優しさの連鎖

 ハロルドは騎士団の駐屯小屋で療養することになった。小屋に足を踏み入れると窓際に静かに佇む彼の姿が視界に入る。上半身には白い包帯が厳重に巻かれ、傷口にはテープが貼ってある。思ったよりも元気そうで安心した。

 ここへハロルドが運ばれて治療を受けることになり、食事や衣類などの必要な物の運搬や身の回りのちょっとした世話を引き受けた。引き受けたというか、半ば強引に「やらせてほしい」と懇願した。

 そもそも僕と彼の間で行われている百夜通いが原因なのだ。それにここで治療をしていることを他の修道女が知ることになれば大変な騒ぎになる。それをミランダに説得して、彼女から院長の方に話をつけてくれた。

 ハロルドは僕の姿を見るなり、話しかけてくる。

「すまない。君に迷惑をかけてしまって」と彼が申し訳ない顔で謝る。

「いや、元はといえば悪いのはこちらだから」

「そんなことはない。馬の管理も主人である私の責任なので」

 馬が滑った原因は、本来ついているはずの馬具が老朽化しており、壊れたことだった。何でも完璧にこなしている彼が、そのようなミスを犯すなんて意外だった。馬のことは詳しくわからないけれど、今回の件を機に、馬具の手入れは重要なことなのだと身に沁みて実感する。


「生きてて良かった」とふと心の声が漏れてしまう。

 ハロルドはきょとんとした顔でこちらを見つめると、眉を下げながら「すまない」と何度も謝罪の言葉を述べた。

「顔上げてよ。私を守ってくれるんだろう。そんな顔しないでよ」

 決して彼に謝らせたい訳ではない。もう自分の前から誰かがいなくなるのは嫌だったのだ。誰も僕を置いていかないでほしい、ただそれだけのことだ。

「ルネはやっぱり強い。大好きだ」

 “やっぱり”という部分に違和感を覚える。こいつの前で見せる姿はいつもドジで倒れてばっかりの弱い自分なはずなのに。

 そう、精神的にも強くなんかないんだ。強がっているように振る舞わないと平静を保てなくなる。自分の周りから人がいなくなる恐怖に耐えられないだけなんだよ、寂しさに耐えられない弱い人間なんだよ、と言葉が出そうになるのを思い切り呑み込む。

 こんなことを言ったらきっと彼は迷わず励ましてくれるだろう。病人に気を遣わせてどうする。僕が欲しいのは励ましでも同情でもない。何が欲しいかと問われると、すぐには答えが出てこないけれど、少なくともその2つではないことは確かだ。


 ふと部屋の外から大きな足音が近づいてきて、思い切りドアノブが回る。重たいドアを力強く開けて入ってきたのは、額にうっすらと汗を浮かべるジャンだった。

「ジャン、心配をかけたな」

 ハロルドがジャンに感謝を述べると、彼の目はどんどん潤んでいき、涙が溢れ出した。外野から見ていてもどちらが年上かよく分からなくなる。

「団長ー、本当に心配したんですからね。生きてて良かったあ」

 僕は「そんなに泣くなジャン、しっかりしなよ」と一瞥する。

「えぇ!ルネさんだって団長を見つけた時に大泣きしてたじゃないっすか!」

「お前はお前、私は私だ!一緒にするな」

 一連のやり取りを一歩引いて見ていたハロルドは、眉間にシワを寄せる。

「君たち、いつの間にそんなに仲良くなったんだ?」

「いや、ちょっと色々あって」と僕が説明するのを横切って、ジャンが喋り出す。

「団長!ルネさんこう見えてもすごくしゃべりやすいっすよ。俺の話、結構聞いてくれるし」

「———正直妬けるんだが……」とハロルドがぼそりと呟き、熱を孕んだ視線がこちらへ向けられる。嫉妬するとこんな可愛らしい顔をするのか、と初めて彼のことを年下の男の子だと思えた。

 疲れも溜まっているのか、こんなことでも笑いが込み上げてくる。久しぶりに笑うと気持ちが良くて止まらない。ハロルドとジャンも最初こそ不思議そうに眺めていたが、笑い声が連鎖して3人で笑いあっていた。何が面白いのかも分からないが、まるで秘密を共有するような特別感を味わったような気がする。


