第二十話 誰もがきっと焦がれている

「ただいま」


 少年の予想通り、声はがらんとした室内によく響いた。部屋の中は、少年が留守にしていた間、近くの住民が掃除していてくれていたのだろう、埃っぽくはない。


 よく言えばきちんと整頓された、悪く言えばまったく生活感のない家。こここそが少年の実家だ。


 荷物を玄関に置き、彼は母親の寝室まで駆け、一縷の希望を胸に、勢いよく扉を開けた。


「母さん!」


 備え付けられていた窓からは、暖かい光が差し込んでいる。真っ白なシーツは、少年が出ていった時のまま、皺一つついていなかった。


「…………」


 母親の安らかな寝息に、少年はほっと息をついた。……とりあえず、何も変わっていない。症状が悪化していないだけましだ。


(母さん、眠り姫ごっこには早く飽きてよね)


 母親の安否は分かった。次は近所の人達に、お礼の挨拶をしてこなければならない。


 少年は小さく「いってきます」と口にして家を出た。やはり返事はなかった。





 数時間後。挨拶回りを終えた少年は、一人夕食をとっていた。安いパンに、少しの具が入ったスープ。収入のないこの家に、贅沢する余裕はない。


 次の仕事を一刻も早く探さなければ。少年は脳裏に日雇いをしてくれそうな職を浮かべていく。その日暮らしができればそれでいい。できれば少女にもお礼を贈りたかったが、そんなことができないのは分かりきっている。


(あ、だめだ。手が止まってる)


 今日のところは早く寝てしまおう。帰ってきて、やるべきことが山積みで、今まであの子の所で楽をしていた分、重苦しく感じてしまっているのだ。そんな状態で、いい案が浮かぶとは到底思えない。


 ふと、別れ際の“薬師”の言葉が脳裏に蘇る。




『──人の子。くれぐれも、後悔しないように』




「……っ」


 少年はパンをスープで勢いよく流し込んだ。




 ◯




 ほぼ同時刻。“ひまわりの魔女”一向は途方に暮れていた。


 何を隠そう、宿が見つからないのである。不眠は判断力を鈍らせる。少年の母の容態を見るのに、それは不味い。


「ねえ、教会とかに泊めてもらえないの?」

『そうなのである! 吾輩も早く休みたいのである!』

「……お前達自分の立場を忘れていないか? 一応聖職者の敵である魔女と悪魔だぞ」


 それに今はあそこに行きたくない、と異端審問官は言った。少女は言葉に詰まる。自分の信じていたものを疑うというのは、少女の想像を絶するほど、救いようのないことだ。


 しかし、そうは言ってもいつまでもこうして道端に佇んでいる訳にもいかない。いかにも聖職者といった成人女性と、人形のように見目麗しい少女、それから犬。よく分からないその組み合わせの一向に、注目が集まるのは自明の理だった。


 野宿は不味い。各々そう分かっていたが、解決策は思いつきそうにも無い。


 少女は手を叩いて提案した。


「それなら一度、魔法で森に戻る? 大体の場所は分かったし。それに……あと二週間で、本当に魔女裁判が始まるのかも怪しいしね」


「魔法、か……」


 ぽつりと女が呟く。嫌悪、軽蔑、その他全ての感情を排した、平坦な声だった。


 少女は問うた。

「あなた、まだ私の首が欲しい異端審問官でいるの?」


 女は問い返した。


「お前は、まだ首を差し出す気でいるのか魔女でいるのか?」


 少女は口を噤んだ。それは、彼女がずっと考えないようにしていたことだったからだ。


 “獣遣い”に見せつけられ。“薬師”には諭されて。


 けれど、魔女からの逸脱、それが齎す世界への影響なんて、考えたくもなかったのだ。少女という異物を受け入れ続けてくれた世界に仇なすことなど、したくなかった────否。


 違う。それは建前上の言葉でしかない。


 本当は、ただ。


「また、変わってしまうのが、怖いから」


 零れたのは、紛れもない少女の本音だった。


 『魔女』であり、『魔女』ではない少女の本音だった。


 『魔女』という役目が愛しいわけではない。『魔女』以外になりたくないわけでもない。『魔女』に疲れていないわけでもない。


 少女はただただ、変化を恐れている。


(私は、『魔女』にも『人』にも相応しくない、臆病者だ)


