おいでよ不帰島

低田出なお

おいでよ不帰島

 ここは不帰かえらず島。真っ赤な空と黄金の砂浜、そして、ちょっと変わったしきたりが残る不思議な島。

 みんなもおいでよ不帰島。だけどルールは守ろうね。





    ・・・





 男は後悔していた。なぜこんな船に乗ってしまったのだろう。

 遠い親戚の葬式があるからと乗った船は、不帰島という来たこともない島へ向かっている。乗る船を間違えたのだ。親族からの電話でそのミスに気が付いた時には、もう島のシルエットが見えるほど経ってからの事である。

 乗っているのはかなり小さなフェリーだ。一時、無理を押して引き返してもらおうとお願いしようとも考えた。しかし客席には、自分以外の乗船客もまばらにいる。そんな我儘は言う度胸は無かった。

 とはいえ、元より会ったこともない親戚の葬式である。親族も強くは責め立てるようなこともなかった。男はもう割り切って、見知らぬ島でちょっとしたバカンスとしゃれ込もうじゃないか、そう思うことにしたのだ。

 しかし、そうはいかなくなってきた。妙に天候がおかしい。なんだか雲行きが怪しいなと思ったのも束の間、空が見る見るうちに赤く染まったのだ。夕焼けの赤とは違う。まるでインクをぶちまけたような、きつい赤だった。

 言いようのない不安感が心を包んでいた。そんなときだった。

「ねえお兄さん」

「はい!?」

 思案を巡らせているときにいきなり話しかけられ、大きな声が出てしまう。振り向くと、少し離れた位置に座っていた女性が隣に近づいてきていた。話しかけてきた初老の女性は驚き、目を丸く見開いてから苦笑した。

「ごめんなさいねえ、いきなり話しかけて」

「あ、あぁ、いえ、ちょっと考え事をしてまして、すいません」

「いいのよお、謝らなくったって」

 女性は楽しそうにうふふと笑う。なぜか、自分の不安を悟られたくなかった。

「この船、普段は島で生まれた人が帰省でしか乗らないから。大抵乗ってる人なんて、みんな知ってる人なのよ」

「はあ」

「でもお兄さん、初めて見る顔よ。あの島のヒトじゃないでしょう?」

「まあ、そうですね」

「だからね、つい話しかけちゃったのよ。もぉ、船の中って退屈でしょう?」

「ははは…」

 矢継ぎ早に走る言葉に困惑する。今時こんなにおしゃべりな人も珍しい。

 女性は久しぶりの帰省なのだと楽しそうに語った。そして、そこから自身の身の上話が高らかに続いた。大学進学を気に上京し、そこで出会った人の結婚して…といった具合だった。

 その口から好き勝手にあふれる言葉の濁流を受けながら、男は申し訳程度の相槌を打つことしかできなかった。

 ひとしきり話し終えると満足したのかこちらへ興味を戻し、女性は小さく首を傾げながら尋ねてきた。

「そういえばお兄さんは、何しにあの島へ行くの?」

「…あー」

 男は視線をずらし、言葉に詰まるのをごまかした。いい年して乗る船を間違えました、とはとても言えなかった。羞恥心とプライドが邪魔をしていた。しかし長い沈黙も、それはそれでなんだか怪しい人間のようで嫌である。男はなんとか誤魔化しの言葉を考えた。

「…ちょっと有給が取れたので、気分転換に、バカンスでも、と」

「…バカンス?」

 男の言葉に女性は先ほどまでの笑顔を引っ込め、怪訝な表情になる。そして、それは先ほどとは違う、どこかよそよそしさのあるこわばった笑みへと変わった。

「うん、うん、バカンスね、いいと思うわ私も」

「え、えっと」

「そんなに見るところはないかもしれないけどのどかだしいいところよあの島は」

 彼女の様子は、明らかにおかしくなっていた。目は不自然に泳ぎ、周囲を見渡すように首を動かす。バカンスといったことがそれほど不自然だったのだろうか。

「あ、ああ! そうだわ、おばさん、ちょっとお手洗い行ってくるわね! ほんと、ごめんなさいね話し込んじゃって」

「え? あ、いえ…」

 女性はこちらの言葉も聞かずに立ち上がり、そそくさと後ろへと小走りで掛けていく。そしてそのまま客室の出入口から通路へと出て行ってしまった。

 話しかけられる前にあった不安感は薄くなっていた。しかし、それは全く別の種類の不安に上塗りされたからに過ぎないことは明白だった。

「なんだったんだ?」

 思わずこぼれた言葉は、やけに客室に響いた気がした。





    ・・・





 島に上陸しての感想は、案外普通の島だな、だった。小さな船がぽつぽつと停泊し、温暖な空気に包まれている。見上げれば中々の高さの山が見え、手入れのされた山肌の側には民家と思わしき建物が見えた。目の端に映る、赤い空さえなければ、のどかな離島といった趣である。

