人アレルギーの渡瀬さん

理科 実

人アレルギーの渡瀬さん

今宵は魔の時である。

月の光が町を包み、周囲に魔力を漂わせる。


「grrrrrrrrrrrrrrrrrr……」


獣は帰ってきた。

再び彼女に会うために、そして


彼女にまとわりつく異物を排除するために



 1.渡瀬さんと数学の宿題


「黒木くん、あなた数学の宿題はやってきたの?」


声は僕の隣から聞こえる。

その主は今日も枝毛の一つもない美しい黒髪を揺らし、僕の視線を惑わせた。

彼女から声をかけてくるのは珍しいので、今日は少し機嫌が良いのかもしれない。


「もちろんさ!見てよ、この完璧な解答を!!」


ノートを広げ、隣の席の彼女に見せつける。


「どれどれ……黒木くんあなた」


「ふふん!」


見せてやる!昨夜の努力の結晶を!!


「やっぱりバカね」


「な……っ!!??」


一晩の努力の結晶はたった一言で粉々に打ち砕かれた。

バカな……今回は結構自信があったのだけど。


「むしろ合っている問題の方が少ないわ。特に何?この確率の問題」


綺麗に整えられた指先で例の問題を彼女は示す。


「『2枚の硬貨を同時に投げるとき、表が1枚出る確率を求めよ』だね!……これがどうかしたの?」


「質問を質問で返すようで悪いけれど、なぜ答えが1/3なの?」


彼女はノートから顔を上げ、その切れ長の美しい瞳が僕を見据える。

僕は霧散しかけた考えをかき集め、彼女の目を見ながら


「だって硬貨が出るパターンは(表・表)、(表・裏)、(裏・裏)の3パターンでしょ?そのうち表が1枚出るのは1パターンだけだから答えは1/3じゃないか!」


考えを述べる。


「はあ……よくもそこまでドヤ顔できるわね」


「ありがとう!」


「褒めてないわ。まあ……安易な選択をせず、地道に場合分けをしようとしたのは実にあなたらしいと思う。でもそれだと(裏・表)のパターンが抜けているのよ」


「(裏・表)と(表・裏)って同じじゃないの?」


以前からの疑問を彼女にぶつけてみる。

彼女は少し呆れつつ、けれど決して無碍にはしない。


「違うわ。きっとあなたの場合2枚の硬貨を区別しておらず、そして例の一文も見落としているわ」


「例の一文?」


、よ」


「あーあれかぁ……いつも思うんだけど、あれって何言ってるのかいまだにわからないんだよね……えへへ」


恐らく確率の問題の核はここなんだろう。

問題を解くために、僕はまずこの概念を理解しなくてはならない。


「簡単に言うとコインの場合だったら、50%の確率で必ず表か裏が出るようになっているわ」


「それって当たり前のことじゃないの?」


「この一文を入れておかないと、表も裏も出さずの可能性も考慮しなくてはならないわ」


「……あー、確かに」


なるほど、現実的に考えてあり得る状況ではない。でも無限の可能性を内包する数学の世界では、こういった状況も存在するんだ。


「他にも空中に投げたコインを誰かがキャッチしたり、落ちる前に爆発させたりする場合も考えなければならないわ」


「そんなことありえないでしょ!?」


意外と発想が豊かな渡瀬さんである。


「いえ、可能性はゼロじゃないわ。世の中何があるかわからないもの」


そう言う渡瀬さんの声は少し元気がないように聞こえた。


「同様に確からしい、の意味はよくわかったよ。もしかしたら数学史上最も偉大な一文かもしれないね……」


「わかってもらえたようで何よりだわ。さて……脱線してしまったけれど、これで私の言いたいことは理解した?」


「(裏、表)の可能性を排除してしまうと同様に確からしい、が破綻するってことだね?結局2枚のコインはそれぞれ表か裏か2つのパターンがあるわけだから、考えるのは4パターンってことなんだ」


