第十三話 泥色に染まった花

「あ、おいがきんちょちょっと待て……って、ハァ」


 少年は“獣遣い”の静止も聞かず、走り去ってしまった。ちょうど近くに寄ったから、直接少女に昨日言い忘れていたことを伝えたかったので、呼んできてもらおうと思っていたのに。いきなり意識を飛ばしたり、かと思えばいきなり走り出したり、急がしいガキだなと男はため息をつく。


 “獣遣い”は手に持った花束を墓に備えた。白薔薇、白百合、白のカーネーション……店員に言われるがまま選んだそれらは、決して男の趣味ではなかった。もっと華やかな色をした花を供えた方が、見るものも楽しいのにと思う彼は、たとえ人間だったとしても周りから浮いてしまう。


(死んだやつに何供えようが結局は己の自己満足だろ)


 少女が供えたと思われる花は、男が予想していた通り白一色ではなく、季節の花々で満ちている。少女のものと己のものを見比べて、男は再度ため息をついた。白色一色の花束は、この場にも、この墓に眠る女にもそぐわない。


 格好も、態度も、何もかもが場違いだったが、それも致し方ない。何せ、彼がそうして故人に花を捧げるのは、これが初めてだったからだ。


「……手は合わせないぞ」


 誰にともなくそう言って、男は目を閉じる。──……結局、少女の師に選ばれたのは人の子だった。そのことに微かな苛立ちを感じはすれども、不思議と残念だとは思わない。


 少女の過去も、内面も“獣遣い”は知る必要がないと考えているからだ。男に伝えてくれない部分も全て含めて、彼が好きな女なのだ。


 だから、何も問題はない。そもそもあの少年は少女の敵ではないのだ。ならば打てる手が増えたと喜んでもいい。


 男は数分黙ったまま白骨と向き合った。それから、フードを被り直し、森の外へ歩き始める。


(……じゃあな、“ひまわり”。またいつか、冥界で)


 男は冷笑を漏らす。今から自分が成そうとしていることを思えば、死後己がすんなりと冥界に辿り着けるとは思えなかった。


 らしくないことをしているのは重々承知だ。いつまでたっても振り向いてもらえない一人の女に、異常に執着していることも知っている。


(いいさ、それで。だってそれが運命ってやつだろ?)


 挑戦的な笑みを浮かべ、男は鼻歌を歌い出す。メロディも歌詞もまるでない、彼の内面を表したような空っぽな歌だった。


 その歌を聞きつけた鳥たちが、“獣遣い”の近くに集まり、それぞれが思い思いに鳴く。耳を塞ぎたくなるような不協和音。けれどどの音も、周りの音から浮いていなかった。


『魔女様“獣遣イ”様』

『楽シイ? 楽シイ?』

『アタイモコノ子も皆、アナタガ何ニ成ロウトモツイテクワ』

『ダカラネ、ズット忘レナイデ』

『約束ヨ?』


 お喋りが好きな鳥たちは入れ替わり立ち替わり、主人である男に話し掛ける。その言葉の端々から、彼らが“獣遣い”の変化を悟っていることが分かった。


 ──彼らが本気で、男を慕っていることもまた、伝わってきた。


「…………」


 口約束するのは、簡単だ。適当にこの場を切り抜けたいのなら、いくらでも約束をすればいい。相手は鳥だ。不死鳥ではない。それに“獣遣い”に心酔している彼らは、約束を反故にしたってさほど怒らないだろう。


 頭ではそうと分かっていたのに、彼が直ぐに答えられなかったのは、背後からひしひしと感じる殺気のせいだ。“獣遣い”の肌が粟立つ。


(こんな刺激の強い殺気を放てるのは……ま、一人しかいないよな)


 辺り一帯の動物たちに命じ、ここから避難させる。一匹残さず退避が終わったと確認してから、つくづくタイミングが悪いなぁと男は振り返った。


 そこにいるのは一人の少女。腰まである朽葉色の髪を二つ結びにして、威圧感をたっぷりと滲ませ、新緑の色とも青葉の色とも取れる瞳で男を睨んでいる。


 男は片手を上げる。今日の少女とはできれば交戦したくない。


(友好的に話しかければ、大丈夫、か……?)


 今の所向こうから攻撃を仕掛けてくる素振りはない。これなら互いに無傷で帰れると、“獣遣い”は盛大な読み間違いをした。


「昨日ぶり。元気にしてた? マイハニ──」

「この世から消えろ」

「おっと」


 男は勘で危機を察知し、その場から飛び退く。間一髪で、少女が生成した氷の矢から逃れた。男の額に脂汗が浮かぶ。自らの考える最も友好的な挨拶の何がいけなかったのか。なぜいつも出会い頭に消滅を願われなければならないのか。考えなければならないことは山積みだったが、それらは横に置いておく。だってそんなことより。


(……こいつ、いつにも増して好戦的じゃね?)