 百夜通いは僕が毎晩、小屋に出向くことで30夜、40夜と結果的に継続された。

 こんな形で継続されるなんて誰が予測しただろうか。いや、諦めの悪いこの男はきっとどんな形になろうとも継続するはずだ。これで良かったんだと言い聞かせながら、小屋へ通った。

 実際、この小屋で話し合ったことは楽しかった。同年代の同性と話す機会が今までなかった分、新鮮で刺激的な時間だった。ジャンの初恋の話やハロルドの剣術試験の失敗談、任務先で起きたハプニング。彼らにとっては当たり前の日常が、僕にとっては非日常だったから。


 家族がいなくなってしまったあの日から、心にぽっかりと穴が空いたようで、何をしても笑えなかった。男として生きていく自由を奪われ、本当の自分を消して偽って生きてきた。

 幸い、僕は修道院に歓迎された。誰もいじめるものはいなかったし、母に似た外見のおかげで女として生きていけている。


———『あなただけは生きて』

 母のメモを見たあの時から、生きていく理由や手段がどうであれ、命だけは守ることを心に誓った。それが家族との最後の約束だから。

 それでも胸の奥にはどこか寂しさはある。剣術の稽古はもちろん出来ないし、自由に好きな本も読むことができない。

 何としても生きていくことと、奪われたたくさんの自由。この二つを色んな天秤にかけて、諦めることがたくさんあった。


 しかし今、ハロルドとジャンに出会って、今まで心の奥底で鍵を掛けていた感情が、少し動き始めている予感がしている。淡い期待をしてしまっていることは事実だ。全てが変わらなくてもいいから、この不自由で鬱屈した世界から抜け出したい。ただそれだけだ。


 春が訪れて、修道院内がにわかに色めき立ち始めた。修道女たちは花の香りを纏いながら、優美に歩く姿は清らかで一切の濁りがない。 


———あぁ今年も花冠祭の時期がやってくるんだ。


「花冠祭?何すかそれ。初めて聞いたっす」

 案の定、ジャンは初耳という反応を示した。彼は隣町の出身らしい。

「毎年この時期に開かれる街最大のお祭りだよ。夜通し盛り上がる」

「夜通し!?うわぁすんげぇ楽しそうっす!ねぇ団長いきましょうよ」

 ジャンは期待で瞳をときめかせている。

「何を言っているんだジャン。僕らはその日は祭のパレードの警護だよ」

「え!?えぇー」

 風船から一気に空気が抜けていくように、ジャンの覇気はしおしおと無くなっていった。落胆した面持ちで「ちなみにそれってどんな祭なんすか」と問いかける。

「この街は国家有数の職人街なんだ。この祭りはあらゆる職人が集まって技術を競い合う。世界一に輝いたショコラティエ、目利きの鍛冶屋、腕の良い刺繍作家、それはもう数えきれない程の職人が集まる。彼らが出店するバザールがたくさん並んで、とても楽しい祭りだよ」

 昨年の祭りの様子を思い出しながら、説明する。ハロルドもジャンも初めての花冠祭のようだ。昼間の華やかで賑やかな雰囲気も良いが、夜もまた違った趣がある。夜の暗闇の中で花が星のように輝く幻想的な風景だ。

「花冠祭って名前の由来ってあるんすか?」

「あるよ。みんな自分で用意した花冠を付けて参加するんだ。それがより一層華やかに祭りを盛り上げる」

「想像しただけでもワクワクしますね。どんな花冠でも良いんすか?」

「うん。特にルールは無い。生花でも造花でもいいし、木の実や硝子を付けたり創意工夫する人もいる。あ、もちろん人を傷つける素材や、毒花はダメ」

「楽しそう」とジャンは頬を桃色に染めながら妄想の世界に入り込んだ。

 あと花冠祭の代名詞として一つ大きなイベントがある。これを言おうか言わまいか迷っているうちに、勢いよくドアが開いてミランダが入ってきた。

「ルネ、今からアルベルト司教のお庭にお邪魔することになったわ。すぐに準備出来る?」

「問題ないよ。このまま出かけられる」

 立ち上がると修道服の裾がふわりと靡く。その光景を見ながら不思議そうにジャンが問いかけた。

「ねぇ、なんで司教様のお庭に行くんすか?」

「庭いじりが司教様の趣味でね。毎年この時期になると、花冠に使う花を取りにおいでってご厚意で言ってくださるの。愛娘みたいに育てた植物を得意げに自慢してくれるわ。あの強面から想像もつかないでしょう?」