 男は意外にも高揚した気持ちで背負っていたリュックサックからスマートフォンを取り出し、写真を撮った。そして撮影した画像をSNSにアップしようとして異変に気が付く。画面の端に小さく浮かぶ圏外の文字。気分は再び下向きになった。

 とはいえ、船内にいた時に比べれば幾らか心持ちは改善している。出来る限り前向きに行こうではないか。いざ観光としゃれこもう。

 スマートフォンが役に立たない以上、この島の情報は現地で仕入れる他ない。見たところ観光に力を入れていないらしく、地図の看板などは立っていない。

 男は周囲に島の住人はいないかと辺りを見渡す。自分以外の乗客は先ほどの女性は見当たらず、他の乗客もすでに散り散りに島の奥へと向かってしまっていて、話しかけられる人はいないようだった。

 仕方がない。取り敢えず歩いて、何かあるか散策してみよう。男は思い立つと、海沿いに立つ堤防に沿って歩き始めた。

 潮風を浴びながらの徒歩での移動は、何とも言えない複雑さだった。歩いている道はしっかりと舗装されていて、歩いていて苦はない。ただ、左手に広がる林は人の手が加わっていないのか、些か鬱蒼としている。林の中から、得体の知れない「何か」が飛び出して来るのではないか。そんな妄想が頭に浮かんだ。

 その林と穏やかな波の音、そして頭上に広がる赤い空に挟まれていると、ゆったりとした離島の雰囲気を不安感に上塗りされたような、そんな気分に苛まれる。

 男は早く人間に会いたくなった。このままでは、自分がこの島でひとりぼっちなのではないかという感覚が、本当になってしまう気がした。

 その時だ。生い茂る林の向こう側に、人工物の白い壁がちらと見えた。それもかなり大きい。男は無意識のうちに小走りで近づいた。

「教会?」

 眼前に現れたのは、大きな教会だった。とりわけ派手な装飾があるわけではないが、左右対称で手入れの行き届いたその外観はこの島の雰囲気とは噛み合っていない。それ故に、殊更その存在感は厳粛で、異質なものに見えた。

 男は恐る恐る、しかし不思議と吸い寄せられるように、教会の扉へと近づいた。テレビでしか見たことのない、見上げるほど背の高い両開きの扉である。触れてみると木製のようで、木の感触が手のひらに伝わる。にもかかわらず扉はひんやりとしていて、まるで金属を触れているかのようだった。

「入っても大丈夫、なのか…?」

 ぐいと力を入れる。扉はそれほどの抵抗もなく動き、音も立てずにゆっくりと開かれた。男は開かれた扉と扉の透き間を縫うように、体を教会に滑り込ませた。

 教会の中に入ると、そこには真っ赤な空間が広がっていた。

「うわっ」

 思わずに声が漏れる。まるで教会の内壁が血に濡れているかのように見え、反射的に扉へと飛び退いた。

 一度体を外へ戻し、再び建物の中へ視線を向ける。改めて見てみると、真っ赤な内装は血ではなかった。入口から真正面に伸びる導線の先に、大きなステンドグラスが聳え立っていたのだ。ステンドグラスは外の真っ赤な空からの光を取り込み、教会内を彩っていた。

「御用の方ですか?」

「ぅわっ!?」

 後ろから声を掛けられてつんのめる。そのままバランスを崩し、教会の中に倒れこんだ。振り返ると、如何にも宗教的な出で立ちをした男性が立っていた。紺色の衣服は外から見た教会同様、異質な雰囲気を感じさせた。

