第四話 死者蘇生
少年にとって怖いものは、沢山あった。
例えば、川の水。昔、喉が渇いて堪らなかったときに口にし、翌日腹を下した。
例えば、毒草。触れるだけで皮膚が爛れた。
例えば銃弾。例えば人。例えば狼。
例を挙げていけばキリがない。それでも、そのどれよりも、少年が怖いのは。
────そう、病だ。
○
「不愉快だ虫ケラども、さっさとこの森から失せろ」
少年は困惑した。突然、古びた外衣を纏った、灰の色の髪を持つ男が、異端審問官と少年たちとの間に割り込んできたからだ。……ところであなた誰ですか死にたい人ですか、目の前で死なれるのは困るのでちょっと退いてくれません、と早口で物申したい気分になった。
ただ、少女とは違い、彼は見ず知らずの相手だ。少年の横で顔を歪め、男を凝視する少女が犠牲になるよりは、まだましなのかもしれない。
この隙に逃げよう。そう意味を込め、少女の袖を引っ張るが、少女は微動だにしない。どんどんと不機嫌そうな顔になっていく。
(もしかして、知人?)
そうだとすれば大問題である。誰しも顔を見知った相手に死んで欲しいとは思わない。いよいよ穏便な解決方法が分からなくなってきた。
(ここは『魔女の家』をモデルにした宿ですって言って誤魔化す? でもこの子、結構はっきりとここは魔女の家ですって言ってなかったっけ……。出てくるタイミングが恐ろしいくらい悪いよね)
少年の心の声が聞こえたわけではないだろうが、少女が少年の方を振り向いた。
「少年。今のうちに家の中に入りなさい。家の中なら安全よ」
「……魔女の守護が掛かっていたりするの?」
「そんなところよ」
「それじゃあ皆で入ればいいんじゃ……」
それが一番、皆が生き残る確率が高そうだ。少女は。目をぱちくりとさせる。少年が何を言っているのか分からない、という様子だった。
「……ちょっと待って。皆って誰と誰のことを言ってる?」
「僕と君と、あと目の前の人」
少女は額を押さえる。
「冗談じゃないわ。あんな奴を入れるなら、家を燃やした方がましよ」
あんな奴と目の前の男を称すあたり、それなりに仲の良い知人なのだろう。少女が子供の頃からの知り合いなのかもしれない。……それにしても、家を燃やすとは冗談にしても物騒である。
「? でも知ってる人だよね?」
「いいえ。全っ然、これっぽっちも知らない人。……あいつが知人とか脳が腐ってもありえない」
「やっぱり知ってるひ──もごもご」
余計なことを言うなと、少女は少年の口の中に、バスケットから取り出したクッキーを押し込む。先ほど食べたものと違い、今度は木の実が入っていた。香ばしく塩気のあるナッツが、クッキーの甘さを引き立てる。美味しい。
少年がクッキーに舌鼓をうっている間も、異端審問官は突然現れた男に銃口を向けている。猟銃の中に、鈍く光る銀製の弾丸が込められていることを少年は知っていた。
魔のものは、銀製の物に弱い。少年はそれが真実かどうか確かめる術を持っていなかったが、あの銃から発せられた弾丸が急所に当たれば、たとえ魔のものでなくとも死んでしまう、ということくらい分かっている。
異端審問官たちも狼狽えている。罪もない一般人を殺すのは、彼らの良心が邪魔をするのだろう。彼らの内の一人が、少女を指差して怒鳴る。
「お前……自分が何をしているのか理解しているのか⁉︎ お前が庇っているその少女は────!」
「ん?」
男は異端審問官の言葉に首を傾げた。それから、少女の方を見遣り、異端審問官の方を見て、再度少女の方を注視し、大きな笑い声を上げた。
しかし、森のどこにいても聞こえそうな大声で男が笑っているというのに、近くの樹の枝に止まっている鳥は、一向に飛び立つ気配がない。森の中は異常なまでに静まり返っている。少年も、少女も、異端審問官も、鳥も、獣も、誰も、何も、言葉を発せない──否、動けない。ただただ男の笑い声だけが、辺りに響き渡っている。無数のひまわりだけが風に揺れていた。
この状況を、一言で表すのなら…………そう。
(不気味だ)
何もかもが、この緊迫した状況下に似合わない。
男は一頻り笑い転げた後、構えられた銃に臆せず、異端審問官の元へと歩みを進める。やはりまだ、誰も動けなかった。
「ハハッ……こんなに人間ごときに笑わせられたのは、数百年ぶりか? それなら忘れられても仕方がないか……。それなら、もう一回記録しとけ」
