花冠祭の宵
———百夜通い65日目。
石畳の広い通路いっぱいに、バザールが軒を連ねて賑わっている。それをより一層盛り上げるのは青空に浮かぶ風船やフラワーシャワー、そして花冠を着飾った人々だ。暖かなそよ風が春の訪れを感じさせる。
黒々とした修道服も今日は一味違う。頭のてっぺんには可愛らしい花冠が鎮座している。何だか不思議と気分が良くなるものだ。今年の花冠はミモザの花をたくさん散りばめて作った。小さな黄色い花が寄り合って鮮やかに咲いていて、ふわふわと風に揺れされている様子を見ているだけで元気が出てくる。
修道院主催のチャリティーバザーは例年以上に大盛況だった。修道女と話せる機会を求めて、老若男女がひしめき合う。僕は自分の容姿を隠すため、髪を全て頭巾の中へ収納し、伊達眼鏡をかける。この見た目では誰も“氷の
「疲れたー!もう座りたいよお」と嘆くエマを横目に、商品を陳列していく。
「ほらエマ、ルネを見習いなさい。すごく丁寧な並べ方」
ミランダはエマを諭しながら、会計作業を行なっている。
「エマはエマだもーん」と涙目になりながら、頬を膨らませている。エマがそうなるのも無理はなく、奉仕活動が始まって5時間が経過する。早く終わらせて自由時間が欲しい。活動終了後は自由時間なので、みんな少しでも長く自由時間を楽しみたいと、必死の面持ちで商品を売る。
自由時間に抜け出して、あの洋菓子店へ向かう予定だ。勝手な単独行動は違反だが、実行するにはもう今日しかないのだ。後戻りはできないし、バレないようにしなければ。
ふと周りを見渡すと、遠くからざわめきが起きている。頭ひとつ抜きん出た存在感を放つ王立騎士団が現れる。大男たちは鉄製の甲冑を身にまとい、清廉な顔つきで規律よく歩いている。
特に注目を集めているのはやはり先頭に立つハロルドだ。最年少騎士団長と眉目秀麗な姿、老若男女の視線を集めているのがわかる。
———今日は話せそうにないな。
いや、別に話したいわけじゃない。自分の中にそっと芽生えた感情に戸惑う。あいつの姿を不意打ちで見てしまったから、反射的にそう思っただけだ。
胸の奥にある違和感と戦っていると、ハロルドと視線が交わった。
「あ」とつい声が漏れて鼓動が速くなる。毎晩会っているのに、なんでこんなに心が乱されるんだろう。そう思っていると彼の口元が動いていることに気付く。
目を凝らし、彼の口の動きに自分の唇を合わせて動かす。
「み、つ、け、た」
その意味を理解した途端、身体の奥から火照りだす。指の先から額まで熱くなってどうしようもなくなる。ひどい表情を晒していると思い、修道服で顔を覆う。
「ルネ、顔真っ赤だよー。本当に騎士様かっこいいね」
「うん。……カッコいい」
エマの純真な笑顔によって、無駄な見栄も張り合いも通用しなくなる。溢れてくるこの感情にどんな名前をつけたらよいのだろうか。
その思いの名前が見つからないまま、騎士団の謁見パレードは幕を閉じた。
こうしている場合ではない。僕も洋菓子店に行かなくては。
「ごめん、エマ。一足先に抜けるね。ミランダや院長には内緒だよ」
「どこにいくの?」
「門限までには帰るから。もし聞かれたらお腹壊してるって伝えて」
純粋な眼差しをした少女に嘘をつかせてまで、僕はしなくてはならないことがある。母さんに会いたい。ずっと神様に祈り続けてきたことが叶うかもしれないんだ。期待で心臓が張り裂けそうで、小走りになる両足は止まらない。
ミモザの花冠をおもむろに外す。そうだ母さんにプレゼントしよう。きっと喜んでくれるはずだ。
アルベルト司教の庭を訪れた日の最後、僕はこっそり洋菓子店の場所を司教に聞き出した。彼はもったいぶらずに地図を書いて渡してくれた。
「君に聞かれる気がしていたよ」
思わず「え?」と聞き返してしまったが、司教はすぐに優しい笑顔で「気をつけて行くんだよ」と続けた。
