第十四話 怒り、断絶、大失態(ここ重要)

 ゆらりと、少女の背後に炎が見えた。


「……ねえ少年。今、なんて言った?」


 もちろん、比喩である。彼女の身体中から発せられている怒りが、そのように感じられただけだ。


 どの言葉が彼女の逆鱗に触れたのか、少年には分かっていた。分かっていてわざと触れにいったのだ。彼女の『幸せの形』を探るために。


(だけど、こんなに怖いとは思ってなかった)


 少女の怒りと敵意は、今この瞬間、少年にだけ向けられている。ごくりと唾を呑み込んで、覚悟を決めて少女の、感情が感じられない瞳を見つめた。さあ、言え。踏み抜け。彼女の地雷を。


「可哀想だって、言った」

「……そう」


 少女の口の端が、歪む。わなわなと唇が震えている。歪んだ形の笑みを浮かべて、少女は少年に尋ねた。


「念の為、訊いておく。……それ、誰のこと?」

「君のこと」

「なら今すぐ訂正して!」


 耳を塞いで少年をキッと睨む少女には、いつものような余裕が感じられない。落ち着きの欠片も見当たらない。


「私が、可哀想っ? 少年が私の何を聴いて、何を見て、そう感じたのか、全く分からないわ! どこが可哀想なのよ。私はただの愚かな娘。幸せを既に手にしていたにも関わらず、それをどぶに投げ捨てて、後からそれがどれだけ大切なものかを思い知るような救いようのない魔女よ。それのどこが可哀想なの⁉︎」


 ただ誰かを憐れみたいだけなら、他を当たって。少女は少年に詰め寄り、叫ぶ。


「それとも何、魔女に成った私を可哀想だって言ってる? 私の生き方を否定しているの? それはとても、とっても、失礼な話ね!」


 少女は少年の胸元をどすどすと強く叩く。何もかもが、痛い。少女の言葉の一つ一つが痛みを伴い少年に突き刺さる。


 少年は少女の逆鱗の居場所は分かれども、少女の痛みの在処までは知らなかった。だから、そこに土足で踏み込んでしまったのだ。


 取り返しのつかない過ちを犯してしまったと、謝らなければと少年は焦るがしかし、少女の言葉は鳴り止まない。確かな色と形を持って、少年の耳に突き刺さる。


「私は、私の意思で、『魔女』に成ったのよ。私が、望んで選択したの。どれだけ後悔しても、詫びても、それは私が『可哀想』な理由になる? ならないわよッ。“ひまわりの魔女”と成り、人の寿命をとうに超える長い時間を渡り歩く。世界の一部として生かされていく。それが私の選んだ罪と罰。この先一生残り続けるもので、今の私の全てなの。私独りが背負っていかなくちゃいけないものなの、私が今を汚く生きてる理由なの! お願いだから、『可哀想』なんて言葉で、莫迦にしないでよッ……誰も奪わないでよ…………私の、大事な」


 大声を久方ぶりに出したのか、少女の叫びはだんだんと掠れていく。少年には、それが泣き声のように聞こえた。


「…………大事な、きもち」


 ぺたんと、少女はスカートに顔を埋めるように座り込む。己の中で迫り上がってくる感情を、どうにか激情に達する前に止めようとしているのだろう。達して仕舞えば、その感情の元になったきもちが、全て奪われてしまうから。


 そうして彼女は百年以上を生きてきた。人だった頃の感情を、その記憶を、どうにか守って今日まで生きてきたのだ。


 涙さえ、流さずに。


(……なんて孤独なんだろう)


 まだ十数年しか生きていない少年には、想像もできない痛みを、少女は独り抱えて生きている。忘れてしまうことを恐れ、誰かと特別親しくなることを避けている。傷付く事をも怖がるあまり、優しさで己と他者の間に壁を築き、自らの本心を殻の中に閉じ込める。そうして平静を保って生きてきたその結果が、自分を顧みず他者ばかりを気にかける、今の歪な少女なのだ。


 人知れず少年は手をきつく握りしめた。当初の少女に感じていた恐怖は、とうに消えてしまっている。だって少年の前にいるのは、ただただ怯えている少女なのだ。


 誰が、少女を今、ここまで追い詰めた? 彼女が必死にひた隠しにしてきた心の内を曝け出させた?


 紛れもなく、それは少年のせいだろう。


 少年に、少女を傷付ける権利はなかったのに。


「ねぇ──」


 少年が少女の背をさすろうとしたその時、顔を伏せた少女から、くぐもった声がした。


「でていって」

「……え?」

「この森から、いますぐ、でていってよ、しょうねん」


 少女は気怠げに、木々の間を指差す。


 そして少年が森に来た時と同じ台詞を口にした。


「この道をまっすぐ行けば、村に着くわ」


 だからでていってと、少女は再三、告げる。


 少年は困惑した。ここで出ていってしまえば、少年の望みは何も叶えられない。今回の件のお詫びも、できそうにない。


「でも……」

「ちゃんと約束は守るわ。少年の願いは、知ってるから。お母さんのことでしょう。あなたの願い事。ちゃんと来週中には、叶えるから。だから先に、家に帰って。もう私に、話し掛けないで。可哀想だなんて言わないで」

