宵覚ましの一日

———くそっ、油断していた。

 灰色の空は雨が降っては止んでを繰り返している。全速力で馬を走らせてはいるが、泥水で足元が重く思うように進まない。思い通りにいかない速度に焦りが募る。

 カーテンの隙間から漏れる朝日の光で目を覚ますと、隣で寝ていたはずのルネの姿が消えていた。普段から眠りは浅いけれど最近はまともに睡眠時間がとれていなかったこともあり、寝入ってしまったため、気づくことが出来なかった。

 ルネが寝ていたベッドに目をやると、シーツが軽く整えられていた。乱したまま出るのではなく、この家への礼を込めて畳んだのだろう。そこから彼の固い決意のようなものを感じる。

 雨音が部屋に響いていたとはいえ、彼が部屋から出て行ったことに気づかなかった自分の失態に絶望した。騎士団長失格に値する。


 思い返せば数ヶ月前、騎士団長への推薦を頂いた時は驚いた。

「ハロルド、騎士団総長試験に挑んでみないか?」

「え?」聞き間違いかと思って全身が固まる。

「私はこの春で引退することにしたんだ」

「そんな、急すぎます」

「ずっと考えていたことなんだ。若い人に譲ろうと思ってね」

 団長は戦いの先頭を1人で駆け抜けていく、百獣の王のような人だった。多くは語らないけれど、負け戦でもただ1人勝利への意志を灯し続ける人。多くは語らず、背中で魅せてくれる。団長のために心臓を捧げている騎士もいる。

「何か理由があるんですか?」

「前回の肉弾戦で右腕を大きく掻っ切られてな。相手は髭も生えていないような若者だったが、彼の血に飢えたような目を見て『食われる』と本能的に思って震え上がってしまったんだよ」

「それは誰もが通る道なんじゃないでしょうか」

「いや、恥ずかしながらそれが初めてだったんだ」

 年齢とともに衰える体力や気力。こればかりは抗うことが出来ない。今まで『食う』側だった人間が、初めて挫折と孤独を感じたそうだ。

 50年以上に渡り王立騎士団の第一線としてがむしゃらに活躍してきて、団長職は努力の勲章だった、と誇らしげに彼は語った。私も例に漏れずそんな団長のことを尊敬している。

「どうして僕を……」

「入団試験の時の面接官は私が務めていたね。あの時、お前は『ある人に会うために騎士団に入りたい』と言った」

「俺もひねくれてるからな。何て不純な理由だろうと思ったさ。でも蓋を開ければ、誰よりも熱心で忠誠心が高くて。ずば抜けた才能の持ち主だった」

 そう言いながら私の両手を握ってくれた。彼の手は誰よりも強く優しい男の温もりだった。


 目を閉じるといつもあの光景を思い出す。

 ルネが突然いなくなった時、世界が突然真っ黒に染まったんだ。唯一の光だったルネが僕の世界に色を与えてくれていたのに。

 私の生まれは極貧街で、幼い頃から人としての正当な扱いを受けられなかった。通り過ぎる富裕層はまるで虫を見るように貧民を蔑んだし、一日の食事が固いパンひとつなんて日も少なくはなかった。幼い頃に父が亡くなり、生活は苦しかったが、女手ひとつで僕を育ててくれた母には感謝をしている。母は朝も夜も1日中、綿を紡ぐ仕事に明け暮れていた。自分の食事は後回しにして「ハルが食べる分よ」と渡してくれたあのパンの味は今でも忘れられない。

 そんな母がある日体調を崩したことがあった。

「ハル、母さんは大丈夫よ。外で遊んでいらっしゃい」

 そう言った母の目は涙で潤んでいたし、声も枯れて咳が止まらなかった。小刻みに震える手に触れると熱湯のような温度で、こんなことは初めてだったから、ただ事ではない事を悟った。