食事をしていても、祈っていてもその言葉が脳裏から離れなかった。司教は何か知っているのであろうか。その言葉を深く考えないようにした。
大通りを過ぎると一気に祭の喧騒から離れ、静かな空気に変わった。遠くから聞こえてくる賑やかな音がより静けさを引き立てる。普段は灯りが付いているであろう家たちも、忽然と人が消えたかのような寂しさで軒を連ねている。
日が暮れて、暗闇に包まれていく街並み。冷たく吹く風が修道服を翻す。
「行かなくちゃ」と自分に言い聞かせるように声が漏れる。
正直、この暗闇が怖い。未知なる世界への入り口に踏み入れた気分で、膝が震える。思わず瞼を閉じると、一番にハロルドの顔が思い浮かんだ。彼に会うまでなら、こういう時に浮かぶのは母の顔だったのに。でもあいつのことを考えていると、なんだか恐怖が和らぐような気がする。ちょっとだけ自分も強くなれたような気がして、自分を奮い立たせる。
あの角を曲がれば見えてくるはず。もう少しのところで、視界がぐらついた。
———まずい、待ってくれ!今じゃない!
呼吸が荒ぶり始めて、苦しさが一気に襲ってくる。息が吸えない。その意識も空回って、全身の血の気が引いていき身体が硬直する。その場に崩れるように倒れ込むと、楽になれるような体勢を探す。
霞む視界の中、暗闇の中から人影が現れる。
「か、母さん?」
期待も虚しく、それは別の人間の人影であった。汚れた服を身につけた髭面の野郎が二人が近づいてくる。
「おい、こんなところにシスターが苦しそうに倒れてるぜ」
「しかもすんげえ美人だ。そそるねぇ、今溜まってんだよなぁ」
「兄貴、趣味悪いなぁ。神に恨まれるかもよ」
「知ったこっちゃないぜ」
下衆な会話を聞きながらも、呼吸が薄くなってきて振りはらう力も湧いてこない。足首を掴まれ、男の元へ引き摺り込まれると、側においていた花冠はグシャリと潰されているのが見えた。無骨な手に掴まれて、全身に鳥肌が立ちながらも抗えない悔しさに涙が滲む。もう全てを諦めて身体を投げ打った。修道服の中を見て絶望すればいいさ。
「兄貴、泣いた顔も可愛いっすよ」
「今日は運が味方してくれてんなぁ」
———ガシャン
「すぐにそこから離れろ。そうでなければ殺す」
大きな音がして振り返ると、殺気に満ちたハロルドが鋭い剣をかざして構えていた。数多の戦いを制してきた生々しい血の香りがその場を包んでいくような殺気を感じた。瞳の奥は、とてつもない獰猛な狂気が支配している。
野郎たちはハロルドの立ち姿に身震いが止まらなくなり、言葉を失う。「くそっ」と一言残し、おずおずと立ち去っていく。
その光景を見届けると、目の前は暗転する。うっすらと残る意識にしがみついていると、ハロルドが近づいてきて何度も僕の名前を呼ぶ。表情はいつもの彼に戻っていた。
暗闇の中でハロルドの声が木霊する。必死な顔で呼んでくれる名前、甘い声で呼んでくれる名前、寂しさを滲ませながら呼んでくれる名前。どれもが不思議と心地よくて、呼ばれるたびに何度も何度も自分の名前が好きになる。
あれからどれくらい眠ったのだろうか。気付くと窓の外には太陽がのぼっていて、細かいレースのカーテンから淡い光が漏れていた。
「おはよう、ルネ。気分はどう?」また彼に心配そうな顔をさせてしまった。もうその顔は見せないようにしたかったのに。
「ハロ……ルド。ごめん、また」
言葉を遮るように、彼の愛に満ちた瞳は僕を見据える。
「怖い思いをさせてごめん。もっと早く僕がそばにいれば良かった」
「いや、一人で行くつもりだったし。来てくれて助かった」
責任が誰にあるとかどうでも良かった。またハロルドとこうして話せることが出来て嬉しい。それだけだ。
「歩ける?下に降りよう」と言われ、この部屋が2階建てであることを知る。
「ここはどこ?」
