真夜中の告白
冷たい夜風がまつ毛をなびかせる。頬はひんやりとして目が覚める。
「ごめん。寝てた」
「疲れただろう。今日はゆっくり休もう」
馬の上で途切れる意識の中ぐらつく僕を、ハロルドは振り向いて心配してくれる。きっと彼の方が疲れているのに申し訳ない。それでも今夜———
「今すぐしなくてはならないことがあるんだ」
決心が揺らいでしまうと、なし崩しになるように全てがダメになる気がする。この絶妙な駆け引きは早めにしないとダメなんだ。
暗闇の森を抜けてようやくこの場所へ帰ってくることができた。門の前で微かに光が見えて、もうすぐ閉門の時間であることを悟る。うっすらと目を萎めてみると、今日の閉門の当番は幸いにもリチャードだった。
「戻ったよ。リチャード」
「ルネか?こりゃまたえらい様変わりして」
手燭台の光がリチャードの驚いた顔を映し出す。彼は眼鏡を正しい位置に戻して僕の全身を見渡すと、安堵が混じったような軽いため息をつく。
「どこ行ってたんだ。みんなが心配してたぞ」
「本当にごめん」
「いや俺に謝られてもしょうがねえよ」
僕は彼に向けて頭を下げたが、呆れたような声でこちらを見下ろしているのがわかった。なぜかハロルドも申し訳なさそうな顔で側にいてくれる。
「今から食堂って使えるかな」
「ああ。火の始末だけはきちんとしてくれれば使ってもいいよ」
突然の申し出に驚きながらも、親切に答えてくれるところが彼らしい。
「わかった。ありがとうリチャード」
僕らは急足で階段を登る。すると別の足音が遠くから聞こえてくる。燭台の炎が曲がり角の先にあったので、歩みを止めて待っていると見回り当番の修道女と出くわした。
「戻ったよ」
「え?その声は……ルネなの!?」
彼女は曲がり角の先にいたのがまさか僕だと夢にも思っていなかったようで、目を大きく見開いて、棒立ちになっている。
「無事でよかったわ。攫われたんじゃないかってみんなで心配してたのよ」
「心配かけてごめん」
すると彼女はいつも快活な性格なのに、やたら僕の顔を見て茫然としている。
「どうしたの?なんか顔についてる?」
「何だろう。すごくかっこよくなったから別人みたい」
そう言うと頬を染めて、僕を見つめてくる。
「そんなことはないよ。それよりもみんなに伝えたいことがあるんだ。起きてる人だけでもいいから食堂に集まってもらえるかな」
「う、うん。わかったわ」
戻ってきて初めに出会えたのが彼女でよかった。ハキハキと物事を進めるタイプだからきっと上手いことやってくれる。
一度身なりを整えようと部屋へ戻ると、月の光が床一面を照らしていた。
タンスの上に置いてある鏡には髪を短く切りそろえた自分が映る。母の生き映しでなくなった等身大のルネ。頼れるものは何もない。それでも昔の自分より今の自分の方が何倍も好きだと胸を張って言える気がする。
部屋の外へ出ると廊下でハロルドが腕を組んで待ってくれている。
「ハロルド。つき合わせてすまない」
「問題ないさ。ところで食堂で何をするつもり?」
彼は顔を上げて、こちらに近づいてくる。部屋から漏れ出る月の光に照らされてハロルドの顔がよく見える。冷静な表情の中にも、心配の色を滲ませている。
「男であることを伝えて、修道院を辞める」
その瞬間、大きなハロルドの手が僕の腕を掴む。思ったよりも力が強くて身体がこわばってしまう。
「……早急すぎないか。もう少し時間を置いても」
「いや、もう決めたことだから」
ハロルドは僕の顔を見ると「そうか」と言い、そっと手を離す。
「付き添った方がいいか?」
「いや、ひとりで行くよ」
長い髪にハサミを入れることを決心したあの朝から考えていたことだった。勢いだけで修道院に戻ってきてしまった。いや、勢いでいかないと心の端々から迷いが生まれてしまいそうで仕方のないことだった。
それでも彼の熱い体温にあてられて、引き止めて欲しいという気持ちがほんの少しだけ生まれてしまう。
