第六話 【魔女の掟】第三条
少女が────“ひまわりの魔女”が倒れた。少年は慌てて駆け寄り、揺さ振る。彼女の身体は思わずぞっとするほど冷たく、反応はなかった。だがすやすやと寝息を立てているのを見るに、命に別状はなさそうだ。
初年は安堵の息をついた。……その横で、異端審問間が銃を構えていることなど、露も知らずに。
なんの前触れもなく、乾いた発砲音が響く。
鉛の塊は無抵抗の少女の胸に減り込み、貫通した。一瞬の出来事だった。
少女は殺された。死んでしまった。
呆然と地を眺める少年に、異端審問官が語りかける。
「まだ死んでないぞ」
「……え」
異端審問官は銃で少女を指し示す。少年は顔を上げた。何を莫迦なことを、と思った。
異端審問官が、冷笑する。
「見ろ。これが──
────空間が、歪んでいる。
そう少年が錯覚するのも、無理はない。少女の傷口から、細い糸のようなものが生え、意思を持って蠢いていた。
それらは少女の欠損した部分に癒着し、少しずつ、少しずつ少女の体の一部となっていく。彼女の穴が埋まっていく。
少女の身体に穴が開いてちょうど五分。たったそれだけの時間で何もかもが、元通り。
世界を廻す、ただそれだけのために神の権能の一部を授けられた『魔女』の不死性が垣間見えた。
(……これが、魔女)
否応なく、恐れを抱く。関わってはならないと、本能が警鐘を鳴らす。──だが、それはそれとして。
少年は黙って銃を持つ異端審問官の元へ歩み寄る。
「分かっただろう。これは我々とは身体の仕組みが異なる、忌まわしい化け物だ。排斥すべき怪物だ。……だからさっさと逃げろ。取って食われる前に」
「……ねぇ」
「なん、だぁあああああああ⁉︎」
少年は躊躇うことなく異端審問官の腹に頭突きをした。病み上がりの人間に対して思うところがないと言えば嘘になる。が、異端審問官は自らの命の恩人に銃を向け、あまつさえ撃ったのだ。これに憤りを覚えずに何を覚える。少年は恩知らずなひとが嫌いだった。
異端審問官は舌を噛んだのか、涙目で少年を睨みつける。少年が『人間』だからか、銃口を向けるようなことはしない。それが少年の苛立ちを、さらに掻き立てた。
「……なんのつもりだ」
「別に。頭突きしたかったからしただけ」
「……」
(嘘は言っていない)
異端審問官は懐疑の篭った目で少年を捉えた。少年は一歩も動かず、じっと彼女の瞳を見つめ返す。
異端審問官が、口を開いた。
「なぜ、お前はここにいるのだ? まさか偶然とは言うまい」
(正直に言っても……大丈夫、だよね)
ここで話しても即刻異端審問に掛けられる、ということはなさそうだ。そう少年は判断した。何故ならば、異端審問官が既に治療された後だから。
……魔女の魔法により治療された異端審問官の言葉を、誰が信用するだろう。少なくとも異端審問所側の人間は、誰も信じない。
魔女にその命を助けてもらった時点で、この異端審問官に残されている選択肢ほとんどないのだ。
本人もそれを分かっている。だからこそ自らはここから逃げずに、わざわざ意識のない“ひまわりの魔女”の腹に穴を開けてまで、魔女の恐ろしさを分からせてまで、魔女から少年を逃がすことを優先した。 『魔女』によっては気に食わないと殺されてもおかしくはない。ひまわりの魔女がそうでないという確証はどこにもなかった。
そういう点において、少年の目前にいる異端審問官は、立派に職務を全うしていると言える。
少年はちらりと銃を一瞥してから、淡々と述べた。
「僕は……『魔女』になりたい」
異端審問官の眉が勢いよく跳ね上がる。
「それがどういう意味か、分かって言っているのか?」
分かるも何も、あの少女は何も教えてくれなかったのだ。『魔女』になるということが一体何を意味するのか、少年に分かるはずもない。