「すごいじゃない、よく出来ました」


もしかしたら初めて褒められたかもしれない。何故か表情は死んでいるんだけど


「渡瀬さんのおかげだよ!最初から教えて貰えばよかった……」


「まだ間違えてる箇所があるのを忘れてない?水越先生が来る前にもう一度見直した方がいいと思うわ」


ノートを開いて宿題を確認する。

うーん……これはダメかもしれないね。

だって、わからないところもわからないし……なので


「すいません!助けて下さい!!」


 僕は間違えていると思わしき箇所の解説を全力で懇願する。

 教室の扉が開き、先生が入ってきたのはそれから間も無くのことだった。



 2.渡瀬さんと僕の馴れ初め


「改めて修一ってすげえよな」


「七沢くん……なんでさ?」


授業終わりの昼休み、級友が声をかけてきた。

彼の名前は七沢 竜玄くん。

転校初日、ちょっとした共通の趣味がきっかけでお互いウマが合い、よくこうしてお昼を一緒に食べる仲だ。


「いや、渡瀬とあんなに話せることについてだよ。お前が転校してくるまでは結構すごかったんだぜ?」


渡瀬さんに聞こえないよう小声で僕に告げる。

ちなみに現在渡瀬さんは教室にいないので、無駄な配慮だと思う。


「すごかった??」


「おうよ。そりゃあの見た目だから話しかけようとする輩は山ほどいたけど、例の病気とあの性格も相まって入学最速で孤立したんだ」


ちなみに七沢くんもその輩の1人である。

まぁ仕方ないよね。多感な高校生男子にあの美貌は目の毒だ。女子にしたって嫉妬の対象となっても何らおかしくはない。


「そりゃあ大変だったねえ」


だから、僕は本心からそう言った。


「それだけじゃない、一部のやべー女子たちが入学当初に渡瀬へ嫌がらせしてたみたいなんだよ」


「それはひどいな!」


前言撤回。同情しかけたけれど、さすがに直接の嫌がらせは良くない。


「けどな……どんな手を使ったか知らんけど、気づいたら嫌がらせが止まったどころか、嫌がらせした生徒は転校したんだ」


「うーん……それは」


僕は少し渡瀬さんを侮っていた。

彼女はお嬢様のような見た目をしているけれど、その中身は強者のそれであり、高校生の嫌がらせなんてそよ風に等しいのかもしれない。

にしても転校って……こっわ


「やべえだろ?それ以来誰も渡瀬には近寄らなくなったんだ……おまえ以外はな」



 渡瀬真宵《わたらせまよい》は人アレルギーである。

 人アレルギーとは文字通り人に触れる、近づく、会話をする等、人とのコミュニケーションにより免疫系の異常を引き起こす疾患らしい。

 苦手な人に接したことによりストレス性で発生する症状はあるようだけど、人という生き物自体を抗原とみなし、体が拒絶しようとする働きが見られるのは非常に稀なのだそうだ。

