夕暮れの告白

 昨夜は泣き疲れて眠ってしまったけれど、目覚めは意外にもすんなりと、体重が何キロか減ったのではないかと思うくらい身軽になっていた。

「この軽さがずっと続けばいいのに」と心の中で切に願いながら、家の中心に位置するテーブルに腰掛ける。年季が入った木製のテーブルは所々傷がついていて、なんとなくどうやって付けた傷か覚えている気がする。10年前は自分の目線と同じくらいのサイズ感だったのに、ようやく今になって身体に馴染んでいるように感じれて、少し嬉しい。

 身体を丸めて頬を表面につけると、遠くで家族の声が聞こえてくるみたいだ。テーブルに並べられるのはトマトやロメインレタスなどの野菜が入ったミックスサラダ、自家製湯種パンと両親が愉しむための熟成赤ワイン、メイン料理はハーブ鶏のコンフィ。そしてひよこ豆のトマトスープ。

 頭の中では美味しそうな光景が広がっていて、腹の虫が鳴る。目を開けると、食べるものが何もないという現実が待ち受けていた。こんなに空腹だったことすらも気づかなかったくらい、昨日は目まぐるしい1日だった。

 ハロルドも軽い身支度を終えるとテーブルに腰掛け、「お腹空いたよね。何か食べに行こう」と提案してくれた。彼の大きな身体にこの小ぶりなテーブルが似合わず、笑ってしまいそうだ。

「まず髪を切りたい」とハロルドに告げると、少し驚いたようだったが「手伝うよ」とすぐに口元を緩めて笑ってくれた。

 彼が賛同してくれたことに胸を撫で下ろす。

 「えー!切っちゃうの?もったいない」と修道院の仲間たちには髪を切ることを反対されたことがある。彼女たちが口々に言っていたのは「シツレン」だとか「ミソギ」だとか。どこで覚えてきたのだかわからないような言葉を使っていたけれど、そんなことはどうでも良かった。ただ気分を変えたいそれだけ。髪を変えただけじゃ、何者にもなれない。ただのルネ・エルズモンド18歳。

 ハロルドは僕の長い髪を大きな手で漉きながら、まじまじと見つめる。

「ルネの髪は天使のヴェールみたいで本当に綺麗」

 彼の言葉は時折キザなようにも聞こえるけれど、本心から生まれた一点の曇りもない言葉であることは、なぜか本能的に分かる。そして荒んだ心にその言葉がよく染み渡ることも事実なので、何も言い返せなくなる。


 ———朝目覚めた瞬間、雷が走って天啓を下されたかのように「髪を切ろう」と奮い立ち、家中からハサミを探し出した。見つけたのは取っ手が少し錆びた母の手芸用のものであった。

 母はよく僕たち兄弟のために小さなぬいぐるみを作ってくれたり、キッチンで使う布物を作っていた。優しい手から出来上がる完成品はどれも丁寧に作られたことが分かるくらいの出来栄えで、カラフルで可愛いものばかりだった。

 彼女はこのハサミをどんな思いで使っていたのだろう。ハサミの取っ手に指を通して、動かしてみるけれど刃の端にも錆が回っているようで、ざらつく音が鈍く響き渡った。

 

 ふと思い出に浸っていると、ハロルドは飽きることなく僕の髪を撫でていた。愛おしそうに小動物でも撫でているような触り方に、全身が熱くなっていく。そんなに大事そうに見つめていると、こちらも髪を切る決心が揺らいでくるじゃないか。その揺らぎを粉砕するかのように、彼に提案をする。

「ハロルド、切ってよ」

「え、私が?」

「なんかお前に切って欲しいなって」

 単なる気まぐれからの発案だったが、我ながらいい思いつきだった。彼の手元を見るに、どうやらハロルドはこういう細かい作業か苦手なようだ。凛々しいはずの眉毛は下がりきって、困った顔をしている。ハサミを持った手は、ぎこちなく予測不可能な動きをし始めている。

「へ、下手でごめん」

「うん、まあ大丈夫」

 ジョキジョキと大きな音を立て、先ほどまで自分の一部だった髪の毛が束になって床に散らばっていく。いざ切ってしまうとほんのりと喪失感が生まれるのが不思議だ。

 手前に置いている銀縁の鏡をハロルドが不安そうな顔でのぞいてくる。

「本当にこれでいいの?」

「いいよ、十分。あとは自分でやるよ」

 ハロルドは重荷をやっと下ろせた安心感で、自然と大きなため息をつく。

 彼はどうやら不器用で心配性なようだ。意外な一面を知れただけで十分、いやかなり満足感に満たされた。知らなかったことを知れるということは少し楽しいと思えるようになった。全部ハロルドと出会ってからのことだし、彼がいなかったら永遠にこの気持ちを知らなかった可能性だってある。ずっと凍っていた僕の心を溶かしてくれるみたいで、じんわりと温かくなる。空っぽになった心のカップは、こんなことで満たされていく。