最後の一言が、真冬の水のように冷ややかだった。
男は銃を持った異端審問官の元へ、ゆっくりと近付いて行く。酷く緩慢な動きであるのに、目を逸らせない。逸らせば逃れられようのない恐怖が──死が襲いかかるのではないかと少年には感じられた。
ごくりと、唾を飲み込む音がやけに大きく聞こえる。異端審問官の一人の顔を覆うように、青年が手を大きく広げ、彼の爪が異端審問官の頭に刺さる。どろりとした血が滴り落ちる。
そんな中、誰よりも早く叫んだのは少女だった。
「待て“獣遣い”! この森で、この場所で誰も殺すなッ‼︎」
叫びは命令口調だったが、それは限りなく懇願に近かった。
「…………」
男は少女の方を一瞥すると、無造作に異端審問官の頭から手を離した。血は今もなお、留めなく流れている。鉄の匂いがひまわり畑中に蔓延した。
仲間が傷つけられていく様子を見せ付けられた、もう一人の異端審問官は、身体が動くことを確認するとすぐに、脇目も振らず一目散に森の奥へと走り出した。場には男と少女と少年、それから重傷の異端審問官だけが取り残される。男はそれを見送ると、吐き捨てるように呟いた。
「寛容な“ひまわり”サマに感謝するんだな」
その言葉を聞いて、少女は般若の形相で男に詰め寄った。新緑の瞳には、怒りの色が滲み出ている。大声で放たれるかと思われた男への非難の声は静かで、短く、無数の感情が込められていた。
「もう……二度とここへ来るな。血で塗れたその手で、この地を汚すな」
「汚れているのはお前も同じじゃないか」
少女と男の視線が交わる。言葉こそないが、少年が今まで見てきた中で、それは最も苛烈な意志のぶつけ合いだった。……あるいは、決して交わることのない、二者による決戦。彼ら彼女らの中に、何人たりとも踏み込めない、そういった類のものだ。
男──“獣遣い”と少女に呼ばれたその男は、己の顔に付着した血を拭った。その手からはまだ、生温かい液体が滴っている。
やがて、男は囁くような小さな声でだって、と言った。どこか幼さを感じさせる口調で、駄々を捏ねる子供のように。
「……だって、オレもお前も汚いけど綺麗だろ。汚いなんて……そんなこと」
純粋な震え。怯え。先程まで人を殺そうとしていた者の声とは、到底思えない。
“獣遣い”は縋るように、真っ赤な手を少女に伸ばす。
「冗談でも、言うなよ」
少女は男の手を、無表情に見下ろした。
「これは事実だ」
男と自分に言い聞かせるように。
「汚いものは、最初から綺麗になる未来なんて用意されてない」
少女は男を視界の外側に追いやり、瀕死の異端審問官の元へ駆け寄る。異端審問官の顔面は血と体液で濡れ、目や鼻といった顔のパーツが歪んでいた。辺りを漂う血の匂いがあまりにも濃く、さらに死にかけの人間を直視した反動がやっとやってきたらしい。少年は思わず口元を抑えた。
死にかけている理由も、状態も違うのに、この異端審問官の姿が、記憶の中にある大事な人と重なってしまう。
(助けなきゃ)
少年は反射的にそう思ったが、足にうまく力が入らない。立っているのもやっとなのだ。
自分は、変わるためにここまでやって来たのに。『魔女』になって、救うために、ここまでやって来たのに。
目の前にいる、たった一人さえ、零れ落ちていくのか。
「おい」
男が少女の肩を掴んだ。彼女の白い服に、赤黒いものが付着する。
「こいつ、異端審問官だぞ」
「それがどうした」
少女は心底どうでもよさそうに答えた。
「私は誰であろうと、ここでは誰も死なせないと決めている」
「……好きにしろよ。オレはもう帰る」
“獣遣い”は疲労が滲み出た声で、最後にこう言い残し、跡形もなく消えた。
「次は『魔女裁判』で。またな、“ひまわりの魔女”」
「…………っ⁉︎」
少年は息を呑み、少女を凝視する。少女──いや、“ひまわりの魔女”は少年の方をチラリと一瞥すると、何事もなかったかのように、瀕死の異端審問官を抱き抱えた。それと同時に、少女の周囲に、どこからともなく現れた水滴が浮かぶ。
少年の知らない少女が、そこにいた。
「────少年」
いつの間にか家の前にいた少女に呼ばれ、少年はびくっと肩を震わせる。それを見たのか、少女は苦笑した。
「『大丈夫』だから、きちんと助けてみせるから、今は安心してそこで待っててね」
「あ……」
