3-6

「それにしても」

 杏は仲直りしたての筆木に、少し苦い顔で話始める。

「どうして私の場所が分かったんですか?誰にもここへ来るだなんて言ってなかったのに」

「分かったわけではありません。お恥ずかしながら当てずっぽうです」

「当てずっぽう」

 筆木は息を整えて、自分の唇に指を軽くあてる。

「候補は三つありました。杏さんの教室、保健室、そして上守さんのご自宅です。杏さんの性格上、どこかに隠れるなんてありえないと思いました。むしろ自分の意見を補強をするべく行動するはず。クラスメイト、養護教諭、他の第二美術部員がそれに該当します。学級に馴染めていない様子でしたし、養護教諭に美術の素養を求めるのは酷でしょう」

「……悪かったわね。ボッチで」

「悪くないです、私も今は似たような境遇なので」

 棘のある呟きに筆木は悪気無くにこりと返す。

「それで他の第二美術部員ですが、モネさん上守さんト書さん衿谷さんの四名――

 杏の顔が衿谷の名前が出たところで渋くなるが、気付かず話を続ける。

 ――モネさんと衿谷さんは部室に直後に来たのであり得ません。残るは上守さんト書さんですが、ト書さんは会えるはずがない。逆に上守さんは学校では会えませんが、居場所は分かっています」

