第八話 不安

 どの医者も、首を振るばかりだった。


 町の誰もが、気の毒そうな顔をするばかりで、助けてはくれなかった。


 母は父の『あいじん』という立ち位置で、誰も頼れるものはいないことは知っていた。


 それでも、自分と母の二人で、どうにかここまで生きてこられたのに。


 どうして母なのだ。どうして自分ではなかったのだ。


 涙を何粒流そうとも、おとぎ話のような奇跡は訪れない。母は寝たきりで、食事も、僅かな水さえもその喉を通らない。


『このまま、衰弱死するしかないでしょう』


 そう言われて何年経っただろう。少年の母は未だ生きていた。……もし少年の母が寝たきりになって数ヶ月でその息を引き取っていたならば、少年も素直にそれを認められただろう。諦めることができただろう。


 少年の母は、倒れたあの日から何も変わってはいなかった。


 例えるならば、おとぎ話に出てくる眠り姫。


 ……眠り姫が王子からのキスで目覚めるのなら、母は何をすれば目覚めるのだろうか。


 この『病』を、治すにはどうすればいいだろうか。


 少年は一人で考え続けた。町医者が使わなく成った医学書を読んだ。東から齎されたという呪術書を読んだ。歴史書、伝承書……ありとあらゆる記録を洗い出し、該当する病がないか調べた。


 ……そうして、少年は『魔女』に辿りついたのだ。




 ◯




 自然と、少年の目は覚めた。知らない天井と知らない寝台に、ここはどこであったかと首を傾げる。


 少年は窓の外に目を向け、そこに広がる大輪のひまわりを見て、正気に戻った。


 そうだ、ここは。


(ひまわりの魔女の、家)


 そう知覚した瞬間に、少年は吐き気を催した。昨日全てを吐き切ってしまったからか、固形物は何も逆流してこない。


 上半身を起こすことさえ苦しくて、少年はバタンとベッドに倒れ込む。荒くなった息を整えた。


 ──昨日、意識を失うまで少女に背をさすられた感覚が、まだ残っている。冷たく小さな手で、紛れもなく魔女の手で、だけど優しかった。


 ちゃんと、優しいひとだった。ただの、年相応の優しさを持った女の子だった。


 その子を、僕は。あろうことか、僕は。


 無邪気に、何の躊躇いもなく、殺そうとしていたのだ。


「……うっ」


 少年は口を両手で押さえ、喉に逆流してきた酸味の強い液体を飲み干した。真っ白なシーツを汚すのは憚られる。


 しばらくそうしていると、扉が一定のリズムで三回叩かれた。少年は寝たふりをしようかと迷ったが、いつまでもそういうわけにはいかない。熟考の末、少年は返事をした。


「………………どぅ、ぞ」

「入るぞ」


 そう扉の外から声を掛けたのは、あの異端審問官だ。予想外の人物に、少年は目を瞬かせる。


 異端審問官は顔色の悪い彼を見て顔を伏せたが、気を取り直したように少年を見据えた。


「水と軽食、あと胃腸に効く薬だ。ここに置いておくぞ」

「……なんで、異端審問官さんが?」

「あの魔女から頼まれた。魔女の顔を見てまた吐く可能性があるから、今は人同士で話せ、と。体調が良くなるまでこの部屋から出るな、だそうだ」


 ぼんやりとした頭で、少年はそれらの言葉を反芻する。


(となると……今はあの子に謝れないのか)


 更に、向こうから会いにくるなと言われてしまった。仕方がないと言えばそれまでなのだろう。少年は何も知らずにひとの命を奪おうとしていたのだから。魔女に成りたいと願っていたのだから。


 追い返されなかったのは、少女の優しさがあったためだ。


 決して、少年が許されたわけでは、ない。


「うん、分かった」


 少年は異端審問官から水の入ったグラスを受け取り、口に含んだ。パサパサとしていた口内が、湿ってゆく。


「そういえば、どうして異端審問官さんはここにいるの? 魔女の家なんて嫌がりそうだけど」


「……昨日薬を盛られた」


 気不味そうに目を逸らしながら彼女は吐き捨てた。……毒ではなく薬と表現するあたり、少女が彼女に盛ったのは一般的に使われている薬で、使用量をきちんと守っていたのだろう。そのような薬なら、異端審問官も盛られる前に気付きそうなものだが、気が抜けていたのだろうかか。あるいはよほど疲れていたのだろうか。


「目覚めたら“ひまわり”はどこにもいないし、どの扉からも出られなかった。終いにはお前へ伝言を届けろと置き手紙で命令される。……元とはいえ異端審問官だった私が……情けない」


 穴があったら埋まりたいと、異端審問官は肩を落とした。どよんとした空気が部屋に満ちる、少年は体を起こし、換気のために窓を開けた。さらさらと頬を撫でる風が気持ち良い。ちらりと横目で異端審問官を見遣ると、まだぶつぶつと暗い表情で何か呟いている。彼女の周りだけ空気の質が違っていた。


(異端審問官さん早く出て行ってくれないかな)


