3.嵐と目覚めの章
しばらくの間、サーラは何も考えず、何をすることもなく、小屋のなかで過ごしていました。ただ、老人が湖からとってくる魚や貝を食べ、そして眠りました。
ある夜のこと、湖の
小屋は鈍く
石造りの城で育ったサーラは、嵐の怖ろしさなど味わったことがありませんでした。壊れそうな小屋の軋みに耳を塞ぎ、震えながら身を縮めるばかりでした。
老人は、
「何をそれほどに怖がる。おまえには何が聞こえているのか」
「小屋が、もうだめって叫んでいるわ」
サーラは悲鳴のような声を絞り出しました。
「それは、おまえさんの心が作り出した叫びだろう。わしには、風の唸り、雨の滴り、柱が噛み合う音が重なって聞こえるだけだ。聞き手のことなど気にしない自然の楽師の調べとも言えないこともないが」
笑いながら話した老人は、いつもの平穏な夜のように目を閉じました。サーラは幾分安心しましたが、身体の震えはおさまることはありませんでした。
翌日、戸口の隙間から射し込む光にサーラは目を覚ましました。外に出てみれば、夕べの嵐が嘘だったかのように空は青く澄んでいました。眩しい太陽の光が、あたり一面に注がれています。
「まあ、きれい!」
軒先を見あげたサーラは小さな声をあげました。
そこには、美しい織物のようなクモの巣がかかっていました。透明な糸が、朝の露をまぶして銀色に煌めいています。
「きれいとな?クモは美しさなど求めてはいない。ただ生きるために巣を作っているだけだが」
いつの間にか、魚の入った網かごを抱えた老人が隣に立っていました。
「とてもきれいよ。それが分からないなんて、もったいないわ」
子どものようにはしゃぐサーラに、老人は首をかしげました。
「美しさを求める心が、おまえさんを苦しめる事になったのだろう。だのに なぜ、また美しいものを見ようとするのか」
「いいえ、わたしは見ようとなんかしていないわ。良いも悪いもない・・きれいなものは、ただきれいなだけ。そうだわ、きっと、私の気づかなかった美しいものが、いっぱいあるに違いないわ」
サーラの返事に老人はカラカラと喉を鳴らして笑いました。
・・ ・・ ・・
その日からサーラは働き始めました。
まずは埃だらけの小屋の中を隅々まで拭き上げました。そして老人や自分の服の
老人が言った通り、小屋の中には、サーラが触れても美しさを失くすものはありませんでした。たとえ埃に覆われたテーブルを綺麗に磨き上げ、後でまた触れたとしても、そのつややかな光はしっかり残っていたのです。
そうして、サーラの心の傷はゆっくりと癒えていきました。
日が経つほどに気持ちは軽やかになっていき、これまで経験したことのない釣りや、食事の支度もするようになりました。そして夕暮れには、湖の水で一日の汚れを落として眠りについたのです。
いつの時か、サーラの瞳にはあらゆる物が生き生きと輝いて見えるようになっていました。
朝、太陽は朱色の光で、湖に夜明けを知らせました。黒い森に息を潜めていたキツネやシカなどの獣が、命の雫を求めるように水辺に現れて首を垂れました。地面に生えた草は、朝露が流れるたびに、朝の挨拶を交わすように小さく揺れました。
夕方には、一日との別れを惜しむように鳥たちが鳴き、紫色にたなびく雲の彼方に羽ばたいていきました。空に浮かんだ星々は、明日の光の夢のように湖に煌めきを映して踊っていました。
「飾りも何もないのに、どうしてこの場所は、この小屋の中はこんなにも美しいのかしら」
ある晩、小屋の中を見まわしながらサーラは老人に聞きました。
「さてさて、その答えは、おまえがよく知っているはずだが」
老人は微笑みながら頷くと、
「のぞいてごらん」
「まあ、あの花がこんなところに!」
サーラは目を見張りました。
お椀の水の中には、城の噴水の中に見たあの花が、青く輝きながら映っていました。
「その水には、おまえの心が映っている。今のおまえの心の中には命の花が咲いているのだ」
しゃがれた老人の声が滑らかになりました。
「ここでおまえは、物事が自然の姿で在ることの素晴らしさを知り、自分の生きる力を蓄えていった。そして枯らしてしまった命の花を育てなおしたのだ。それは見事に花開いた。周囲のものが美しく見えるのは、その花の煌めきが心の外に映し出されたため。在るというだけで、物事は尊く美しいということを、その花は見せてくれているのだ」
「ああ、天使さま、あなたはずっと私のことを見守っていて下さったのですね」
サーラは思わず目を閉じ、硬く手を合わせました。
「おまえの瞳は、天上界に湧き出る泉の水のように澄んでいる。他の者は、おまえの瞳の中に、自分自身の命の花を映して見ることができる。だが、おまえ自身はかなわない。それほどに澄んだ瞳を持つ者は、他にいないからだ。わたしはそんなおまえに、自分の命の花がどのようなものか、もう一度、見つめてほしかった」
天使の声は、だんだん小さくなっていきました。
目を開いたサーラの前には、もはや神々(こうごう)しい姿はありませんでした。
「ありがとうございます。天使さま」
サーラは天使の光の余韻を残す天井を仰いで、感謝の祈りを捧げました。
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