 行方不明のト書と引きこもりの上守。

 学校で出会うことは困難な二年生と一緒くたに括られる二人だが、その実”どこにいるか分からない者”と”居場所は分かるが立ち入れない者”とで性質は大きく異なる。

 上守の家を聞きたければ顧問や他の教師陣に尋ねるだけでよかった。

「けれど私の推理がまるっきり外れているかもしれません。外すわけにはいかなかった。なので悪法を使いました」

 ミステリ小説で犯人を追い詰めるにはあまりに格好の付かない、虱潰し。

 杏の教室を訪ね、保健室に赴き、杏の自宅まで走る――筆木の息が荒れていたのはこれが理由だった。

「それでは行きましょうか」

「え?」

 上守の自宅のチャイムを鳴らそうとする筆木の腕を引っ張り、杏が止める。

「ですから、天才とは何なのか杏さんの意見の補強をするために一度上守さんを尋ねておこうと」

「い、いやいやいや。私……その先輩をぎゃふんと言わせたくてここに来ただけで、仲直りした今は別にいいというか」

 「ぎゃふん」という古風な言い方が面白くて筆木は笑ってしまう。

「でも私は上守さんと会うつもりでもここに来たので。杏さんに用が無くても私にはあるのです、少しだけ付き合ってください」

 腕を組み上を向くように考える素振りをして、「分かりました」と肩を落とす。

 この人は何を言っても、どれだけ諭しても、梃子でも動かないタイプだと察していた。


 ピンポーン。

 電子音でチャイムが鳴り、筆木は少し離れて付属のカメラに顔がよく映るようにする。

 一分、二分……数分待ってみるが上守が現れることは無く、彼女の家族が出迎えることもない。

 二人顔を見合わせる。

 今度は杏がボタンを押し、先ほどよりもずっと長い時間待っているが、一向にその扉が開く気配は無かった。

「留守……ですかね」

「そのようですね」

 筆木は鍵のかかっていない低い扉を押し、敷地内に入る。

 その扉は小さくキイと金属の擦れる音を立てて開き、手入れがされていることを伺わせた。

 石タイルの数段の階段を上がって玄関ドアの前に立った。

 ノブに手をかけてみると、それは当然あるはずの思い引っ掛かり――施錠されているときの躓き無しで、するりとどん詰まりまで下がる。

 扉は開いてしまった。

 奥は日光がカーテンに遮られて差し込む程度の青黒い薄暗さが広がるばかり。

 一般家庭の普遍的な間取り、しかし無人の空気が漂うっているだけで無性に恐怖心をあおってくる。

「ちょっと筆木先輩!なんで勝手に入ってるんですか!?」

 振り向くと、焦った様子の杏の姿が目に入る。

「居留守かもしれませんし」

「だとしても入っちゃいけませんよ!常識は無いんですか!」

「私は早生まれで、十七歳なので」

「アインシュタインの言葉を真に受けすぎです!斜に構えてないで帰ってきてくださいっ!」

 『常識とは十八歳までに身につけた偏見のコレクションでしかない』と高名な理論物理学者は言った。

 常識が未完の少女は杏からのラブコールに少しも耳を傾けず、そのまま家の中に入り、パタンと扉を閉めてしまう。

「ああもう!」

 じれったさを言語で発散させて、筆木を追いかけ扉を開く。

 こうなったら実力行使だ、引きずってでも外に出してやる――そう息巻いて入った杏は勢いに反して「あれ」と素っ頓狂な声を上げた。

 いない。

 筆木がこの家に不法侵入して数瞬の間に自分も入ったはずなのだが、きょろきょろとあたりを見回す筆木の姿が――想定していたあるべき図がそこにはなかった。

 放課後、もう少ししたら夕焼けが始まるような時間に誰もいない、初対面の他人の家で一人。

 玄関の周囲は薄暗く、続く通路やそのほかの扉にはより深い黒がうずくまっていた。

 頬に冷や汗、背中には何か冷たいものがよぎって、自然と背筋が伸びる。

「せ、せんぱーい?どこにいますかー?」

 声は上ずっており、自分が怖がっていることを発した言葉で実感する。

 その実感がより恐怖を増幅させた。

 へっぴり腰で、今すぐにでも出ていきたいと頭の中は逃げることでいっぱいだった。

「こっちにいますよー。二階です、にかーい」

 間延びした、恐怖とは無縁の声が通路の奥から薄く聞こえてくる。

 杏はようやく安堵して「今すぐ行きます!」と先ほどとは対照的な、元気な声を響かせた。

 靴を脱いで――そこで筆木のローファーがそこで脱がれていることに気が付く。

 黒いくるぶしソックスでフローリングの上をすべるように歩き、声が聞こえてきた方向――階段へと向かう。

 窓の無い通路と階段はかなり暗い。

 灯りを付けようとスイッチを探し当て、カチカチと二三度押してみるが、反応が無い。

「ブレーカーが落ちてるのかな」

 偏屈な造りではないから探せば分かるところにあるのだろうと推測はつくが、今は一刻も早く筆木に会いたかった。

 こんな怖いところから離れて安心したかった。

 逃げたり追いかけたり忙しないな、と杏はつい思ってしまう。

 携帯のライト機能をオンにして、強い光で周辺を照らす。

 段数さえ把握しきれていなかった階段が、白光で薄茶色につやつやと伸びて、白い壁と白い天井が迫るように杏を囲っているのが見えた。

 掃除の行き届いた、恐らく築年数もそこまで経っていないのだろう、手すりにつかまって杏は滑らないように、あとは心の拠り所として、慎重に上がっていった。

 階段を昇り終わる……しかし筆木の姿は無い。

 そこは少しひらけた小さなリビングのような空間があって、いくつか扉がある。

 どこへいってしまったのだろうか、携帯の光を頼りにしてきょろきょろと見ていく。

 リビングくらいの広さなのにそこには何もない。

 光を閉ざすカーテンくらいなものでカーペットさえ敷かれていない、不気味な家。

 見るものが無いので視線は自然に無地のカーテンへと――「ひっ」杏は息を詰まらせて、携帯を手から滑り落とす。

 その瞬間、暗闇が襲い、カーテンの方は見えなくなる。

 見えなくなるが、頭にはその絵がこびりついていた。

 そこには生気の無い人の顔があった。

 体は無く、生首のような状態でその顔は笑っている、引きつったように強制的な笑みをたたえている。

 丸々首が置かれているわけではなく、顔の前半球の皮をはぎ取って乾燥させたような仮面のようなつくりで、全面真っ青に塗られている。

 真っ青に塗られている?

 杏はゆっくりと携帯を手に取り、その皮の仮面に光を当てる。

 それは良く作られた彫刻だった。

 見れば見るほど人の手によって作られた作品であるという実感がわいてくるが、それと同時に実物もこのようなものなのだろうという恐ろしさがじわじわと心を侵食し、同居する。

 均一にムラ無く塗られた青も、毛穴まで彫られていそうな人間味もこの作品を見れば見るほど興味がそそられ、味わい深くなる。

 本物の人の生皮と見間違える程の写実性、引きつり笑いという微妙な感情表現を作品に落とし込む練度、何より気味が悪いとか不快だとかを感じさせない微妙な具合の表現力。

 無造作に置かれたこの木片一つには絶大な技巧と思惑が詰まっていた。

「天才だ」

 自分にはないものを持つこれの作者に悔しさをぶつけるように、負けを認めるように、杏は呟いた。

 

 ギイイ。

 背後の扉が開く、軋むような音が聞こえた。

 その音に体を震わせ、心拍数が駆け上がっていく。

 今度は誰かの肌を叩くような高い音。

 ペチンペチンと強烈な暴力を受けてるようなそれはやはり背中側の扉からのものだった。

 よからぬ妄想が止まらない。

 あの音の原因は何なのか、どんなグロテスクな場面が待ち受けているのかを一度考え始めてしまったら最後、その音の背景、部屋の構造から恐らく音の元凶たる君の悪い怪物のグラフィックまで頭を侵食していった。

 死にたくない、死にたくない、私はこんなところで死にたくない。

 いつか見たホラー映画のワンシーン、振り返ったら最後不気味な幽霊に殺されるシーンがリピートされていく。

 冷や汗が頬を伝う。

 止まらない鼓動を押さえるように胸のあたりの服を乱暴に掴み、浅い呼吸をゆっくり整える。

 いや幽霊なんていない。

 もしいるなら美少女にしてあられもない姿にしたイラストを描いてやる。

「…………」

 薄く目を開いて、振り返った。

「ぎゃあああああああああああああ!!」

 可愛くない悲鳴を上げて、腰を抜かす。

 そこにはうずくまる全裸の成人男性の頬をひたすら叩く、女学生の幽霊の姿があった。

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