すのはいささか不自然だ。

 健気な新入部員が二人になれば、いくらか生徒の目は誤魔化せるかもしれない。

 杏は短く折ったスカートの裾を握る手を離して、くるりと後ろを向く。

「ということなので、毎日部活に来てください」

「え、えええええええ!?」

 思いもよらない大声につい耳を塞いでしまう。

 今のは上守の声?本当に?

「い嫌だよ、学校には来たくない……今日はか、杏ちゃんの応援って聞いて来ただけで、特例で、日常的に特例が発動したらそれは条例なので……と、とにかく嫌。学校には行かない」

「そんな!?応援してくれたのに!?」

「ま、毎日がんばれーって言うだけならいいよ。ボイスメモ送るよ、それじゃだめ?」

「駄目です、不登校だと部活に来れなくて、部活に来れないと幽霊部員のままじゃないですか」

 上守は小さく呻いて、泣きそうな顔で必死に言う。

「学校はこわいもん。こわいところにわざわざ行くなんて嫌だよ、どうかしてるよ。杏ちゃんはこわくないの?」

 『杏ちゃんはこわくないの?』その台詞に、不意を突かれたような表情で固まってしまう。

「私も怖いですね……じゃあしょうがないです」

 杏は下手くそな作り笑いで、誰が見ても納得いっていないような表情で話を終えた。

 自分の才能を周囲に誇示する杏と、自分の才能で家計を維持する上守では本質的に考え方が違う。

 自身の優先順位の差異が同じような立場である二人に大きく降りかかってしまった。

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