「下りればわかるよ」とハロルドはそう言って振り返る。彼の大きな背中からは優しさが伝わってくる。
木組みで作られたロッジのような部屋は暖かみのあるヒノキの香りで包まれており、小ぶりな部屋ながらも、家主のセンスで選ばれた味のある小さな動物のオブジェが所々に置かれている。
ドアを開けると、下の階から立ちこめる砂糖の甘い香りがこの家の全てを満たしていく。ハロルドに手伝ってもらいながら階段を下ると、台所で作業する女性の後ろ姿を見つけた。まさか。
銀色の髪、透き通るような肌、大きな琥珀色の瞳。目尻や口元に少しシワが増えたけれど、花のように佇む姿は紛れもなく母だ。
「母さん!!」と自分のものではないような大きな声が喉の奥から出て、胸が熱くなる。思わず母の元へ走り出し、両手を広げて飛び込む。
彼女は振り返ると僕を全身で抱きしめてくれた。そして女神のような優しい眼差しで「大きくなったわね、ルネ」と呟きながら、涙を拭う。母の涙につられて、僕の視界にも涙が溜まって溢れ出す。一度こぼれると止められないと言わんばかりに大粒の涙が僕の胸元を濡らした。
大好きな母さんの声、表情、香り、ぬくもり。そのどれもが変わっていなくて、家族の幸せな記憶とともに蘇ってくる。ただ一つ変わったことを除いては。
「足、どうしたの?」
ひと呼吸置いて、足元に視線を向ける。彼女は鉄製の車椅子に乗っていた。車椅子は所々錆が見えるが、よく手入れしてあって日常的に使われていることがわかる。
思ってもみなかった母の変化に、つい聞かずにはいられなかった。見るからに彼女の表情が曇ったので、少し後悔した。自分から言い出すつもりだったのかもしれない。
「ルネを置いて家を飛び出したあの日、正直精神的にもかなり参っていてね。頭を冷やそうと海を歩いていたの」
僕とハロルドは静かに母の話を聞いている。
「もちろんちゃんと家に帰るつもりだった。でもかなり意識が朦朧としていたんだと思う。……橋から落ちてしまったの」
故郷の家の近くにある大きな橋のことを言っているのだろう。背筋が凍った。あの橋から落ちて生きていることの方が奇跡に近い。
「気づいたら下流の河原へ打ち上げられていたわ」
「河原……」
「ええ。どうにか命だけは助かったんだけど……」
母は言葉を濁しながら悪夢を見たような顔で、足元に視線を向ける。
「目覚めたとき、下半身に力が入らなかったの」
「修道院での生活はどう?不自由なことはない?」
「僕が修道院にいること知っていたの?」
不意を突かれて、驚きながら顔を見上げる。母さんは急いで弁解するかのように口を開く。
「ええ、街で噂になっていてね。すぐにあなただと思った」と言いながら申し訳なさそうな顔で下を向く。
「そっか」
噂は母さんの耳にまで届いていたのか。複雑な気持ちが絡まり合ってイラつく。彼女はハロルドの方に近寄って行き、彼のがっしりとした肩に手を置く。母の思いがけない行動に、固まったまま「え」と頼りない声が漏れた。
2人は初対面のはず。何でこんなに親しげな雰囲気を醸し出しているんだ。母さん、いくらあんたが美人だってこんなに息子ほど歳の離れた男を誘惑しようものなら、本当に暴れ回るぞ。
いい雰囲気になっている2人を鋭い眼差しで見つめていると、思いがけない言葉が母の口から発される。
「ハル君もわざわざ来てくれてありがとう。会えて嬉しい」
———聞き間違いかと思った。どこの誰のことを言っているんだ?ハルってあの近所に住んでいた幼馴染のハルのことか?あの小さくてかわいい瞳の子犬のような少年だったハルか?母はハロルドを見上げて、愛おしそうな顔でずっと見つめている。何でそんな顔をしてるんだ?やめてくれ。こいつはハルじゃない。どう繋げようとしても繋がらないパズルをばら撒くように、自分の心の中が崩れていく。ダメだ、また目眩がしてきた。