何かを伝えたかったはずなのに、礼を言わなければならないのに、少年の口は思ったように動いてくれない。
出会い頭に衝突した時とは、雰囲気から声音まで全く違う少女。
少年には、彼女がどこか遠くに行ってしまったように感じられた。
○
(あぁ、もう、本当に……今日は調子が狂う)
少女は己を害しにきた異端審問官に容赦するつもりはなかった。“獣遣い”が異端審問官に何をしようが、口を出さないつもりだった。
それでも、あの『赤』を見た瞬間、あの日の記憶が現実と重なった。
年中咲き誇っているひまわりが、忌まわしく思えたあの日の。
呪いだと実感した、あの日の。
それはきっと、『魔女』になりたいとやって来た少年の姿が、自分と重なってしまったからだ。
無知は、時として何よりも恐ろしくなる。そしてそれを、誰よりも少女がよく知っている。
ただの善意が、思いもよらぬ方向へ歩みを進めることだって。
少女は小さく頭を振ると、作業台に置いた体の元へと歩みよる。
「……出血多量、心拍数低下、意識混濁。脳の欠損。一部の器官の損傷。片目の欠損。私は医者ではない。正規の手段では治せない」
魔女は時として医療行為を行う。自身の経験に則って、あるいは自らの医療知識に則って、助けを求めた人間を治療する。そのお代は魔女によって違い、腕もまちまちだ。
そして少女の腕は『上級』だった。とはいえ、知っているのは応急処置くらい。専門的なことは何一つ学んでいない。
それでも彼女が上級に分類されるのは、“ひまわりの魔女”のみに使用が許されている魔法にあった。
「おい、お前、聞こえてるか? 生きたいか?」
「……ウ、ア、ァぁ」
「よし、上等だ」
ぐちゃぐちゃの肉塊から呻き声が上がったのを確認し、少女はぱんと手を叩いた。それを皮切りに、彼女の足元から光が溢れ出す。無秩序にただ広がるだけの光は、やがて意志を持ったかのように一本の線になり、枝分かれして紋様を描く。
神秘ではない。この世の理を、ただ視覚化しただけに過ぎない。
奇跡ではない。あらゆる犠牲の元、差し出された対価である。
だからこその『魔法』。常人には理解できない、様々なものを捨て『魔』に近付いたものたちの使う術。
美しくも、綺麗でもない。それでも人が、魔法に惹かれるのは。
(きっと何も、知らないからだ)
体の状態を読み取り、成分を解析する。人体に魔法を使うのは禁忌だが、“獣遣い”の尻拭いをするのだ。それくらい許されて然るべきである。
解析が終了し、少女の家の中から、外から、小さな粒子が集まってくる。それらは段々と形を取り、異端審問官の損傷前の体を作った。それは本物に瓜二つ────いや、本物と全く同じだった。
少女は微笑みかける。
「大丈夫。お前が生きたいと望む限り、そちらの方を向く限り、私が全て何とかしてやる。救ってみせる」
魔女にはそれぞれ、神から下賜された魔法がある。さらに言えば、神から魔法を下賜されない限り、その者は『魔女』と世界に認められない。他の魔法をどれだけ上手く使えようが、それがなければただの人間なのだ。
そして、“ひまわりの魔女”に下賜されたのは、魔女の中でも最も弱いと称されている魔法────精神保護の魔法である。それも、かなり限定的な範囲でしか使用できない。
使い道がない、使っても使わなくても変わらない精神保護。
そう思われていた。先代の“ひまわりの魔女”の代までは。
その認識が変わったのは、少女が“ひまわりの魔女”となって、数年が経った頃だった。
魔女になるため、先代に修行をつけてもらっていた彼女は、現存する魔法のほぼ全てを自由自在に使えた。それこそ、魔女となってすぐの彼女の元に現れた“獣遣い”に圧勝するくらいには強かった。
そんな彼女が住む森に、一つの死体が投げ入れられた。まだ死んで間もない死体だ。
それを目にした時、少女はふと、精神保護が使えることに気がついた。
(精神保護が使える条件は、その者が『生きたい』と願う意思)
自ら光の方を向き、成長していくひまわりのように。
この魔法は、自らがそう望むものにしか作用しない。微笑みかけない。
────この者は、まだ生きたいと願っている。
死体となっても。
そうして彼女は、一つ目の罪を犯した。
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