ハロルドには僕の部屋で待っているよう伝えた。彼も相当疲れているはずだ。僕のことが好きとはいえ、あまりに好き勝手に連れ回しすぎたかもしれない。彼の優しさに十分に甘えさせてもらった。ちゃんと一人でけじめをつけよう。
食堂が近づくにつれて、大きくなる心臓の音。胸に手を当てるとハロルドの声が蘇ってくる。
———ずっと一緒にいたい。
それは嘘偽りのない真実の言葉。でもどうやったら一緒にいれるんだろう。僕は修道院を辞めてどうしたいんだろう。
真っ暗な冷たい湖の中へと入っていくような恐怖で全身が震え上がる。
そして修道院の仲間たちはそんな自分を受け入れてくれるだろうか。ずっと生活を共にしてきたのが実は男で、女だと偽っていたなんて自分が逆の立場だったらものすごく気持ちが悪いことではないだろうか。自分だったら拒絶するかもしれない。裏切りと失望が同時に押し寄せてくるに違いない。
震える手を自分で押さえながら、賑やかな声が漏れ出ている食堂のドアを開ける。古びたドアの音と共に、たくさんの視線がこちらに注がれて、時が静かに止まったようだった。
そんな中、誰かが最初に声を上げてくれたことで、徐々に先ほどのような賑やかさを取り戻していく。
「ルネ!本当に無事でよかったわ」
「髪短くしたのね。ビックリしたけど似合ってるわよ」
注目をされるのが苦手だけれど、「ありがとう」と一言ずつ返事をする。
集まったのは全体の半分くらいだろうか。各々談笑をしていて和やかな雰囲気だ。その顔ぶれを見ているとあることに気づく。
「ミランダとエマは寝てる?」
僕の何気ない問いかけに、近くにいた修道女が突然暗い表情になる。
「それがね、言いづらいんだけど。……ミランダが倒れちゃって」
「倒れたってどういうこと?」
「ショックを受けないで欲しいんだけど、ミランダはあなたがいなくなった花冠祭の夜から一人で休まずに探しに行っていたのよ」
「そんな」
「今はだいぶ落ち着いているわ。エマが付きっきりで看病してくれてる」
「ルネにも事情があったんだよね。騎士団長様が護衛に向かわれたって聞いて安心したんだけど一体、何かあったの?」
「———ごめん、詳しくは言えないんだけど」
ざわつきはまだ止まない。
「……男なんだ、僕。その……みんなのことずっと騙してごめん」
話し声は一斉に止まり、息苦しい沈黙が訪れる。「え?」という声を皮切りに、次々にざわつき始めると、収集がつかなくなってしまう。
どうしよう、どうしよう。こちらを見る視線の痛さに全身が硬直する。こんな時ミランダがいてくれたら、「みんな落ち着いて」ときっとその場を沈めてくれる。自分のせいで倒れたなんて。早く顔が見たいという焦りも募る。
もちろんみんなが混乱するのも当然だ。何年間も同じ時間を過ごしてきた仲間であり、家族だ。女の園である修道院で、修道女として神の道を選んだのに。
男であるこという真実は罪に等しく忌々しいのだ。気持ち悪がられても仕方ない。ましてこの性の知識が乏しい修道院で、男という存在がどれだけ異質なものかは計り知れない。幼かったとはいえ、自分の性を偽って生活することに疑問を抱かなかった自分が恥ずかしい。窮屈だったのは剣術が出来なくなったということで、周りの人の気持ちなんて考えてもみなかった。自分の未熟さに腹がたつ。
驚きや哀しみ、納得や好奇、色々な感情がぐるぐると渦巻く空間に嗚咽がしてきた。血の気が引いてきて立っているのがしんどくなってきたその時、食堂の入り口の影からエマが出てきた。
「知ってたよ」
そう言い放った彼女の一言で、みんなの声が一斉に止まり、また静寂が食堂に訪れる。
エマは足元を見つめながら、とぼとぼと部屋に入ってきた。目元は赤く腫れており、いつもの元気な頬の色は青白く顔色が悪かった。
駆け寄って彼女の頬に手をかざすと、その小さな手で僕の頬に触れてくれた。
「ルネはみんなと違うって知ってたの」
エマの直球な言葉にきりきりと心臓が痛んでくる。
「なんで?」
「みんなでかくれんぼした時に、間違えてエマのお部屋に入っちゃったことがあるの。そしたらルネが入ってきて。わたしがタンスの中に隠れていることに気づかず、お着替えを始めちゃったの」