 問題は僕がこの事実を知ったのは転校して2日目のことであり、転校初日の時点で渡瀬さんとのファーストコンタクトを既に済ましてしまっていたということだった。


「おはよう!今日からよろしくね!!」


 人アレルギーのことなんて全く知らない僕は、案内された席から少し離れた隣の席の女子に普通に挨拶した。

 最初は色が白すぎてうっすら血管が浮くような美少女に僕は内心ドキドキしていたけれど、さすがに隣だし挨拶位はしとかなきゃいけないなというごく普通の考えだった。

 しかし、後に知ったことがその行為はこの学校の人にとって地雷のプールに腹打ちしにいくようなものであったとのことである。

 だったら最初から教えてよ!!……と思ったけれど時すでに遅かった。

 僕は渡瀬さんに話しかけてしまった。


「「「「「「!?」」」」」」


 その瞬間、クラスに緊張が走る。

 誰もが息を呑み、その様子を見守る中でとある奇跡が起きた。


「……?」


 渡瀬さんが人アレルギーを発症しなかったのだ。


 後天的に人アレルギーを発症してから、今日に至るまで彼女が人アレルギーを発症しなかった人はいないらしい。それは彼女のご両親も含めてだ。


 そう、


 確かに思い返してみたら、初めて会話した時の彼女の様子は不信感と困惑が混ざったような感じがする。

 もしかしたらそれは彼女がクラスメートとの数年ぶりに成立した会話への複雑な感情が引き起こしたものだったかもしれないけれど、結局のところ理由は不明だ。



「あはは!まあみんなが怖がるのもわからなくはないかもね、彼女たまにキツい時もあるし」


「だろ?」


七沢くんは少し苦い顔をして僕の言葉に同意する。


「でもね、七沢くん。これはよくない言い方かもしれないけど、僕は彼女が人アレルギーでよかったと思うんだ」


「はあ?なんでだよ」


さっきとは対照的に「心底ありえねー」という顔をする七沢くん。

表情がコロコロ変わるので、見ていて楽しい。

こういったところも僕が彼を気に入っている所以だ。



「だって、僕だけが彼女を独り占めできるんだからね」



昼休み終了10分前のアナウンスが校内に響く。

最後の僕の言葉は彼に届いたのかわからないけれど、去り際に一言


「ま、ほどほどにしとけな」


と僕に告げ、彼は自分の席に戻っていった。



 3.渡瀬さんと体育の時間


 自習でも給料が発生する教員っていいよなあ……と、ぼんやり思う。

雲一つない青空に登る太陽の光が眩しい。

 そんな絶好の運動日和にも関わらず、体育の授業を休んだ僕は教室にいた。

 テキストを黙々と読み、休んだ分の課題として渡されたプリントの穴を黙々と埋めていく。

 一体この作業に何の意味があるのかなんて深く考えてはいけない気がした。


「……今日の体育はサッカーか」


 無心であるよう努めてきたけれど、結局プリントにも飽きてきたので休憩がてらしばし窓の外を眺めることにした。


「そんなにサッカーがしたいなら、参加すればいいじゃない」


 凛とした声が僕の鼓膜を揺らす。

 そう、体育の授業を休んでいるのは僕だけではない。

 人アレルギーである渡瀬さんもだった。


「別に怪我をしているようにも見えないけれど……一体何故?」


退屈な座学を嫌う一方で、喜び勇んで体育に参加するのが健全な男子高校生という生き物である。その疑問は無理もないよね……あくまで一般的で健全な男子高校生であればだけど。


「実は生まれつき貧血気味なんだ……今日ぐらい日差しが強いと、倒れちゃうかもしれないからさ」


「意外ね、バカな黒木くんのことだからスポーツ得意なのかと思ってたわ」


「スポーツとバカは関係ないよね!?」


「そうね、運動が得意な人間の多くは頭が良いと思うし」


「なおさら関係ないじゃないか!」


「私が思うに、スポーツ得意な人間って地頭は良いのよ。バカ扱いされてしまうのは、単純に勉強していないせいでテストの結果が振るわないからだと思うの」


「語るねぇ」


「プリント終わって暇なのよ、あなたがいるせいで気が散って本も読めないし」


「え!?もう終わったの!?」


僕は驚いた。この学校は1コマ50分。学生たちにこの時間を無駄に使わせるわけにもいかないのか、課題は多めに設定されている。まだ始まって20分も経過していなかったはずだ。