 男の知る少女は決して戦闘が好きな性質ではない。一晩で魔女の性格が変わったなど、五百年以上生きる男でも耳にしたことがなかった。


 それに……と男は地面に突き刺さったままの氷の矢を見る。いつもなら少女の魔法など軽くあしらえてしまうのだが、今日のは良くない。何が良くないって、全体的に良くない。魔法に込められている魔力の量がいつもの比ではない。ただでさえ男の体は本調子に至ってない。この状態で彼女からの攻撃が急所に当たればあっけなく死んでしまうだろう。魔女裁判を控えているこの時期に、それはまずい。


「ちょっと待ってってば。オレ、今日は伝言が──」

「そのついでで少年に手を出したのか。つくづく私を怒らせるのが得意なやつだな」

「出してないから!」


 少女からの信用が全く感じられない台詞に、男は涙目になる。いかんせん普段の行いが悪過ぎた。罰が当たったともいう。


 男が少年を殺したと疑わない少女は、次々と矢を生成していく。男はそれを避けるのに精一杯だ。“獣遣い”の魔法は、下準備がないと使い物にならない。ゲリラ戦に不向きなのだ。


「お得意の魔法でいたぶったのか。それとも殴り殺した? 蹴り殺した? まさか動物たちを操って、なんてことはないよな?」


 少女の瞳が怪しく光る。それに呼応するように、攻撃の精度と威力が増していく。彼女が大規模な魔法を使わないのは、使ったところで男が避けてしまい、また当たっても魔女である“獣遣い”には大した傷を与えられないと思い込んでいるからだ。今の状態の彼女に、実は今本調子ではないから手加減してくれと言ったとすれば、寧ろ躊躇いなく攻撃の手を強めてくるだろう。


(墓がある中心部は避けてるから器用なやつなんだけど……っと!)


 足に絡みつく植物を力任せに千切り、地面を転がる。少女の舌打ちと共に、数十本の鋭利な金属の欠片が男の直ぐ横に物凄い勢いで突き刺さった。刺されば即死だ。よく避けれたなと男は自分を褒めた。


(あぁ、クソッ。こんなんなら得物の一つや二つ、持ってこりゃ良かった)


 いよいよ危ないと男がこの場からの逃走も考え始めたその時、森にゴオン、ゴオンと鐘の音が鳴り響く。


 少女が懐疑の目を男に向けた。


「貴様……本当に殺していないのか?」

「……さっきからそう言ってんだけど、マイハニー」

「…………」

「…………」


(気っまず)





 どこか見覚えのある異端審問官がこれまたどこか見覚えのある少年を連れてきたところで、やっと少女の殺気から男は解放された。……ただし、手首足首を拘束するという条件のもとで、だが。


「大丈夫? 怪我してない? “獣遣い”に殴られたり蹴られたりしてない?」

「うん。大丈夫だから安心して。あと苦しいから離して」

「目立った外傷はないけど、内臓は傷ついてるかもしれないでしょ。ちゃんと見なくちゃ。もし酷いようなら医者に診てもらわないと。……それとあなたはどうしたの。そんな怯えた顔を……ってそういえばあなた、こいつの被害者だったわね」


 異端審問官の女を先に帰らせてから、少女は腕組みをして拘束されている“獣遣い”を見下ろした。


「それで? 貴様はなぜここにいるんだ。伝え忘れとは一体何なんだ。簡潔に述べてさっさとこの森から出て行ってくれ」


 もう二度とここへ来るなと言っていた癖に、少女が男の話を聞こうとするのは、彼女の甘さゆえか、それとも“獣遣い”が先代の“ひまわり”の墓参りをしていたからか。


 どちらにせよこの一時、この森に滞在することを許されているのなら、殺される前に少女の言う通り簡潔に述べてさっさと退散してしまおう、と男はあっけらかんと述べた。


 それこそ、三時のおやつの話をするように、何でもないような口ぶりで。




 ────オレ、今もう『魔女』じゃないんだよね。


 と。




「…………………………は」


 少女の動きがピタリと、止まる。


「あれ、聞こえなかった?」


 ……食い付いた。


 声には出さず、“獣遣い”は内心でそうほくそ笑む。今日の目的はこれだった。『記録室』を覗いた少女に、『魔女』から解放される方法があると匂わせること。


「オレはもう『魔女』じゃない。だから昨日お前が見た記録の帳簿がおかしくなってても気にすることはないから」


 あえて的外れな所を補足する。少女の唇は青くなっていた。『魔女』という世界のシステムが、どれだけ複雑なものかを真に理解しているからだろう。“獣遣い”だって正面突破はできなかった。


