3-7
「ん、目、さめた?」
杏は枕の心地よい冷たさで目を覚ます……強い光に顔をしかめつつ、起きたばかりの視界の大部分を占めるのは無機質な少女の顔だった。
枕ではなく、その少女の膝枕。
むくりと体を起こすと真っ先に目に入るのは全裸のうずくまる成人男性の姿――「ひっ」小さく悲鳴を上げれば、少し離れたところから愛らしいものを見るような笑い声が聞こえてくる。
「それは彼女の作品です。製作途中で、粘土で作ってるんですよね?」
「は、針金もつかった、よ」
「らしいです。ともかくこれの顔を叩いていたのは造形を整えていたからですって」
筆木は壁にもたれかかり、体育座りをしている。
そばには数冊の本が重なっていて、どれも芸術雑誌、個展や現代アートを紹介したものである。
あたりを見回すと作りかけの作品だけではなく、いくつもの彫刻や造形作品が並んでいる。
材質は木材、あるいは石材、あるいは粘土だったり、プラスチックだったり、錆びたガラクタだったり。
その作品の数とあたりに散らばる道具、それ以外には何もないある種殺風景な景色を見れば、ここが彼女のアトリエであることは容易に想像つく。
しかしなぜここにいるのだろうか。
「私は……一体」
「気絶していました。この家には彼女の作品だらけですから、見慣れないとそうなっても仕方ありません」
「そう思うんだったら置いて行かないでください」
「すみません。置いて行ったつもりはなかったのですが、あまりに杏さんが恐怖で動かな過ぎて」
失われていた直近の記憶が徐々に復元されていく。
自分の不甲斐ない、驚き具合、ビビり具合、その一挙手一投足を思い出して、耳が赤くなる。
こほんと、小さく咳払いをして、話を逸らすように視線を作品へと視線を向ける。
岩のように大きな男性。
青銅のような色味の粘土像、よく見ると確かにそれは人ではなく作品である。
体育座り、多少足を崩すようにした曖昧な姿勢の男性――しかしそのポーズに楽な体勢という雰囲気は無く、鎖にがんじがらめにされて身動きが取れなくなったような、硬直に近い苦しさが表現されていた。
表情は無く、顔はのっぺらぼうのようで、骨や肉の凹凸はまだ作られていない――しかしこれが完成品と言われても、違和感無く受け入れられてしまう。
しかしそれは自身に彫刻、造形に関する知識が無いせいなのだろう。
この作品を全てを理解できない未熟さが歯痒い。
「良い作品ですね」
「ほ、ほんとに?えへへ…」
少女はおどおどとしながらはにかむ。
「おややー?私の作品は分からないんのに上守さんの作品の良さは分かるんですか、そうですか」
「それは謝ったじゃないですか。もう、蒸し返さないでださいよ、恥ずかしいので」
いたずらっぽい笑みを筆木は杏に向ける。
「ど、どんなところが良いと思ったの?」
ぐいと少女は杏に体を近づける。
体勢が崩れて杏は後ろに手を付き、少女は彼女の開いた足の隙間に通すように腕を付け、顔と顔は縦にした文庫本一冊もない距離である。
顔は赤く、不気味な笑い声を「ふへへ」と漏らしていた。
「ちょっ、近いです!」
「えへ…作品と見る人との心の距離は近い方がいいと、お思ってるから」
「今は物理距離の話です!筆木先輩見てないで助けてくださいっ!」
「そうなった彼女は止められないので頑張ってください。具体的には感想を言うといいです、彼女引きこもっているせいで人との会話に飢えているみたいで」
「だからって肉欲まで飢えるものなのですか!?」
彼女の荒い呼吸が頬にかかる。
生暖かく、湿っている。
『このままでは食べられてしまう……!』杏の直感がそう言っていた。
「人間を正確に捉えているところ、微妙な体勢を上手く描けているところ、重くて不気味な雰囲気があるのに気味悪さがないところ……ええとあとは、あとはあとは、あっ色が良いです!この色暗くて最高ですねっ!」
目を瞑り、もう駄目なのかと覚悟を決めたところ、やけに手がかかるのが遅い。
薄目を開くとぴたりと進行を止めた、少女の姿があった。
彼女は体をゆっくり杏から離し、逃げるように座ったままもそもそと下がっていく。