そんなことがあったとは知らず、動悸が止まらなくなる。普段から鍵の施錠は気を付けていたし、着替えも浴室の中でするようにしていたのに。自分の少しの油断でこんな小さい子に秘密を抱え込ませることになるなんて。
「裸がみんなと違ってビックリしただろう?怖くなかった?」
僕は恐る恐るエマに尋ねる。
「ううん、やっぱり!って思った」
「やっぱり?」
「ルネってすごくキレイだから、からだまでキレイで当然だなって。あと聖書に描いてある天使様に本当にそっくりだった」
エマは目を輝かせながら、あの日の思い出を語ってくれる。この純粋な幼き女の子に恐怖を植え付けていなかったようで安心した。もし怖かったと言われたら、僕はもう立ち直れなかったかもしれない。
「院長様が言ってたよ。みんなは神様に選ばれて生まれてきた特別な人間だって。だからルネも特別なの。そんなに悲しい顔しないで。ね?」
彼女の春風のような暖かい言葉で、心にそっと灯りがつく。
エマは走って他の修道女の元に行って数人の手をとる。
「みんな、ルネとの楽しい思い出っていっぱいあるよね?どんなウソをつかれてても、楽しいって思い出の方がエマの中では勝ってるの」
彼女らしい独特な理論を展開しているけれど、僕にとっては救いの言葉でしかなかった。優しくて心の底から温かい。周りの強張った空気が緩やかに解けていく感じがする。10年間も一緒に過ごしてきて、楽しかったことも、辛かったことも同じ時間を共有してきた。今の自分を作ったのは、修道院の仲間との思い出たちだ。
「だからね、ルネはルネのままでいいんだよ。男とか女ってそんなに大事かなあ?エマには関係ないね」
エマは細い腰に手を当てて、胸を張る。
ざわついていた修道女たちは顔を見合わせながら、こちらに向かってくる。
「ルネ、取り乱してごめんなさい。驚いただけなのよ。エマがいう通りあなたはあなただもんね。男だろうが女だろうが私たちの関係は変わらないわ」
後ろで見守っていた子も腑に落ちた面持ちで真っ直ぐ見つめてくる。
———告白をしたことで自分が楽になりたかった。そんな甘い考えをしていた数時間前の自分が恥ずかしい。結局僕はこの仲間たちに何度も救われて、生きてきているんだ。
視界が涙で霞んで、「ありがとう」という言葉がたくさんこぼれ落ちてくる。
「ほらそんなに泣かないで」「そんなに泣くと台無しだわ」と次々に言葉をかけられる。その言葉に何度も何度も救われた。
自分という人間はさぞかし扱いにくいだろうと自覚している。愛想笑いもできないし、人見知りで人との距離感がとれない人間。
でも昔誰かに言われたことがある。
「ルネって賑やかに騒いだりしないけど、その空間には居てくれるのよね。普通本が読みたかったら図書館に行くじゃない?でも少し遠くでみんなと一緒にいてくれる。そういう所が可愛いのよ」
そう指摘されて初めて気づいた。確かに自分から場を盛り上げるという方ではないけれど、賑やかな場所は好きだった。むしろ、いたくてその場にいた。故郷の家がいつも会話で溢れていたからかもしれないなと、今ならそう思える。
また自分自身でルネという人間像を決めてしまっていることに気づいた。その自覚が落とし穴なのかもしれない。周りの目を気にして理想に沿って生きていくことはつまらないと思う。でもまさにそれを自分が無意識でやっているとは思わなかった。
この場で修道院を辞めることを伝えようと思ったけれど、「もう少し時間を置いても」というハロルドの声が頭に響く。この場の雰囲気にも押され、言い出すことは踏みとどまった。
「そうだミランダの部屋に行かなきゃ」
僕は思い出したように辺りを見渡す。
「部屋にはいないよ」
エマは首をかしげて、元気が無くなった植物のようにしおれる。
「どこにいるんだい?」
「医務室だよ」
それを聞いて心臓が跳ねた。ミランダは医務室に縁がないような心身ともに健康的な女性だから。何かにつけて医務室で休んでいる僕とは訳がちがう。そこまで具合が悪いのか。