 少年と異端審問官の仲は良いわけではない。ましてやそこにいるだけで空気を重くするのなら、正直邪魔である。少年がそう思うのも無理はなかった。


 そして、沈黙が満ちる。人同士で話せと言われても、双方話題が思い付かない。


 少年は異端審問官の持ってきたサンドウィッチに齧り付く。優しい味付けの卵サンドだ。


「これは異端審問官さんが作ったの?」

「そうだが?」

「美味しいね、これ」

「……母の味付けを真似ただけだ」


 彼女は己の手を握りしめた。その瞳は、微かに揺らいでいる。それを見て少年は問う。


「異端審問官さんは、家に帰りたいの?」

「帰れるわけがないだろう。こんな状態では」

「でも、家と異端審問所が同じ場所に立っているわけではないよね?」

「父が……異端審問官でな。厳格な人なんだ」


 だから今帰れば勘当されてしまう、家名に傷が付くと彼女は言った。


 少年はその言葉に首を傾げる。娘が致命傷を負ったのにもかかわらず、生きて帰ってきた。それを喜ばない親が、この世にいるのだろうか。少女に治されなければ死んでいたというのに、まさかそのまま死んでいた方がマシだと、考える者が果たしているのだろうか。──もしもそういった者がいるのなら、そちらの方がよっぽど異端ではないのか、と。


 サンドウィッチを食べる手が止まってしまった少年に、異端審問官は苦笑した。


「何事も例外を作ってはいけない。作れば規律が乱れる。士気が下がる。いつか犠牲が出る。……それではいけないんだ」

「異端審問官さんは、それに納得できるの?」

「納得できるに決まっているだろう。本当は自死できれば良かったんだが……」


 彼女は肩をすくめて、ため息を吐いた。


「あの魔女が死ぬまでは、到底できそうにない」


 少年は気になっていたことを訊ねる。


「……異端審問官さんは“ひまわりの魔女”が嫌い?」

「もちろん」


 間髪を容れずに答えが返ってきた。少年は続けて質問を投げる。


「どこが嫌いなの?」

「『魔女』という所が」

「それ以外は?」

「……特にない。“ひまわりの魔女”に纏わる噂はほとんど嘘だと分かっている。あの魔女個人に恨みはない」

「例外を作っちゃいけないから嫌いなの?」

「そうだ」

「じゃあ、助けてもらったことには感謝してるの?」

「していない。わたしは『魔女』に命を救われるくらいなら、魔女に危害を加えられたまま、あのまま死にたかった」

「……どうして?」

「そうすれば今の時代に『魔女』を迫害する理由になるからだ」


 異端審問官さんではなくあなた自身の考えは、そこに含まれているの。


 その問いは少年の口の中で転がり、ついに出てくることはなかった。


 訊くのが躊躇われたからではない。目の前にいる女性は、『異端審問官』という生き方以外知らず、またその生き方に即した回答しかできないと確信したからだ。


 ────昔々、『魔女』が人々を虐げていました。


 おとぎ話で語られるような一節が、一文が、今もまだ誰かを苦しめているなんて、誰が想像できただろうか。それがどれだけ、魔女や異端審問官の枷になっているのかを、誰が。


 魔女がどれだけ善良になろうとも、異端審問所は魔女を決して赦せない。過去の事実が、それを決して許さない。


 ……誰が為の諍いだろう。


 少なくとも、目の前にいる女や、あの少女の為のものではない。


「わたしからも、一つ訊いていいか」

「……なに?」

「どうしてお前は『魔女』に成りたかったんだ」


 少年は躊躇いながら、口を開く。


「お母さんが、寝たきりで。それを治したくて」


 今の技術では治せないと言われて、それを覆したかった。


 何としてでも助けたかった。その為なら、自分の身さえ惜しくなかった。


 ……けれど、魔女に成るのに求められていた覚悟は、そんな生易しいものではなかった。


 だから今、少年はどうしていいのか、分からない。


「寝たきりになって、どれだけ経つ?」

「もう、四、五年くらい。何も食べていないのに、ずっと変わっていないんだ」


 少年と女の静かな問答を、窓の外から一羽の小鳥が見つめていた。




 ◯




「『寝たきり』……『ずっと変わっていない』……?」


 森の中で一人、家の中の会話を魔法を使って聴いていた少女が、顎に手を当てて呟く。眉間に皺を寄せているのは、この症状に心当たりがあったから────いや。


 経験したことがあるから、と表現した方が正しいか。


「現在代替わり中なのは“瑠璃”一人。そして新しい“瑠璃”は魔女の誰かが保護しているはずなのに」


 魔女裁判はまだ行われていない、にも関わらず、なぜ──。


「っ、まさか」


 その時少女の頭によぎったのは、ある一つの可能性。ある魔女一人の裏切りで、あり得てしまう可能性。




 ────魔女が一人、死んだ。




 少女は頭に浮かんだその可能性を、頭を振って否定した。


(とりあえず、少年には簡単な魔法と医術を教えよう)


 それできっと、どうにかなる。どうにかならなければ、それは人の寿命だ。魔女がどうにかできるものではない。


 ただ、それはそれとして。


(近々『記録室』を見に行くか)


 不安要素は潰しておくに限る。少女は近くにいた鹿に、“獣遣い”への言伝を頼んだ。

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