 床に散らばった髪はかき集めるとものすごい量で、まるで小さな海ができたみたいだ。二人でそれを眺めていると、「「あ」」と声が重なる。

 同時に思い出したのが面白くて、思わず目があう。ここへきた本来の目的を忘れていた。海に行って宝探しだ。

 ハロルドは目を細めながら窓の外を見つめる。

「今日は宝探し日和だ。朝なのにもう太陽が眩しい」 

「そうだな。きっとお宝がたくさん見つかる」


 ずっと着ていた修道服はカバンの中に詰め込んだ。僕の服装は父の白いシャツに兄が履いていた黒いパンツを合わせてみた。パンツは久しぶりに履いたので股のところに少し違和感がある。

 支度を済ませて家のドアを閉める。鍵穴はあるけれど壊れていて役目を果たしていないドアノブ。こんなに綺麗な状態で家の中が残っていたことは本当に奇跡だと思った。まるで幸せな記憶を閉じ込めたまま凍らせたみたいだ。


 首筋にひやりと涼しい風が通り抜ける。自分で最終的に整えた髪は、我ながら完成度が高いと思う。今まで長い髪で守られていた首はむき出しになってさらされていて、何だかものすごい違和感があるけれど慣れるしかない。

「まずは腹ごしらえをしよう」というハロルドの提案で市街へおりてきた。メインストリートでは朝市が開かれている。奇抜な色でゴツゴツした鱗をもつ魚や、水を滴らせて並べられているカラフルな果物。見たこともないような商品がびっしりと木箱の中に瑞々しいまま詰まっている。視線を上に向けるとさまざまな果物が吊るされていて、目が飽きない。たくさんの人で賑わっていて、みんな朝だというのに明るい表情で充実感に満ちていた。

「もうすでに宝探しみたい」

 活気に圧倒されながらぼそりと呟くと、ハロルドは僕に視線を落とす。

「ルネに食べて欲しいものがあるんだ。こっちに来て」

 そう言いながら僕の手を握ると、エスコートしてくれる。大きな身体で道を開けながら進む姿は、とても頼もしく感じた。10年前の子犬のようだった彼とは似ても似つかない。

 そして道中気づいたことがある。ハロルドは行き交う人々にたくさん挨拶をしてもらっていた。

「ハルくん、おはよう!調子はどうだい?」

「ハルくん、この前はありがとう。またよろしくね」

「ハルにいちゃーん、今度遊んでねー」

 老若男女を問わず親しげな様子で話しかけられていて、そしてそれに親しげに返事をしながら歩くハロルド。どういうことか理解できずに静かになっている僕に気づいて、ハロルドは身体を寄せて囁く。

「5年前までここに住んでたんだ。ルネがいなくなったあとも住んでたから庭みたいなものだよ」

 ふうん、と納得したけれど少しだけ違和感が喉元に残っている。数年ぶりに戻ったにしてはあまりにも親密そうな挨拶だったからだ。まるで昨日も会っていたかのような距離感。ハロルドの過去は謎に包まれていて、時々混乱する。僕は彼のことを何も知らなんだなという寂しさもある。

 心の曇りが晴れないまま人混みを進んでいると大きな曲がり角があって、人の流れとは反対側に進むと小さな路地に抜けた。

「着いた、ここだよ」

 視線の先には、葡萄のような濃い紫色に塗装されたドアがある。その周りは石造りの壁で大きく覆われていて、生命力の強そうな植物の蔦がびっしりと張りついている。

 重そうなドアを開けると、美味しそうなにおいが鼻を刺激し、猛烈な空腹感に襲われる。辺りを見渡すと暗い店内には本を読む人や談笑する人がちらほら座っていて、自由に過ごして良いような雰囲気が漂っていた。

「おはようマスター」と言うハロルド。ここは彼の馴染みの店のようだ。

「ああ、ハルくん。おはよう」

 丸眼鏡をかけてきっちりと白髪を固めたマスターがこちらをちらっと見てくる。軽く会釈をしただけで、僕について余計な詮索をされなかったのでありがたかった。

 席について少し待つと注文をしていないのに、マスターが料理を運んでくる。テーブルに置かれたのはキッシュだった。修道院でも何度か食べたことがあるけれど、こんなに色々な具材が入ったものは初めてだ。