「大丈夫ですか?」

「あ、あぁ、大丈夫です」

「そうですか。でしたら良かったです」

 にっこりと笑う男性にこちらも苦笑いを浮かべる。人の目のまえで思いっきり倒れてしまった事実は、体温を上げてしまう理由には十分だった。

 誤魔化す用に話題を振る。

「えっと、この教会の人ですか?」

「はい、この教会の牧師をさせて頂いております」

「あー、牧師。牧師ですか。」

 しまった、振る話題に失敗した。男は心の中で舌打ちをした。この男性が牧師という地位であるのは問題ない。ただ、宗教に明るくない男にはこの牧師という役職がどういう宗教を指すのか、明確な判断ができないでいた。同じ宗教であっても、信仰によって牧師と読んだり、神父と読んだりする、と聞いたことがある。宗教の話題で間違えてしまったら何を言われるか、想像もしたくなかった。

「あーと、あ、あの! 俺観光に来たんですよ! なんか、いいところとかないですか!」

「観光に?」

 牧師は目を細めた。そして数秒目を閉じてから、再び笑みを浮かべた。

「でしたら厳霊様ごんりょうさまの砂浜はいかがでしょうか」

「厳霊様?」

「この教会で祀られている神様のことです」 

「え」

 つい振り返り教会内部を見渡す。ステンドグラスからの光に照らされた教会は西洋を思わせる。とても厳霊様とやらを祀っているようには見えない。

 どうやら自分はいらない勘違いをしていたらしい。

「厳霊様、ですか。すみません初めて聞く神様です。どんな神様なんですか?」

「厳霊様はこの島を管理されている神様です。この島にあるものは全て、厳霊様にもたらされたとされています」

「へえー、そうなんですか。島の方もよくお祈りとかに来たりするんですか」

「いえ、島のお年寄りくらいしかまともに信仰していただいていませんし、そういう方はここまで一人で見えることはほぼないですね。強いて言えば年末年始に初詣くらいです」

「あ、はあ」

「あと厄年の時とか」

「はあ、っはは」

 男はもうここから立ち去りたくなった。

「その砂浜も、厳霊様によってもたらされたとされています」

「あ、そうなんですね。いいですね、どのあたりにあるんですか」

 もう今日は厄日だ。もうその砂浜だけみてもう帰ろう。男が必死に愛想笑いを張り付けながら問いかけると、牧師は口頭で簡単な道のりを教えてくれた。どうやら今歩いてきた道の途中で曲がり、海辺に降りたところだという。そんな道は記憶にはなかったが、今は質問するのも面倒だった。

「ありがとうございました。助かります」

「待ってください」

 そそくさと立ち去ろうとすると、牧師がずいと立ちはだかった。厳かな空気を纏う牧師の圧に押されて一歩後退る。

「な、なんです」

「砂浜に行くにあたって、一つだけ守っていただきたいしきたりがあるのです」

「しきたり?」

「そう、しきたりです」

 牧師は少し息を吸ってから、にこりと笑っていった。

「砂浜にあったものは、決して持ち帰らないでください」

「…持ち帰るって、どういう」

「そのままの意味です、多少でした手や足についた砂であれば見逃してもらえるでしょうけど、ねえ?」

 細められた目が開かれ、剣呑な視線が体に突き刺さる。まるで学校の先生にイタズラが見つかったときのように、冷や汗が背中に流れた。

「っ分かりました! 失礼します!」

 逃げ出すように牧師を押しのけ、外へ出る。そして、そのまま目一杯走った。





    ・・・





 全力で走ったのはいつ以来だろうか。振り返ると、もう教会は見えなくなっていた。準備運動も無しに走ったため、肩で息をしながら海沿いの柵に手をかける。口の中でねばつく唾液を角に吐き出し、何度も浅い呼吸を繰り返した。

 何もやましいことなどないのに、問い詰められるかのような感覚だった。思っていた教会とは少し違ったが、それでも聖職者ではあるのだろう。一般人には見えない気迫だった。

「もしか、したら、はあ、懺悔室、とか、あるのかも、な…」

 息は中々落ち着かなかったが、じっと動かずに息を吸っていると次第に苦しさは軽くなった。背筋を伸ばし、ゆっくりと深呼吸をすると、心身ともに和らぐ。倦怠感こそあるが、動けないほどではない。これなら移動できるだろう。

 男はリュックサックから飲みかけの炭酸水を口に運びながら周囲を見渡す。教会まで歩いてきた道である。たしか、もう少し戻った先に、海辺に降りられる階段があると牧師は言っていた。心身の疲れはあるが、せめて何か見て帰らなければ今日という一日が無駄だったことになってしまう。男は一度大きく背伸びをし、ずり落ちていたリュックサックを背負いなおして歩き出した。