 僕は家を飛び出して、貧困街をあてもなく走った。

 もちろん薬を買える金があるわけない。なんとか無理を言って、薬をもらうことは出来ないだろうか。

 幼心に小さな正義感だったと思う。一つ先の区域に行くと富裕層が住む家が建ち並んでいる所まで来ると、片っ端から薬がもらえないか聞いてまわった。

「すみません。薬をもらえませんか。母が病気なんです」

「なんだ。貧困街の子かい。君にあげる薬はないよ」

 私の見てくれを見るやいなや、玄関先で何件も断られた。ドアを開け話を聞いてくれるのはまだ良くて、小窓から覗き込んで無視を決めこむ家も数多くあった。

 50件近くまわった頃には日が暮れ始めて、足も擦りむいて感覚がなくなっていた。小さな正義感もボロボロに傷ついて、涙が出る。声を漏らしながら泣いていても、街行く人はこちらを一瞬見て、視線を逸らす。私は本当にこの世に生きているんだろうか、とも思えた。

「母さん、ごめん。薬持って帰れないや」と空を見上げて呟いたとき、おびただしい数の星が、夜空いっぱいに敷きつめられていてビックリした。その中で青白く光る星が、弧を描いて空全体を大きく駆けていくのが見えた。

 その軌道を追ってみても、星は消えていく。目の前で起こっている不思議なことに目が釘付けになっていると、視界の端に麦畑に囲まれた一軒家が見えた。

「あそこで最後にしよう」

 そう決意して細い砂利道を歩く。擦り切れた足からは血が流れてきて、もう限界だと言わんばかりに砂利の上で悲鳴をあげていた。

 家の前に着くと、中からは子どもの声が聞こえてきた。夕ご飯の美味しそうな匂いが鼻を刺激すると、反応したように腹の奥から大きな音が鳴り、今日は何も食べていないことに気が付く。

 空腹を振り切って思いきりドアを叩くと、そこには同じ人間とは思えないほど綺麗な姿をした子どもが立っていた。銀色に輝く髪は先ほどみた星のような繊細さがあるし、大きな目はまるでガラスのようにキラキラと輝きを放っている。

 あまりの美しさに言葉を失って立ち尽くしてしまった私を見兼ねて、不思議そうに「どうしたの?」と声が掛けられた。

「あっ……あの。薬をもらえませんか。は、母が病気なんです」

 しどろもどろに声を振り絞り、今日1番大きな声が出た。

 その子は私の全身を見渡しドアを閉めると、足音が遠ざかっていく。

 またダメだ、と全身が重く立ち上がれないほどに落胆が襲ってきて、目頭の奥が痛くなる。「泣いちゃダメだ」と涙を堪えながら振り返ると、先ほど遠ざかったはずの足音が再び近づいてきて、思わず後退りする。

 ものすごい勢いでドアが開くと「どこ行くの」と美しい子は僕の右腕を引っ張って思いきり引き寄せた。

「けがしてるだろ。足。ほら、血が出てる」と手に持っていた布で足に流れている血を拭いてくれた。

 僕の足元に跪いて治療を施す姿は、天使そのものだった。近所にある教会の壁に描かれている絵の中の住人なんじゃないかと見間違うような美しさの子。口ぶりから推測するに男の子だということが分かったし、意外にも荒治療で、傷が信じられないくらい痛くなった。本人は大変満足そうに治療を施していたので、何か言うのはやめておいた。

「どう?痛む?」

「ううん、大丈夫。えっと……」

「僕はルネ・エルズモンド。ルネって呼んでくれればいいよ」

「ルネ、ありがとう」

「君の名前は?」

「えっと、ハルって言います」

「ハル、いい名前だな」

 そう言ってくれたルネはとびきり柔らかい笑顔だった。すると思い出したように手に持っていた小瓶を差し出す。

「あ、それで薬なんだけど父さんがこれがいいって」

 茶色い小さなガラス瓶には錠剤が十分なくらい入っていて、思いがけず「こんなにいいの?」と聞いてしまう。

「母さんが元気になったら返しに来てよ。早く治るといいな」

 花が咲いたようなルネの微笑みは、この世で1番綺麗だと思った。出会った瞬間に私は恋に落ちていた。

 これがルネと私の最初の出会い。

 数日後、薬のおかげで母の体調も回復し、ルネと私は年齢が近いこともあってすぐに打ち解けた。ルネが行くところへはどこでもついて行ったし、ルネが教えてくれたことは全てが宝物になっている。