エマは僕の顔を覗き込んでバツが悪そうに申し出る。
「ルネは今行かないほうがいいかもしれない。ミランダ、ちょっと別人みたいだから」
喉から言葉が出なかった。一晩以上僕を探し回っていたと聞いた瞬間、「ミランダだったら本当にするかもしれないな」と想像がついてしまった。ただえさえ責任感が強いから、ミランダの監督不足のせいで行方不明になっているなんて思わないで欲しい。全部僕のせいだという思いが積み重なってのしかかってくる。
「やっぱり会いにいくよ」
そう告げてみんなに「ありがとう」と頭を下げる。見渡すと、いつも通りの笑顔を向ける彼女たちに心の底から感謝を捧げる。
服の袖を引っ張られ、下を見るとエマが「私も一緒に行くよ」と言ってくれて2人で医務室に向かうことになった。
「エマ、迷惑ばっかりかけてごめん」
「ううん」
そう俯くエマは立っているのがやっとなくらい疲れた顔をしている。
医務室の重々しいドアを開けると、窓から吹き込む風が医薬品独特のツンとした匂いを連れてくる。
カーテンをのぞくと、ミランダが眉間にシワを寄せた苦い顔で寝転がっていた。眠っているとは思えないくらいに小さく唸り声が漏れていて、心苦しさが最高潮になる。
「ミランダ、ごめん帰ったよ。ルネだよ」
悪夢でも見ているのだろうか。彼女の唸り声に圧倒されながらも、頬に触れるとじんわりと汗をかいていてやはり辛そうだ。
ミランダと何度も耳元で呼びかけると、黒々しいまつ毛が微かに動いて薄くまぶたが開く。
「———ルネなの?」
「うん」
ミランダはようやく僕だと認識してくれたようで、時間が止まったように見つめられた。
「心配かけてごめん。戻った」
この世の絶望の淵に佇んでいたような表情は、少しずつ普段のミランダへと戻っていく。呼吸がだんだん落ち着いていき、ゆっくりと上体を起こす。
「私こそごめんね。ちゃんと見ていれば連れ去られずに済んだのに」
僕の行動とミランダの認識は何かが食い違っている。誰かに連れ去られた記憶はない。
「いや、自分からあそこを抜け出したんだよ」
ミランダは言葉の意味が出来ないようで固まってしまった。
「母さんに会いに行っていたんだ」
「母さん?見つかったの?」
「そう」
ミランダの視線は喜びの中にも寂しさが滲んだような色をしている。
「それで修道院のみんなには僕が男であることを知らせた」
「な、なぜ?」
彼女は驚いた様子で布団を押しのける。
「あと僕はここを去ろうと思う」
「いや、ダメよ。ダメよ、ルネ!」
ミランダの肩と声は同時に震え出し、その波はどんどん大きくなっていくのがわかる。怒っているのか悲しんでいるのか、表情からはわからない。
「やめなさい。ミランダ」
カーテンの外から出てきたリチャードがミランダの肩を抱いて、身体を制する。
「ルネ、あなたがいなくちゃ生きていけないの」
「ごめん。ミランダ」
こんなに取り乱す彼女を見るのは初めてだった。何がこんなに彼女を追い込んでしまったのだ。
すると彼女は窓際においてあった花瓶を取り、手を高く上げて振りかざす。
その瞬間憎しみに染まったミランダの目が僕を捉えて、標的にする。
「やめろ!ミランダ!」と叫ぶリチャードの声が部屋中に響き、スローモーションのように花瓶が飛んでくるのが見えた。
ああ、ぶつかる。彼女に憎まれて当然のことをしてしまったんだ。どれだけ心配をしてくれたんだろう。これがぶつかったら、償いになるだろうか。
ガシャンと鈍い音と、ガラスの割れる衝撃音が重なったように響き渡る。思わず目を閉じてしまったので、恐る恐る目を開けると、すぐ前に立ち塞がっていたのはハロルドだった。
「離れろルネ!部屋に戻るんだ。すぐ行く」
リチャードが獰猛なミランダの動きを制しながら、叫ぶ。
「おい!大丈夫か」
「へ、平気だ」
可能な限り走ったけれど、ハロルドの表情はかなり辛そうで見ていられない。
僕の部屋へ戻ると、流水でガラスの破片を取り除く。流れ続けて数分、足元は血の海ができていた。