 元来た道を歩いてみても、景色に目新しさは感じない。それどころか景色の変化も目ぼしい物を感じないため、がむしゃらに走っているうちに違う道に入り込んでしまったのではないか、と不安が掻き立てられる。

「あ」

 そんな不安の中を光が照らすように、道の端に変化が訪れた。生い茂る林の中に小さく脇道があった。獣道というほど荒れてはいないが、かといって最近人の手が加わったとは思えない、行きの道で見落してしまったのも納得の道と言えた。

 男は少し慎重にゆっくりとその脇道に足を踏み出した。確か牧師は、この道を道なりに進んで、その先にあるトンネルを抜けた先にその砂浜が見えると言っていた。海辺に出るのになぜ陸に向かって進むのかと疑問に思っていたが、歩いていくとUターンするような坂道になっており、ぐるりと回って海辺に出られるようになっているようだった。

 しばらく茂みを進んでいくと、牧師の言う通りにトンネルが口を開けていた。車で通るようなトンネルと比べるとかなり小さいものの、大人が頭を下げずとも歩ける高さはある。森の中のトンネルということで心霊的な怖さを感じたが、さして長くないようで向こうの口から光が丸く見えていた。

 トンネルに入ってみると内部はコンクリートで施工されていて、それは足元にも施されていた。厳霊様を祀っているという教会があれだけ立派な佇まいだったのだ。その厳霊様の名を冠する砂浜ともなれば、最低限の整備はしているということなのだろう。

 じゃんなんでここに来るまでの道はあんな林の脇道なのだ。男は鼻を鳴らし、心の中で悪態をつきながら進んでいった。

 目がトンネルの暗闇に慣れてしまい、近づいてくる出口の光が一際まぶしく感じる。出口に着くころには自然と掌を目の上で傘にしていた。

 硬い地面から柔らかさのある土の地面へと足を踏み出す。指の透き間から漏れる光に目を細めて、己の瞳孔が慣れるまでじっと待つ。そして、目が手の傘を必要としなくなった時、トンネルの先の光景が目に飛び込んできた。

「は?」

 男の口から洩れたのは困惑の言葉だった。

 眼前に広がるのは牧師の言った通り砂浜があった。10mもない林の道の向こう側に、砂浜、海、空の三層の重なりが広がっている。

 にもかかわらず、男が困惑したのは、その砂浜がキラキラと光り輝いていたからだ。それも砂に紛れて輝いているのではない。すべての砂が、砂そのものが光を浴び、輝いているのだ。

 気が付けば男はその輝く砂浜へと駆け出していた。道と砂浜の境目にしゃがみ込み、震える手を砂へと押し付ける。

「金だ…砂金だよこれ!」

 掌を握りこみ、掴んだ光る砂を離す。砂は風に乗って輝きながら渦を巻いて登って行った。それを見ると男はどんどん笑顔になっていった。先ほどまでの不安や疲れも消し飛んでしまったかのように気分が高揚し、同じ動作を一心不乱に繰り返した。

 どれほどの時間が経っただろう。男はようやく我に返った。そしてその思考は、どうやってこの砂金を持ち帰ろうという一点に支配された。

 リュックサックを下ろし、そのまま砂を入れようとして思いとどまる。いくら何でも直接入れるのは無い。思いなおし、何か砂金を入れられるものは無いかを探し始める。男が必死にリュックサックの中身をまさぐると、昨日の仕事帰りに寄ったスーパーのレジ袋がクシャクシャに丸まって入っていた。それほど大きいわけではないが、これいっぱいに入れるとなれば結構な額になる。口角が吊り上がるのを感じながら手で掬った砂をレジ袋に入れ、ぱんぱんになるとその口を堅く縛った。

 手に着いた砂を払うと、自身の掌がキラキラと輝いているのに気が付いた。そして同時に牧師の言葉を思い出す。

「持ち帰ってはいけない…」

 男はまばらに光る掌と、レジ袋を見比べ、幾ばくかの時間考え込んだ。しかし、そこから間もなくしてレジ袋をリュックサックの中へと放り込んだ。

 牧師は砂浜から持ち帰るなと言っていたが、砂浜そのものを持ち帰るなとは言っていない。海に遊びに行った人がビーチの砂を幾らか持ち帰ったところで、それを責めるヒトなんてどこにもいない。そもそも、自分はこの島の人間ではないのだ。この現代社会においてしきたりなどという非科学的な風習を律儀に守る義務などどこにもない。大体、こんなに広い砂浜なのだ。少しばかり持って行ったところで厳霊様とやらも何も気にはしないだろう。それにあの牧師も手足の砂くらいならと言っていた。何もやましいことは無いのだ。