 特に感謝しているのは本の読み方を教えてくれたことだ。彼は自分の家からもう読まなくなった本を引っ張り出してきて、声に出して丁寧に読んでくれた。

「ハル、いいか?本はたくさん読むんだ」

「なんで?」

「本から得た知識や言葉は自分を強くする」

「剣じゃないのに強くなれるの?」

「うん、なれる。たとえば喧嘩をしたら剣で戦うよりも話し合いで解決できるならそっちの方がいい。誰も傷つけないから」そういった横顔はカッコよくて、自分もこうなりたいと心底思った。

 ルネは良い意味でも悪い意味でも偏見の無い人間だった。近所のいじめっ子が貧しい私の家の悪口を言っていると必ず注意してくれたし、好きなものは好きときちんと言える子だった。

 その反面、毎日のように女の子に「好き」と告白をされても断り続けていた。

 あまりにもすごい頻度なので「なんでそんなに断るの?」とルネに聞いたことがある。すると彼は「好きとかわかんないから。ハルと一緒に遊んでる方が楽しい」と口を尖らせながら呟いた。

 それを聞いた瞬間、頭の中で稲妻が走ったような衝撃を受けた。ルネに少しでも楽しいと思えてもらっていた事がめまいがするほどに嬉しかった。嬉しくて嬉しくて、叫びながら街中を走り回りたい衝動に駆られたが、きっと冷たい視線で気持ち悪がられるんだろう。それでもやっぱりルネが大好きでどうしようも出来なかった。

「好き」と彼に告げたらどんな顔をするだろうか、と寝る前に考えることが日課になった。戸惑うだろうか、嫌がるだろうか、それとも喜んでくれるだろうか。

 ———ルネの“特別”になりたい。

 日に日にその思いは強くなって、次第に“欲”となった。今こうして接してくれていること自体が奇跡に近いことなのに、それ以上を望んでしまったのだ。

 

 しかし、ある日ルネはこの街からいなくなってしまった。少し前にルネの母の体調が悪いことを聞かされていたので、しばらく会えない寂しさはあったけれど、またいつも通り会えると思っていた。

 しばらくしてルネの家を訪れると、人が住んでいる気配はなく、ひっそりと静まり返っていた。この家はもぬけの殻だ。

 きっとこれは天罰なんだと直感が走った。貧しくて学もない私に、たくさんの優しさをくれたルネ。そんな彼の“特別”になりたいなんて身の程も知らないような気持ちを抱いてしまったのが悪かったんだ。

 言葉を失って唖然と立ち尽くす僕に、頭の奥で彼の声がたくさん木霊する。

「ハル……ハル……」と記憶の中のルネが笑いかける。もう会えないんだろうかと思うと、嗚咽が漏れるほど泣きじゃくっていた。この泣き声でルネが帰ってきてくれるんじゃないか、という淡い期待も虚しく、ただただ時間がゆっくりと過ぎていった。この時、同時に自分の無力さにも苛立った。ルネの強さに守られっぱなしだった私は弱い自分を恥じた。

 ルネがいなくなってから街は重たい灰色に染まってしまったようで、生きた心地がしなかった。母さんは空虚になった僕を心配して剣術の練習をするよう勧めてくれた。「行ってきなさい」と貯金を切り崩して近所の道場に入れてくれたのは本当に感謝している。剣の稽古をしている時は嫌なことは全て忘れられた。今思えばこの頃から、剣は「大切な人を守る」ための強さだと知っていた気がする。剣を振るとルネと繋がっていられる気がした。もしもう一度出会うことができたら、彼を守るために剣を使いたい。