「美味しそう」とつい声が漏れる。

「食べてみてよ。ここのキッシュは絶品なんだ」

 フォークを入れると生地がサクッと切れて、色とりどりの断面があらわれる。一口頬張るとほうれん草や厚切りベーコン、玉ねぎが絶妙なバランスで混ざり合って幸せが押し寄せてくる。上層にある赤い身は木苺のようだ。意外な組み合わせだったけれど、酸味が弾けて爽やかで美味しい。

 視線を上げるとハロルドと目が合って、蜂蜜みたいな甘い笑顔をこちらに向けてくる。

「何見てんの?」

「美味しそうに頬張る姿が嬉しくて」

 そう言ってハロルドも口にキッシュを運ぶ。誰かと食べる食事でこんなに満たされたのは久しぶりだった。お腹だけではなく心も満足していく。

「いいなって思うものを相手に楽しんでもらうのは緊張するんだよ。もしも嫌いだったらどうしようって」

「ふーん。そういうものなのかな」

 ハロルドは愛おしそうにキッシュを眺めている。

「必ずしも気に入って欲しいとは思わないけど、同じものを共有している時間が嬉しいっていうかさ……」

 そう言うと彼の耳や頬が次第に赤く熱を帯びていく。その様子になんだか可愛いと思ってしまう。彼と時間を共にすると、まるで鏡のように、自分の中に眠っているたくさんの感情が発見できる。すごく疲れるけど、ちょっと楽しい。


 ある程度食べ終わった頃、近くのテーブルに座っていた大柄の男たちに声をかけられ、ハロルドは席を外した。仲良く談笑している様子を見ると同世代の友人のようだ。

「キッシュはいかがでしたか?」とマスターに声をかけられて、我に返る。

「すごく美味しかったです」

「それはよかった」

 マスターは白髪といってもまだまだ若さ溢れる様子で、背筋がピンと伸びている。渋い声がカッコよくてかなり女性人気が高そうな感じだ。

「あの」

 テーブルの食器を片付けて、立ち去ろうとするマスターの動きが止まる。柄にもなく人を呼び止めてしまい、ずっと頭の中で宙ぶらりんだった疑問をぶつけてみる。

「すみません。ハロルドはよくこの街へくるんですか?」

「え?ああ。来るもなにもこの街が今活気にあふれているのは彼のおかげだよ。この街で彼ほど愛されている人間はいない」

 マスターは敬意を込めた目でハルを見つめている。

「どういうことですか?」

 その視線を追うように僕もハロルドを見つめる。

「ここは元々貧困街だった。ハルくんの生まれたところなんだ」

「ここが?」

 先ほどまで歩いてきた道はきちんと舗装されていて、たくさんの美味しそうな食べ物が並び、なによりも人々の活気にあふれていた。本当にここが?

 疑っている僕の顔を見るやいなやマスターは口を開く。

「驚くだろう。つい10年前は石が剥き出しの道路に住む場所がない人たちが、ひしめき合いながら布を張り雨風を凌いでいたんだ」

 貧困街といえばそのようなイメージがある。昔一度ここへ来たことがあるけれど、地面に寝転がる人々はみんな泥だらけで下を向いて苦しそうな顔をしていた。必死に生き延びようと食べ物をせがむ人や汗を流しながら両手を組んで神の救いを待ち侘びている人もいた。

「ハルくんは剣術道場で王立騎士団にスカウトをされたそうだ。それだけでもすごいことなのに、そこで働いた自分の給料を資本にこの街で労働組合を立ち上げた」

「労働組合ですか」

「ああ。初めは仲間内だけの若いグループのようなものでね。その若さの勢いというかやる気というのはものすごくて、大人たちも巻き込んで一気に活気付いていった」

 マスターは遠くを見つめながら、当時のことを思い出している。

「環境整備のために技術を教える教育者を招いたり、商いの基本を学ぶ機会を設けてね。それがどんどん広がっていって、今や街として機能するようになったんだ」

 知らなかった。彼がこの街でどうやって生きてきて、どうやって王立騎士団になって、こんなにも街の人々に愛されているだなんて。確かに挨拶を交わす住人たちの目には親しみはもちろん敬意に近いものがあった。

