第十六話 悪魔のグ=グラシャ=ボラボラ=ラボラボ

『ワンッ、ワンワンッ』

「……何言ってるのか全然分からない」


 少女は必死で何かを伝えようとしている(ように見受けられる)犬を前に、文字通り頭を抱えていた。何分ここ百年の間に出会ったのは“獣遣い”の息が掛かった人の言葉を話す自己主張の強い動物たちだけである。犬のように──いや実際に犬なのだが──ただ吠えられても、動物の心も読めず、また相手の気持ちを推し量るという努力を魔女になってからものの一度もしたことがない少女が、犬である彼(あるいは彼女かもしれない)の真意が掴めないのは当然のことだろう。


(どの犬種なのか……そもそも動物なのか魔獣なのかもまだ分かっていないのに……!)


 じりじりと焦燥が少女の胸を焦がす。早く少年に追い付かなければならないのに!


 犬の好みそうな生肉や骨を出してみても、目の前にいる犬は吠え止まない。むしろ先程までより強く吠え出した。


『ワン、ワンワンワンワンッ‼︎』

「ちょ、ちょっと皆助けて!」


 興味津々で木の陰から覗く自己主張の激しい動物たちに少女が助けを求めると、彼らは揃って首を横に振った。


『無理ナノ』

『ワタシたち、喋レルヨウニナッタカラ、普通ノ子ト話デキナイ』

『困ッタネェ』

『困ッタ困ッタ』


 動物たちは困ったと口々に言う。問題解決を図る気などさらさらないのだろう。この動物たちは少女が本気で助けを求めていると獣の感性で感じない限り、干渉しないのだ。


(本気で困ってるんですけど私……)


 少女は無言で犬をじっと見つめている異端審問官をつついた。こうなれば手間だがもう一度召喚術を行使する他ない。


 天敵同士だとはいえ、二週間も共に過ごせば少しは互いの心が分かるものである。異端審問官はさもありんと頷いた。


「まだボール遊びの類は試してなかったな」


(ち、違うぅぅ)


 二週間経っても分からないものは分からないらしい。待ってましたとボールを取り出し、犬と戯れる女から目を逸らすようにして、少女は空を仰いだ。おそらきれい。


 少女が現実逃避のために雲の動きを観察し始めたその時、再び召喚した犬が声を荒げた。


 ──ただし、今度は人の言葉を発して。


『わ、吾輩をボールなどという安っぽいオモチャでつるとは何事だぁ小娘! 全身ボリボリ喰ってやるぞ‼︎ そっちの魔女もな! さっきから吾輩が分かりやすく犬語で喋っておると言うのにッ‼︎』


 だんだんだんと、犬の形をした喋る何かが地団駄を踏む音だけが静謐な森に響く。“獣遣い”の使役する動物たちも微動だにしない。


『最近のニンゲンは精霊語も妖精語も分からんというから、特別に千ある動物語の中から分かりやすそうなのを選んでやったのに、これさえも分からぬか! 拍子抜けもいいところだわ!』


 フンッと鼻を鳴らす犬に、異端審問官が銃を撃つ。犬は避けなかった。銃弾は犬の体をすり抜け、地面を穿つ。女は犬から目を逸らさずに、少女に嫌味を言った。


「おい、精神生命体だぞこれ」


 なぜ下位の生命体召喚で、上位の生命体である精神生命体が現れたのか。そして異端審問官が発砲したということは、この犬は魔女と同じ類のもの、つまり精霊ではない。


「……魔女、お前よっぽど腕がいいらしいな」

「そうみたいね。何せあんな少量の供物で悪魔なんかを呼び出しちゃったんだもの。大魔女って崇めてくれてもいいわよ」

「はっ誰が」


 嫌味に軽口で返す。警戒は緩めない。


 悪魔とは代償を伴った契約を交わすことにより己の願いを叶えてくれる精神生命体だ。願いの大小により代償も変わり、肉体の一部や魂を要求されることもある。……だが。


(そこは問題じゃない)


 問題なのは、悪魔が世界の理を無視して動ける唯一の存在であるということだ。世界を悪意を持って傷付けることのできる唯一の存在であるということだ。


 悪魔に大陸の半分が壊滅させられたという伝承も残っているほど、危険度は他の生命体とは比べ物にならない。異端審問所が魔女以上に取り締まりを強化している存在が悪魔であるといえば、少しは危険度が伝わるだろうか。


