4.帰還と愛の章
翌日、小屋の戸を開けたサーラの前には、美しい道が伸びていました。
足元から湖の周辺、そして森の中まで、小さな草が
それはサーラが血を流しながら歩いてきた道でした。足を進めると、草の蕾が花開きました。
「あなたたちは私を迎えてくれているの?」
咲いたばかりの花に、サーラはそっと手を伸ばしました。指先に触れた花は、微笑むように小さく揺れました。
「私が歩いてきた道。そして これから歩いていく道」
サーラは古ぼけた小屋に手を合わせ、前に向き直りました。
歩みを進めるほどに、蕾は花開いていきます。日の当たらない森の中ででも、次々と鮮やかな色を広げていきます。
「ごめんなさい。あなたたちの暮らしを邪魔してしまって」
慌てたように足元をかける小さな虫たちに、サーラはそっと声をかけました。暗い森の中は命に溢れていました。
森を抜けた時、遠くに懐かしい城が見えました。
しばらくいくと、ぞろぞろと連れ立って歩いてくる人々がいました。皆、疲れ果てているようにうなだれています。傷を負い足をひきずっている人もいます。
その中には見覚えのある顔がいくつもありました。城の兵士たちでした。
「どうなされたのです。城で何かあったのですか」
「王女さまが輿入れをするはずだった隣国の王子が戦をしかけてきたのだよ。敗北した我らは居場所をなくしてしまった」
兵士の一人が答えました。打ちひしがれた心に、目の前のサーラの汚れた顔は気にならないようでした。
「もしや、あなたは王女さまではありませんか」
なにげにサーラの顔をのぞき見た他の兵士が、立ち止まって聞きました。
サーラは首を傾げました。
「確かに私は王女。でもどうやって、こんなに薄汚れた私を王女だとおわかりになったの」
「あなたがお生まれになった時、喜びに溢れた王様はおっしゃいました。幼い王女の瞳の奥に美しい花が咲いているのを見たと。私は今、あなたの瞳の奥に一輪の美しい花を見たのです。
皆よ、希望を失くしてはいけない。王女さまが、わしらの元に戻ってこられた!」
その兵士は声高く叫びました。
周囲にいた人々が集まってきました。苦しみに満ちていた顔が、サーラの瞳を見つめるほどに
人々は、サーラの瞳の奥に自分の命の花を見つめ、苦しみや悲しみから解放されたのです。生きる力を、世界を喜びをもって見つめる視線を取り戻したのです。
物心ついた時から、サーラは人の笑顔というものを、これほど近くに見たことがありませんでした。間近に見ていたはずの王の笑顔は、いつもどこか遠くに向けられていました。
唯一の例外は、ほんのひと時、会っただけの王子の飾り気のない笑顔でした。しかし、その王子が戦をしかけてきたのです。
「あの優しい笑顔を向けてくれた王子さまは、今は敵となってしまった。この汚れた私が城に帰る理由はどこにもない。
でも、並んだ花の蕾は私の歩みを待っている」
サーラは進みました。
もはや、サーラの薄汚れた外見を気にする者はどこにもいませんでした。歩くほどに付き従う人の数は増えていきました。
そしてとうとう、蕾の道は終わり、岩だらけの道を上って城の北側の裏門にたどり着きました。サーラは南の表門にまわりました。
門を固めていた隣国の兵士たちは慌てました。
戦に負けて去っていった
「この乞食女め、こっちにこい!」
兵士の一人が荒々しくサーラを捕まえ、城の中に連れていきました。付き従ってきた人々は暴れることもなく、希望に満ちた顔をあげ、門の前で待っていました。
・・ ・・ ・・
数知れぬ戦いの傷跡が残っていましたが、大理石でできた城の中は、変わらずに美しく輝いていました。
大広間の厚い扉を開きながら、兵士が太い声で言いました。
「城の門に、人々を引き連れたあやしい女が現れたので捕らえて参りました」
長テーブルについていた異国の装いの兵士たちが、一斉に振り返りました。
サーラの外見を見て、皆、顔を歪め、眉をひそめています。そのような中で、一番奥の椅子に腰掛けていた若者が立ち上がりました。顔をほころばせながら、サーラに歩み寄ってきます。その若者こそは隣国の王子でした。
一同が驚く中、王子はサーラの手を引いて、自分が腰掛けていた椅子に座らせました。
「サーラ王女、あなたが戻ってこられるのを、ずっと待っておりました」
王子は膝をついて丁寧に言いました。
サーラの瞳を見るまでもなく、王子は すぐにサーラを王女であると気づいたのです。
「王子さま。なぜ 優しいあなたが、この国に戦をしかけたのですか」
