第十七話 愚者

 初夏に入りかけのこの時期、日の入りはまだ早い。一つ、また一つとランプに火が灯っていく様を、少年はぼうっと見つめる。まだ祭りは始まらない。やがて街中のランタン全てに火が灯った時に初めて、開催の合図である花火が空に放たれるのだ。


 惚けている少年を、店主の中年男が呼んだ。


「あ、坊ちゃんちょっとこっち来てくれるか?」

「どうしたんです?」


 男は今宵、街の子供へ人形劇をするらしい。その際に元ネタとなった自作の絵本を売るのだという。少年は劇の役者──ではなく、絵本を売る売り子としての役割を求められていた。


「ほいこれ。今日の演目。大体この時間内で終わるから、時間見ながら適当に在庫並べておいてくれ」

「あぁ……って三種類もやるんですね」

「当ったり前だろう。今日稼がなくていつ稼ぐんだ」


 男は胸をドンと叩いて笑い、その後すぐに申し訳なさそうに眉を下げた。


「もう一人売り子がいれば、坊ちゃんも出店回ってこいって言えたんだがなぁ」

「気にしないでください」


 少年は手を振ってこたえた。ここまでの道のりまでの恩がある。出店など元より回るつもりはない。これは少年の本心からの言葉だったが、気を使っていると思われたのか、男の眉がさらに下がってしまった。


「そうは言っても……あ、そうだ」


 男は女の子と猫の人形をずいっと少年の近くに持ってきた。


「なら、リハーサルがてら俺の劇を見てくれ。どうせその様子じゃ、俺の絵本読んでないんだろ?」


 少年は戸惑いながら頷く。ここに来るまでずっと、男の手伝いをするか、少女の幸せと己の愚かさについて考えるかしかしてこなかったのだ。他のことなど、それこそ目の前の男が休憩中何をしているのかなど全く見ていなかったし、見ようともしていなかった。


「よし、じゃあ正直な感想を伝えてくれよ」


 そう言って男が始めたのは、よくある英雄譚だった。普通の少女が、ある日特別な力を与えられて、この世の悪である魔女や悪いドラゴン、悪徳領主を懲らしめていくお話。


 単純で、爽快で、だから少年の心には何一つ響かない。


 だって、少年は知っているのだ。


 この世に悪というものは、ほとんどいないのだと。


 悪というのは、嘘か真かに関わらず、一方的に決めつけられてしまうものだと。


「……ありゃ、お気に召さなかった?」


 意外そうに、男は訊ねる。少年は躊躇いながら首を縦に振った。


「それじゃあ……うん。こうしてみようか」


 男はガサゴソともう一体猫の人形を取り出した。


「『実は魔女もドラゴンも、何も悪いことはしていないのに、人から悪く言われているんだにゃん。だからねぇ君。君だけは、あの子達のことをちゃんと知ってくれないかにゃ?』……こうして女の子は魔女やドラゴン達に纏わる誤解をとき、皆が手を取り合って仲良く暮らせる世になりました──と。どうだ?」


 綺麗事だな、と少年は正直にそう思った。しかし、先ほどまでのよりかはましである。


「さっきよりかは、好きかも」


 そうか、と中年男は髭を触りながら少年の頭に手を置いた。それからぐりぐりと撫でる。


「優しい子だなぁ、坊ちゃんは。……でもこれは、人にウケないから、できないんだよなぁ」


 少年は分厚い氷に心が触れられたような気がした。人にウケない。大衆には理解されない。だからあの子達は孤独にならざるをえない。そう暗に言われたように思えて、ぎりっと唇を噛む。


「いや、人にウケないっつぅより、最初に演ったやつの方が簡単だから好まれるっていうだけなんだが」

「え」


 少年の瞳が見開かれる。


「だってそうだろ? 誰だって、今まで隣に住んでいて、仲良くしてたやつが魔女だったりドラゴンだったりしてても、大抵は何事もなかったように過ごそうと思うんじゃないか? 伝承も通説も、こいつには当てはまらない、こいつは危険なやつじゃないって、一度は心の中で思はずだ。歩み寄りたいって」

「……でも、それでも皆、遠ざけたよ。遠ざけて、異質を排除しようとするよ」

「ま、そうかもな。頭ん中にこびりついたものは、どうしたって完全には拭いきれない数百年続くもんなら尚更だ」


 だったら話すだけ無駄じゃないか。話して、傷つくのはいつだってあの子の方だ。再び、少年の瞳が翳る。


「だけどな、坊ちゃん」

「⁉︎」


 男が少年の顎を掴んで目線を合わせる。少年より二回りほど大きいその手は、微かに煙草の匂いがした。


「勘違いしちゃいけねえのは、全員が異端たちの味方にはなれなぇってことだ。あいつらの味方はたった一人かもしれないし、百人かもしれない。こっちを受け入れる準備ができてない異端達に何を言っても味方にはなれねぇ。……でもさ、一人もいないのと一人いるのとでは、大分勝手が違う」