ハロルドの方を見ると、いつもの優しい微笑みを母の方に向けている。
「お久しぶりです。僕も会えて嬉しいです」
「こんなに立派になって。騎士団長なんて本当にすごいわ」
どう見てもハルの面影はこれっぽっちのカケラもない。ガタイが良くて、無駄に端正な顔立ちの時々怖い大男だ。
この喜びの空気感に僕は全く入っていけない。こんなに近くにいるのに、ガラスの壁でもあるかのように2人が遠い。10年越しの再会を喜ぶ母とハロルドの間に僕は存在していないことがわかる。
母は一段と声を華やげて、提案する。
「そうだ、よかったらこれからお昼ごはん一緒に食べよう。準備するから待っていてね」屈託のない笑顔で台所に向かう母は、10年前の姿そのもので涙がでそうになる。
すると「ママー!」と大きな声で叫びながら玄関をこじ開けて、水鉄砲のような勢いの幼い少年が2人入ってくる。
僕の目の前を通り過ぎる。まるで僕とハロルドは透明人間になったかのように、遊びに無我夢中なこの子たちには見えていないようだ。一直線に母の元へ飛び込んでいった。
何故この子たちは誰のことを母さんと呼んでいるんだろう?突然色んなことが起き過ぎて、頭の整理が全く追い付かない。
「こら、危ないわよ。今昼ごはん作っているから待っててね」
ドタバタと小さな手を振り上げて「はーい」と返事をすると、ようやく周囲の変化に気付いたようだ。
「あれ?おきゃくさんだ。ジャマしてごめんなさい」
「ごめんなさい」
意外にも素直にお辞儀をするが、てんでバラバラで綺麗なお辞儀とはいえない。2人は顔を上げると、僕を見ながら目をまん丸く見開く。
「ねぇルース、ママがもうひとりいるよ」
「あぁニール、ぼくたちみたいってこと?」
本人にとってはコソコソ話をしているのだろうが、会話は筒抜けで声を小さくしている意味はない。彼らがいう「僕たちみたい」というのは双子ということだろう。
ルースとニールと言い合った少年たちは、よく顔が似ていて区別がつかない。太陽に透けるほど淡い茶色のふわふわの髪の毛と甘く柔らかそうなパンのように膨らんだ頬があどけなく、好奇心旺盛で人懐っこさを感じる。
「でもちょっとちっちゃいね」
「うん、わかいってこと?」
覚えたての言葉にもどかしさを感じながら耳を傾けていると、2人が飛び付いてきた。
「ねえ、あそぼー」
「いいや、ぼくとあそぼーよ」
小さいながらも全ての体重をかけられているせいで、足元がぐらつく。ルースとニールが両方向から引っ張り合う。まるで振り子のように揺れる、揺れる。その振動で、この状況に追いついていけない思考回路もついに限界を迎える。ぐらり、と身体が倒れていくと目の前が真っ暗になった。
目が覚めると母が車椅子に座りながら編み物をしていた。朝目覚めた時と同じベッドに寝ていることに気づく。
「具合はどう?」
「ごめん、心配かけて」
「昔はこうしてよく看病したものよ。何だか懐かしいわ」
幼い頃からよく体調を崩していた。季節の変わり目には熱が出て、母さんがよく看病してくれていた。窓の外では父さんや兄さんが遊んでいるのを指を咥えてみていた。
「本当にごめん」
「こちらこそ子どもたちがごめんね」
母さんの口から「子どもたち」という言葉が出て、自分や兄さん以外にもそのような存在がいることに違和感を覚えて気が気じゃなくなる。
「あの子たちは?」
「この家の主人のお子さんよ。お医者様でね、私が流された時に救ってくださったの」
「それからずっとここに?」
「ええ。とっても優しい人なの。きっとあなたもすぐに仲良くなれるわ」
母の言葉の衝撃を全身で受け止めたあと、すん、と全身の力が抜けていく。1人家を出て行った後、いい男と出会ってその連れ子と一緒に暮らしているっていうのか。あまりにも都合のいい話すぎないか。