 さらに、悪魔には人間の貴族社会のように階級というものが存在する。王に近付くほど力は強くなり、世界に対する影響力も増す。


(この犬もどきは、どの階級の悪魔なんだ)


『ふむむむ、ここらで一つ、自己紹介といこうじゃないか。小娘! 魔女! とくと刮目するがいい! 我こそは‼︎』


 カッと目を見開き、二本足で立って右前足を胸に当てた犬悪魔。いつどこで攻撃を仕掛けてくるか分からない。一挙一動を見逃してはならないと警戒心を高める少女ら。温和な森には似合わない、ピリついた空気の中、悪魔はこてんと首を傾げた。


『我こそは……ぐ、グラシャ=ボラボラ? ラボラボ? ……みたいな名の大総帥である!』


 それなりの姿をして完璧な名乗りをしていれば、バァンとそれっぽい背景音楽が流れそうなものだが、生憎名乗っているのは小型犬。自分の本名すら覚えていないときた。


 少女は異端審問官に耳打ちする。


「大総帥ってどのくらい強いの?」

「悪魔の中では中の上か中くらいだったような気がするぞ」

「つまり平均よりは強い、と」

「悪魔は下級と上級で天と地ほどの差があるからな。平均と比べても意味もなさないだろう」

「……中央値ないの?」

「本部にはあるかもしれないが、わたしの記憶にはない」

『そこぉ! 何をこそこそとしておるのだ!』

「あ、ごめんなさいね子犬さん」

『子犬さん⁉︎』

「あっと、口が滑った。……ごめんなさいねグ=グラシャ=ボラボラ=ラボラボさん」


 いけない。いくら気の抜けるような言動をしていたとしても、相手は悪魔なのだ。子犬さんなどと呼んで下手に機嫌を損ね戦闘になれば、不利になるのはこちらかもしれないのである。


 悪魔は『ぐ=ぐらしゃ=ぼらぼら=らぼらぼ……ぐ、ぐらしゃぼらぼら……』といつの間にか四足歩行に戻り、縮こまって震えている。


(そんなに自分の名前が好きなの、かな……?)


 ならばその名を呼び続け悪魔をいい気にさせ、少女に有利な条件で契約を結ぶしかあるまい。呼び出したのが悪魔とはいえ、契約次第ではただの狼や魔獣よりも、もっと簡単に少年を追うことができるのかもしれないのだから。


 意を決した少女は、全力で悪魔の名を呼び続けることにした。


「グ=グラシャ=ボラボラ=ラボラボさん。グ=グラシャ=ボラボラ=ラボラボさん。グ=グラシャ=ボラボラ=ラボラボさん。グ=グラシャ=ボラボラ=ラボラボさん。グ=グラシャ=ボラボラ=ラボラボさん。グ=グラシャ=ボラボラ=ラボラボさん。グ=グラシャ──」

『も、もうやめろぉぉぉぉぉぉぉ‼︎』




 ◯




 異端審問官に布で口を塞がれた少女と、間違った名を呼ばれ続け、陸に打ち付けられた魚のように時折ピクピクしている悪魔を森の動物たちはいささか安心したように観察する。


 ──これなら、我らが魔女様もきっと。

 ──ええ、きっと。

 ──ずっと変わらないでいて下さる。

 ──あの方のことも救って下さる。

 ──大丈夫だ。きっと。なにもかも。

 ──我らはここで待つのみ。


 主人は変質しないのだと、存在が変質しても、中身は決して変質することはないと、動物たちは確信し、そうしてまた、主人を待つ。主人に必要とされる時を待つ。


 それまで彼らは、ただ、森の闇の中で。

 主人を待ち続ける。




 ◯




 突然布を口に巻かれた少女は、恨めしげに異端審問官の背を眺める。成長過程で魔女になり、成長が止まってしまった少女と違って、伸び切るところまで伸び切った異端審問官の身長は当然のことながら少女よりも高かった。


 少女はそっと女の陰から悪魔を覗き見る。目が合うと『ひぃぃ』と顔を前足で隠された。悪魔の癖に、少女の何を一体怖がっているのだろうか。


「……おい、また何かしたのか?」

「むー! むーふーんーんい」


 ただ目が合っただけである。


 異端審問官は少女の返答をどう受け取ったのか、彼女の頬を思いっきり抓った。


「ふあっ」


 大して痛くはなかったが、抗議の意味も込めて声を上げる。


(冤罪だ!)