「こんなもの教科書の太字を写すだけじゃない……黒木くんって頭だけじゃなく要領も悪いのね。山にでも住んでいたの?」


今日も渡瀬さんの罵倒はキレッキレだ。


「言いたい放題だなぁ」


「……隙を見せる方が悪いわ」


 そう言って彼女は鞄の中から本を取り出した。

 カバーがかけられているので内容は窺い知れないけれど、随分と分厚そうな本だ。

 そうして彼女は文字の海へと航海に出てしまった。

 まるで、僕の存在など初めからなかったかのように。

 教室の窓から吹き込む風が彼女の黒髪を揺らす。

 こうして見ると彼女の容姿も相まって一枚の絵画のようであり、この光景を独り占めできる自分は実は世界一恵まれている高校生なんじゃないかと思える。

 などとしばし呆然としていたが


「……あ、まずい」


 そうこうしている間に体育の終わりが近づいていた。

 プリントにはまだまだ空白が残っている。


「名残惜しいけど……仕方ない」


 僕は彼女から視線を切り、空欄を埋める作業を再開した。




 4.渡瀬さんと環境委員会


 ホームルームが終わり、他の生徒同様に帰りの支度をする。


「最近物騒だから部活あるやつもあんまり遅くまで残らないようになー」


喧騒に負けず、担任の草野先生の声をあげる。

声楽部の顧問である彼女の声はよく響く。


「センセー、じゃあ委員会の仕事も休みにして下さいよ!」


こういう時、しょうもない野次を飛ばすのは七沢くんの役割だ。


「七沢、おまえのとこは30分もあれば終わるだろ。さっさと行ってこい」


「ケチー」


七沢くんは1R保たずKOされた。いつものプロレスめいたやりとりを終え、ホームルームは終了する。

 生徒の大半は委員会や部活で残るみたいだけど、転校したばかりの僕にはまだ所属する団体はない。

 特にやることもないし、街をぶらつこうかなと駐輪場へと向かう。


「あれ……?」


 着いたのはゴミ捨て場だった。

 どうやら道に迷ってしまったらしい。

 転校して間もないからね、しょうがないね。

 駐輪場を探しがてら、校内散策も悪くないなとしばし歩く。


 そうしてしばらく歩いていると、見覚えのある姿を見かけた。


「おーい!わったらっせさーん!!」


「……?」


 何故かすごい怪訝な顔をされた。

 少し遠かったかもしれないと思い声を張ってみたのだが、どうやら変に思われてしまったらしい。ちゃんと挨拶をしようと小走りで彼女の元に向かう。


「……あぁ、黒木くん。なんであんなところから叫ぶのよ。というか、あの距離でよく私だとわかったわね?」


怪訝な顔をした理由がわかった。……これ、僕だって気づいてなかった顔だな。


「……目がいいからね。そういう渡瀬さんこそ一体こんなところで何してるの?」


「私?……見ての通り、委員会の仕事よ」


 ん、と彼女が示した場所には小屋が1つあった。

 金網から中を除くとそこには


「なるほど……渡瀬さんは生き物係だったんだね!」


中にはうさぎが4羽、鶏が3羽いた。

食事が終わったのかみんな思い思いに過ごしている。


「生き物係って言うとそこはかとなく小学生感があるのだけど……環境委員会ね、正式名称は」


「へぇ〜生き物、好きなの?」


「別に好きってわけじゃないわ。私にできる仕事がこれだけだったってだけ」


確かに人アレルギーである彼女が入れる委員会は限られている。極力人と関わらず、それでいて学校に貢献できる委員会として環境委員会はピッタリだ。

しかしそんな言葉と裏腹に、彼女は僕と話している時でも小屋の中から目を離さない。


「なるほどね、動物は平気なんだ?」


「人間に比べたらマシってだけよ。……むしろ、少し苦手だわ」


「ふうん……」


 そう言う彼女の表情から、僕は違和感を覚えた。

 声をかける前……つまり渡瀬さんが僕に気付く前、小屋の動物たちの世話する彼女の姿を見ていた。

 動物たちは世話をする彼女のことなどお構いなしに、それぞれ独自の行動をとっていた。寝ているもの、餌を食べているもの、用を足すもの……などなど。しかし、そんな動物たちの住処を整え、餌を準備する。歳をとり、移動するのが億劫になっている子を移動させ、口元まで餌を持っていくなど彼女は甲斐甲斐しく彼らの世話をしていたと思う。

 それは、とても動物が苦手な人のようには見えなかった。


「なんで苦手か当てようか?ずばり……過去にペット絡みで辛いことがあったんじゃない?」


「バーナム効果すれすれのインチキ占いはやめなさい……あながちハズレでもないのが余計にタチ悪いわ」


「えへへ……」


「だから、褒めてないってば。……昔、犬を飼ってたの」



 渡瀬さんは昔、大型犬を飼っていたらしい。

 動物には人アレルギーが発症しないと知った両親が、せめてと思ってプレゼントしたそうだ。

 名はアレス、渡瀬さんの友として、彼女を守る騎士として彼は健やかに成長していった。

 しかし、その生涯は短かった。

 散歩中、渡瀬さんに近づいてきた人間をアレスは噛んだのだ。

 その騒動で人アレルギーを発症した渡瀬さんは数日間寝込んでしまう。

 そして体調が戻った彼女が聞いたのは


「気づいた時にはもう、アレスの存在は無かったことにされていたわ」


「それは……何というか」


居た堪れない?この状況で彼女にかけられる言葉は何だろう?

この話には悪者がいない。いるのは被害者だけだ。

思いがけない話に、僕は言葉を詰まらせてしまう。


「慰めは余計だから……仕方ないわ、人間の手を噛んだ狂犬を野放しにするわけにはいかないもの」


そう語る彼女の声からは感情を読み取ることができない。

これは既に終わってしまった物語で、他人である僕には何もすることはできない。

だけど


「そうだね。……あ、でも、もしかしてさ」


「……?」


「渡瀬さんは僕にはアレルギーが出ないでしょ?だったらもしかしたら僕ってアレスの生まれ変わりだったり……?」


 などと嘯いてみた。

 重くなってしまった空気を和ます冗談……にしてはちょっとブラックすぎたかな?