 だからこそ、今与えられている役目に縋っているのだ。今にも千切れそうな紐を、必死で掴んでいるのだ。滑稽である。“毒林檎”にお前は魔女ではないと言われても文句は言えない。


(いっそ、招待状に従って、騙されたふりをして、殺されてしまおうかな)


 “薬師”の言う通り、何でも叶うのなら。世界の法則が揺らいでいるのなら。


 生きるも死ぬも、彼女次第だ。与えられた選択肢は、魔女である少女に渡されたものとは思えないほどに多い。


(でも、まずは)


 少年の母が巻き込まれていないかを確認しなければ。


「……やっぱり、森に戻るのはなし! このまま探しましょう」

『えぇ……吾輩は休みたいのである……』

「悪魔は疲労がたまることはないらしいが?」


 泣き言に冷たく返す異端審問官。少女も同意見だった。精神生命体である悪魔に、疲労なんて概念があるはずがない。悪魔はそんな二人に噛み付くようにきゃんきゃんと吠えた。


『精神的には疲労するわ! お前達は悪魔のことを過大評価しすぎなのだ!』


「でも、あなた疲れるようなことしていた?」

『魔女から妖精になった異物と出会って、どうして平気なふりができる! 寧ろ吾輩は平然としているお前達の感性を疑うわ‼︎』


 ガタガタと震えながら、前足で少女と女を指した悪魔に、悪魔らしい威厳や恐さは何一つ見つからなかった。犬の姿をしている、というのもあるかもしれない。


 だが、それはそれとして。


「あなたは、“薬師”……魔女から逸脱したモノを異物と捉えるのね」

『当たり前だ』


 間髪入れずに、悪魔はそう言った。当たり前だ。アレらは、魂の形が歪んでいる……と。


(アレら、か)


 少女はその言葉を口中で転がした。“獣遣い”や“薬師”の他にも『魔女』から逸脱したモノがいるのか、はたまたこの悪魔が“獣遣い”を知っているのか。


 前者であれば、今のところ問題はない。後者であれば、中々に厄介だ。


(何を企んでいるのやら)


 あるいは、企みに巻き込まれているのやら。


 その瞳に嫌悪の情を滲ませた悪魔は、吐き捨てるように続ける。


『いくら世界の法則が揺らいでいたとしても、『魔女』の役目を放棄し、別の、それも半精神生命体に成るなど、誰にでも思いつくものではない。誰にでも成せる訳ではない。ましてや、人の体を精神生命体のものに作り変えるなど……正気の沙汰とは思えぬ』


 本来あるべきではないもの。悪魔から見ても常識から外れた存在。異端の中の異端。あれらこそ、何よりも先に異端審問で取り除くべき世界の腫瘍なのだと。


(……でも)


 少女だって、世界の権能の一部を預かる魔女であるのなら、勝手なことをしでかすなと、“獣遣い”や“薬師”を詰るべきだった。世界を円滑に回すものであるのなら、彼らを抹消すべきだった。