 だから使ったのは、通常ではあり得ない手法。代償は計り知れない。


「オレ、もう帰るから」


 近くにいたリスに手足を縛る紐を解いてもらい、男は立ち上がる。


 そして、今度こそ男は森を去る。


 男がかねてから考えていた、一つの疑問を投げかけて。


「なあ“ひまわり”。『魔女』でなくなったオレは、綺麗なのか?」


 少女の返答はない。


 つまりはそういうことなのだ。




 ◯




「……………………綺麗なわけ、あるか」


 少女はポツリと、一人答えた。“獣遣い”の姿はない。森から気配も消えている。そうでもしないと、答えられなかった。


 誰だって、綺麗なままでいたい。ずっと傷付かないでいたい。


 それは少女もそうである。けれども。


「私の罪も、お前の罪も……一生消えないままだ。だから」


 そんな汚いものが、綺麗なはずない。


 綺麗であってはいけないのだ。


 だって、そうしてしまえば、傷を否定しまうから。今までの自分を否定しまうことになるから。


 綺麗であれないことよりも、自分のこれまでを否定される方が、少女にとっては辛いのだ。


「…………」


 人としてのプライドなど、とうに捨て去っている。傷ついても前に進めるようなエネルギーはなく、だから少女は自分の心を無意識に守ろうとしている。死を恐れないと公言している癖に、死をどこかで恐れている自分が、酷く浅ましい。その癖行方不明の“薬師”を、先代の“ひまわり”を心のどこかで羨んでいるのだから、手に負えない。先ほどの“獣遣い”の発言にだって、揺らいでしまった。


 “魔女”という役割から、逃れられる術があるのなら、自分だって。


 そうひと時でも考えてしまった自分が許せない。


 少女はパシパシと頬を叩いた。今ここにいるのは少女一人ではないのだ。沈むのも、自分に怒るのも、後にしなければ。


(切り替えよう)


「じゃあ、少年。帰りましょうか」


 人間を模倣するために何度も練習した作り笑いを浮かべる。いつもより少し不自然かもしれないが、どうか黙っていて欲しい。違和感に気付かないで。


 少年の肩を叩いて、表情を読まれないように先に歩く。だが、後方の少年から、動く気配が感じられない。


「…………少年?」


 少女は立ち止まって振り返り、眉を顰める。今朝から少年は様子がおかしい。何が気がかりなのだろうか。やはり、母の容態のことだろうか。


 思えば、朝のあの一件から、少女と少年はほとんど話をしていない。


(子供なんだから、子供らしく素直に言ってくれればいいのにな)


 少女はやはり、少年が何に怒っているのか分からないのだ。どれだけ頭を捻っても閃かないのだ。


 分かってくれと言われたとしても、残念だがどうしても理解できない。それは単に年齢の差の問題かもしれないし、性格の問題かもしれなかったが、原因を詳しく調べても解決できそうにない。


 少女辛抱強く少年の返事を待っていると、やがて彼はぽつりぽつりと話し出す。


「……あのね」

「うん」


(全部話して)


 何に悩んでいたのか。何が不満だったのか。どうして今朝、いきなり家を飛び出したのか。どうしてこの場所に辿り着いたのか。


 しかし少年の口から出たのは、あまりにも予想外の一言だった。


「僕、“ひまわりの魔女”に、会ったよ」

「……私に?」

「ううん」


 少年が首を振る。彼女の鼓動が、人知れず速くなる。久々に、どくどくと耳のすぐそばで脈が波打っているような気がした。


(私ではない、“ひまわりの魔女”? それは一体)


 自問したのは、少年の言わんとしていることが理解できなかったからではない。理解できたからこそ、動揺を鎮める為に少女がとりあえず作り出した、中身のない問い掛けだ。


 自分でないのなら、少年が会ったという“ひまわりの魔女”は。


 それは────。


「すごく、心配してた。君のこと。ずっと泣いてないって」

『あたしが死んでも、泣かないでいいからね』


 脳裏にフラッシュバックしたのは、『魔女裁判』に向かう前の、師の言葉。少女の指先が震える。動悸がさっきから鳴り止まない。うるさい。うるさい、うるさい、うるさい。


(泣くなと言ったのは、師匠だ。私に、魔法を教えたのも。私の才能を伸ばして魔女にしたのも、全部全部師匠で……そうさせたのは、でも)


 始まりは、少女からだった。


 少女の運命を狂わせたのは、紛れもなく、少女のせいだ。


(あぁ)


 耳を塞いでしまいたい。何も聴きたくない。誰の声も、何も。お願いだから、一人にさせて。こんな泥だらけの私を、誰も見ないで。泣くことさえままならない、非情な私を、どうか放っておいて。


 少年が何と会ったのか、魔女である少女には分かってしまっていた。


 痛いほどに。


 少女の口の中に、血の味が広がる。唇を強く噛んでいたようだった。


 そんな彼女の様子を知ってか知らずか、少年は変わらず話を続ける。


「それからね、昔の君の話をしてくれた」

「ぇ?」


 さっと少女の顔から血の気が引く。次に襲ってきたのは、心の柔らかいところに、土足で踏み込まれたことへの不快感。敬愛している師への怒り。


(どうして、少年に)


 心がざわざわとして落ち着かない。激情ではない為に、抑えられない感覚が少女にはどうしようもなく気持ち悪かった。吐き気が、する。


 だって、昔の話を聴いてしまったら、少年は憐れむだろう。どこまでも愚かな少女のことを。


「それを聴いて僕、思ったんだ」


 けれどそれは、その感情はどこまでも的外れ。


「──可哀想だなって」


 ブチッと、少女の奥底で糸が切れる音がした。

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