 転機は突然訪れた。

 街の小さな剣術大会に出場した時、帰り際にえらくガタイの良い男性に声をかけられた。思い返すとその精錬な男は団長だった。

「君、剣術をはじめてどのくらい?」

「2年くらいです」

「王立騎士団に入団する気はないか。君の体格と才能であれば申し分ない」

 “ルネを守る”という信念が神様に届いたのかわからないが、再会の機会が少しでもあるかもしれない、と二つ返事で騎士団に入団することを決めた。

 そして入団してからもう一度転機が舞いおりた。

 ルネが王立修道院にいると分かったのだ。

「王立修道院であれば会えるかもしれない」やっとチャンスが巡ってきたと舞い上がって、明けても暮れても稽古を積んだ。腕が引きちぎれるんじゃないかと思うくらい素振りをしたし、外交力を磨くために語学の勉強も一人で部屋にこもって頑張った。

 自分の幸運さが時々怖くなる。ルネに出会えたことも、剣術をさせてもらえたことも、王立騎士団に入団できたことも。朝、目を覚ますと全部夢だったんじゃないかという不安に襲われる。でもそんな心の不安も埋めてくれるほど、ルネの存在は大きく、会えない時間も彼は私を強くしてくれた。

 10年という長い月日が経ってしまったが、あの夜天高く鳥のように空を舞う姿を見て一瞬でルネだと分かった。私には身に余るくらいの奇跡だと思ったし、嬉しさで卒倒しそうな身体をどうにか保つと、渇望していた心が一気に満たされた。

 再会したルネは私の想像を超えて、とびきり美しく成長していた。ただ変わっていたのは大きな瞳が光輝いていないことと、女性物の洋服を身につけていることであった。全身は小刻みに震えていて、ひどく疲れているような青白い顔色。繊細なレースで編まれたネグリジェに包まれた身体は心配になる程に筋肉がなくなっていて、まるで女性のような抱き心地だ。なぜこんなことになっているのか問いただしたい気持ちを押し殺し、ルネに触れる。

 彼の変わり果てた姿をみて、自分が昔馴染みのハルであることや騎士団長の試験に合格したことを告げることがなぜか出来なかった。言葉にすることは難しいけれどこれは安っぽい同情ではない。

 今の彼の隣に必要なのは泣き虫のハルではなく、無敵軍隊を率いる王立騎士団総長のハロルド・グラニエなんだ。その思いが胸の一番奥を突き上げた。幸い私の風貌は大きく変わっていて、ルネも気づかなかったし、もし何かの拍子に気づくことがあったら素直にハルだと言うことをつげようと決めた。

 どんなに変わってしまっても、もう一度ルネを好きになりたい、いや何度でもきっとそうなるけれど。その時にはルネの隣にいるのは自分がいい。神様、どうかみてくださっているのならもう二度と私からルネを奪わないでください。ルネがいれば他に何もいらないのです。これは高望みでしょうか。どうか、どうか。


 雨粒が次第に大きくなってきて、全身をあっという間に濡らしていく。打ち付ける雨が私を過去の記憶から引っ張り上げてくれた。

 どのくらい走っただろうか。ルネを探せどもその姿は見えない。濡れた視界を凝らすと教会から人が流れるように出てきた。正装をして聖書を小脇に抱えた人、惰性で来ている人、すがるような目をした老夫婦。色んな感情がうずめいた光景をみて、ふと握っていた手づなを止めて近くの棒に馬を止める。出てくる人を一通り見送ると、扉が1つ空いていたので引き寄せられるようにそこから入ることにした。

 薄暗く少し埃っぽい教会特有のにおい。高窓にはステンドガラスがはめ込んであり、晴れている日ならきっと神々しく光が差し込むであろうが、今日は残念ながらその役目はなさそうだ。コツコツという靴音が響くと、ここが教会であることを再確認し、襟元を正す。視線の先には大きな十字架とその下には祭壇があり、先ほどの人たちが置いて行った白い百合の花や聖書が並べられている。

 その手前で1人で静かに祈るルネを見つけると、私は音を立てないように近くの長椅子に腰掛けた。わずかに入ってくる日の光はやはり薄暗いものだけれど、不思議とルネの周りには光が一層神々しく差しているように感じられた。