頭の中では修道院のほの暗さの中で泣いた幼き日の記憶が断片的にフラッシュバックしてくる。あんなに怖い思いをして、耐え凌いでいた日々があまりにも長すぎて感覚が麻痺してきた。自分が惨めに思えてきて、吐きそうだ。僕の10年間は一体なんだったのだろう。
「みんなは?」搾り出すように会話を続ける。
「ハル君に外で遊んできてもらってる。あの子本当に変わったわね」
「……もう別人だよ」
あいつのことになるとそっけなく返事をしてしまう。僕はハロルドがハルだということをまだ受け入れられずにいるからだ。だってこんなにも人は変わるものなのか?10年という月日の中で、自分だけが取り残されたみたいで悲しい。
母の話によると、昨晩この家に彼が担ぎ込んでくれたそうだ。最初事情は話さなかったものの、息子によく似た修道女とそれを心配そうに見守る騎士。玄関に現れた瞬間にすぐ気づいたそうだ。
「僕はわかるとして、何でハルだってわかったの?」
「あなたを見つめる目で気付いたの」
「目で?」
母はふふっと微笑みながら思い出を見るように遠くを眺める。
「ほら、ハル君って何かにつけてあなたのまわりにくっついていたじゃない?焦げそうなくらい熱心で、こびりつくくらい真っ直ぐで。『ルネのことが大好き』ってすんごく伝わってくる目だったから、覚えてたんだよね」
「たしかにそうだった」
「全然変わってなかったからすぐにわかったわ」
母の勘というものはすごいとみんな言うが、やはり本当にすごいのかもしれない。普通あれだけ人間が育ったら、別人だと思うのだが。子育てを通して人が成長する過程を見届けた者と見届けなかった者の差なのかもしれない。
「2人が一緒にいると知ってもちろん驚いたけれど、それ以上にすっごく嬉しくなっちゃった」
何なら今求愛されていることは、口が裂けても言えなかった。よく考えればハロルドは僕が男と知っていて百夜通いを始めたのか。そもそもいつ僕だと気づいたのだろうか。これは問いたださなければなるまい。
母は体勢を立て直し、いかにも本題を話すような真剣な眼差しで僕の目を見る。声色も少し低く重みを載せる。
「ねぇ、ルネ。ここで母さんと一緒に暮らさない?ご近所さんもみんな優しくて、暮らしやすい所なの」
「冗談言わないでよ」
吐き気がするような提案だった。大好きな母さんでも、そこまでは許容できない。いや、許容というか反射的に全身が拒絶していくように鳥肌が立っている。抗うように、思わず冷たい声で返事をしてしまう。
「冗談じゃないわ。あなたのためを思って言っているのよ」
僕のため?微塵もそう思えなかった。これは何かの試練だろうか。母さんと2人暮らしならまだしもまだ顔も見ていない医者の主人と連れ子の生意気そうな双子たち。母の善意の提案を素直に受け取るにはまだまだ時間はかかりそうだ。置き去りにされて、鬱屈な暗闇の中を過ごしていた日々の記憶を思い返すとあまりに辛くて胃の奥から酸っぱいものが込み上げてくる。
「あなたは昔から身体が強くはなくて、心配のあまり夜も寝られない日もあったわ。看病するうちに、母さんを頼ってくれてるみたいで嬉しかった」
愛おしそうに見つめる目は窓の外に向けられている。こんなに近くにいるのに現実の僕とは視線が交わらなくて悲しみにも似た苛立ちが募る。
「あなたに降りかかる苦難は全て取り除いてあげたかったのよ。あなたを修道女にしたのだって……」そう言いかけた母は何かに気づいてすぐに口を閉じる。
その言葉を聞いた瞬間、自分の中にある引き金が外れた気がした。
「修道女にした」とはどう言うことだ?僕の記憶では母の知り合いの助けがあって王立修道院に入れられたことと、孤児が生活していくには修道院でシスターとして暮らすしかないと聞かされていた。それだけが真実だと思い、呪い続けていた。この不自由な暮らしは母さんの意図でもあったというのか?
