第十一話 死者から生者へ花束を
「……ねぇ」
「………………」
「ねぇってば」
「………………」
「ねぇ、聞いてる?」
「…………あ、少年ね。どうしたの?」
少年は今朝からずっと夢うつつな少女のその反応に、異端審問官と顔を見合わせた。
「やっぱりどこかおかしいよ。昨日も帰って来てからご飯はいらないってさっさと寝ちゃったし」
「昨日の夕食はともかく、朝食まで断るのは些かおかしい。これでお前の勉学に支障がきたせば何をやらかすか分からない。……というわけで、だ。おい魔女、今すぐ飯を食べろ」
「え?」
「こいつこちらの話を全く聞いてない……」
少女の手を無理矢理引いて椅子に座らし、少年はグラスを準備する。少女がふらふらとどこかに行ってしまわないように、彼はじぃっと少女を見つめた。
人形のように美しい少女のその顔が、微かに青ざめている。昨晩彼女が出掛けた先で、何かがあったのはほぼほぼ確定だろう。
少女は二、三秒きょとんと少年を見返していたが、すぐにどこを向いているのか分からなくなった。これは重症だ。
トントントンと規則正しいリズムで野菜が刻まれていく。いくら異端審問官が魔女嫌いだとはいえ、今の少女に毒を盛ったりしないということは少年にだって分かった。
「おい、できたぞ。食べろ」
十数分後、異端審問官がパンとジャム、それから大盛りのサラダを持ってきた。少女はあいかわらず虚空を見上げて、手をつけようともしない。
少年が少女の袖を引っ張ると、彼女はやっと、目の前に料理が置かれていることに気が付き、心底不思議そうな表情で首を傾げる。
「私、今日は朝食摂らないって言ったわよ?」
少年と異端審問官は揃って大きなため息をついた。
「そんなんだから、僕たち心配してるんだけど」
「問題ないわ。これは…………えっと、そう! 夏バテよ」
「今まだ春なのに?」
“ひまわり”はあぅと情けない声を漏らした。人形のような容姿をしているくせに、吐く嘘が分かりやすすぎて人を騙すことに向いていない。少年はぎゅっと手を握る。
(悩んでいることがあるのなら、僕に話してほしいのに)
少年が何を訊ねても、大丈夫だからとしか少女は答えてくれない。少年には笑った表情しか見せてくれない。それが酷く、もどかしい。
“獣遣い”には嫌悪剥き出しで突っかかるくせに。異端審問官には寂しそうに微笑むくせに。
少年が幼いからだろうか。
それが理由なのだとすれば、今すぐにでも大人になりたい。
少女が魔女だからだろうか。
それが理由なのだとすれば、魔女なら誰にも頼ってはいけないのかと問い詰めたい。
少年の面持ちに少女はぎょっとしたように辺りを見渡す。少年は少年が思っている以上に酷い顔をしていたのだろう。
少女はお菓子が詰められた缶を取り出し、少年の前にことんと置く。どうやら少年は食べ物で機嫌が治ると少女に思われているようだった。
「少年、どうしたの? 体しんどい?」
「……ううん」
「お腹空いちゃった?」
「ううん」
「お菓子食べる?」
「ううん」
少年が首を横に振り続けると、少女は眉を下げた。新緑の瞳が、少年を捉える。少年は久し振りにしっかりとと少女に『見て』もらえた気がした。
「じゃあどうして、少年は泣きそうなの?」
「泣きそうじゃない」
「嘘」
どの口が。
「言ってくれなきゃ、私、何も力になれないわ」
どの、口が。
「少年は、私に頼りたくないのかもしれないけど……これでも私、魔女よ? そこらの大人よりは頼りになるはずよ」
どの口が、人を頼ってはくれない癖に、自分には頼れと言うのか。
むしゃくしゃとした気持ちに突き動かされた少年は、キッと少女を睨むと、何も告げずに魔女の家から飛び出した。
◯
「……今のはお前が悪いぞ、“ひまわり”」
「そう言われましても」
少女はなぜ少年が泣きそうになっていたのか、怒ってここを出て行ったのかまるで見当がつかないのだ。少年が一番好きな菓子も取り出したのに、釣れないのもどういうことなのだろう。
異端審問官の吊り目が、どうしようもないものを見るような目付きになった。
「お前は本当に分からないのか。なぜあいつがあそこまで怒っていたのか」
「残念ながら皆目見当もつかないわ。私何かあの子の気に障るようなことしたかしら……?」
していないはずだ。昨日のこともあり、少しぼうっとしていたかもしれないが、そんなことで少年は怒らないだろう。