「彼には人を動かすカリスマ的な能力がある。まだあんなに若いのに本当にすごいと思うよ」

 僕の記憶の中のハルは子犬だったのに———その記憶の中に閉じ込めてしまっていたのはむしろ自分の方ではなかったのかと急に恥ずかしくなってくる。

 自分が修道院の中で過ごしていた10年間。卑屈になって下ばかり見ていた10年間。ほとんど僕は真っ暗な絶望の淵にいた。自由を奪われ、何もかもを諦めて神に祈る毎日。

 その反面、10年という時間はハルにももちろん平等にあって、自分のため、仲間のため、街のために働いていた。なんて立派なんだろう。

 この違いを比べるなという方が難しい。比べても自分のみすぼらしさが濃くなっていくだけなのでやめたいけど、負の感情は止められない。

「君はハルくんの友人?」

 そう聞かれて戸惑った。ハロルドとの関係はなんといえば正解なんだろうか。普通友人というのは口付けをするのだろうか。いや、多分しない。

「友人です。……昔からの」

 最後に付け加えた言葉を聞いてマスターはにこやかに微笑んだ。

「そうか。もしかして君がルネくんかい?」

「そうですけど、なぜ僕の名前を?」

 マスターの口からまさか僕の名前が出るなんて夢にも思っていなかったので、驚きすぎて何度も瞬きをする。

「以前ハルくんに、そこまで街の復興にかける情熱はどこからきているのか聞いたことがあるんだよ」

 マスターは顎を何度も撫でながら近くの空中を眺めるように言った。

「君のことを命の恩人だと何度も言っていた。母と恩人がいてくれたからこの街に恩返しをしたいって」

 ———命の恩人。

 いくら記憶を辿ってもその言葉の意味を探し出せない。僕はハルを崖の上から救い上げたこともないし、海の中から拾い上げて助けたこともない。

 言葉と記憶がこんがらがり始めたのを察知したのか、ハロルドがテーブルへ帰ってくる。

「2人して何話してるの?」

 ハロルドは僕たちの顔を交互に見比べている。

「彼がルネくんなんだってね。すごく格好良くてびっくりしたんだ」

 「彼」と呼ばれることも「格好良い」と言われることも、新鮮でこそばゆかった。生まれてこのかた言われ慣れていなかったので、恥ずかしい。

「うん。自慢の友人だよ」

 「友人」と聞いたその瞬間、ハロルドの言葉が刺さって自分の中の何かが砕け散った。その破片を拾い上げても、その理由がなんなのかわからない。少しの失望。

 反面、僕らの関係にもちゃんと名前があったことの安堵感で胸を撫で下ろす。ハロルドと僕の間にある天秤はこんな小さなことでバランスを崩す。

「そうか。また一緒にいらっしゃい。特別なキッシュを作って待っているよ」

 特別と聞いて胸が高鳴る。

「うん。また近いうちに」と言って店を出た。


 店を出て歩きながら空を見上げると、太陽が高々と頂点に君臨していて、もう時刻は昼前になっていることを教えてくれた。青く澄みきった空には1つだけ雲が浮いていて、まるで仲間とはぐれたように彷徨っている。

 その雲がまるで自分のように思えて、ずっと見つめてしまう。これから僕はどこに向かうのが正解なんだろうか。思い切ってハロルドに尋ねてみる。

「これからどうしたら良いんだろう」

 漠然とした質問に対して、彼は真顔でこちらを見つめてくる。

「それはルネが自由に考えたらいい」

 答えになっていないような答えが返ってきて腑に落ちない。

「修道院にいるときは、外で母さんと昔みたいに暮らすことが自由だって思ってた。でもあの家に自由があるとは思えない。かといって母さんの今の幸せを引き剥がすことはできないよ」

 ずっと頭の中でモヤモヤしていたことを吐き出して、自分の中が空っぽになるくらいスッキリした。問題は解決していないのに、何だか少しだけ楽になる。

「うーん。なんていうか、昔のルネじゃなくて、今のルネが幸せだって思える時間を過ごすことの先に、自由があるんじゃないのかな」

 そう言いながらハロルドは僕の手をとり軽く握る。大きさは倍くらいあるので、すっぽりと包まれた手は温かくて安心する。

 今のルネ・エルズモンドは紛れもなくここにいる。それなのにどうして見失っていたのだろう。過去や未来をああでもないこうでもないと思い悩んで、結局自分が今したいことはなんなのだろう。思いつく限り挙げてみると、ミランダやエマと楽しい時間を過ごしたい、リチャードに旅の話を聞きたい、剣術を磨きたい、美味しいご飯が食べたい、そして———ハロルドのことがもっと知りたい。この男の色んな顔が見たい、声が聞きたい、気持ちが知りたい、過去が知りたい。単なる好奇心とは言えないような、激しい衝動が芽生えている。