 男は自身の考えに納得していた。そして持っていた炭酸水で手と靴に着いた砂を洗い流すと、空のペットボトルをリュックサックへとしまい込んで再びトンネルへと足を向けた。

 帰りの船へと向かう道中は、その日の中で最も気分が高揚していた。見ていて不安感を煽ってきていた赤い空も見慣れてしまったのか、違和感をあまり感じなくなっていた。不本意な離島旅行となってしまったものの、思わぬ収穫となった。港へ向かう足取りは軽く、数十分前まで抱えていた不安感は嘘のように消え去っていた。

 港に着くと、自分が乗ってきた船の側にタオルを頭に巻いた老人が立っていた。老人には見覚えがあった。船を降りるときにあのタオルを首にかけていた。

「すみません」

「おぉん?」

「あの、本土行きの船っていつごろ出ますかね」

「あぁ、もうそろそろ出ようと思っとったところ…んあぁ?」

「な、なんですか」

 突然、老人が怪訝な表情でこちらを見つめて来る。まさかバレた? いや、そんなはずはない。一歩後退りした。

「兄ちゃん、あんたまさか、あの砂浜に行ったのか?」

「はい? 砂浜? 何ですか?」

 咄嗟にすっとぼける。男は心の底から何も知らないという顔をした。

「厳霊様の砂浜だよ」

「ごんりょうさま? だれですか?」

「おれの目は誤魔化しきれないぞ兄ちゃん」

「ちょっと、言い掛かりはやめてもらえますか」

「言い掛かりじゃねえ」

「じゃあ証拠見せて下さいよ。まさか厳霊様のお告げだとでも言わないでしょうね」

「顔に砂着いとるぞ」

「っ!」

 指摘されて頬を拭う。拭った左手の甲が、小さくキラリと光った。視線を上げると、老人は険しい顔でこちらを見ている。

 どうする。正直にリュックを見せるか、それともどうにかして言い訳するか。しかしここで長考してしまうわけにはいかない。何が正しい。どうすれば。

 ぐるぐると回る思考は男の額にじっとりとした汗を滲ませる。男は固まってしまった。

 十数秒の間をおいて、沈黙を破ったのは老人だった。

「まあいいわ」

「…え?」

「兄ちゃんが砂浜に行ってようと、行っていまいと、おれの仕事は船に乗ることだからな。どっちでもいいや」

「…え? あの」

「今日はもうこの島から出てくのは兄ちゃんだけだからな。早く乗りなよ」

「あ、は、はい」

 老人は背を向け、テクテクとフェリーに向かって歩き始めた。さっきまでの気迫はどこへ行ったのか。訳が分からない。男は緊張の切れたように、大きな息を吐いてから、重くなったリュックサックを背負いなおした。





    ・・・





 100円均一で買ったプラケースで、恐る恐るレジ袋の中身を掬う。そのまま閉じようとして閉まらず、指で少し中身を落としてから再び閉じた。しっかりと閉じられていることを確認すると、プラケースを買った時のレジ袋に戻し、砂の入った方のレジ袋を堅く締めた。それぞれをリュックサックを背負いにしまい、恐る恐る背負うと、何事もなかったかのように男子トイレの個室から出ていく。手を洗ってズボンの腰で拭うと、電波が届くようになったスマートフォンを取り出し、地図アプリを起動する。目指すは最寄りの質屋である。

 帰りの船は何事もなかった。てっきり船の中に島の住民が隠れていて襲ってくるのではないかと怯えていたが、そんなことはなく普通に乗った時と同じ港へと下ろされた。心配して損だった。

 しかし、今はそんなことはどうでも良い。目下のミッションはこの砂金の価値を調べることだ。もう用意は済ませたし、後は質屋で鑑定してもらうだけである。男の足取りは軽やかで、スキップでもしたいくらいだった。

 質屋に到着すると、受付で砂金の鑑定は可能かと確認する。受付のメガネの店員は少し考えてから、見てみないと何とも言えない所がありますね、と言い、奥のテーブルへと促してきた。

