第二十三話 ありふれた仲直り/ちっともありふれていない治療法

 人はどうしようもなくなった時に、神に縋る。奇跡を頼る。神秘を夢想する。


 平時ではくだらないと、鼻で笑い飛ばしていたものを、大事に大事に抱えこむ。


 何も知らない人間にとって、それは当然のことで、何も変わったことではなくて。


 ならば、あの子は、“ひまわりの魔女”は、何に縋って生きてきたのだろう。奇跡を起こすことができる手が、何の使い物にもならないと思い知らされた時、何を願ってそこに、その場所に立ち続けていたのだろう。


 きっとそれが、その源泉にあるものが、あの日あの時少年が、少女の気持ちの重さと比べれば余りに軽い覚悟で踏み躙ったものなのだ。




 ○




「押し出せ」


 刹那、膨れ上がった力の塊が勢いよく壁を突き破った。


 少年は唖然として、ただ見ていることしかできない。


 これが、魔女の力なのか。


 これが、魔法の力なのか。


 何度目だろう。こう思うのは。


 いつも驚かされてばかりで、やはり自分は、何も知らない。


(綺麗だ)


 これ以外に言葉が出てこない自分が恨めしい。


 辺りに舞う黒い雪のようなものは、窓からの光を反射してキラキラと七色に輝く。黒は全ての色の塊であるというのに、これは一体どういう原理なのか。そんな現実に思いを馳せることさえ無粋に感じる、あまりに幻想的な光景だ。少年は言葉を忘れ、眼前に広がる景色に見入っていた。


 はらはらと舞い降りるそれの中で、少女は悠然と微笑む。


「ざまあみろ」


 何発も魔法を連発していたからか、少女の頬は赤い。息も荒い。ふらふらとした千鳥足で、少年の母の元へ歩み寄るその肩を、少年は支えた。


「ちょ、ちょっと休んだら?」

「どうして少年? 私、今、とても元気よ? このまま四日間徹夜しても問題ないわ」

「自分の顔色を鏡で見てよ……」


 とりあえず、町の宿屋を紹介するか、と少年が算段を立てていると、徐に少女の指先に淡い光が宿り始めた。少女の瞳は虚空を捉えている。


「何してるの?」


 少女は少年の方を見向きもせずに、しかし「上書き」と答えた。


「これで万一魔女に成るしか道がなくなったとしても、最悪の未来は避けられる。調整期間中なら、保護している私は介入できるから」


 意味不明だ。こちらに理解させるつもりなど全くないのかと、思わず突っ込みたくなるような説明だ。しかも本人に自覚がないのだから、余計にタチが悪い。


 少年は母の方をちらりと見た。眠りについたあの日から、何も変わっていないその寝顔は、けれどいつもよりも安らかであるように感じられる。それが己の心の持ちようのせいだと、彼は気付いていた。


(まだ何も終わっていないのに)


 少女がいるだけで、温かいココアを淹れて貰ったような気分になってしまう。ほっとしてしまう。


 そんな少年の心をチクリと刺すのは、罪悪感。貰ってばかりで、何一つ返せていなくて、なのにあろうことか傷付けてしまった。彼女の尊厳を土足で踏み躙った。


 謝って、どうにかなることでは、ないけれど。


「……ごめんなさい」


 気付けば口から、謝罪の言葉が転がり出ていた。


 上書きとやらを終えた少女は、少年の方を振り返り、きょとんと首を傾げる。……出会った当初は、人形のようだと思っていた。立ち姿も、所作も、その口から発せられる言葉でさえも、どこか浮世離れしたもののように感じていた。


 そうではないのだと、その理由が魔女であることとは関係ないのだと、今少年は知っている。


「何についての謝罪? あんまりに頓珍漢なこと言ったら、仕返しに水ぶっかけるわよ」


 空中にいくつか水の球を浮かばせた少女はくすくすと笑った。


「……色々と」


 少女は目を伏せた。彼女の体には、今どのような感情が巡っているのだろう。


 やがてぽつりと、少女が零す。


「……流石に」

「うん」


 暫くしてから、少女が重そうな口を開けた。どのような言葉がぶつけられようとも、受け入れられるという自信は、少年にはなかった。


 しかし怖くとも、恐れを抱いてでも、きちんと向き合わなくてばならない。そうでなければ、後悔してしまうから。罪悪感を抱いたまま、ありがとうと告げなければならなくなるから。


 どこまでも、自己中心的。どこまでも、目の前にいる少女のためなどでは決してない。


 ひととはそういう、仕方のない生き物なのかもしれない。だからいつの時代でも争いが起こる。不都合を押し付け合う。はみ出したものを認めたくなくて、排除する。


「流石に、私も、少年に言われたこと、全部流して許すのは、できない。私は聖人にはなれない。どうしても許せないことも、まだ許せていないことも、沢山、ある」

「……うん」


 けれども、そのどうしようもなく仕方のない部分を否定しては、少なくとも少女は救われなかった。『魔女』は救われなかった。


「でも、私も、良くなかった。どうかしてた。少年は私のことを思ってくれていたのに、気付かなかった。気付かないふりをした」


 だからと、少女は言う。


「私も、ごめんなさい。……それから、ありがとう」


 ──ふわりと。


 少女が嬉しそうに目を細め、ひまわりのように微笑んだ。


 小さな小さなすれ違い。少し喧嘩をして、傷付けあって、それから互いに謝っただけ。仕方のないひととひととの関わりの中で、ありふれたことだ。


 ただそのありふれたことが、どれだけ彼と彼女に影響を及ぼしたのかは計り知れない。


 ──仲違いをしたわけではないのに、仲直りをしようと、少年か少女か、あるいはその両方が告げた。どちらも笑って了承した。


 彼女と自分は、もしかして友達のようなものなのかなと、そうであればいいなと、そうなりたいと、少年は思った。


 少年の頬を、温かい風が撫でた気がした──……。


(……ん? 風?)