しかし、それが何を意味していようが、『魔女』にならなければ少年の願いは叶わないのだ。彼はそれを、少女が治した異端審問官の姿を見て思い知った。
彼の望みは、誰にも受け入れられないものだから。誰も叶えてくれないものだから。
超常を為したいのであれば、自らが超常になる他ない。超常に縋るしかない。
「僕には、叶えたい夢がある。だから魔女にならなくちゃ」
「叶えればいい、人間の身のままで」
「魔女だって人間でしょ」
「魔女は怪物だ。人間ではない」
少年は唇を噛む。異端審問官とは、絶対に分かり合えないような気がした。
「人間でなくなってもいい。僕は魔女になりたい」
「……そうか」
異端審問官はそう低く返すと、徐に銃を構えた。少年は恐怖を押し殺して、銃口と対面する。
発砲音が鳴った。痛くはなかった。血が流れた。
────“ひまわりの魔女”の、少女の血が。
「ちっ……“客人規定”か!」
異端審問官が苛立たしげに吐き捨てる。立て続けに二発、三発と撃った銃弾は、全て少女の体にめり込んだ。
「ね、ねぇ大丈夫なの⁉︎」
「……」
たまらず少年が声を掛けたが、少女は何も返さない。当然だ。彼女は未だ、夢の中にいるのだから。
ならばどうして、意識のない少女の体が一人でに、少年を守るかのように動いているのか。
少年は知らない。これが対“獣遣い”用に少女があらかじめ仕掛けていた条件付きの魔法だということを。
少年は知らない。魔女の使う魔法の真髄を。真価を。
“客人規定”を。
少年が青ざめている間に、少女は次々と魔法を繰り出す。その一つ一つの魔法は容赦がなく、相手を屠る為のものだ。
再生する少女とは裏腹に、異端審問官はただ為されるがままに傷ついていく。銃弾がなくなったからか、最早抵抗する素振りも見せていない。
(これじゃあ、何の為に傷を治したんだ……!)
願うだけでは、望むものは得られない。
少女の瞼は開かない。
──ならば僕に、何ができる?
少年自身も無自覚だった。いつの間にか、少年の手が少女の手首を掴んでいた。
少女の動きが、止まる。
攻撃の手も、止まった。
瞳を閉ざし、無表情なままの少女が、少年の顔を覗き込む。彼が握った彼女の手首は、相変わらず冷たいまま。自分の体温が高すぎるのかもしれないと、少年はふと思う。
少女は首を傾げると、異端審問官のいる方を見遣った。満身創痍の異端審問官を見て、あるいは感じて、脅威は去ったと判断したらしい。ぷつんと糸が切れたように足元から崩れ落ちる。少年は間一髪で少女を受け止めた。
しん、と辺りが静まる。時折異端審問官の荒い息遣いが聞こえる。
少年は依然として眠っている少女を抱えながら、安堵の息を漏らした。
◯
【魔女の掟】第三条 客人規定
魔女は神の権能の一部を授かってはいるが、その魂は人以下の価値であるから、魔女は己の家を訪ね、言葉を交わした者を守り通さねばならない。また、その者の願いを最低一つ、叶えなければならない。
違反すると『魔女裁判』での減点対象となるが、世界の巡りに必要な違反であれば前述の通り不問とす。
この規定は家を持つ魔女にのみ適応される。
◯
少女の家の中は埃と薬草の香りがする。知らない匂いのはずなのに、どこか落ち着く。少年の『魔女の家』への評価は、決して悪いものではなかった。
しかし異端審問官にとってはそうではないらしい。落ち着かない様子で血走った目でぎょろぎょろと辺りを見渡している。
少年はアルコールが入った容器を手に取りながら声を掛けた。
「怪我人なんだから動かないでよ、異端審問官さん」
異端審問官の傷は深かった。生きていることが不思議なくらいだ。内臓にまでは至ってないが、腹に一つ深い傷。浅い裂傷は数え切れない程ある。
応急処置は本人がいつの間にかしていたが、浅い傷は処置する必要はないと言わんばかりに放置していたので、見かねた少年が家の中に無理やり押し込んだのだ。