 女は少女の反応をまるっきり無視して、悪魔に銃口を向けて近付いていった。


「おい悪魔。話がある」

『なんだ小娘お前なんぞ吾輩が本来の姿に戻れば──』

「こいつの布を今すぐ取り外すがそれでもいいのか?」

『やめてくださいお願いします』


 少女はなぜ自分がこれ程までこの悪魔に怖がられているのかはさっぱり分からなかったが、格上であるはずの悪魔との交渉を、何の攻撃手段も持っていない異端審問官が有利に進め始めたことに軽く目を見張る。


(ちょっと前なら、異端と話すことすら嫌がっていただろうに)


 良くも悪くも異端審問所の伝統に雁字搦めになっていた彼女が、こうして異端との交渉の火蓋を切ったことに、驚きを禁じ得ない。


(変化……うん。変化だ)


 この変化が何を齎すか予想できない以上、成長とは言えないが、少女はなぜか誇らしかった。


『これはこれは美しいお嬢さん。それで、話というのは──』

「おべっかはやめろ。契約の話に決まっている」


 異端審問官は少女に目配せした。ここから先は異端同士お前達で話せということだろう。少女は魔法を用いて布を外す。


『えっ、ちょっちょっちょっと』

「グ=グラシャ=ボラボラ=ラボラボ。“ひまわりの魔女”と契約を結びましょう」

『……召喚主の望みのままに』


 召喚術で呼び出された悪魔は、よほど力の差がついていない限り、召喚主から持ちかけられた契約を拒否することができない。


 そのため悪魔は頭を使い、より少ない契約でより多くの代償を得ようと召喚主を脅すのだ。


「私が知りたいのは少年と彼の母が住まう家の居場所。代償は……そうね。私の命と魂以外で」

『「少年」と代名詞で言われても、吾輩には分からぬ』

「私の心を読めばいいわ。できるでしょう? 悪魔なのだから」

『チッ』


(こいつ舌打ちしやがった)


 面倒な契約を……というより魔女との契約を嫌がっているのだ。魔女は今現在世界に最も近しいものであり、そういったモノと繋がることで自由を束縛されたと感じるのだろう。少女にとっては知ったことではないが。


『あーはいはいこいつのことか。なるほどぉ……って、ゲッ』

「……何かあったの?」

『「少年」と「少年」の母には直接関係のないことである。よって吾輩がお前に教える義理はない!』

「他の魔女が近くにいるとか?」

『……………………お、教えないのである!』


 悪魔の反応を見るに、他の魔女が近くにいるようだ。


(外を出歩くのが好きな魔女っていたっけ)


 少女は一応記憶を辿るが、人間嫌いの魔女でそういった性質を持つ魔女はそうそういない。


 ならば大丈夫、だろうか。


「それで、代償は何がいいの? グ=グラシャ=ボラボラ=ラボラ──」


『まずは吾輩をその名で呼ぶのを止めるのであるっ』

「…………気に入っている名なんでしょう?」

『違うわ! 吾輩の本名はもっと……こう……カッコ良かったはずである!』


 キャンキャンと吠える悪魔。その犬の姿からは格好いいというより可愛らしいという印象を受けるが、本人が格好いいというのならそうなのだろう。


(悪魔の感性って独特だなぁ)


『次に……そうだな。吾輩がそいつらの居場所を教えてやるから、そこまで徒歩で歩くこと。そしてそれに吾輩が同行するのを許すこと』

「えぇ、構わないわ。でもなんであなたも同行するの?」

『お前達の苦しんでいる姿を堪能するためである!』

 犬の姿をしていたとしても、こいつはただの悪魔だと少女は再認識した。とんだ詐欺である。

『最後に──』

「三つも? ちょっと多過ぎじゃない?」

『妥当な数と質だ! 異論は認めん!』

「えぇ……」

『ともかく最後に──』


 最後に厄介な代償を持ってこなければいいが。少女がそう考え、ため息を吐いたその時。

 悪魔がニヤリと微笑んだ。




『──お前が一つ、変質すること』




「……は」

『この三つが条件だ。お前が「少年」、あるいは「少年の母の家」に到着するまでに、この三つが満たされていなければ……その時は』


 純粋な悪意がねっとりと少女の首元に纏わりつき、蛇の紋様が刻印されていく。悪魔との契約の印だ。


『その時は、身体も魂も丸ごと全部吾輩が喰らってやる』

「…………」


 この時初めて、少女は悪魔をその目で捉えた気がした。

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