三章
3-1
部室棟の四階、賑やかな部室が並ぶ下階を過ぎたここは静謐としている。
放課後はまだ始まったばかりで、部活動を開始しているところは少ない――不貞腐れたような面持ちで通学鞄を手に下げた少女は端教室の扉を開いた。
窓とカーテンは締め切られ、乳白色の蛍光灯が光を灯している。
カタカタとキーボードの打鍵が鳴り続ける、僅かな音ではあるけれど静かなここでは心臓に響くようにも思えた。
一人、ノートパソコンに向かっている群青色の少女。
教室に入った彼女は一瞬ぎょっとするも、記憶力を頼りにこの人が何者なのかを思い出す。
ああそうだ、小説家の――「筆木先輩だ」
ピクリ。
筆木の耳が小さく動いて、タイピングを静止させる。
その断絶するような、ピアニストがいきなり音を止めるような気もが冷やされる仕草に、今度は聞こえない声で悲鳴を上げる。
しまった、名前を読んでしまった。
画面から目を離して、遠くを見るように少女を眺めると、微笑んだ。
にこり。
「……あら、えっと杏さんですよね、新入部員の」
「えっ、はい。まあ……あの、すみません。お邪魔して」
敵意の無い、嫌悪感の一つも見せないその笑みに驚きながら、杏はゆっくりと言葉を紡いだ。
「そんな邪魔だなんて。パソコンさえされば――最悪紙とペンがあればいつでも書けますし、今は杏さんとのおしゃべりの方が大切ですよ」
「はあ、そうですか」
杏は緊張が解けたのか、筆木の言葉に素っ気なく答えると、自分の椅子を見繕い、どっかり座る。
鞄を机の上に置いて、タブレットを取り出し、なにやら作業を始めた。
鼻を鳴らし、筆木など視界に入らないような様子で。
その様子はリラックスして――というより筆木の好意を無下にして、邪険にした失礼なものだった。
二三度筆木は瞬きをして、「あの」と恐る恐る声をかける。
杏は液晶に滑らせるペンを止めないまま、横目でちらりと彼女を見た。
「なんですか」
「なにかあなたに嫌われるようなことしたのでしょうか。杏さんとは初対面のはずですし、交わした言葉も一言二言……それがいけなかったのかしら。もっとなにか興味を引くようなことを言えば良かったのかも。お菓子食べますか?昼休みに購買で買ったチョコが残ってたはず」
筆木は閃いたような爛漫の笑顔で、自分の通学鞄を漁り出す。
「止めてください、いらないです……私あなただけは尊敬できないんです」
両手でチョコ菓子の箱を杏に見せるように持ち、ぽかんと愛嬌のある笑みをたたえる。
「先輩の小説拝読させていただきました。面白かったです」
「まあありがとう!今度こそ私のファンなのね!嬉しいわとっても嬉しい、杏さんのこと好きになりそう」
「いえファンではありません」
杏は「今度こそ?」と首を捻るが、そのまま話を続ける。
「私はあなたが天才と謳われる、第二美術部に席を置く理由が分かりません。確かに面白かったですけど、これがいわゆる天才が書いたものとは思えない。だって天才は、一目見て息を呑むような、見る者すべてに感動を与えるようなそんな素晴らしい作品を作る人じゃないですか。テレビでもてはやされてるようですけど、そんなもの指標にならないでしょう」
ちくり。
自分の中で肺に棘が刺さるようなイガイガとした感覚が走る。
言葉に詰まり、何事かと胸に手を当てるが、別段違和感があるわけでもない――話を戻す。
「小説って誰にでも書けると思うんです」
ちくり。
再び肺あたりに痛みが起きるけれど、これの正体は分からない。
筆木は軽く笑って、諭すように話し始めた。
「確かに誰にでも書けるでしょう。規模の大きな話にはなりますけど、リテラシー能力が最低限身についていれば小説は書けます。絵や音楽を志すとなると始めるに際してお金がかかりますが、小説は比較的安価で済みますし。けれどそれが良いところだと思います。あと小説も芸術と言えば芸術ですよ?九つある大枠の一つが文学なので」
「そのくらい知っています。私が言いたいのはあなたは天才と呼ばれるに相応しくないということで、」
「小説が誰でも書けるからですか?すこーし乱暴な言い分ですね。難易度が天才の証明になるのなら芸術は建築がトップで、メディア芸術と文学はどっこいどっこいになりますよ。なにせ建築物を作るのには莫大なお金と人員と素材が必要なので。目指しやすさは昨今イラストレーターも小説家も変わりませんし……あっ分かりました!あなたは私の作品を読んでピンとこなかったんですね?『ピンとこなかった』というより腑に落ちなかった、納得できなかったと言うべきでしょうか」
「…………」
杏は押し黙る。
「面白く思ったが、これが天才と言われる程のものとは思えなかった。つまり天才集まる第二美術部には相応しくない。要点はこんなところでしょうか。分かります、非常に分かりますよ杏さん。私も第二美術部に在籍して三年目になりますが、どうしてこんな大仰な二つ名を持つ部活動に私がいるのだろうか、朝目を覚ましたとき不意に考えてしまうこともありますから」
筆木はチョコ菓子のパッケージを開いて、一つ口の中に含む。
「では聞きますが、杏さん。あなたは確実に、絶対的に、唯一無二として天才だと確信した小説家はいらっしゃいますか?」
「えっ、いやその」
思い出すように目を逸らす杏に筆木は母親のような笑みを向ける。
「そうです、いないんですよ。この人は天才だ、間違いなく尊敬し、今度の人生を左右するような作品ばかりを生み出す最高の芸術家を一人、”自分の門外漢”の分野から選びなさいと言われれば困ってしまう。私も日本画と小説家には一人ずつ尊敬する先生がいますが、それ以外はからっきしです。お隣さんの詩や短歌、俳句でさえ私にはさっぱり。ゴッホの絵の素晴らしさ、ピカソの絵の大胆さを語られても、私たち”よそ者”には分からないのです」
彼女はチョコを一つつまみ出すと、顔を近づけて、杏の口に押し込んだ。
にんまり。
筆木学は妖艶に笑う。
「あなたの言う通り天才は周囲の人々、もしくは大衆が決めるものではありません。天才とは、それぞれの専門家が敵わないと思った相手に苦し紛れに投げかける言葉なのです。『あの人は天から賜る才を備えている』と」
杏はもぐもぐと口を動かしながら、俯いた。
その俯いた顔は徐々に赤く染まり、やがてトマトのように真っ赤に燃えてしまった。
彼女の頭の中は羞恥で埋まっていた。
幼稚な決めつけを優しく矯正されたこと、その訂正を未だ納得できずにいること、それらがぐつぐつと煮えて、自分を慰めるのに精いっぱいだった。
恥ずかしくて情けなくて恥ずかしくて情けなくて恥ずかしくて情けなくて――目から涙が零れる。
零れて、一粒流れたらそこから堰を切ったようにとめどなく流れていった。
それもまた恥ずかしくてしょうがない。
筆木の慰めの言葉も、彼女が差し出してくれたハンカチも押しのけて、ただ一言。
「……帰ります」
杏は自分の荷物をまとめるのさえ忘れて、無心で走った。
もうあの教室を隠れ蓑にすることはできないのだ、それもまた心をきつく縛った。
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