 

 過去に囚われていたのは母でもなくハルでもない。自分自身だった。みんな折り合いをつけて新しい居場所を見つけている。僕だって修道院をやめようと思えばやめれたかもしれない。でもやめなかった。自分が無意識に選択したことだ。夢を諦め、自由を諦め、自分を見失っていたのは紛れもなく自分。ひと呼吸つくことでモヤモヤを全部吐き出す。


「なあハロルド。昔の僕と今の僕、どっちが好きだ?」

 我ながらとんでもない質問をしてしまっている。

 ハロルドは一瞬だけ質問の意味を理解するのに戸惑っていたが、すぐに満面の笑顔に戻る。

「昔も今もどっちも大好きだよ」

 質問の意味が伝わっていないようだったが、彼の笑った顔を見ていると全てを許せてしまう。ちょっとだけこの答えを期待していた自分がいた。

 少し間をおいて両足の歩みを止めると、それに気づいたハロルドが振り返る。

「どうした?ルネ」

「ごめん、やっぱり宝探しは行けない」

「え?」

「どうしても今日行くべきところがあるんだ」

 ハロルドはこちらを真っ直ぐ見据えながら、一言だけ「わかった」と呟くと馬を走らせてくれた。

 青い空には白い月がうっすらと見えて、こちらを見ている。夜空にぽっかりと浮かんでいる月に比べ、反対側には眩しく光る太陽がある。今日は孤独じゃないよ、寂しくないよと語りかけてくるようで、不思議と力が湧いてきた。

「身体しんどくないか?」

 そう言った声はやっぱり優しくて、目頭が熱くなる。咳払いをして、涙をごまかしてみるけれど少しだけ目尻から溢れてしまった。風になびいて涙はどこかへ消えていった。首筋を通り抜ける風が心地よくて、髪を切って良かったと実感する。

「全然平気さ」

「ならよかった。ルネはさらに強くなってる気がする」

 ハロルドの言葉に時々悩まされる時もある。過大評価しすぎているのではないかと。相変わらず身体は弱いし、つまらないことでウジウジと悩んでしまうのに。

 でもこの飾りっ気のない素直な言葉を受け止めるだけの強さが欲しいとは思う。一言も無駄にしないように、こぼさないような大きな器が。こうやって差し伸べてくれた手を離さないようにしたい。

 日が沈み、空が蒼く深みを帯びていくと一番星が輝き始めた。僕が僕であるためにしなくてはならないことがある。そのためにあの星が導いてくれている気がして何だか心強い。


「ねえ、何でそこまでしてくれるの?」

 揺れる馬の背に乗りながら、ハロルドの大きな背中に問いかける。

 彼は真っすぐ前を見ながら答える。

「ルネが好きだからに決まってるだろ」

「へえ」

「相変わらず反応が薄いな」

 少し笑ったようにこちらを軽く振り返る。

「小さな頃はたくさんの女の子が“好き“って言ってくれたよ。でもその子たちと遊んだことも話もしたことがなかったから僕は好きとは言えなかった」

 目の前で悲しむ女の子を前に、どうすればいいか固まるしかなかったあの頃を思い出すと背筋が冷たくなる。

「今でもなんでみんなが自分を好きになってくれるんだろうって思う。好きって何なんだろう」

「好きっていう言葉は人の数だけカタチがあるんじゃないかな」

「人によって違うってこと?」

「ああ。そうだね。例えばだけど、好きな人をずっと見ていたいとか独り占めしたいとか、相手に認めてもらいたいとかもあるのかな。すごくシンプルだけど、その反面複雑な感情なんだと思う」

「ハロルドの僕に対する“好き”は何?」

 少し間が空いて静かに呟く。

「ルネとずっと一緒にいたい。そういう”好き”」

「へえ。いつから?」

 質問攻めだねと照れた顔で言いながらも、ちゃんと答えてくれる。

 この手の質問に関しては、ハロルドの答えが僕の世界の全てなのだ。

「はじめて会った日からだよ」

 そう言った横顔はちょっぴり自慢げなところがこいつの憎めないところだ。

———はじめて会った日。

 いつだっただろうか。記憶を辿っても思い出せないけれど、気づいたら隣にいたということだけは断言できる。答え合わせをしてとんちんかんなことを口走ったら怒るのかな。少しだけ黙っておこうと決心し、口を紡ぐ。