「えへ…えへへ……ありがと。まんぞく」
「ある程度褒めるとこのように引き下がります、今後彼女に会うこともあるでしょうし気を付けておいてください」
「そんな野生動物の生態解説のナレーションみたいな」
少女の伏せがちな顔を見る。
彼女のそれにあまり嬉しさとか喜びだとか、正の感情はあまり感じられない。
褒められて満足した、という割には気を遣ったような笑みを浮かべていた。
「改めて自己紹介でもしましょうか。この子は上守加実花。第二美術部員二年生で彫刻だったり造形だったりが得意です」
「上守先輩ですね、よろしくお願いします」
杏が軽く会釈をすると、急に顔を青ざめさせて、慌てて作品たちの後ろに隠れた。
「え、あの」
近づくと体をぶるりと震わせて、更に周囲を作品たちで固めて、強固な根城を生み出す。
それはまるで防壁のようである。
「エネルギー切れしたようです。さすがに初対面の人と話すのは難しいのでしょうか」
「エネ……?なんですかそれ」
「上守さんは対人恐怖症なので、人と話すにはエネルギーを使うんです。私と挨拶をして、杏さんに作品を褒めてもらって、エネルギーが切れたので今は恐怖が勝っています」
杏は理解できない単語の羅列に硬直した。
字面の意味は分かるのだが、度を越したコミュニケーション障害に眩暈がしたのだ。
「不本意ではありますが仕方ありません。また日を改めて来ましょうか」
広げた雑誌を棚のような作品の中に戻し、筆木は立ち上がる。
「杏さん?」
筆木の言葉を無視して、彼女は上守の住まう彫刻の城壁へと近づいた。
心決まったような顔で城壁の一部に触れる。
「私、杏呆といいます。イラスト描いてます。第二美術部の新入部員です」
自分の肌に刃物を突き立てるように、彼女は言いたくないことを言う。
「天才だって、神絵師だってもてはやされてたけど、この部活に入って違うかもしれないと思い始めました……いえそんな綺麗なものじゃなくて、今も納得はいきません。私は天才ですごいんだって思ってます。けど不安になってきたんです」
筆木は止めないし、上守が怯えることもない。
むしろ二人共彼女の言葉に深く耳を傾けていた。
「先輩は天才だと思います。私には出来ないし、理解も上手くいかない……どうしたらいいと思いますか。どうしたら皆に天才だと思われますか」
なにも出来ない癖に生意気を言う衿谷を。
自分をないがしろに扱うクラスメイト達を。
ただの小説家なのに天才だと言われる筆木を。
どうすれば、ぎゃふんと言わせられるのか。
時間は二分か三分。
杏が返事を諦めかけて立ち上がろうとしたそのときに、怯えた声が聞こえてきた。
「わ、わたしは自分のことをあんまりすごいって思わない、よ。それに、みんなにまんぞくしてもらえるものは、作れていない気がする」
壁になっていた作品がずれて、上守の姿が現れる。
「わたしは初め好きだから作ってた。作るのは、た楽しいから。でもいろんな人に見てもらえるようになって、お金が貰えるようになって、次に楽しませたいなって思ったのは、お父さんとお母さん」
少し悲しそうな顔をして上守は続ける。
「わたしの楽しさはふ、二人にきょうゆうできなかったけど、わたしがどんどん有名になっていくのは嬉しそうだった。だから作品を作ってる、私とお父さんとお母さんがまんぞくできる作品を作りたいから」
「か、杏ちゃんは欲張り屋さんなんだと思う。もっと小さな、少しだけのことからまんぞくさせていくと楽しいと思う」
大きく息継ぎをしながら喋り、話し終えると顔を赤くしてまた作品の壁の中に埋もれようとした。
杏は逃げていく上守の手を掴む。
「ひっ……な、なにかな」
「今から学校に行きませんか」
「なっ、なんで?いまの流れでどうして、そうなるの?」
「見届けてほしいんです。もっと小さな、少しだけのことを満足させるのを」
上守は青ざめた顔で「わかった」と呟き、杏は掴んだ手を離した。
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