「………………違う」


 少年の否定は、風の音にかき消された。少女はこちらに見向きもしない。


 ──拒絶だ。


 少女の本能が少女自身を守るための回避行動を取っている。少女にとって有害と判断した少年から、距離を取ろうとしている。


 ならば自分は……そんな少女の願いに応じなければならない。少女のことを想うのなら、なおさら。


 ……どうして、こんなことになったのだろう。


 少年は、少女を助けたかっただけなのに。少女の力になりたかっただけなのに。


 何がいけなかったのだろう。


 自問しても、答えは返ってこない。最初から全て、間違っていたような気さえする。


「…………」


 少年は黙って少女に背を向けて、森から立ち去った。




 ◯




 自分は可哀想ではない。


 これは少女が『可哀想』という言葉を知った時から唱え続けている言葉だ。


 それは多分、ちょうど冬のことだった。暖炉の前で少女は母と毛布に包まり、絵本を読んでもらっていた。


 身内や他人に虐められていた不幸な女の子が、王子様に見初められ、結婚し、幸せに暮らす、といった内容の絵本だった。


『この子は、どうして幸せになれたの? なんで周りの人から助けてもらえたの?』


 きっとお洋服だって、見窄らしいものだったはずだ。誰もが目を背けたくなるような、そんな有様だったはずだ。それなのに、どうして周りの人は他の綺麗な女の子ではなく、彼女を選んだのだろう。色鮮やかな薔薇ではなく、色褪せた枯れかけのよもぎを選んだのだろう。


 少女の問いに、母は少し悩んでから答えた。


『この子がね、あまりにも可哀想だったからよ。助けてあげなくちゃ、今にも折れそうだから』


 なるほど、と少女は思った。確かに、この女の子は誰かが助けてあげなければ、今すぐにでも死んでしまいそうだった。


 そういう人を、可哀想と言い表すのだと少女は理解した。


 だからこそ、自らが苦しくなった時は、いつもこの言葉を唱えた。


 自分はまだ、助けはいらない。あの女の子のように、死んでしまいそうでもない。だから自分は可哀想ではない、と。


 それは魔女に成った今でも、変わらない。




 ◯




 少年の気配が、なくなった。


 そのことに少女はほっと安堵の息を漏らし──そんな自分に酷く吐き気を催した。


 さっきのはただの八つ当たりだ。魔女と比べれればたった少しの年月しか生きていない人の子の戯言だと、どうして聞き流せなかったのだろうか。どうして過剰に反応してしまったのだろうか。


 少女は少年を追いかけようかと逡巡し、やめた。もう日も大分傾いている。随分と長い間、一人でぼうっとしていたようだった。


 それでもいいか、と少女は思った。もう少年と話せなくてもいいか、と。


 だってどうせ、自分の命は二週間後にはもうなくなっているのだ。これからも生きることになる少年の記憶の中に、消えゆくモノの存在は必要ない。


 そう考えると、少女の体は少し楽になった。逆流してきた胃液を、ハンカチに吐き捨て、袖で口元を拭う。


 スカートの汚れは、落とさなかった。





「……は」

「だから少年は家に帰らせたの。何か文句ある?」

「いや……何が原因でそうなったのかが気になってな」

「話したくないから話さない」


 ムスッとしながら少女は卵のスープを口に運ぶ。異端審問官の女が作ったというそれは、彼女の性格に似合わず優しく柔らかな味がした。


 異端審問官は頭を抱えた。大方魔女と二人きりで生活するなんて嫌だとでも思っているのだろう。それなら最初から不干渉を貫けばよかったのになぁ、と少女はパンを噛みちぎる。少女は女の作る飯が好きだし、女は少女が作る菓子や少女が淹れるお茶が好きだ。今更別々のものを食べようという気にはなれない。


「そうは言ってもな……“客人規定”はどうするんだ?」

「来週少年の家に行くことになってる。だから破ったことにはならないわ」

「お前、あの少年の家知ってたっけ」

「…………あ」


 しまったと目を見開く少女。あの時は頭に血が昇っていて、細かいことにまで頭が回らなかったのだ。大失態である。


「ど、どうしましょ。私少年の家も名前も知らないわ……!」

「……それでよくあの子をこの森から帰らせたな。そういう魔法は無いのか?」

「なんでもかんでも魔法でなんとかできると思わないで。見えない痕跡を辿るなんて魔法はどこにも無いわ」


 少女は机に突っ伏した。少年の居場所を探る魔法は無いが、どうにかして彼の家の場所を突き止める方法なら幾らか思い浮かぶ。ただし、そのどれもが明日中にこの家を出発しなければ手遅れになるものだったが。


 少女は顔だけ上げて、呆れた表情の異端審問官を見上げた。


「明日からしばらく私いなくなるから、この家の管理あなたに任せてもいい?」


 異端審問官は即答した。


「お前がいない間にこの家と心中する可能性が少なからずあるのだが、それでもよければ」

「よくないわよぉ……」


 そうだ。この二週間でそんな素振りは一つも見せていなかったから油断していたが、そもそもこの異端審問官はこの場所で死にたがっていたのだ。そしてそれを回避するために、少女は女を『客人』として監視していた。


(と、いうことは……)


「もちろんわたしもついて行くからな。お前が一般市民に危害を加えないか見張るためにもな」


 得意そうに胸を張る異端審問官は、久方ぶりに生き生きとして見えた。こうなればもう断れない。ここに置いてはいけない。


「……分かったわ。その代わり、明日の朝未明に出発するから。寝てても起こさないから」

「聖職者を舐めるなよ。早寝早起き質素倹約はお手のものだ」

「ここに来てからあなたが質素倹約を実行しているところを見たことがないのだけど」


 軽口を叩きながら、少女は少年がゆっくりとしたペースで家に向かっていることを心から望んだ。

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