 少年はばっと、部屋の窓の方に駆け寄った。


 案の定、窓ガラスは割れていた。


 少年は凄みのある笑顔を浮かべて少女の方を振り返る。


 少女は勢いよく目を逸らした。




 ○




「…………事情は分かった」

「うひょ。はっへはだはわしへふへへない」

「事情が分かっただけだ。……もう少しやりようがあっただろう」


 異端審問が少女の頬を掴んでいた手を離すと、少女はぷいっとそっぽを向いた。


「“毒林檎”作の魔法よ? 破るのに精一杯で、そんな後のことなんて一々考えてられないわ。ちゃんと家が全壊しないようには心掛けてたから、窓ガラスくらい……」


 割れた窓ガラスは少女の魔法により綺麗に修復されていた。ならば何も問題ないだろう、とでも言いたいのか、少女はちらちらと少年と女の方を伺う。異端審問官は腕を組んで仁王立ちしたまま少女を見下ろした。


「その窓ガラスぐらい、で一般人にどれだけ詰め寄られたと思っている。一応病人を治しにきた聖職者という体で来ているんだぞ。治療に窓ガラスの破片を使う聖職者など、今にも昔にも聞いたことがない」


 くどくどと叱る異端審問官の後方では、悪魔が耳を塞いで縮こまっていた。


『意味が分からん。吾輩でも感知できなかった“毒林檎”の精密な魔法を力技で壊しただと……? やはりこの世には化け物が多すぎる……綺麗な世界はどこなのだ……』

「よ、よしよし」


 ぶるぶる震える悪魔の背を、少年が躊躇いながらさすっている。少年の手が触れたところがほんの少し、黒いモヤに変わった。


(……あれ?)


 少年のことを横目で見遣っていた少女は、内心で首を傾げる。これは──。


 しかし、少女の思考の渦の芽は、異端審問官により摘み取られた。


「おい“ひまわり”。聞いているのか」

「えっと、窓枠の話だったかしら」

「まったく……」


 額に手を当て、首を振る異端審問官。どうやら返答を誤ったらしい、と少女が気付くのに数秒もかからなかった。謝罪は必要だろうかと、少女が思案していると、異端審問官は大きなため息を吐いた。


「まあ、この話はこれでいいだろう。それより」


 部屋のベッドに寝かされている少年の母を見て、彼女は目を細めた。


「治せそうなのか?」


 少女は逡巡し、躊躇いながら答える。


「今の世界では、無理。魔女に選ばれた人間は、魔女になるまで目を醒さない」

「……どうするんだ」


 懐疑の視線。心配の声。


 少女は手を握りしめた。


「“薬師”が言ってたでしょう。『世界の法則が揺らいでる』って」

「ああ」

「世界の法則って、何なのでしょうね。私は何度か聞いたことがあるけど、一度も見たことがない。ぼんやりとした意味しか知らない。その正体を知らない。だけど、似たようなモノじゃないかと思ってるのは、何度も見たことがある。使っている。……あなただってそうじゃない? 身をもって、体感したでしょう?」

「…………魔女の魔法か」


 少女は首肯する。


「魔女は神の権能の一部を授かっているとされている。魔女によって授けられた権能は違うけれど、その多くは魔法というモノに変換されてこの世に顕現していて、そうして──まあ例外はいるんだけど──世界を廻してる。“世界の法則”は、名前から推測するに、世界を廻すために作られたもの。


 だったら、神の代行装置としての魔女がいるのなら、魔法があるのなら、どうして“世界の法則”が必要なのか。そして何故揺らいでいるのか。どうして世界の法則が揺らげば、存在の変質が叶うのか。


 ……ねえ、あなたは、神か世界か、どちらが偉いと思う? どちらが先に誕生したと思う?」


 神がいるから世界が生まれたのか。世界があるから神が生まれたのか。それとも、世界と神は、同じ存在なのか。


 異端審問官は黙り込んだまま、目を伏せた。少女の言わんとしていることが伝わったらしい。


 少女は言った。今の世界では少年の母を治すことは叶わないと。


「今、通常では考えられないほど、魔女の席は空いている。だから神の陣営の力も揺らいでいて、そこを世界が埋めようとしている。安定した状態に戻そうとしている。神はそれを許したくなくて、魔女と成る人間を必死に探している。


 つまり、私達は神じゃなくて世界の味方をすればいい。『魔女』のいない世界にすればいい。そうすれば少年の母は元に戻る」


 立派な背反だ。『魔女』としてあるまじき考えだ。ここまで生かしてもらった『恩』を仇で返す行為だ。


 異端審問官は訝しげに訊ねた。


「『魔女』がいなくなれば、お前はどうなるんだ?」

「さぁ?」


 少女はわざとらしく肩をすくめてみせる。己の未来などどうでも良い。それが周りの顔を曇らす可能性を秘めているものであれば尚更、教えるつもりはない。ないのだが、しかし……。


 少女は精一杯悪戯っぽく続けた。


「少年から感謝の言葉を聞くまでは、あなたに首をあげるまでは、死なないようにしようかな」

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