百夜の先へ

———百夜通い100日目。

「なあ今日はあれから百夜だよ」

 黄色い焼き菓子のような月を見上げながらハロルドが呟く。

「とっくに忘れてたよそんなこと」

 ぶっきらぼうな声で返事をすると、ハルは微笑みながら「そうだと思った」と言って、抱き寄せてキスをする。心の奥底にあった氷の結晶はいつの間にかなくなっていた。いや初めからそんなもの無かったのかもしれない。神経質になってあまりに多くのことが見えすぎていたのだろう。

「ぼんやりすることも大切だ」

 いつかリチャードが言っていた言葉が頭に中に響く。その意味がようやく理解できた気がしてなんだか嬉しくなる。

「ねえルネ」

 ハロルドの呼びかけに振り返る。

「愛しています。ずっと一緒にいてください」

 彼の柔らかい瞳が、優しい声が、全てが僕を包んだ。

 自然と涙が溢れ、声にならない声で返事をすると、ハロルドはすごく嬉しそうに僕を抱きしめた。


 こんなに幸せな時間がずっと続けばいいのに。そう願っているだけじゃダメだ。行動をして新しい自分に出会いたい。この百夜通いを通して出会いや別れがあった。ハロルドはきっと新しい僕も好きだと言ってくれるだろう。底なしの自信は彼がつけてくれたんだ。

 そう思いながら僕は医務室のドアを叩いた———


「ここの問題の答え違うぞ」

 医薬品のにおいが充満している部屋で、リチャードと向かい合って問題を解く。人体の構造や薬学、毒医学や植物薬の開発の書物が机の上に無造作に並べられている。山積みになった本の間からリチャードは顔を覗かせてニヤニヤしている。

「意地悪しないで教えてよ」

 昔から勉強は嫌いではなかったが、得意でもなかった。ちゃんと勉強しておけば良かったと涙ぐみながら机に向かう。

「それにしても一体どういう心境の変化なんだ?突然医学を勉強したいだなんて」

 リチャードは顔中に疑問符を浮かべながら、首を傾げている。

「単純に人の力になれることが嬉しかった。あとはハロルドの側にいれるから」

「ふーん。まあでもいい心境の変化じゃねえか。よく笑うようになったよ。もう氷の聖母マリアなんて柄じゃなくなっちまった」

 そう言ったリチャードは少しだけ寂しそうに窓の外を眺めている。

 ハロルドの応急処置をした時、自分の不甲斐なさを感じると同時に誰かに必要とされる充実感を感じることが出来た。それは僕にとって初めての感覚だった。

 そして医学知識を持った修道士は王立騎士団の遠征に同行することを許されていることをハロルドとの会話の中で知った。

 騎士団入団試験を受けないと決めた後、修道士としてこの王立修道院に残る意思を院長に伝えると、「あなたの人生だから自由になさい」と院長は誠実に向き合ってくれた。

「ちゃんと自分の意思で決めたことです」

 それを聞いた彼女は後ろを向いて肩を震わせていた。

 僕の生活や見える景色は大きく変わることはないけれど、愛する人が隣にいてくれるだけでこんなにも世界がまぶしいってことをハロルドは教えてくれる。灰色だった景色はいろとりどりに色づいて僕はもう寂しくはない。彼の底抜けの愛情にたくさん救われてきた。

 以前、ハロルドに「何か欲しいものある?」と聞いたことがある。彼は空中を見つめながら少し考えた後、腕を大きく広げて抱きついてきた。すると「ルネをこうして抱きしめる時間」と耳元で囁いた。

 馬鹿だなぁ。そんなものいくらでも、欲しいだけ与えてあげる。もうとっくに僕の心はハロルドのものだ。

 医学を勉強してハロルドやジャンのことを助けたい。生まれて初めて心から実現させたいと思った夢だ。

 廊下を誰かが歩く音がする。甲冑が擦れる音とこの歩幅の足音はハロルドだ。昨日も顔を合わせていたのに、こんなに早く会いたいと胸を弾ませている。

 ハロルドが僕に命を吹き返してくれたんだ。だから生きている限り、君と一緒にいたい。君を想わない日はもうないんだから。

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聖なる雪解けは百夜のあとに 本家本素 @ponpon1126

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