「アレスはゴールデンレトリーバーよ。あなたと毛の色からして違うじゃない」


 そんなことは意にも介さずピシャリ、と僕の戯言を一蹴。さらに


「それにアレスはもっと賢かったわ。バカなこと行ってる暇があったら遺伝子レベルから出直してきなさい」


 しっかりトドメを刺すことも忘れなかった。

 いつもの渡瀬さんである。

 どうやら僕の心配は杞憂だったようだ。



 5.渡瀬さんと夜の道


 校門を出た時にはもう既に日が暮れていた。

 委員会の仕事は決して激務なわけではなく、それ自体は30分くらいで終わったのだけれど。飼育小屋の前で黒木くんに話したことがあれから私の中にずっと残っていた。


 なぜあんな話を他人にしてしまったのか。


 私は今まで他人と接した経験に乏しく、実の両親でさえも信用はしてこなかった。

 そんな私にとってアレスは唯一とも呼べる大切な存在で、その内容は軽々しく他人に話せることでもないはずだった。


 黒木修一が転校してきてからそろそろ1月が経つ。


 転校生の彼が私の事情を知らないのは当然なので、最初に話しかけられたこと自体は別に驚きはしなかった。

 自身の容姿が異性の目を惹くものであることは自覚していたし、隣になった人間に挨拶をするのは人として当然の真理だろう。

 けれど彼と正面から対峙した時、私は不覚にも驚いてしまった。

 それは人アレルギーが発症しなかったことはもちろんのこと、彼の持つそのに。

 普通に見れば、彼について特筆すべき点はそこまでない。

 少し癖っ毛気味の黒髪にそこそこ整った顔のパーツ、体の線は細く、服から覗く肌は色白で身長は男子高校生の平均くらい。

 唯一人を惹きつけるものがあるとすればその目だろうか?虹彩の色素がやや薄いため、日本人離れをしている。そして話しかけられた人間はわかると思うが、その瞳には力強さと同時に一種の妖気のようなものを孕んでいるように錯覚してしまう。

 そんな彼だからなのか転校して3日が経った頃にはすっかりクラスに馴染んでしまい、人アレルギーも発症しないため教員からは渡瀬真宵係として面倒ごとを押し付けられているのだった。いい迷惑だ。



 考え事をしながら歩いていると、すっかり夜も更けている。

 街灯が少なくなっていくにつれ、月の光が降り注ぐ。

 そういえば今夜は満月だったか、と思ったその時だった。



「……rrr」



 何か、聞こえた気がした。



「…………Ahhhrrrr…………」



 学校で習った語彙ではおよそ形容し難いの声


『最近物騒だから部活あるやつもあんまり遅くまで残らないようになー』


 こんなタイミングで担任の声が再生される。

 ……いや、こんなタイミングだからという思考を私は意図的に排除しようとする。



「Ahhhhrrrrrr……hhhrrr……」



 そしては着々とこちらに近づきつつある。

 振り向いて正体を確認することもなく。

 私は夜道を駆け出した。



「…………はぁ……っ!!……は……っ!……くっ……」



 私は今猛烈に後悔していた。

 人アレルギーだからといって、運動をしなくてもよい理由にはならない。

 たかが体育の授業……しかし実はそれは運動の不足しがちな学校生活において、強制的に身体を動かし、体力の維持につながる数少ない時間だったのだ。それらをサボってきたツケがこんな時に回ってきた。