 ミランダは司教の顔を思い出しながら、笑いを堪えている。

「そうだ、良かったらあなたたちも来る?きっと良い気分転換になるわよ」

 ミランダの提案にジャンが目を輝かせながら、すかさず賛同する。

「行く!行きたい!ねぇ団長、こう言ってくれてるんだし行きましょうよ」

 ハロルドは散々悩んでいたが、ジャンの猛烈なアピールに押され、行くことを決めた。


 木漏れ日が心地よい昼下がり、みんなで山を下ってアルベルト司教の邸宅へ向かうことになった。先頭には僕とミランダ、エマの3人が歩き、その数歩後ろではハロルドとジャンが数人の修道女に囲まれながら歩く。

「ジャンくん恋人はいるの?」

「運命の相手を募集中だよ。いつでも申し込んでよ」

「じゃあ申し込むー!」

 変な会話が繰り広げられているなあと思いながら、ハロルドの方に視線をやると、周りの修道女たちと上手く会話をしていてなんだか苛立つ。せっかくの外出というのだから少しはこっちに来てくれてもいいじゃないか。そんな思いも虚しく、空に消えていくばかりだ。

 重厚な青銅の門を開き、一本道を歩き、ドアを叩くと、アルベルト司教が出迎えてくれる。

「よく来たね。みなさんお揃いのようで」

 老眼鏡から覗き込む目は年齢の割には鋭いが、表情は優しいままだ。今日の彼は機嫌が良さそうだ。

「さっそくだが庭へ案内しよう」

 家の裏へまわると、司教が丹精を込めてつくった庭が広がっていた。まるで数え切れないほどの絵の具をパレットにひっくり返したような光景。

 ここまで歩いて来た疲労が、一気に吹き飛んでいく。

「この庭はね、妻が残した庭なんだ。甲斐甲斐しく丁寧に手入れをする彼女の姿が大好きだった」

 アルベルト司教はそう言いながら不自由そうな膝を曲げ、愛おしそうに一本のプルメリアを優しく撫でる。

「10年前、妻は突然天国へ旅立ってしまってね。これは私の傲慢かもしれないがね、庭の手入れをすることが、天国にいる妻と私を繋ぐ架け橋になってくれていればいいなと思いながら手入れをしているんだ」

 天から差す日の光が、植物をより一層瑞々しく映す。10年という月日の中で彼女の死を受け入れながらも、寂しさは今もなお司教の中で居座っている。

「子どもがいなかった僕らにとっては、まるで子どもの世話をしているようさ。彼女に旅立たれてからそんなことに気づくなんて、ダメな伴侶だね」

 傲慢ではない、と僕は思う。たとえ離れていても、司教の心の中にはいつも奥さんがいて、蕾が芽吹き、花が咲く喜びを共有できる。愛する人の好きなものを大切にすることは、この世で一番尊いことだ、とこの庭が教えてくれた。この話は庭を訪れる度に聞かされているが、より一層大切に扱わなくては、と身が引き締まる。

 ジャンが不思議そうな顔で、「なんでそんな大切な庭を花冠作りのために?」と小さな声で僕に耳打ちをする。

 それに気がついた司教は「妻が望んでいるんだよ」と答える。

「感動するものは分け隔てなく与えるべきというのが彼女の考えでね。そうすればいがみ合いや争いもなくなり、平和が訪れるんだって、口癖のように言っていたよ」

 この世の誰もがそう思えたなら、きっとそうなるだろう。でも世の中に争いが絶えないということは、まだこの世には感動を独占する人間と与えられない人間がいるのだ。自分は与える人間になれているだろうか。いや、与えられているばかりだ。卑屈のループに落ちるとなかなか戻れない。この錯覚を断ち切るために、少し離れた場所へ移動することにした。