 どれくらいの時間祈っていたのだろうか。ルネと2人で共有しているこの時間はいつまでも続いてくれても構わないとすら思ってしまう。

 すると突然、ルネはおもむろに立ち上がって、私の椅子と通路を挟んで一番近くの椅子に座る。

「膝痛い」と一言だけルネは呟くと口元を尖らせたまま黙っている。

 私が今何か言ったらこの空気が壊れるかもしれない。どんな言葉をかけたらいいか正解が分からずに思考の全機能が停止する。なんて格好悪い。ルネの前では完璧な男でいたかったのに、いざという時の自分は機転が効かなくてどうしようもなくなってしまう。

 視線の先の十字架が冷たくこちらを見ているように感じた。

 先に口を開いたのはルネだった。

「よくここがわかったね」

「うん、自分でも驚いてる。直感だよ」

 ルネも少し口元が微笑んでいるように見える。

「昔からお前はそうだった」

「え?」

「僕のいるところを探し出してはついて来てたから」

「そういえばそうだったね」

 思わず笑い声が漏れてしまう。するとルネにも伝染したようでこちらをちらりと見て、笑いながら「あの頃は可愛かったのにな」と呟いた。

 あの頃と聞いてなりふり構わずルネの後ろに引っ付いて色んな冒険をしたことを思い出す。故郷の街の海辺にはおびただしい数の岩が張り巡らされていて、その岩をひっくり返す楽しさを教えてくれた。大小さまざまな大きさの岩をめくるとヒトデやマツバガイ、ヤドカリやフジツボが張り付いていた。宝探しのように見つけては名前を覚えていったけれど、初めて見る生命体に恐れおののいたのも事実だったし、正直気持ちが悪かった。そんなことを思い出していると鼻の奥にツンと磯の香りが蘇ってきて何とも言えない気分になる。

「ルネ、海を見に行かない?」

 言った後に気づいたが、我ながら思いもよらない提案をしていた。頭の中は海の光景と波の音で占領されていたようだ。

「海?」

「宝探ししたいなって」

「ふふっ。いいね、宝探し」とルネは微笑むと、彼も昔一緒に行った海の光景を思い出した様子だった。

 海に行きたい理由が宝探しとは何とも幼稚だったけれど、ルネとの共通の暗号見たいなワードがあることが嬉しくてつい口元がほころんでしまう。

 教会を出ると、遠くの雲間からは光が差していた。まるで天使が降りてくるための梯子のように光輝いている。このままルネとあそこを登ることが出来たなら、2人きりになれるのに。

 そんなことを考えていると、数歩先を歩いているルネに声をかけられる。

「ハル、ぼうっとしていると日が暮れるぞ」

 そう呼ばれた瞬間、胸が高鳴って本当に天を舞いそうな気分になった。やっぱり今でもルネのことが大好きだし、好きな人に名前を呼んでもらえる嬉しさで心が満たされていく。

 馬にまたがり、その後からルネを乗せる。

「馬はじめて乗る」と言いながら、私の腰に細い腕を回す。

「怖くない?」

「ああ、怖くはない。むしろ楽しみだ」

 ふと後ろを振り返ると、少年のような笑顔で遠くの空を見上げるルネがいた。その瞳には煌めく光がまばゆく戻ってきていて、もうこの光を失わせたくはないと急いで馬の手づなを引いた。