 刻々と周りの青空が濃くなっていく。まだ地平線には燃えるような赤色が残っていて、魚のうろこの様な雲が空全体を覆っていて幻想的だ。

 ひとりぼっちだったあの雲は無事に合流することが出来ただろうか。寂しい思いをしてほしくはないな。そんな心配をしながら馬に揺られた。


 外まで夕飯のいいにおいが漂ってきて、腹の虫を刺激する。空腹に抵抗しながら、木製のドアをノックして家の主の返事を待つ。

「ルネ!無事で良かったわ」

 扉が開き、母は僕とハロルドの顔を見るや否や、安堵に包まれたようにドアの前で自らの顔を両手で覆っている。近づいて抱きしめると母の香りの安心感に満たされた。

「ずいぶんと変わったのね」

 彼女の視線は僕の胸部に向けられていて、ないものを探しているような表情だ。そんな小さな動作ですらチクチクと刺激する。

 ふと視線を外すとあの小さな双子たちと細身の男性が食事の支度を手伝っていた。双子たちはハロルドの姿を見つけると、磁石の様にくっついてはいいおもちゃにされている。

 するとシモンが軽やかにやってきて微笑んだ。

「ルネくん。心配したよ」

「ごめんなさい」

「謝ることじゃないさ。誰だってそんな時期がある」

 彼は素朴な優しさに満ちた雰囲気で微笑む。出会って間もないけれど、本当に善い人だということが伝わってくる。

「それにしても髪を切っても本当にそっくりだな」

 僕と母の顔を交互に見比べてシモンは目を見開いていた。

「髪をこんなに短くする前も本当に似ていたのよ」

 先ほどから母の反応がまるで「切らない方が良かった」と言っているみたいに聞こえて、息苦しく感じる。それに反応するように、耳の付近で修道女たちの「やっぱり切るのはもったいなかったんだよ」という声が木霊してきた。

 その声を追い払うように頭を左右に振っていると、母は心配そうな顔で覗き込んできた。

「すごく疲れたでしょう。顔が青白いもの」

「いや。そんなことはないよ」

「さあ、座って。リラックス効果のあるカモミールティーを淹れるわ」

「あ、いいよ。僕が淹れるからみんなでお話ししてて」と言ってシモンがお茶淹れ係を請け負ってくれた。

 優しい上に空気が読める男のようだ。母と見つめ合うシモンを見ていると、長年連れ添った夫婦の様な安定感が滲んでいる。10年前に父と母の間に見た姿と重なって、懐かしさが込み上げてくる。

 テーブルにはアルベルト司教の家で食べたお花の冠が乗ったマフィンが優雅に並べてある。このお菓子のレモンジャムがなかったら僕はここへ来れていなかったから感謝しかない。

「お店の調子はどう?」

「すごく良い調子よ。自分が作ったお菓子を家族以外の人に食べてもらうなんてなんだか不思議な感じだけれど」

 母さんは昔から料理が上手だった。父さんも兄さんも「お店を出すべきだよ」と口々に言っていたけれど、母さんは尻込みをして「私なんて……」といつも言っていた。

「あなたたち家族と離れ離れになってから、私は生きる希望を失ったの」

 そう言った母の目には絶望と悲しみの色が滲んでいる。あの夜の日を思い出しているのだろうか。

「でも幸運なことにシモンとその家族に出会えた。神様はここでもう一度人生をやりなおすチャンスをくださったの」

 そう言った母の視線の先にはシモンや双子たちがいた。ここで過ごした10年間の重みがこちらまで伝わってくる。優しい微笑みを浮かべる姿は、まるで聖母の様に美しくて、めまいがするような眩しさだ。今の僕にはきっとその微笑みは向けられることはないと、直感的に感じてしまう。

「母さんが幸せそうで良かった」

 相槌を打つように反射的に言葉が出る。嫌味でも羨望でもない、本心からの言葉。

「ルネもここで暮らすよね?きっと幸せになれる。あ、そうだ今日は2階の部屋を掃除したのよ。見晴らしが良くて、窓の外には海も見えるわ。それと———」

「母さん!」

 矢継ぎ早に話す母の言葉を遮って、大きな声が出る。

 ティーカップを机に置こうとしていたシモンの指が震えたのがわかった。彼はカップを丁寧におくと素早くその場を立ち去り、台所の片付けを始めた。

 奥の部屋で遊んでいる子どもたちも動きを止めたが、ハロルドが遊びを続けるよう促してくれていた。

「ごめん。僕の居場所はここじゃない」

 勇気を振り絞って出した声は、掠れてみっともない。

「どうして。やっと出会えたのに。母さんと幸せになろうよ」

 そう言った母の目元は少し赤くなっている。鏡のように僕の顔もそうなっているかもしれないと、少し頬を拭った。

 やっと出会えた母さん。何年も神に祈り続けた末の再会だった。数ヶ月前の自分だったら喜んでこの状況を受け入れていたかもしれない。でも今の自分はその選択をしなかった。今の自分の声に耳を傾ける。