 その一人で救われる異端もいるのだと、男は少々寂しそうに微笑んだ。似たような経験があったのだろうか。


 少年はいつの間にか敬語の抜けた口調で、男に問いかける。


「おじさんは、それならどうして、さっきみたいなお話で劇をやるの?」

「異端達の味方を一人でも多く見つけてやるためさ。坊ちゃんのような、な。俺もやっぱり、人を見捨てたくはないんだわ」


 さあ、開演の準備を始めようか。パンパンと手を叩き、男は小道具やら風船やらを積荷を解いて用意していった。


 少年はしばし呆然とそれを見つめ、我に帰ると籠に絵本をつめていく。さきほどの男の言葉を、何度も復唱した。


(異端が僕らを、受け入れる準備)


 少女が怒ったのは、少年が「可哀想だ」と言ったからではなかったのかもしれない。


(いや、もちろんそれもあるんだろうけど)


 彼女の怒りの本質は、もっと別の所にあったのだ。──そして、彼女は。


(僕のことを、受け入れようとしていたのなら、あの怒りはきっと)


 少年はそう、遅ばせながらに気がついた。




 ◯




 悪魔が告げた通りの方向へ進むこと二キロメートルほど。少女は森から一番近い村の前で立ち止まっていた。


「……本当にこっちの方向であってるのよね?」

『勿論である。吾輩の探知に誤差はあれども百八十度間違っているということはない! 何度言えば分かるのだ‼︎』


 五回目である。少女は顔を引き攣らせながら後ろにいる異端審問官を振り返った。


「なんでこんなに村に人溢れてるの……?」

「もう祝祭の季節だからな。昼からどこの地も賑わう」


 少女はフードを深く被り直した。もし万が一にでも、少女の顔を知っている人間がいれば騒ぎになる。異端審問官も沢山呼ばれてしまうことだろう。そうなれば困るのは少女だけではないのだ。


 少女は悪魔を抱き抱え、こっそりと魔法で悪魔が口を開くことができないようにした。祭りの余興だと思われればそれはそれでいいのだが、悪魔だと露呈した場合どうなることやら。


 人と人の間を縫って移動するが、人目を避けての移動はできない。


「そこのフード被ったお嬢ちゃん! この焼き菓子どうだい? 連れのワンちゃんも食べれるよ!」

「そっちの娘っ子、髪飾り売ってるよー! お一つどうぞ!」

「サンドウィッチいかがー⁉︎」

「え、ちょっ、ちょっと」


 怒涛の勢いで呼び掛けられ、案の定目を白黒とさせる少女。魔女になってからというもの、基本一対一の対話しかしてこなかった彼女は、一度に何人もの人から話し掛けられるという経験が無に等しい。


(早く行かなきゃいけないのに)


 数人に囲まれたままあわあわとしていると、いつの間にか異端審問官と逸れてしまった。


「おいおいこっちの嬢ちゃんには……おい、瞳の色は何色だ?」

「み、緑」

「だったらこっちのイヤリングだろ、なぁ!」


 一言「すみません」だの「急いでいるので」だの発せばいいのに、少女は混乱して村人達の質問に答えることしかできていない。人慣れしていないその態度に、村人達は箱入り娘か何かが生まれて初めて祭りに来たのだと勘違いした。


 ──箱入り娘が初めての祭りに、ここを選んでくれたのだ。


 ──ならば精一杯もてなして、いい思い出にしてやらねば!


 村人達はそんな勘違いから始まった想いのもと一致団結し、少女にあれやこれやと屋台の品を進める。


「ほら、こっちのジュースどうだい? 冷えてて美味しいよー!」

「えっと、じゃあ頂きます」

「こっちのパンはどう? 定番から変わり種まで、何でも揃ってるぞ」

「これとこれとこれ、一つずつ下さい」


 少女は馬鹿正直に勧められた商品を買っていく。金の支払いに慣れていないその様子を見て、お節介な村人が少女に硬貨の種類を教え、自分の店の一押しの一品を勧める。そうこうしていると少女の周りに人集りができ、家に篭っていた村人達も何だ何だと顔を見せた。少女はいつの間にやら身動きが取れなくなっていた。


(どうしよう……!)