「なんで教会にいたの?」

 馬の背に乗り何時間か走った頃、おもむろに聞いてみた。

「夜いろいろと考えてたら眠れなくなった。あの部屋の窓からみた景色の中で、雨の中静かに佇む屋根の上の十字架を見つけたんだ」

 腰に回されたルネの腕に少し力が入ったように感じる。

「十字架を見た瞬間、両手を組んで祈っていた。頭の中のモヤモヤを聞いてもらおうと気付いたら外に出てたよ」

「お母さんのこと?」

「ああ、そうだね。お前のこともだよ、ハル」

 ルネの頭の中を掻き乱す要因の1つにカウントされていたことを、申し訳なく思いながら「ごめん」と素直に謝る。

「だって全然別人なんだもん。信じられないくらいに」

「こんなことなら最初っから言えばよかったな」

「いや、最初っから言われてても信じなかったかも」

 じゃあどうしたら信じてくれるんだろうと思考は迷宮入りしたが、こうしてルネと普通に会話できていることに感動して黙る。久しぶりの再会が夜空から降ってくるなんて、思いもよらなかったせいでもある。

 視界の端に海の煌めきが入ってきて、もうすぐ故郷に辿り着くことを知らせてくれる。空を見上げると深い紺色が全体を覆っていき、はるか遠くには一番星が輝いていた。

「今日の宿を探さないとな」

 今日中に海に行くことは難しそうだった。

「僕の家、まだあるかな」

 かつて毎日見ていた光景が広がりはじめて、記憶蘇ってくる。遠くから青臭い植物の香りが鼻を刺激する。

「僕の家だ」とルネは呟くと、私の背中に頭を押し付け声を出さないように泣いているようだった。

 麦畑には青緑の雑草が背丈ほど伸びて、悠々自適に育っている。自然の力で生き抜いている雑草の根性は尊敬に値する。

 ルネもそれに驚きながらも砂利道を進む足取りは早い。草をかき分けた先には見覚えのある、木製の重そうなドアが目の前に現れた。ルネは錆びた金色の取手に手を掛けたまましばらく固まっている。その上から私は手を重ねる。

「ゆっくりでいい。私も一緒だから」

「ああ」と返事をして、それでもなお固まっているルネ。これは彼自身が乗り越えなくてはいけない過去そのものだった。幸せな家族との生活、そして崩壊。その天国と地獄がこの家には詰め込まれている。

「ふう」と吹っ切れたような息を吐き出しながら、手のひらに力を込めてドアノブを回す。重かったドアは老朽化が進んでさらに重くなっていて、二人の力を合わせてようやく1人分の人間が入れるような隙間が開いた。

 鈍い音をさせて開いたドアの先には、想像していたよりも綺麗な状態で家の中は保たれていた。きっと麦畑による塀がこの家を守っていたんだろうと思うとほとんど奇跡のようなことに感じた。

「思ったより綺麗に残ってる」

 ルネも同じことを考えていたようにそう呟くと、家の隅々を見て回った。つい昨日まで人が住んでいたんじゃないかと思うくらい温もりが残っているようだった。たくさんの本が敷き詰められている本棚や、季節の果実のジャムが入っていたであろう並べられている空瓶、そして幸せそうに4人の家族が描かれた絵が飾られているのが印象的な部屋。

「この絵素敵だね。よく似ている」

「兄さんが描いたんだ。絵が得意な人だったよ」

 真っ直ぐと見つめるルネの表情は笑っているけど、寂しさが滲んだような顔をしていた。

 私の記憶の中ではルネと兄はとても仲が良かった。顔はあまり似てはいなかったけれど、二人とも聡明な印象で話しかけづらい雰囲気が似ていた。

 ルネにとっては辛い理由だろうから、何も言わないように静かに口を閉じた。

 その雰囲気を察したのかルネが自ら口を開いた。

「異端者として連れて行かれたんだ」

「え?」

「前に兄の友人が異端者と疑われたことを教えただろう?」

 泣きながらルネが過去の話をしてくれたことを思い出す。

「本当は父と兄が研究してたんだ。嘘をついてすまない」

 謝られても、どうしようもできないもどかしさが辛い。

 正教の教えに反する教育や思想は迫害や拷問の対象となる世の中で、禁書を解読することや自然科学の研究をするものは異端者として扱われていた。なぜなら正教の正当性を脅かす存在だからだ。

「父さんと兄さんは好奇心が人一倍強くてね。本人としては異端だという意識はなかったんだと思う。ただ自然や科学の面白さに没頭しまったせいで、知らず知らずのうちに禁書に手を出してしまったんだ」