「それどういうこと?」
「ごめん。言いすぎたわ。忘れて」
「母さんが修道院に僕を入れたの?」
「違うのルネ、あの時の母さんはどうかしていたのよ」
「母さんが僕をシスターにしたの?」
「それはあなたを守るためのことだったのよ」
「守る?」
「男の人生は想像する以上に耐え難いことの連続よ。戦争が起きれば徴兵されて、家庭を持っても労働に担ぎだされ、学問の道へ進んでも出世と権力に巻き込まれる。あなたにそんなことさせられなかった。父さんたちがいなくなって、身体が弱いあなたを守るためには仕方のなかったことなの」
苦渋の決断だったと言わんばかりに母は顔をしかめながら俯く。手元に目を向けると繊細なレースのスカートをくしゃくしゃに拳で握っている。その姿を見て僕の記憶の母よりも一回り小さくなったように感じた。
それはそうか。相対的に僕の身体も成長しているのだ。ふとため息を着くと、自分の中にはもう声を荒げる気力も残っていないことを悟った。
「ごめん、ちょっと頭冷やしてくる」
「ちょっとルネ!待ってどこに行くの」
自由に歩けない母を置いて、玄関へ向かう。あまりに冷たいだろうか。何にも気を遣えない程に、心に余裕がなくなっていた。胸の中のモヤモヤした感覚があまりに気持ちが悪くて、深呼吸をしていないと倒れそうだ。
玄関を出て砂利道をしばらく歩いた。庭にハロルドや双子がいたが、横目で通り過ぎたからこっちを見ていたかなんてわからない。ただ1人になりたかった。1人になって心の中を空っぽにしたい。それだけだ。
人がいない場所を求め彷徨った末に辿り着いたのは湖の岸辺だった。対岸にはボートを浮かべてデートをする恋人たちが見える。豆粒ほどの大きさなので向こうからもこちらは見えていないだろう。
青空に白く君臨する太陽が湖の水面に映っている。その光は真っ直ぐにこちらへと伸びてきて、眩しさに目がくらみ、心の中にある悪事や邪念を取り払うように照らしてくる。悪いことをしている自覚はないのに、何故か心が痛む。
ため息をつきながら青々とした芝生の上に腰をかけると、疲労がどっと襲ってくる。周りに誰もいないことを確認して、寝転がってみると全身が固まっていてツンとした痛みが全身に流れていく。
空はこんなに広くて青いのに、どうして自分の心はこんなに狭くて薄暗いのだろう。一度に多くのことが起こりすぎて、整理がつかず混乱していてもう何もしたくない。
瞼を閉じるとすぐ近くに太陽があるかのように、温かく心地が良い。風の音に耳を傾けていると、近くで物音がしてふと目を開ける。するとハロルドの顔が目の前にあった。
「うわっ!」と驚いて思わず上半身を起き上がらせると、とてつもない衝撃が額に走った。一瞬記憶が飛んだように目の前が真っ白になったが、目を開けると同じように額を手で覆っているハロルドの姿があった。
「なんでここにいるんだよ」と手で頭を押さえながら言うと、ハロルドは涙目でこちらを見ている。
「心配だったから追いかけてきたんだ。こんな攻撃を受けるとは」
彼の無防備な姿につい可愛いと思ってしまう。張り詰めていた緊張感が一気に解けて、「ふっ」と声が漏れ出る。その勢いは止まらず、笑い声が止まらなくなる。笑いたくて笑っているのではないけれど、こうでも笑ってないとおかしくなりそうだった。視界にはだんだんと涙が滲んでくる。一筋流れ落ちると、とめどなく涙が止まらなかった。頬を伝う涙をハロルドは大きな手で繊細に拭ってくれる。