 得体の知れないものに付け回され、全力疾走を開始してから数分、早くも私の体力は底をつきそうになっていた。

 本当に自慢ではないのだが、私の足は決して早くはない。

 なけなしの全力疾走も後方の脅威を突き放すことは叶わず、むしろその距離は縮まりつつあった。


「AAAAAAHHHHHHHHHHHH!!!!!!!!」


 声が聞こえ、私の意識は飛んだ。




「…………っ……」


 眩しいほどの月の光が私の意識を呼び戻した。

 何があったのかわからない。なんとか命だけは無事らしい。

 身体の無事を確認し、辺りを見回す。

 気づけば人の気配は消え失せ、砕かれた道路の破片と思わしきものが周囲に飛び散っていた。

 推察するに嫌な気配を察した私は咄嗟に飛んで躱せたのは良かったものの、その後無様な着地をかましたらしい。


「AAAhhhhhh…………」


 ここで重要なのが問題は一時的に先送りされただけであり、決して回避できたわけではないということ。

 件の相手は今も私の目の前で命を刈り取ろうと待ち構えている。

 そしてそのは月の光に照らされ、ようやくその姿を現した。


 端的に言えば、それは二足歩行する巨大な狼だった。


 全身は分厚い金の毛で覆われ、その瞳は狂気で真っ赤に染まっている。

 歯茎からは鋭い牙が覗き、伸び切った鋭い爪は触れただけでひとたまりもないだろう。

 およそファンタジーでしか見かけないそんな怪物が目の前に立っていて、今にも私を殺そうと体勢を整えている。

 正直……逃げるどころか発狂しないことで精一杯だった。

 恐怖で足がすくむというのはきっとこういう感覚なのだろう。

 私はその場から一歩も動ける自信はなく


「GggggAAAAAAAAAARRRRRRRRRR!!!!!!」


 再び脅威が向かってくる。

 今度こそ死んだな……と、考えることを放棄し、私は目を瞑った。




「………………」


 しかし終わりはなかなか訪れなかった。

 それとも痛みも感じる間もなく私は死んでしまったのだろうか?

 肌を撫でる夜風の感触と、目を刺激する月の光が私に生を実感させる。

 恐る恐る目を開けると……


「こんばんは!今夜はいい月だね、渡瀬さん」


 そこには見覚えのある学ラン姿と、爽やかな笑顔を見せるクラスメイトの姿があった。


「黒木くん……なの?あなた、一体」


 どうして、と言う前に


「悪いけど話は後でね!……まずは」


 私のことを庇うように、黒木くんは目の前の脅威と対峙する。


「躾のなってないわんちゃんにはお仕置きしないと」


 学校で見る時と変わらない笑顔で彼はそう言い放った。



「ーーーーーーーーーーーーーーッッッ!!」


 理性を失った巨大な質量が、私たちに迫る。


「黒木くん!!」


 私はその場から動くこともできず、情けない声をあげることしかできない。

 あんな化け物にかかれば、細枝のような黒木くんなどひとたまりもないだろう。

 狼はその鋭い爪で黒木くんに襲いかかる。

 一瞬で胴体は分離され、私のクラスメイトは絶命する……


「ちょっと、勝手に殺さないでほしいなあ!」


 彼はその一撃を片手で受け止めていた。まるで、質量など感じさせぬように。

 そして


「……よっと!!」


 もう片方の手で掌底を繰り出す。

 狼は衝撃を殺しきれず、後方に吹っ飛ばされた。


「な……っ!?」


 驚きを隠しきれない。

 道路を砕く巨大狼に遭遇しただけでも私の精神は限界だったのに、つい数時間前まで談笑していたクラスメイトがそれを軽々吹き飛ばしてしまったのだ。

 数ヶ月前までは静かで、穏やかだった私の日常はいったいどこに消えてしまったのだろう?……などと、半ば思考が現実逃避をしそうになる。


「あー……結構飛んじゃったねえ、追いかけるの面倒だなあ」


「黒木くん!あなた大丈夫なの!?」


「僕を心配してくれる渡瀬さんはレアだね、街の散策を途中で切り上げてまで来た甲斐があったよ」


「聞きたいことが山ほどあるわ、質問に答えなさい」


「そしてこんな状況でも相変わらずのようで何より。……いいよ!こんなところを見られたんじゃあ流石に誤魔化しようもないしね」



 黒木修一《くろきしゅういち》は吸血鬼である。

 正確に言えば吸血鬼である父と、人間の母から生まれた半吸血鬼らしい。

 数々の創作に登場し、世界的に有名なその存在を目の前にしても彼の姿は普通の人間とそう大差はなかった。

 しかし、そんなありえないはずの告白で私は納得してしまう。

 なぜなら彼が吸血鬼という超常の存在であることで、ここ数日彼に抱いていた違和感のようなものが全て説明できてしまうからだ。


 思えば、この1ヶ月彼は体育に参加しようとしなかった。

 降り注ぐ太陽の光を避けようとする傾向はあの有名な逸話を連想させる。


 思えば、彼の目は異常だった。

 どんなに視力が良いからといって、果たしてあんな距離から私の存在をはっきりと認知できるだろうか?


 そしてこれは関係があるのかはわからないが、初めて話しかけられた時から彼の視線は私ではなく、に向けられていた気がするのだ。


 今挙げられたこれらの特徴はあくまで私の主観であり、世の中は広いのでもしかしたらそういった人間がいたとしても決しておかしくはない。側から見ればただの言いがかりであるとも言える……だけど


 彼と接していても


 これは彼を人間ではないと認定するにあたり、最大の根拠と言えるのではないだろうか?