本気で分からないといった様子の少女に、異端審問官は天を仰いで瞑目した。もし異端審問官が先ほどの少年の行動原理を知っているのなら、ぜひ教えてほしい。
女が諦めたように問う。
「昨夜何があったんだ」
「ちょっと計算が合わなくて」
「……それだけで食事も喉を通らない程に思い詰めていたのか?」
「帳簿って大事だと思わない?」
昨日確認した調整期間中の魔女の総人数は、見間違えではないかと今朝も見てきたのだ。……その結果見間違えなどではないと分かり、記録の表示が何も変わっていなかったのだから笑えない。
調整期間に入っているのは“瑠璃”一人。そのはずなのにどうして計三人と表示されているのか。“瑠璃”を含めた三人が調整期間に入っているのが本当だとすれば、どうして他の二人の魔女名が記録されていないのか。三人と誤った数値が表示されているのだとすれば、『記録室』そのものが壊れていることになり、その修理は誰に頼めば良いのか。
そういったことが頭の中をぐるぐると駆け巡っていて、とても食事を楽しめる状態になかったのだ。
少女は嘘くさい笑みをその美しい顔に浮かべる。たとえ少年より大人だったとしても、異端審問官に詳しい情報を教えるつもりはなかった。
「……ま、そんなわけだから。本当に、何でもないことなのよ。魔法の行使に比べれば」
少年の母が魔女になりかけかどうかは、本人の様子を見るまで分からない。考え過ぎていても仕方がないだろう。
目下一番の問題は、家を出て行ってしまった少年のことである。少女は髪を高い所で一つに結んだ。
「私、動物たちに捜索願出すからあなたも一緒に探してくれない? この森広過ぎて私一人じゃ探し切れないの」
「拒否権は……なさそうだな」
「別に来なくてもいいけど、後味の悪い思いをしても知らないわよ」
少女は異端審問官の答えを待たずに、外へと駆け出していく。空はどんよりと暗い雲に覆われていた。
◯
遠く遠く。誰の目も、届かない所へ。
この森を出たいわけではなかったが、来た時とは真反対の方向へ駆ける。時折動物たちが心配そうに少年に近付いてきたが、彼らの目からすら逃れたかった。一人で静かに、向き合いたかった。
(どうして、あんな風に睨んだりしちゃったんだろう)
気に入らないことがあるからと周りにあたるなんて、駄々っ子のようではないか。
少女の、困った顔が見たかったわけではなかったのだ。
少年はただ、話してほしかった。ただ、頼って欲しかった。たったそれだけのことを、素直にそう伝えられないこの口が恨めしい。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
動物の目を避け続け走っていると、急に前方が開けた。あれだけ生い茂っていた木々がここでは一つも見当たらない。ひまわりも、何の草木も見当たらない。少年は自然と、足を止めた。
荒地と表することもできない、何かの焼け地のように見受けられるその場所の中心部には、白い石のようなものと小さな花束が一つ、置かれていた。誰が置いたのかなど、考えるまでもない。
少年はしばらくその中心地で、放心して突っ立っていた。
さらさらと、風が彼の頬を撫でた。泣き出したくなるほど、ほっとするのはなぜだろう。わけもないのに、物悲しくなるのは、なぜだろう。
ぼろぼろと、少年の瞳から静かに涙が溢れ、乾いた土に染みる。母のこと、少女のこと──泣いてしまう理由はいくつも思いついたのに、そのどれもが、今少年がこうして涙を流している理由にはなり得ない気がした。
そんな少年の背後から、彼に声が掛かる。
「……お前」
「!」
少年は慌てて涙を拭った。少女や異端審問官の声ではなかったが、どこかで聞いたことのある声だ。
(人目は避けていたはずなのに)
少し緊張しながら振り返る。そこには、古めかしい外套を纏った一人の男が、花束を手にしていた。
「あ、なたは……」
少女の知人で、“獣遣い”と呼ばれていた男だ。人の命を簡単に壊し、そのことに何の躊躇いも持たない、恐ろしい魔女。少年は反射的に身を竦めた。
その様子を見て、男は頭を掻く。
「あー……今オレにお前を殺してやれるほどの気力と魔力はないから、安心しろ。お前を抹殺してあいつの恨みを買いたくない」
どこまでが本当なのかは疑わしいが、少年はひとまず彼を信用することにした。
「えっと、どうして“獣遣い”さんはここに?」
「……お前、ここが『どこ』で、『何が』あった場所か、知らないのか?」
少年が質問した途端顔を曇らせた男に、内心悲鳴を上げながら、少年はこくりと頷いた。