サーラは聞きました。自分を待っていてくれて、そして礼儀にあふれる王子が戦をしかけたなど、今の行動からも信じることはできませんでした。
「あなたが姿を消されてから、お父上は、私がこの国に攻めてくるという思いに取り憑かれてしまわれたのです。それで、わたしが船で渡ってきた時、戦が始まってしまいました。私は幾度も誤解を解こうとしました。しかし、お父上はどうしても聞いて下さらなかったのです」
言いながら王子は、席の端に座っていた兵士に合図を送りました。
兵士は部屋を出ていき、すぐに戻ってきました。後ろにはすっかりやつれた王が立っています。サーラの顔をちらりと見たものの、まだ、自分の娘だとは気づきませんでした。
サーラは立ちあがり、王の前にひざまずきました。
「王さま、私をよくご覧下さい」
力なくサーラの顔をのぞきこんだ王の目が、大きく見開かれました。
「おまえの瞳の奥に花が見える。ずっと以前にも、わしはそれを見たことが・・そう、幼い王女の瞳の中に」
王は顔を上げ、しばらくどこか遠くを見つめていました。そして再びサーラを見つめた時、その瞳は赤くうるんでいました。
「サーラ、わが王女よ。これまでわしは、おまえの外側の美しさばかりを見ていた。妃を亡くした悲しみが、心でものを見ることからわしを遠ざけ、生身のおまえを忘れさせていた」
王は、王子に振り返りました。
「聡明な王子よ。わしは、ほんのひととき前まで、あなたの顔に怒りを見ていた。だが、それは誤りだった。あなたは、ずっと微笑みかけてくれていたのだ」
王子は広間の隅の、ガラスケースに納められていた王冠を手にとりました。
「あなたは、いまだこの国の王です」
姿勢を正して話すと、王冠を王の頭に恭しく載せました。しかし、王は首を振りました。
「わしは曇った心で、あなたに戦いを挑んだ。そして兵士たちは、皆傷ついて去っていってしまった。王冠を載せていたとしても、わしに王である資格はない」
「お父さま、兵士たちはおります」
サーラは王をバルコニーに誘いました。大窓から突き出したバルコニーからは、城の周囲の様子が手にとるように見えています。
「ああ兵士たち、そして民よ。皆は、わしをまだ 王と認めてくれているのか」
王は大きく息をつきました。
城の周囲の山の斜面には、先ほどの兵士たちに加えて何千人もの人々が集まってきていました。バルコニーに立つ王の姿を見つけた人々からは、その名を叫ぶ喜びの声が響いてきます。
「これでもあなたは、王である資格がないとおっしゃるのですか」
王子は王の前でひざまずき、深く頭を下げました。人々の歓声はさらに大きくなりました。
「王様、もはや、私がこの城に残る理由はなくなりました」
王子が話しました。
「私は、ここで王女のお帰りをお待ちしていただけです。そして王女は戻ってこられた。もし異論がないのでしたら、これより 王女をわが
王は返事をせず、かわりにサーラに顔を向けました。
「王子さま、私は美しさを失くしてしまいました。それでもよろしいのですか」
サーラは尋ねました。
「私のあなたへの想いは変わりません…」
王子は微笑みながら応えました。
「舞踏会で、私は一人たたずむあなたの瞳とすれ違った。そして私はあなたを選んだ。それは、お父上がご覧になられたように、あなたの瞳の奥に、美しく咲く花が見えたからです。あの瞬間、私の心から様々な欲望や
私はあなたと共に、我が愛する国を、世界を見つめていきたいのです」
そう言って、サーラの手をとり、優しく口づけをしました。
サーラは王子の瞳の奥に、煌めくものを見たような気がしました。
『私の心の内に咲く命の花。それは自分では見ることができない。でも、それがあるということを、この方の瞳は教えてくれる』
サーラは王子の申し出に応えるように、片足をそっと引き頭を垂れました。
青く澄み切った空の彼方に稲妻が走りました。
『誠の愛を育くもうとする男女は、互いの瞳の中に 自分の命の花の煌めきを見る。
サーラ、これは、おまえとの楽しい日々を過ごした者からの ささやかな祝福の印。遠慮せずに受けとられよ」
雷の低い轟きとともに、
雲一つない空から、
雨は、サーラに染みついていた汚れを洗い流し、やがて純白のドレスとなって身体を包みました。
「ああ、あなたさまが教えて下さった生きる喜び、生涯、忘れることはありません」
サーラは涙を流しながら空を仰ぎました。
その美しい瞳には、微笑みながら遠ざかっていく天使の姿が映っていました。
終わり
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