 人アレルギーの抗原とならない稀有な人間説もまだ捨てきれなかった。しかし、先ほど狼を圧倒してみせた怪力を見て、その考えは見事に霧散した。

 あんな人間……いてたまるか。

 たとえいたとしても、それはもはや人間とは呼べないだろう。

 しかしここで私はある考えに思い至ってしまった。


「まさか黒木くん……あなたが今まで私と接していたのは」


 そう……親愛なるクラスメイトとしてではなく、もしかしたらこの男は私に接していたのではないだろうか?

 私がクラスの中でも浮いている存在であることは周知の事実だ。

 そんな私と自分だけが仲を深めることができる……

 そんな状況は獲物渡瀬真宵を狙う狩人黒木修一にとって絶好の狩場と言えるだろう。


「あはは……確かにそう思われても仕方ないよね。実際、渡瀬さん美味しそうだし」


「……」


「すっごい怖い顔してる!?待って待って!信じてもらえるかわからないけど、それは誤解だって!」


「へえ……そうなの」


「完全に信じてないなあ……ま、無理もないか。じゃあ時間もないから一つだけ」


「……?何よ」



「君はアレスの死体を確認したか?」



「は……?」


 脈絡のない突然の質問に、私の思考は止まりかける。

 そんな沈黙を破るように


 ーーーーーーーーーーーーーーーーッッッッッッッッッ!!!!


 前方から衝撃。

 私は吹き飛ばされないよう咄嗟に姿勢を低くする。

 見れば、黒木くんの右手にはカーブミラーが握られていた。


「まさか……」


「地面から生えていたのをひっこ抜いて投げてきたみたいだ。乱暴なことするなあ」


「あなた……随分と余裕なのね」


「怒った渡瀬さんに比べれば、あんなのポメラニアンみたいなもんだよ」


「あなたの腐った審美眼はいずれ修正してやるわ……」


「わっ……渡瀬さん!?女の子がしちゃいけない顔してるよ!?」


「そんなことより前見て!」


「ん?……あ」


 黒木くんの側面から鋭い爪の一閃が来る。

 気づいた頃には彼の姿が私の視界から消えていた。


「黒木くん……っ!!」


 先ほどまで余裕綽々の態度をとっていた黒木くんだったが、狼の一撃によって見事に瞬殺されてしまった。

 次は私の番かと身構えたけれど、一向に目の前の怪物が動く気配はない。

 それどころか先ほどから狼狽えているように見える。


「……どうして……?」


 次の瞬間

 狼の背後に見慣れた学生服が現れる。

 そして


「おいたがすぎるよ……っ!!」


 彼の口が大きく開き、形の良い犬歯が剥き出しになる。

 そのまま彼は狼の首筋に思いっきり歯を突き立てた。


「AAAAAAHHHHHHHHHHーーーーーーーーーッッ!!!!」


 断末魔の叫びが夜道に響き渡った。

 黒木くんに噛みつかれた狼の顔は苦痛によって歪み、時折痙攣している。

 よく見れば黒木くんの喉が動いていた。

 あれこそまさしく彼らの名前の由来ともなった行為……吸血行為、なのだろう。

 彼が血を吸うたびに、狼の金色が失われていく。

 心なしか先ほどまで3メートルほどに感じられたその巨躯も一回り、二回りと縮んでいくようであった。そして


「うへぇ……まっず!!……やっぱり犬の血なんてろくなもんじゃないよ」


 狼の首筋から離れた黒木くんは見たことがないくらい苦い顔をしていた。どうやら吸血を終えたらしい。

 しかし、そんな彼の足元に倒れ伏したを見て私は言葉を失ってしまう。


「気づいているか知らないけれど……渡瀬さん、君の人アレルギーはを引き寄せやすい体質だ」


 呆然とする私に対して、黒木くんは言葉を紡ぐ。


「彼らは孤独を好む。人間は群れる生き物だから生涯を通じて目にする機会も少ないけれど……そういった彼らにしてみたら常に孤独を強いられる君のような存在は、付け入る隙の多い格好の獲物なんだろうね」