男は舌打ちをして、白い石の方に向かって吐き捨てる。
「何のために無力な人の子を呼び寄せたんだ、“ひまわり“。弟子に怒られてもオレは知らねぇぞ」
(誰に、話しているのかな)
少なくとも、白い石にではあるまい。男が口にした“ひまわり“は、少年の知っている少女のことではなさそうだ。
ならば、誰だろう。“ひまわり“の名を冠するものが、この世に二ついるとは、到底考えられない────。
(……いや、いるじゃないか)
異端審問官は言っていた。どの魔女に成りたいのか、と。
だとすれば、男の言う“ひまわり“は。
(あの子の、前の──“ひまわりの魔女“)
少年がそこに行き着いた刹那、空気が変わった。
「ッ⁉︎」
何も生えていなかった荒地に、いつの間にか季節外れのひまわりが咲き乱れている。木々が青々と生い茂り、鳥の囀りが少年の耳に届く。“獣遣い“の姿は見えない。
『あははははっ』
聞き馴染みのある、少女の声。聞き間違いなどではないはずなのに、それが本当に彼女の声か、少年には判別がつかなかった。
なぜなら少年の知る少女は──こんな風に笑い声を上げたりしない。
少年が固まっていると、彼のすぐ横を今より少し幼く見える少女が満面の笑みで走り去っていった。どういうわけか、少年には気づいていないらしい。
『あ、師匠!』
少女が振り返り、少年の元へ──否、少年の隣に立つ人物の元へ駆け寄った。
少年は隣に立つ人物を見上げる。三角帽子を被った女は、少年の方に視線を流し、口元に人差し指をあてた。
(ここは……どこだろう)
そしていつなのだろう。
今ではない。そして昔でもない。昔に生きていた人物が、今を生きる少年を『見る』なんて、ありえないのだ。
女は少女に背を向けて、少年の目線に合わせるように、しゃがみこむ。
「──はじめまして、小さなお客さん」
何かを返そうと口を動かしたが、少年の口からは言葉が出てこない。声が出せないのだ。
女は再び口に人差し指をあてた。
「おっと、声は出さないで。今君が介入すれば、あたしが神様に怒られちゃう」
まあ、こうして過去の情景を死人が生者に見せるのもあまりよろしくないんだけどね、と女は舌をペロッと出した。
少女が師匠と呼んでいるのに、片手を上げて応えると、女は少年の肩に手をのせる。
「君は、あの子が好き?」
少年はしばし迷って、首を振った。少女は自らを全く顧みないのだ。挙句に二言目にはいつも、『私は魔女だから』と。二週間共に生活するうちに、その言葉が出てくる頻度は段々と高まっている。異端審問官でも顔を顰めていたほどだ。
自分に優しくなれないと、人にも本当の意味で優しくできないのよと、母の言葉が今になってよく分かる。
少女はどこか危ういのだ。危ういまま、自らに課せられた仕事をこなそうとしている。他人に必要以上に優しくする。強い感情が発生される前に、自ら心を閉ざす。──どうしてそんな彼女を、好きになることができようか。
誰にだって笑ってほしい。当たり前の幸せを享受してほしい。誰もが誰かを殺さずに、悲しくならずに、孤独にならずに生きていてほしい。
こののぞみは、少年の独りよがりなのだろうか。
女は寂しげに微笑うと、少年の頭を撫でた。
「うん……そうだね。あたしも今のあの子を見てると、堪らなく胸が苦しい。あたしのせいだって、罵ってもいいはずなのに……ここ百年、あの子が泣いているところを、見たことがないの。あの子の隣に誰かが立っていたところを、見たことがないの」
だからね、と女は言った。
「だからね、君が──今のあの子のことが嫌いな君が、あの子の隣に最後まで居てくれたら、あたしはとても嬉しい」
“獣遣い”では駄目だった。少女の全てを愛してしまう彼では。
異端審問官では駄目だった。少女の歪さに気付いていながらも、己の身分に縛られ、身動きが取れない彼女では。
────“ひまわりの魔女”の魔法は、精神保護の魔法である。
弟子を心から心配する師の精神が、その骨を依代として現在まで保存されていたとしても、何ら不思議ではない。
「あの子を見捨てないであげて。あの子と対話してあげて。あの子を叱ってあげて」
そのために、まずは。
「あの子のことを、知ってあげて欲しいの」
先代の“ひまわりの魔女”の亡霊は、己の精神に残された数少ない魔法の一つを、起動した。
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