「怪しい物がないか確認している。気にするな。……どうせわたしの命はもう長くない。魔女の魔法で救われた時点で、異端審問所には帰れない」
「それなら尚更、どうして異端審問官であろうとするの? もう帰れないのなら、全部捨てちゃった方が楽じゃない?」
「……全てを捨てるなど、できるわけがないだろう」
軽々しく言うな、と異端審問官は吐き捨てた。
少年には、分からない。
この異端審問官の生き方も、その在り方も。
自分とはまるで違いすぎて。
受け入れ難い。その気持ちを吐き出すように、少年はぼそりと呟く。
「……でも、やっぱり、おかしいじゃないか」
少年はアルコールをガーゼに染み込ませ、異端審問官の傷口に当てる。
「だって、魔女は何も悪いことをしていない」
異端審問官はため息をついてまつ毛を伏せた。怒りではなく、諦観をもって少年に問い掛ける。
「……魔女が、何も、悪いことをしていない……だと? 本当にそう思のか? 今日の“あれ”を見ても?」
こくりと頷く少年を視界の端で捉えた異端審問官は天を仰いだ。
「ならば教えよう。『魔女』の歴史を。その悍ましさを。“魔女になる”ということがどういうことなのか、教えてやろう。……その結果、お前が魔女に成るのを諦めるのなら本望だ。それがわたしの異端審問官としての最後の仕事だ。……規律違反など、どうとでもなる」
知らないとは言わせない。魔女にと願う者なら尚更。
正しくその歴史を知り、その上で決めるがいい。
その決断を、わたしは止めない。
そう前置きしてから、異端審問官は紡ぎ始める。
一般には情報統制されている、魔女の物語を。
──人でなくなった、神に背く人外の話を。
少女は薄っすらと目を開ける。随分と前、具体的には異端審問官が応急処置をしだした辺りから、目は醒めていたのだ。
勝手に家の医療用品を使うなとか、もっと清潔な部屋でとか、少年に突っ込みたい所は色々とあったが、今の今まで少女は一言も話していない。……なぜならば。
なぜならば、少女は期待していたからだ。
異端審問官の女が、少年の夢を醒ましてくれることを。
それがどれだけ残虐で、人間の都合に合わせた物語だったとしても、少女は一向に構わなかった。
その結果、少年と気軽に話せなくなったとしても、構わなかった。
『魔女』になんて、ならない方が身のためだ。
少女は被害者ではないけれど、それでも魔女になった後、魔女という道を選んだことを痛いほど後悔した。
少女が魔女になって叶えたかった願いは、魔女になった瞬間に、叶わなくなってしまったのだから。
少年がそうなってしまうくらいなら。
……そんな風に考えるのは、魔女らしくないだろうか。
過去の自分に手を差し伸べるのは、魔女らしくないだろうか。
答えのない問いはそのままに、少女は再び目を閉ざす。魔女を貶めることにかけては異端審問官たちを大いに信頼しているのだ。
(……もし、彼女の話を聞いても、魔女になりたいなんてほざくようなら)
その時は、自分の話をしよう。
愚かでどうしようもなく、ばかで間抜けで、救いのない自分の話を。
あまり人様に話せる内容ではないのだけれど、それも仕方がない。
それなら、いくら頑固で優しい少年でも諦めるだろうから。
「…………」
少女は胸に走った小さな痛みに、いつまでも気付かないふりをした。
こんなことで泣くほど、『魔女』は弱くない。だったら泣いてはいけない。ましてや魔女になりたいと願う少年の前なのだ。精々悪い魔女を演じなければ。
自分の役割を拠り所にしなければならぬ程、気が滅入っていたことに、少女は気付かなかった。
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