「なんで医務室に来たんだ!?部屋にいろと言ったのに」
「すまない。嫌な予感がして他の修道女に居場所を聞いたんだ」
「だからって、こんなになってまで……」
腕の皮膚にはさっくりと細い切り傷が出来ていて、部屋にあったガーゼの洋服で止血をする。こんな時に知識があればちゃんと処置できるのに、と後悔する。
「ルネ!これ服だろう?ダメだよ!」
ハロルドはたまにおめでたい頭をしている。こんな緊急事態の時、あるものはなんでも使わなければ。ガーゼから染み出してくる血液に「止まれ」と念じながら、彼の腕を握りしめる。
すぐにリチャードがやってきて、応急処置をしてくれる。手際よく消毒や縫い付けを行う様子を見て、彼は本当に医者だったんだなと再認識。彼は「出血量の割に、傷は浅くてよかった」と言いながらふらふらとした足取りで帰って行った。
僕のベッドにハロルドを寝かせる。サイズは合っていないが今日は仕方ない。
自分は即席のベッドでも作って寝ようと、部屋中にある毛布や洋服を集めていたとき、ハロルドの犬のような強い視線を感じた。
「どうしたんだよ。痛みで寝れないか?」
「ルネがここに来てくれたら痛みが和らぐ気がする」
彼は怪我をしている方の腕を上にして横向きに寝ており、その手前には小さな場所を確保してトントンと手招きをしている。
普段であれば呆れて無視を決め込む所だが、今日ばかりは助けてもらったこともあり、優しくしてやらねばなるまい。渋々そこへ近づき、同じ方向を向くように寝転がる。するすると背後から腕が回ってきて抱き枕になった気分だ。
「ルネはいつもいい香りがする」
「変態みたいなこといってないでさっさと寝ろ」
そう告げると少し間を空けて再び寝転がると、長い沈黙が続く。
「普段はあんな子じゃないんだ。許してやってほしい」
いつも理性的で聡明なミランダを脅かした原因はまぎれもなく僕のせいだ。でもなぜかはわからない。理由を探せど見つからず、頭が混乱して胸の奥が重苦しくなる。
ハロルドはゆっくりと「もちろんさ」と呟くと、力が抜けたようにぐったりと眠りについた。僕もそれを見届けると、意識がどんどん遠のいて眠りに落ちていった。まるで嵐のような時間だった。
太陽の白い光が部屋中に反射しており、憂鬱になるほどまぶしくて、目が開けられない。朝は得意ではないけれど、この時間になると自然と目が覚めてしまう。習慣とは怖いものだ。ふと振り返るとハロルドの姿はなかった。
「すまない。一度戻る」と書かれた紙が枕元に置いてあることに気づくと、何だか心の奥にぽっかりと穴が空いたような喪失感に襲われた。起きてから顔を見て言って欲しかった。こんな気持ちになってしまうほど、僕らは一緒にいすぎたのだ。
感情をどこにぶつけていいのかわからず、ただ茫然とその紙をみつめるしかなかった。ハロルド、お前はどんな気持ちでこのメモを残したんだよ。
———「ルネとずっと一緒にいたい」と彼は言うけれど、どうすればそれが叶う?何か考えがあるのだろうか。その気持ちにすがりたいけれど、そうはできない。
ぼんやりとした頭を現実に引き戻すかのように、ドアをノックする音が聞こえた。
「ルネ。起きてる?入ってもいいかしら」
院長の声だ。手が届く範囲でベッド周りを綺麗に整えると、「どうぞ」と一言声をかける。精錬とした面持ちの院長が部屋へ入ってくると、部屋の様子をチラリと横目で見ているようだった。彼女がここへくるのは10年前、僕が初めて修道院を訪れた日以来。
「この部屋も変わっていないわね」と言いながら少し物憂げに笑みをこぼす。
「私もあなたと同じ修道女だった頃、この部屋で生活していたのよ」
部屋を見渡しながら柱の傷に手をかざしながら、かつての少女時代に戻っている顔をしている。「初耳です」そう告げると静かに振り向く院長と目が合う。
「そうね。初めて言ったかもしれないわ」
その声は心なしかいつもより優しくて、素の彼女を垣間見ることが出来た。
「あの頃苦楽を共にした仲間たちは誰一人もここに残っていないの」