「そういうあなただって……っ!」


「襲うつもりがあったらとっくにやっているよ。……それは君が一番理解しているんじゃないかな?」


「……そうね」


 悔しいがその通りだ。

 先ほど見せた彼の力があれば、私などひとたまりもないだろう。

 でも、だったら


「じゃあなんで私を助けたのよ……」


「……そんなことより、彼のことはいいの?」


 はぐらかしやがった。

 もちろん忘れていたわけではない。

 心の整理をつけるのに時間が必要だっただけだ。

 そう、私と黒木くんを襲った金狼の正体


「なんで……アレスが……」


 そこには私の前から消えたはずのアレスの姿があった。


「彼の血を吸った時、少しだけ記憶が見えたんだ」


 他人の手を噛んだアレスは両親の判断で処分されたと思っていた。

 しかし、彼は命からがら逃げ出して近くの山に隠れ住んでいたらしい。

 長い間飼育されていた犬にとって山での暮らしは過酷だった。

 せっかく生き延びた命も1年をすぎる頃には既に死にかけだったという。


「それでも彼は生き延びようとした……それがたとえとしてもね。彼は死ぬその寸前まで、君の騎士であろうとしたんだ」


「でも……でも、今のタイミングになって私の前に現れた理由がわからないわ」


「それに関しては僕に非がある。吸血鬼である僕が君に接触したせいだ。彼は大切なご主人に僕という外敵が接近してくるのに気づいた。しかし、満身創痍の彼は山を降りることができなかった……だから」


「だから?」


。己の命と理性を引き換えに金狼と化すことで、君を守ろうとした」


「そんな……そんなことは」


「ありえない……かな?気持ちはわからなくもないよ。だけどさ、僕が吸血鬼という超常的な存在であることは君の存在が既に証明しているじゃないか。ならがいてもおかしくはないんじゃないの?君も言ってたじゃないかってね」


 言いたいことは山ほどあった。

 けれど……悔しかったけれど、そのどれもが意味を成さない気がした。

 それに今はそんなことよりも


「…………hh」


 あれほど恐ろしく見えた金狼の姿は失われ、かつての輝きを失った老犬が横たわっていた。

 贅肉が失われたことであばらが浮き、毛並みは乱れ、爪は無くなっているかあったとしてもそのどれもが割れている。右目は失われ、残った目も白く濁っていた。ずっと同じ体勢でいたせいか床ずれの跡がしばしば見える。

 一目見ただけでもわかる……もう十分だと。

 私はアレスの元で跪き、彼の頭を撫でた。


「バカねあなたは……でも……ありがとう」


 尻尾がかすかに揺れる。

 それを最後にアレスは二度と動かなくなった。




「さて、そこで帰ろうとしている黒木くん」


「え!?……や、やだなぁ〜女の子1人置いて帰るわけないじゃないか!」


「あなた本当嘘つくの下手よね、吸血鬼向いてないわ」


「それ吸血鬼関係なくない!?」


「まあそんなことはどうでもいいわ。あなたはまだ肝心なことを答えてないじゃない」


「肝心なこと……?なんだっけ?」


「どうして私を助けようとしたのよ?あなたにとっては私なんて所詮はただの食料でしょうが」


「ひどいなあ……アレスは死んだ時点で既に理性を失っていたんだ。たぶん、君と僕の区別もついていなかったと思う」


「それも聞きたかったけれど……私が聞きたいのはそういうことじゃないわ」


「それと……」


「……?」


「渡瀬さんが死んじゃったら、明日の数学の宿題を見てくれる相手がいなくなっちゃうじゃない?それは困るなーって」


「……はぁ?」


 私は生まれてこの方誰かに期待をしたことがない。

 期待とは裏切られることはあっても、上回ることは決してないからだ。

 しかしこの時、不覚にも私はこの男に期待をしてしまっていた。

 どうやら本当のバカとはこんな男に期待をしかけていた自分だったのかも知れない。


「それに君はもう僕のものだから。安心して!君が死ぬまで僕が守ってあげる!その代わり……死ぬ前でいいから僕に血を吸わせてね!」


「な……っ!?」


 ふざけんな、と言おうとした時にはもう彼の姿は消えていた。

 夜道に女子を放置するなどなかなか良い性格をしている。


「まったく……」


 理由はどうあれ私を助け、こうしてアレスと再会できたのも彼のおかげだった。

 仕方がないので明日もあの頭の緩い吸血鬼の宿題を見てあげるとしよう。


 いつも通り、親愛なる隣人として。

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人アレルギーの渡瀬さん 理科 実 @minoru-kotoshina

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