 男はリュックサックを膝の上で開き、中でレジ袋からプラケースを取り出してから、テーブルに敷かれた正方形のマットの上にゆっくりと置いた。

「こちらなんですが」

「…これは」

 メガネの奥の瞳が大きく見開かれる。男は得意げに鼻を鳴らし、にんまりと笑った。

「触ってみても?」

「どうぞどうぞ」

 もはや気分は大富豪だった。メガネの店員は白い手袋付けると、プラケースを開いた。そして、人差し指を伸ばして砂の表面を軽く触ると、そこに付着した砂をルーペでまじまじと観察し始めた。

「すみません。少しここで待っていていただけますか」

「ええ、構いませんよ」

 慌てて店の奥に消えていく店員を見ながら、男はどっかりと背もたれに身を預けた。そして視線をプラケースへと向ける。

 あの慌てよう、もしかしたらこの砂は、通常の砂金とは違う特別に貴重なものなのかもしれない。そしてこの量であのリアクション。まだリュックサックに残っている量も考えると、これはとんでもない額になるかもしれない。運よく100万に届けば万々歳と思っていたが、どうやらそんな緩い話ではない。何なら仕事を辞めてしまっても問題ないほどの額になるかもしれない。

 その考えを裏付けるように、額に汗を浮かべながら店員が戻ってきて、「もう少し、もう少しだけ待っていただけませんか」と言いに来たときには、男の考えはもはや予想を超え、確信へと変わっていた。上機嫌で店員を落ち着かせ、いくらでも待つことを伝える。もはや、この待ち時間は、人生で最も至福の時間だと言えた。

「はい、ちょっといいかい」

「はい?」

「おじさん、こういう者なんだけど」

「…はい?」

 目の前に突き付けられたのは砂金の買取価格ではなく、警察手帳だった。警察手帳。テレビドラマでしか見たことのない、警察手帳。

「……はあぁ!?」

 男は跳ね上がるように立ち上がった。警察手帳を見せてきた男性の後ろには同じような上着を羽織った人間が二人立っていて、こちらに剣呑な視線を送っている。周りの客は、突然大声を上げた男に困惑や驚きの視線を向けたが男はそれどころではなく、まったく気が付かなかった。

「な、何ですか」

「君、この砂、あの島の厳霊様の砂浜から取って来たでしょ」

「だったらなんだっていうんです」

「ダメだよ、ルールは守らなくっちゃ。牧師さんから話聞いてるはずでしょ?」

 しきたり、という牧師の顔が頭に浮かぶ。

「バカンスに来た観光客が砂を持ち帰ったって通報があってね、お兄さんでしょ?」

 男は自分の顔に血が上っていくのを感じた。そして、大きく声を荒げて言った。

「あんたら、警察なんですよね。仮にも公務員でしょう? このご時世にしきたりだなんだのくだらないもんに縛られてるってんですか? ふざけるのも大概にしてくださいよ!」

 大声を上げた男に後ろの二人が顔を顰める。それを見て男はさらにまくし立てた。

「それともなんですか、もしかしてあなた達もあの島の生まれ? 厳霊様だかなんだか知らないけど、どういう法律があって俺を逮捕できるって言うんですか! ええ!?」

「…お兄さん、あのね」

 警官の言葉には呆れがこもっていた。

「その砂ね、国の指定文化財なの」

「…は?」

「そんでもって、その砂そのものがすごい貴重だから、保護法で島からの持ち出しは法律で禁止されてるの」

「え、は? 文化財?」

「そう、文化財」

「………」

 男の頭に上った血がサーっと下がり、そのまま血の気が引いていった。

「……ち」

「ち?」

「……ち、違う! 知らなかったんだ!」

「あー、そうはいってもね、犯罪だからこれ」

「まってくれ! 話を聞いてくれ! あ、そうだ! あの牧師だ! あの牧師に騙されたんだ!」

 男は後悔した。なぜあんな島に行ってしまったのだろう。

 男の涙を流しながらの声は、両脇を固めた警官たちに聞き流された。





    ・・・





 ここは不帰島。極めて特異な大気の動きよって空が赤く見える現象と、金の含有量が世界的に見ても高い砂浜、そして、それを守るために制定された保護法が残る不思議な島。

 みんなもおいでよ不帰島。だけどルールは守ろうね。

 

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