彼女にも幼き日の思い出がある。この世界で唯一、時間というものが平等に振り分けられたものである。誰しもに小さかった時代があることを思い知る。
「みんなに男であることを告白しました」
その瞬間少し口元がこわばったように見えたが、「そう」と言いながらすぐにいつもの慎ましやかな顔つきに戻る。
「初めて会った日、直感的に感じていた。あなたはここを自分の意思で旅立つんだろうって」
「アレットは元気だった?会いに行ってたんでしょう?」
院長の口から出てきたその名前を理解するのに少し時間がかかってしまったが、シモンが母のことを呼んだ瞬間が脳裏に蘇ってくる。
「なぜ母の名前を……?」と尋ねる。
正直、母の過去のことはあまり聞いたことががなかった。自分から言う人でもなかったし、父も話すことがなかった。
「彼女は元々ここで修道女として暮らしていたのよ。昔から可憐で愛らしい娘だった。それはもうあっという間に美しいと評判の看板娘になってね」
母と院長はひとまわり以上年齢が違うけど、よく一緒に遊んだそうだ。天真爛漫で外遊びが好きなアレットと物静かで読書が趣味の院長。
「アレットは16歳の春、恋に落ちたの。図書館に出入りしているあなたのお父さんに恋をしていたわ。それはもう周りが見えなくなってしまった」
突然両親の恋の話になって驚いたが、何だか若い日の父と母を想像すると気恥ずかしさが込み上げてくる。
院長はこちらに背を向けて、母のことが自由奔放でうらやましかったと言う。
その口ぶりから察すると父と母はここで出会い、恋に落ちた末にここを出て、海が近いあの街へ住んだのだろう。
母から連絡が入った時は驚いたと院長は言う。この修道院を狭くて苦しいと思っている人もいる反面、母にとってはここはまさに青春の場所だったのではないかと。楽しくて安全で、嫌なことなんて一つもないユートピア。
———「残念ながら私は前者だったわ」と言った彼女の後ろ姿はどこか寂しげで消えてしまいそうな儚さをまとっていた。
「運命的な恋も落ちていない。何もない、無なの。でもこの場所だけが、私は私として生きることを認めてくれたの」
祈ることだけが生き甲斐の人生。そこでしか生きていけない辛さ、それを許してもらうための祈り。彼女は一人でそんなことを思って祈っていたのだと思うと、胸の奥が少し痛んだ。
「私を縛っていたのは何よりも自分自身なのよ」
その言葉を聞いた瞬間、頭の中に陽の光が差した。それだ、自分もそうなのだ。自分が言いたかったのはと。
「わかります」と一言呟くと、院長は振り返って微笑んだ。
「未来のあなたを縛るものは何もないわ」
そう言って彼女は部屋を出ていった。言葉の真意はわからないけれど、何となく突き放されたような寂しさも少しだけ芽生えた。
この日は1日中、ベッドの上で過ごした。窓辺からは夕陽が差し込み、足先がひんやりと凍っていくように冷たくなっていく。
今日は何も出来なかった。このベッドの上で重たい鉛のような身体の中で悶々としているだけだった。悲しくもないのに視界には涙が溜まって、目頭が熱くなる。なんの涙かもわからないまま、流れ出る水分がただ枕を濡らしていくのを見つめていると、部屋に扉を叩く音が聞こえる。
「ルネ、ここにいるのか。入ってもいいか?」
ハロルドの声だ。いつも会いたくないタイミングで現れるな、こいつ。
他の部屋は静まり返っている様子から、みんなは夕拝を行なっているのだろう。サボってしまった罪悪感が塵のように積もっていく。
「どこに行ってたんだよ。怪我は大丈夫なのか?」
「ああ問題ない。それよりも聞いて欲しい話があるんだ」
彼の腕には厚く包帯が巻かれていて、昨日の今日で治るはずがない怪我なのだが、少しも痛そうなそぶりを見せないところが彼らしい。
そんなことを思っていると、上着の内ポケットから紙を取り出し僕の方へ手渡してくる。
「王立騎士入団試験案内用紙……これは?」
「1ヶ月後、うちの騎士団の試験がある。もしルネにその気があれば受けてみないか」
突然いなくなったと思ったら、こんな紙を取りに行っていたのか?