「抱きしめてもいい?」
ハロルドの目は熱を帯びていた。そんなこと聞くなよ、と内心ふてくされながら小さく頷く。
あつい胸板にすっぽりと包まれる安心感は言葉では表しきれないほど、今の自分にはなくてはならないものだった。人の体温がこんなに温かいなんて忘れていた。いつもこいつは僕に様々な感情をくれる不思議な男だ。
しばらく抱きしめてもらっていると自然に涙は乾いていた。涙が伝った後が乾燥して少しかゆい。そのかゆみをぽりぽりとかきながら柄にもなく礼を言う。
「その……あ、ありがとう」
たどたどしい言葉だったけれど、ハロルドは微笑んでくれた。するとおもむろに僕の頭に何かをのせる。
「これ、どうして?持ってきてくれたのか」
まるで王様の戴冠式のように両手で花冠をのせた。歴代の中でもお気に入りの花冠だったけれど昨晩の乱闘で無くしたと思っていたから、もう諦めていたものだ。男たちにもみくちゃにされた結果、ミモザは少し萎れてはいるけれど何とか原型を保っていて、その生命力に励まされる。
「大事なものだから」そう言った彼の目は澄んだ透明な色をしていた。
彼の瞳はあまりにも真っ直ぐで、吸い込まれそうで、こんなに卑屈で嫌な感情しか湧いてこない自分にはあまりにも眩しくて辛かった。思い返すと昔のハルもこんな目だったかもと記憶をたどってみる。
『ルネしか見えない』そう訴えかけるような眼差し。今思えばやけどしそうなくらい熱くて、全身が火照ってしまう。
「お礼にあげるよ」と言って、ミモザの花冠をハロルドの頭の上へとのせる。
「これは君の大切なものだろう、いいのか?」
そうやって聞いてくるハロルドを見つめ返す。
「いいんだ。お前にあげたい」と言うとハロルドは少年のような笑顔で喜んでいた。
———花冠にまつわる言い伝えを思い出す。
『自分の花冠を想い人の頭にのせるとその恋は実る』
数年前誰かが言っていた迷信だ。占いやまじないは信じる方ではないが、この言葉がふと脳裏を横切った。本当に僕とハロルドは恋をするんだろうか。この百夜通いの結末はどうなるんだろうか。
確かにハロルドは献身的でいつも僕のことを考えてくれる。でも僕たち2人が行きつく先はどこなのだろうか。目を擦っても見えない未来がそこにある。
「さぁ、帰ろう」
ハロルドは立ち上がって、大きな手を差し出す。この手を取ることは簡単であって、簡単でない。こんなに近くに手があることで、大いなる決断を迫られている。あの家に戻ったところで果たしてどうなるというのか。確かに母さんは紛れもなく母さん本人である。けれど10年という月日は自分の想像を超えて、あまりにも変化が大きいものであった。母さんには新しい家庭があり、新しい土地で新しい生活を築いている。それに溶け込むだけの勇気と器量が自分にあるのだろうか。一緒に暮らしても苦しむ未来しか想像できない。
神様に毎日祈った僕の願いは、あまりにも角度を変えて叶ってしまったようだ。ただ母さんと2人で、静かに暮らすことができれば良かっただけなのに。
色々なことをぐだぐだと考えている僕を見兼ねて、ハロルドはひとつため息をついて、力の限り僕の手を引っ張る。「ちょっと、何するんだよ」と言いながら思いきり彼を睨みつける。正直引っ張られた腕がすごく痛かった。
「大丈夫。僕がいる」