 長い沈黙が続き、心臓の音がいつもより少し速く聞こえてくる。

「本当にごめん。それでもここでは暮らせない」

 母は哀しさと諦めの色を残しながら、俯いて目元を拭う。

 長い沈黙が続いた。母は言いたいことはたくさんあるのだろうけど、それをのみこんで、言葉を選びながら話しかけてくる。

「新しい居場所はもう見つかったの?」

「うん」と呟く。

「ハルくん?」

 なんでわかったんだろうと思ったが、多分僕の視線の先がずっとハロルドに向けられていたからだ。精神安定剤のような効果があるのか、彼を見ていると波立っていた感情が幾分か和らぐ気がする。

「ああ。ハロルドの隣にいたいんだ」

 今の自分が幸せだと思える選択はもうこれ以外考えられなくなっていた。ずっと喉の奥につっかえていた言葉がカタチになって現れる。

 こんなに本心で会話したのは久しぶりで、どっと疲労感が押し寄せる。でもその分吐き出したものも大きかったので、心が軽く宙に舞っているみたいだ。

「仲良かったものね。あなたたち。ハルくん本当にかっこよくなった」

「そうだね」

「誰かにとられないようにしないとね」

 そう言った母は少女時代に戻ったような楽しそうな表情をしている。

「それは心配ない。あいつは僕に夢中だから」

「あらすごい自信」

 2人そろってハロルドを見つめる。その様子は側から見たら昼下がりの乙女の談義だったかもしれない。きっと母さんも昔は色んな恋愛をしてきたんだろう。一度も自分の過去の恋愛話をしたことはなかったけれど、何だかそんな気がする。見違えるほど成長をしたハロルドとマフィンをお茶のおともにして、久しぶりに語り合う時間はすごく満たされたものだった。

 

「あとついでに言っておくんだけど」

 ひと通り話し終わった後、呟くように小さく口を開く。

 母はティーカップに口をつけながら、こちらに視線を向けて手を止めた。

「僕はひよこ豆嫌いだよ」

「え?」と母さんは美しい彫刻のように固まってしまった。

 カモミールの甘い香りが僕と母の間に静かに漂う。ひよこ豆と口にした途端、口の中にもさもさとした豆の食感やあの独特な香りが蘇ってくる。

「あのスープが好きなのは兄さんだから」

「ずっと我慢してたの?」

「うん」

 そう答えた瞬間、母はテーブルに両肘をついて頭を抱えていた。

 頭の中で兄さんの元気な声が響いてくる。「このスープすっごく美味しい!また作って」という懐かしい声。きっと母さんもこの声を思い出している。兄さんが好きだというものを僕も好きになろうとして食べてみたけれど、やっぱり苦手な味。何度も食卓に出されるたびに我慢して食べていた。

「ごめんね。あの子の大好物だったのね。覚えてないなんて母親失格だわ」

 母はごめんね、ごめんねと繰り返しながらずっと泣いていた。その様子を双子たちが奥から心配そうに見守っている。後ろで母の肩をさするシモンは何も言わずに彼女を見つめていた。まるで君に夢中だと言わんばかりの愛おしそうな目だ。こんないい男はなかなかいないよ、母さん。母さんこそ、この幸せを手放しちゃダメだよ。

「どうか許して、ルネ」

 信じられないくらい萎れた声で問いかけられた。

「もちろん許すさ。母さん、大好きだよ」

 ———大好きだからこそ僕らは離れないといけない。そう思った。


 泊まっていきなさいという母たちの言葉を押し切り、僕たちはまた次の目的地へ向かうことにした。このまま行かないとダメだ、止まってはいけないと本能が訴えてくる。ハロルドも快く賛同してくれてありがたかった。