「お前は馬鹿か。1ヶ月後だろ?何も準備してないし、間に合うわけがない」
「受けてみるだけでもやってみないか?今後に繋がるチャンスになるかもしれないし」
頭に血がのぼってくるのがわかった。彼の善意からの提案だとわかっている。何でそんなこと無謀なことが言えるんだろう。
「不合格になるのが目に見えてる」
「やってみるだけでもいいじゃないか」
「お前と恋仲にでもなれば受からせてくれるのか?」
思ってもいないことが口に出た。彼ら騎士団には誇りがある。日頃から訓練や勉強を重ねて試験に合格した国内屈指の精鋭たちだ。
その瞬間胸ぐらを掴まれ、ハロルドが冷たい視線でこちらを見下ろしている。初めて見る顔だ。普段は温和で優しい雰囲気をまとっている分、その状況が異質で人が違ったように思える。
「本当にすまない。魔が差した。……頭を冷やしてくる」
そう告げたハロルドは操り人形のような冷たい顔をして、部屋を出ていった。
また静かになった部屋はひんやりと夜風が差し込んできて、僕自身の頭もようやく冷えてきたようだ。
身体のだるさが限界を迎えたのでリチャードのところへハーブティーをもらいに行こうとしていた道中、後ろから声をかけられた。
「ルネさん!久しぶりっすね」
ジャンの変わらなさになんだか安心感がどっと押し寄せる。
「すみません。団長知りませんか?」
「ごめん。僕が怒らせたみたい」
辺りを見渡しているジャンに尋ねられて、下手な言い訳をするよりいいだろうと素直に答えてしまう。
「あの団長が怒る!?滅多にないですよそんなこと」
知っている。それほどのことをしてしまったのだ。思ってもないことを口走ってしまうのは恐ろしい。
ジャンに心配をかけさせまいとその場を足早に立ち去り、医務室の前まで急いで向かう。医務室の扉をノックもせずに開けると、驚いた顔でリチャードが金縁メガネの奥からジロリと目線を送ってくる。
「リチャード、ハーブティー欲しいんだけど」
「ああいいぞ。好きなだけ持っていきな」
お礼を言うとリチャードは嬉しそうに、ティーバッグが入った銅製の缶を持ってきてくれた。缶はひんやりとしていて、年季の入った質感だ。
「ルネからもらいにくるなんて珍しいな」
受け取るとすぐさま缶のふた開け、一気にカモミールの香りに包まれる。この一瞬の強い香りが好きなのだ。
「やっぱりいい香りだ。……実はここ最近気を張ることばかりで」
そう言葉にした瞬間、頭の中をハロルドの顔が横切った。
「母親のことか?」
もうリチャードも知っているのか。そりゃそうか、情報通だもんな。妙に納得をすると、首を横に振る。もちろん母親に再会したことは大きな変化だった。でもそれ以上に僕自身が変わる機会になりそうな未知の大きな何かがやってきていることを本能的に感じるのだ。
「この10年間、僕はここでの生活が辛くて不自由で毎日泣いてた」
リチャードは万年筆を手に取り何か書き物をしており、働いている彼に対して、こんな話をしていいのかわからず、少しだけ視線を上げて表情を垣間見る。するとリチャードは動きを止めて、こちらをちらりと見る。
「でもいざ離れることが出来るかもしれないとなると、目の前が真っ暗になったみたいな感情が押し上げてくる」
何も見えない。未来がない。この先どうやって生きていくのかも、どこに行けばいいのかもわからなくて、ただ怖い。
「それは変化が怖いんじゃないか?」
そうだ。それが言いたかった。喉元につっかえていた異物が取れたように、すっきりする。
「生きてりゃ何かしら変化するってことは避けられない。時に変化は怖いことだ。なぜなら変化の先にあるのは大抵が経験したことが無いものだから」
「でもな」とリチャードは遠くを見つめて言う。
「そういう変化の時に側にいてくれる人間は大切にした方がいいぞ」
その言葉を聞いた瞬間、ハロルドのことで頭の中がいっぱいになる。文句も言わずに遠方の故郷までついてきてくれたり、僕に入団試験の機会を与えてくれた。百夜通いのおかげで、寂しくはなかった。
「まあ、しがないオジさんからのアドバイスとして受け取ってくれや」
そう言った声はぶっきらぼうながらも、決して突き放すことはなく、彼らしい優しさを感じることが出来た。
「ありがとうリチャード」
そう告げて、ハーブティーの缶を抱える手にぎゅっと力を込める。
「たまにはぼんやりすることも大切だぞ」
医務室のドアに手を掛けた時に、後ろから声をかけられた。その言葉の真意を僕はまだ受けとめることが出来ないかもしれない。でも自分にとってすごく重要な言葉のような気がして、胸の奥に綺麗にしまい込む。あまりに見えすぎて考えすぎているのかもしれない。これは癖だから仕方がないんだけれど、今隣にいてくれる人のことをもっと考えたいとは思う。ハロルドのことをもっと考えたい。ハロルドがいる未来を信じたいと心が訴えかけているから。
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