「そんな」

「異端研究に手を染めていると気づいた時には遅かった。たくさんの書物や実験道具は火で燃やして消していたのに、審問官の疑いの的になっていた」

 意外だった。教育者であるルネの父と聡明な兄が異端研究を隠せなかったなんて。職業柄、騎士団の中でも禁書に関する情報や異端研究についても情報は多く流れているが、研究者は上手いこと隠したり、すぐ燃やして証拠を隠滅したりしていると聞いたことがある。

「誰かが密告したんじゃないかって思ってる」

 密告という言葉を聞いた瞬間、心臓が跳ねた。近所から慕われていたエルズモンド一家を貶めようとした人間がいたのか。勉強会を開いた時の人たちにいるかと思って記憶を巡ってみたけれど、その登場人物の顔を全く覚えていない。なぜならルネしか見ていなかったからだ。己のルネへの盲目さには呆れるが、今更後悔しても遅いことである。

「それは誰か心当たりは?」

「ないんだ」と囁くルネは一段と暗い表情になっていた。

 しばらく立ち尽くした後、「休もう」と促し、部屋の奥にあるルネの部屋に案内してもらう。ルネの部屋も少し埃っぽかったが、そのまま保存されていたかのように綺麗なまま残っていた。窓を開けると、夜風が部屋の空気を交換するように一掃していく。濁った感情が掃き出されていくようだ。窓から入る月の光は明るく床を照らしている。今夜は満月のようだ。

 「ベッドを使ってくれ」とルネに譲られて、ありがたく子ども用の狭いベッドに横たわると、かかとが丸ごと飛び出すようなサイズ感だった。背骨を丸めながら部屋全体を見渡すと、改めてここがルネの部屋なんだということを実感する。埃を被った地球儀や、ガラスケースに整列された昆虫の剥製、山積みにされた児童書。自分の幼少期の家と比べると、その裕福さがかなり羨ましい。

 そんなことを考えながらまぶたを閉じようとした瞬間、どこかの部屋で何か大きな物音と金属の鈍い音が同時に鳴った。

 嫌な予感が全身を駆け巡り、ベッドから飛び起きドアを開けると、本棚の前で倒れているルネと落としたであろう燭台が転がっていた。燭台から転がり落ちた蝋燭の火が古びた木製の床と書物のいくつかを焼きはじめていた。

「ルネ!」大きな声で叫び近寄ると彼の身体を安全な方に動かし、火の消火を試みる。着ていたコートで何回か払うと消火に成功したけれど、結構広範囲で燃えてしまったようだ。ひどく焦げ臭い匂いに包まれながら、苦しそうな呼吸を続けるルネの口元に手をかざして、身体を持ち上げる。

 煙を吸い込ませないように急いでルネの部屋へ移動させる。ベッドに辿り着くと、ルネは苦しそうに乱れていた。その呼吸は過呼吸とはまた違うもので、悪魔にでも取り憑かれたように全身を振り乱す。

「ルネ!ルネ!しっかりしろ」

「ううあ……ああっ」聞いたこともないような低い呻き声が部屋中に響く。私にはただそれを抱きしめるしかできなかった。

 ルネが落ち着いたのは真夜中、疲れ果てて眠っていた。それを見届けて部屋を出ようとすると、ルネが手を強く握った。起きているのかと一瞬驚いたが、「母さん」と呟いた様子から悪い夢でも見ているようだった。

 震える小さな手を取り、「大丈夫だ」と言い聞かせるように部屋を出る。

 月の光に照らされる床には火の燃えた跡が黒々と残っているのがわかる。焦げ臭さが部屋中に漂っていて、胸がムカムカしてきた。

 鼻をつまみながらその跡に近づくと、足元に何かがぶつかる。

「———手帳だ」

 しっかりとしたハードカバーが掛けてある分厚い手帳で、年季は入っているものの、その使用感からはかなり丁寧に扱われていたことがわかる。その手帳を開けると、日々起きたことやたくさんのメモが挟まれていた。これはおそらくルネの父親のものだ。きっちりと丁寧に物事を処理する人物像をそのまま投影したような品だ。あまり個人の情報を見すぎるのもよくないので早急に閉じると、もう一つ床に落ちているものに気づいた。