 見送りにドアの前まで来てくれている母に、足を折り曲げて目線を合わせる。

 母も僕もどこか清々しい表情になっていた。

「そう言えば故郷の家に行ったんだ」

「まあ。あんなに遠くまで。結構廃れてたんじゃない?」

 母は驚いたように口元を緩める。

「ううん。それが全然変わってなくて感動したよ。多分麦畑に守られてたんだ」

 二人で空を見上げるとぽっかりと月が浮かんでいる。地平線に上り始めた満月の輝きは、麦畑の稲穂とよく似た黄金色で涙が出そうだ。

「父さん、甲斐甲斐しくお世話してたもんね」

 母は愛おしそうに父さんのことを思い出している。

「懐かしいね。そういえば手帳も残ってたよ。あとメモが———」

「メモ?なんのこと?」

 肩をすくめてこちらを見てくる母は、まるで透明なビードロのような純粋さがある。やはりわからないのかと腑に落ちる。

 滑落事故の衝撃で記憶を無くしているのか、単純に忘れているだけなのか、それとも知らないふりをしているのか。

 それは母だけが知っている。

「———いやなんでもないんだ。忘れてほしい」

 母の過去を僕の心の中に閉じ込める。これが正解なのか自分にはわからない。優しさ?偽善?それすらもわからないけれど、ただ一つ言えることは母の苦しみの根源は全て断ち切ってあげたいということだ。それ以上の理由はない。

「ルネ」と呼ばれて母の方を振り返る。

「本当に大きくなったわね」

 そう言って車椅子から立ち上がり、僕を昔みたいに抱きしめてくれる。でも母の腕は少し細くなったし、背も低く感じる。自分の成長をそんなところで測ってしまう。

「ありがとう。これからはたくさん会いにくるよ」

 ふわりとカモミールの花の香りが訪れて、温もりに包まれる。張り詰めていた心の糸がするすると解けるように全身の力が抜ける。

 ———離れていても心で強く繋がれる。母の温かさはそう思わせてくれた。


「アレット、夜は冷えるから上着を持ってきたよ」とシモンが近寄ってきて母さんの肩に手を添える。

 ああそうだ。長い間忘れていたけれど、母さんの名前はアレットだ。僕たちの家族はみんな「母さん」と呼んでいたから、なんだか不思議な違和感を覚える。

 名前で呼んでもらうのはすごく嬉しい。ハロルドと出会ってから気づいたことだ。もっと母さんの名前を呼んであげていれば、寂しさを和らげてあげられたかもしれない。母さんを1人にすることはなったのかもしれない。

「ルネくん、いつでも帰っておいで。迷惑かもしれないけどこの家が第二の故郷だと思ってもらえると嬉しいよ」とシモンが微笑む。

 彼の優しい声は父さんに似ている。いつか母さんに訪れるかもしれない寂しさや哀しみを救うのはこの家しかないと直感的に思った。無責任かもしれないけれど、どうか母をあらゆる苦難から守って欲しい。


 再び馬に揺られて、ハロルドの背中に手を回す。頼もしく大きな背中。僕の体重の全てをかけても受け入れてくれそうな安心感。

「ハロルドー」

 独り言のような小さな声で呟く。大きな声を出す元気は残っていない。

「どうしたんだい?」

「幸せってなんだろうね。どうやったら幸せになれるんだろう」

 母が言っていた「幸せ」はきっと母だけの幸せのカタチ。僕の幸せのカタチはどんなカタチをしているのだろう。

 ハロルドは馬を走らせる速度は変えないまま、「うーん」と言って考えている。するとしばらくして何かを思いついたように微笑んだ。

「ただ1つ言えることはある」

「何?」

「幸せになれる人は幸せをずっと信じている人だ」

「へえ。そういうもんかな」

「そういうものさ」

———幸せを信じる、か。

 僕には出来なかったこと、いやこれは出来る出来ないではなくて、僕がしなかったことだ。過去を嘆いたり自分の可能性から目を背けて、チャンスを逃し続けていた。

 だけど今なら出来そうな気がする。漠然とした自信だけど少しずつ信じてみてもいいかもしれない。

 馬の歩くリズムは心地よくて、眠気が身体中を襲ってくる。僕がしっかりとハロルドの背中に捕まっていないと放り出されてしまう。

「この手を離さないことがまず第1歩かもしれないな」

 石畳を弾く馬の足音で声はかき消されたようだ。

「ごめん。何か言った?聞こえなくて」

「ううん。何でもない」

 空を見上げると暗闇が僕らを覆っているけれど、相変わらず1番星は高く美しく行くべき道を教えてくれる。今と未来に誘導してくれるその輝きを見失いたくはないなと今なら思える。


 


 




 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

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