ハロルドの言葉はいつも自信に満ちている。何でもかんでも言い切ってしまうのは若さゆえなのか。でもそんな言葉に魔法みたいに何度も救われてきたのも事実である。裏切られるのは嫌だ、怖い。昔の自分は裏切られることが嫌だから、むやみに人を信じることができなかった。でも今はどうだろう。ハロルドのおかげで人を信じることが出来るようになった気がする。彼がいてくれれば、何だって乗り越えられるかもしれない。そんなわけもわからないくらい妙な自信が芽生えてくる。
でもハロルドは過去のルネが好きなんだ。天真爛漫で快活で物怖じせず何でも挑むルネ。血は繋がっていないけれどいつもそばにいる兄と弟みたいな関係だった頃の話だ。今ではその姿はまるでなく、自分でも別人のように思う。
正直、「今でも僕のこと好き?」と彼に聞いてみたい。でもその結果がイエスでもノーでもきっと彼はそばにいてくれて、いくらでも甘やかしてくれる。それくらいの器量のある男だ。
このまま彼に甘え続けることでそうなるだろうか。彼の好意を利用して、過去の自分を保ち生きていくこと。———その罪の代償は大きいかもしれない。
家へ着くと母さんとこの家の主人であるシモンが迎えてくれて、食事をしようと皆で円卓を囲んだ。シモンは街医者をしていて、昼休憩を家で過ごすらしく、たまたま帰宅していた。
「君がルネだね。君の母さんから話はよく聞いているよ」
「よろしく」
「本当にそっくりだ。まるでドッペルゲンガーみたい」
「そうかしら。結構違うわよ。ね?」
目を見開いて驚くシモンに母は笑いかける。彼は心底良い人だった。落ち着いていて紳士で、非の打ち所がないような優しい人。一つでも気に入らなかったら総攻撃でもしてやろうかと思ったのに、つまらない。
「自分の家のようにくつろいでおくれ。ん?それにしてもこのスープすごく上手いな」口元のスプーンに目をやり、感動したように目をさらに開く。
真っ赤なトマトのスープの中には、ゴロゴロと大きく切ったベーコンや野菜、ひよこ豆がたっぷり入っていて満足感たっぷりの一品。
「このスープは昔からルネが好きだったのよ。思い出しながら作ったの」
そう言う母は満開の笑顔で食卓につく。
僕は俯きながら、スープを口にして「うん」と一言呟く。
「そうだ、今夜も泊まって行きなさい。夕方から嵐になりそうだわ」
「そうなのかい?こんなに晴れているのに」
母とシモンの間で繰り広げられる会話は、まるで夫婦のそれだった。目を背けるように窓の外を見ると、透き通るような晴天だ。雨が降るとは思えなかったけれど、確かに夕立が街を包み込んだ。日が沈み、街に夜が訪れると雨足は弱くなっていた。
風呂に入り、朝起きた時と同じベットへ潜り込む。寝返りを打つと少し軋む音がするのが難点なくらいで、他は快適に過ごさせてもらっている。床にはハロルドが布団を敷いて寝転がっていて、こちらに大きな背中を向けている。寝息も何も聞こえないから、きっと彼は起きているだろう。再会した頃、ブランデーを飲みながら「眠れない」と言っていたことがふと記憶に蘇る。
「今何を考えてる?」と聞いてみたかったが、こちらに詮索が回ってきても厄介なので口は閉じたままにしよう。息が詰まりそうな沈黙が流れたが、2人の間にあった静寂は幸いなことに雨の音で埋められた。雨が降っていて良かったと、天井を見つめながら思っていると重い瞼が落ちてきた。
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