 1人で黙々と作業をしているとハロルドが近くに腰掛けてきた。

「花冠いいのが作れそう?」

「……別に」

 色々な苛立ちが連なってそっけない態度をとってしまう。

「やっと話せたね」

 その言葉がなぜか嬉しく感じてしまう。ちょうど同じことを考えていたから。

「うん」と呟いて花冠に視線を落とす。


「さぁ、少し休憩をしよう」

 司教の声かけに、「はーい」と一斉に返事をして室内へ入ると、ふわりとアールグレイの茶葉の香りが部屋中に漂っている。丸い皿に並べて置いてあるのは、花が添えられている可愛らしいマフィン。

「司教様、すごく可愛いお菓子ですね!お花がのってるわ」

「これは食用のビオラだよ。色鮮やかで幻想的だろう」

 ガラスのポットに入った紅茶を、客用のティーカップに注ぎながらアルベルト司教は会話を続ける。

「最近知り合いが街外れの小さな1軒家を改装して洋菓子店を始めてね。今朝買って来たんだ」

 マフィンを1口かじると、爽やかなレモンの風味とシャリっとした食感の砂糖衣がどこか懐かしさを感じた。真ん中には甘く煮詰められたレモンのジャムが輝いている。

 ———この味は

「司教様、お菓子とっても美味しいですわ」

 周りの音が聞こえなくなるほどに何も考えられなくなったが、ミランダの一声で我に帰る。

「美味しいだろう。今や街の隠れた人気店になっているんだよ。みんな売り切れるのが怖くて自分だけのお気に入りのお店になってるんだ」

 その後の会話はよく覚えていない。時間が経っても口の中に広がるレモンの香りを忘れないように、足早に帰路を歩く。

 太陽が沈み始め、空が茜色に染まっていく。

「どうかした?」

 顔を上げると、心配そうにハロルドが顔を覗き込んでいる。

「なんで?」

「お菓子を食べた後から、様子が変だったから」

 マフィンを食べた瞬間、変化に悟られまいと、咄嗟に表情を取り繕ったが無駄だったようだ。この男の観察力には感心する。10年も一緒に住んでいる仲間でも気づかない変化に気づいた。

「何でもないよ。お菓子の美味しさに感動して」

「そう。なら良かった」と安堵した様子でハロルドは微笑んだ。


———お菓子を作ったのは母親かもしれない。

 そう言いかけて、喉の奥へと言葉を飲み込む。ハロルドの優しさに甘えてはダメだ、これは自分で解決しなければいけない問題だ。

 レモンジャムを口にした瞬間に悟った。甘さの中にほんのりと苦味があって、琥珀色によく煮詰まったジャム。母はよく季節の果実でジャムを作ってくれた。それを透明なガラス瓶に詰めて、台所に並べていた。忘れていた記憶がレモンの香りとともに母の記憶が蘇ってくる。

 母さんが生きている。そしてこの街に母さんがいるかもしれない。一目見るだけでもいい。今どこにいて、何をしているのか、10年という月日が母の姿をどう変えているのか、知るのは少し怖さがある。

 それでも会いたい。生まれてからずっと、母の存在は生きる希望だから。


 近々自由に外出できる日は花冠祭当日だ。修道院でチャリティバザーをすることになっている。当番の仕事が終わり次第抜けだして、洋菓子店へ向かおう。


「何考えてる?」ハロルドの声で現実に引き戻される。

「いや、別に何も」

 駐屯小屋に帰ると、ハロルドやジャンが拠点に戻るというので荷造りを手伝う。療養といっても束の間だ。管理職は事務仕事も溜まるのだろう。

「迷惑をかけてすまなかった。また明日会いにくる」

 そう言ってハロルドは帰って行った。曇りなき瞳は真っ直ぐと僕を捉えて離さない。

「忙しいんでしょう?もう通うのやめたって……」

「いや、やめないよ。じゃあまた明日」と馬に跨って正門へと向かう。


 ———百夜通いが始まって40日が過ぎた。

 看病を通して一緒にいたせいか、彼の背中を見つめていると急に名残惜しさに襲われる。本当に明日も来るのだろうか。ついに嫌になって逃げ出したりしないだろうか。なんて不毛なことを考えているんだ、僕は。彼はそんなことをしないだろうに。

 人に好かれることは案外気苦労があるものだと思う。好かれているという安心感は永遠に続くものじゃない。人の心は移り変わる。ハロルドの心はいつか移り変わってしまうのだろうか。それは今の僕にとってはすごく怖いことだと、なぜかそんな気持ちが込み上げてくる。

 



 






 

 

 


 






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