 魔法で一掃してしまおうかと物騒な所まで思考が及んだところで、村人の一人が助け舟(本人はそうだと思っていないだろうが)を出した。


「嬢ちゃんはいつまでここにいるんだい?」

「……! あっ、はい。もうすぐにでも発とうかと思ってます。向こうの街に行かなきゃならないので」


 中々人混みの中から抜け出せない少女は、まるで天啓のように降ってきた問い掛けに飛びついて答える。


「あぁ、向こうの街か。明後日……だったかな。ランタンが宙に浮くんだよなぁ。嬢ちゃんもそれを見に行くんだろう?」

「……えぇ、まあ」


 ここで下手に知らないなどと言えば、また質問攻めが始まってしまう。少女はありがとうございましたと村人達に一礼して、小走りでその場を離れた。


(どこにいるんだろう)


 自分と離れている間に、何かトラブルが起きていなければいいのだが。心配しながら辺りを捜索していると、村の出口付近に異端審問官が立っているのを見つけた。変な輩に絡まれている様子は……ない。少女はほっと一息吐いた。


「探したのよ。何もなさそうでよかった」

「……適当に断れば良かったのに、面倒なことをするな、お前も」

「もしかして全部見てたの?」


 少女は買ったパンを異端審問官に一つ手渡しながら、頬を膨らました。どうせなら、助けてくれれば良かったのに。


 少女がじっと異端審問官を見上げ、無言で抗議を続けていると、彼女は面倒臭そうに告げた。


「悪魔との契約があるだろう」

「あぁ、私が一つ変質することってやつ? それがどうしたの?」

「何をもって変質したと定めているのかが分からない以上、お前が不慣れな環境に置いていくのが最善だと判断した。それだけだ。……命を悪魔に喰らわれれば困るからな」


 なるほど、少女の首を求めた彼女らしい回答だ。疑う余地もない。少女は腕に抱えた犬の形の悪魔に話しかける。


「ねぇ、悪魔さん。私何か変質した?」

『むがががが! むぅー‼︎』

「……なんでこいつ苦しそうなんだ?」

「あ、魔法解くの忘れてた」


 暴れる悪魔を放し魔法を解くと、悪魔はまるで親の仇を見るような目つきで少女を睨んだ。


『何っにも変わっておらんぞ! というか変わっておったとしても吾輩に断りもなく魔法をかけた時点で無効だ無効! 礼儀がなってないわ!』


 ぷんすこと怒る悪魔に、少女は残っているパンのうちの温かい方を選んで差し出した。こんなもので彼の機嫌が治るとは思えないが、何もないよりはマシだろう。


「これあげるから機嫌直してよ悪魔さん」

『うむ! 素晴らしい心掛けであるな』


(嘘でしょ)


 恐ろしく早い身の変わりようであった。尻尾を揺らしてパンにがっつく悪魔の姿からは、不機嫌なオーラは全く感じ取れない。これを狙ってわざと怒っていたのなら、さすがは悪魔、としか言いようがないだろう。食えないやつである。思わずため息が漏れた。


 少女は残った一つのパンを咥え、空を見上げる。澄んだ色だ。


(何のためにこいつが私の変質を求めているのかもまだ分からない。信用もできない)


 雲の隙間から太陽が顔を覗かせ、少女は眩しさに目を細めた。まだ心がザワザワと蠢いている。『変化』に拒否反応を示しているのだ。


(……大丈夫。わたしはきっと、変われる)


 不変であるものは、ない。変わらないことを望んでも、誰もがいつか、変わってしまう。楽しかった休日に別れを告げて平日に戻るように、い自分を置いて進んでしまう。“獣遣い”も、異端審問官も……そして少年もそうだった。


 いつだって残ってしまうのは自分で、けれどもう追いつかなければならない。置いていかないでと嘆いても、誰も助けてはくれない。


 一人立ち止まったままでは、誰も声をかけてくれないのだ。誰も自分を、理解してはくれないのだ。


(誰も私のことを理解してくれないのは、昔からだけど)


 それでも少女は少年に、きっと自分のことを理解してほしいと願っていた。だから師が勝手に昔の話をしたことに、彼の見当違いの言葉に、腑が煮え繰り返った。


 どうして分かってくれないの、どうして待ってくれなかったの、と。


(ただの子供ね、私も)


 自嘲の笑みは溢さない。自嘲してお終いは、もうやめだ。魔女になんてなりたくなかった嘆いて日々を過ごすのも、過去を後悔するのも、何の意味もなしてくれないと、随分前から知っていた。


 知っていて、それを変わらないものと、繰り返すものとしたのは少女だ。


(愚者でいい。この世で一番ばかな魔女でいい。だってまずは自分のありのままを知らないと、変われない)


 変質することでどれだけ傷付こうとも、残りの寿命は僅かだ。傷ついても、すぐに終わる命なら、怖いものは何もない。覚悟ももう、できた。


 きっと、大丈夫だ。


 少女はいつものようにざわざわと蠢く感情を消した。心に穴があいたように感じたが、心なしかスッキリとしている。


『……ほら、何も変わっていないではないか』


 強い風が吹き、悪魔の言葉をかき消した。


「何か言った?」

『…………いや、吾輩はこのパンを気に入った! おかわりを所望する!』

「もうないけど」

『う、嘘であろう……?』


 早咲きのひまわりが、風に揺られながら、少女達を見送っていた。

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