 手に取ったのは1枚の紙。震える手で書いたのであろうと推測できる乱れた文字が並んでいた。


『ごめんなさい。出来心でした。

 あなたたちがどこかへ遠くへ行ってしまう気がして

 羨ましくもあり、怖かったの。本当にごめん。愛しています』


 ルネの母親の声が脳内で再生された。立ち尽くしていると後ろのドアが開いて、死人のような青白い顔をしたルネが壁づたいに立っていた。

「ルネ、大丈夫か」

「ああ」と声を絞り出すように言うと身体のバランスを崩す。

 咄嗟にルネの元に駆け寄ると、怒りか悲しみかもわからない感情が彼を押し潰しているような様子で辛そうで見ていられなかった。

 再びベッドに戻り安静を取り戻すと、ルネの顔色は幾分か良くなったように見える。少しばかり肩の荷が降りたような安堵感に包まれると、外の空気を吸おうと立ちあがる。

 すると「行かないで」とルネは呟き、寝転がったまま私の服の端を掴んだ。

「母さんだったんだ」

 その言葉で全てが理解できた。

「母さんは身体の弱い自分に付き添っていつも一緒にいてくれた。時折見せる寂しそうな表情の先には父と兄がいた。一番近くにいたからわかるんだ」

 ルネはまぶたを閉じながら当時の光景を思い出す。口を無理やり引きつらせて笑おうとしているが、泣きそうな声で喋っている。感情の行方を完全に見失ってしまったルネの姿はいたたまれなかった。

 まだ何かを喋り出しそうな唇を思いきりキスで阻んだ。ルネに覆い被さるようにして逃げ場を無くす。苦しそうな「あっ」という声は唇を重ねるごとに、甘さを帯びていく。彼を蝕んでいく不幸を少しでも和らげたい、という庇護欲ばかりが増していく。ルネの甘く潤んだ瞳の中に映るのは私だけでいいんだ。

 ———ルネをこの世の悲しみの全てから救いたい。

 神様、これは許されることなのでしょうか。もし許されないとしてもどうか今夜だけは私に時間をください。自分の全てを掛けて祈る。

 どれだけの時間キスをしていたのだろうか。窓の外は明るくなっていて寝落ちていたことを悟り、目を覚ますと隣にルネの姿は無かった。心臓が飛び上がり、慌てて部屋の外に出る。

 すると白いシャツをまとったルネが、陽の光に照らされているのが見えた。

「このシャツ、父さんのなんだ。意外と着れるな」

 微かに物憂げな雰囲気はあったが、何かが吹っ切れたような表情で彼はボタンを止めていた。ずっと黒い修道服だった分、純白のシャツはまるで天使が着ている布のように錯覚する。裾から伸びる白い足が妙に艶かしくて、唾をごくりとのみ込む。

「ルネ、ちょっとそれは目の毒だ」

「なんだよ、失礼だな」口を尖らせて睨む顔はとにかく可愛い。

 昨夜の出来事は夢だったかのように、いつもの彼だった。

 ———ふと唇に触れると、まだ火照った熱を帯びていて少しだけ腫れていた。

キスの後の行為をルネは知っているのだろうか。もし知らないなら一生知らなくても良い。もしくは私が全てを教えてあげたい。

 でもそれはルネが望むのであれば、だ。

 「好き」がわからないと言う彼に、無理を強いることはしたくない。でもきっと痛みを伴うから、そんな辛さを彼に与えたくはない。私はルネの心をいつまでも待つ。百夜通いの後、「好き」と言ってもらえるように最善を尽くすのみだ。

 乾いた喉を潤すため、金属製の水筒を取り出す。喉を鳴らし飲んだ水は、いつもより何倍も美味く感じた。

 

 



 

 

 



 










 

 


 

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