 けれど、“ひまわり”は。少女は。


 世界よりも、彼らと自分を尊重した。


 ──これは、彼女が恐れていた変化だろうか。


 それとも。


「おい」


 少女の思考は女の声によって遮られた。少女はきょとんと女を見上げる。


「どうしたの?」


 尋ねてみたが、大方の予想はつく。こんなところで悠長に話し出すなと注意されるのだろう。


 しかし女が口にしたのは、注意の言葉ではなかった。


「“ひまわり”。お前、嘘は吐けるな?」

「?」


 脈絡のないその話題に首を傾げた少女の肩を、女が掴んだ。


「わたしに一つ、案がある」


 女の瞳は、爛々と輝いていた。




 ◯




 ──この世界が変わったのは、お前達のせいだ。


 それは、ずっと女の根底に渦巻く言葉。怨嗟の念。


 吐き出す相手と、明確な敵意を持ったもの。


 女はずっと、異端が憎くて憎くて仕方がなかった。


 生まれた時から、女は神を崇めていたから。


 物心ついた頃から、聖書を読んでいたから。


 周りに勧められ、疑うことなく取り込んだ偏った情報により、気が付けば女は神に背く異端を何よりも嫌い、憎み、排除することを信条とする狂信者になっていた。


 これでいいのかと、疑うことさえしなかった。寧ろ、当初はこの職に就けたことにありがたみすら感じていた。


 けれど、不信感を抱いたのは異端審問官として働き始めて、割と直ぐのことだったように感じる。


『この世に蔓延る異端の一切を許すまじ。無辜の民を死んでも守り通せ』


 幾度となる繰り返される誤審。そして冤罪を知った。


 守るべき民に尊敬ではなく畏怖を抱かれていると知った。

 『魔女』や『悪魔』など、実は存在していないのではないかと、何度も疑い、願った。


 度々引き起こされる事件が、異端によるものであると、身をもって実感した。


 その度に、異端を憎んだ。異端の全てを滅したいと、心から思った。


 しかしそれを実行に移すには、女には覚悟が足りていなかった。


 即ち、異端に与する無辜の民をも、滅してしまう、その覚悟。


 異端がいなければ生まれるはずがなかった悲劇を、自らが創り出す覚悟。


 ──こんな世界になってしまったのは、お前達のせいだ。


 やり場のない怒りを、一度も見たことのない異端にぶつけていた。


 きっとこのまま、何も成せぬまま、無力感に打ちひしがれながら一生を終えるのだろうと、悟っていた。諦めていた。




 あの日、あの時、災厄と称されてもおかしくない魔女に、出会うまでは。

『ハハッ……こんなに人間ごときに笑わせられたのは、数百年ぶりか? それなら忘れられても仕方がないか……。それなら、もう一回記録しとけ』




 あの日、あの時、風変わりな魔女に助けられるまでは。

『大丈夫。お前が生きたいと望む限り、そちらの方を向く限り、私が全て何とかしてやる。救ってみせる』




 あの日、あの時、あろうことか魔女にと願い、魔女を擁護する少年と対話するまでは。

『僕は……「魔女」になりたい』




 目の前に立つこの少女は『魔女』である。たったそれだけの理由でしか、少女を罰することができない。


 その事実に気が付いた時、どれほどむしゃくしゃとした想いに駆られたのか、女は自分でも分からない。『異端審問官』という立場に縋るように、『魔女』を憎み続けなければいけない自分に、辟易としたか分からない。


 先ほど変化を恐れていると、“ひまわり”は、生を諦めかけている少女は言った。また変わるのが、怖いのだと。


 女は思わず笑いかけてしまった。


 怖いのはこちらも同じなのだ、と。




『……だから後悔しない、選択を。何千年に一度の節目で、世界の法則が揺らぐ今だから』




 何をしても、後悔は付き纏う。後悔しない選択なんて、そんなものがあるのなら教えて欲しいくらいだ。


 ……であれば、今、女は何をするべきなのか。


 自己の在り方に疑問を抱いたあの日の自分が、こっそりと囁いているような気がした。





「ちょっと待ってちょっと待って! 本当にそれやるの⁉︎」

「我ながらいい案だと思うが、どうだ?」

「どうだって、それは……それは、立派な背信じゃない! あなたは『異端審問官』なのでしょう? それでいいの⁉︎」


 自分が何よりも嫌っていたはずの『魔女』の声。自らの宿敵。


 魔女達が行っていたことを、今も未来も、女はやはり、決して許しはしないだろう。


 ……けれど。


(わたしはもう、あの日に死んでいる)


 “獣遣い”に顔を潰されかけたあの日に。


 “ひまわり”に命を繋ぎ止められたあの日に。


 教義のために死にたくないと思ってしまったあの日に。


 ならば何を、怖がることがあるのだろう。


 信じていたものが失われた今、裏切られていたと分かった今、ありがたいことに女を縛る鎖はもう何もないのだ。


(ならば、自分が正しいと思う道へ)


 善にも悪にも明確な判断基準はないと、とうの昔に知っていたから。


 女は迷わない。神に助けを求める、迷える子羊になりはしない。




 だって女は変わってしまったのだから。

 他ならぬ、『魔女』のせいで!




(わたしが変わってしまったんだ。生まれた時から決めていた生き方を変えたんだ。だからお前も道連れだ、“ひまわり”)


 自分の変化が、この少女にどのような影響を及ぼすのかは測り知れない。少しでも、ほんの一滴でも、彼女の心境に変化を与えられればそれでいい。


 怖がりで、中々自分を変えられない頑固な所がどこか似ている目の前の魔女に、女は笑い掛けた。




「いいんだ。わたしは『異端審問官』なのだから」




 何が異端で何を問いただすのかは、己が決める。


 幼い日に自ら『魔女』を嫌った時のように。


 誇らしげに、そして晴れやかに宣言する女は、今この瞬間、この場の誰よりも自由だった。

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