月の光
「騎士団長様が百夜通いをされるのですって!」
次の日の朝、早くも食堂ではハロルドの百夜通いの話題で持ちきりになっていた。しまった。リチャードを口止めするのを忘れていた、と心の中で後悔が止まらない。彼は医務室の住人として在籍しているが、同時に情報屋だ。医務室にはさまざまな情報が流れてくる。小さな噂から大きな噂まで。彼自身は噂話自体が好きという感じはしないが、話し上手な彼の能力が遺憾なく発揮できる分野なのだろう。そして面白い情報を求めてやってくる者も後をたたない。
男も女も噂話が大好きだ。特に修道院のような閉ざされた空間では娯楽のような存在である。隣町から美男な司祭が来るとか、調理師と修道士が不倫してるとか、騎士団員が夜這いに来たとか。他人の不幸は蜜の味とまではいかないが、とにかくみんな面白いことに飢えているのだ。そして今夜から始まる百夜通いも例外ではない。正直、ものすごく居心地が悪くて「うーん」と声が漏れる。
ミランダが両手を打ち鳴らし、注目を集める。
「ほらみんな。騒いでないで早くご飯食べちゃおう。今日の朝拝は讃美歌の披露もあるわよ。少し早めに集合して、ちょっとは練習しないとね」
「はーい」と修道女の何人かが声を合わせて返事をする。
その空気を断ち切ってくれて助かった、という思いでミランダを見つめた。すると彼女は肩をすくめながら、さっぱりした笑顔で答えた。
食器洗いの当番だったので食堂に残って片付けていると、一度出て行ったはずのミランダが帰ってきた。少し眉間にシワが寄っている。
「さっきはありがとう。助かった」という僕の精一杯の感謝の言葉を遮るように、ミランダは問いかけた。
「いいのよ、そんなこと。それよりも百夜通いするって本当?しかもあの騎士団長なんて」
僕の感謝の意が「そんなこと」と言われてしまったのは切なかったが、膨大な修道院の業務を担う彼女にとってちっぽけなことであることは仕方がなかった。
「心配ないさ。顔を見せなければいいだけ」
「それならいいけど。昔みたいに傷つくあなたを見るのは御免よ。しかもあの新団長はかなりの遊び人で有名らしいじゃない。まあ、あれだけ顔が良ければ女に困らないでしょうに。本当に気をつけてね」
言葉の端々に彼女特有の切れ味の鋭い嫌味を感じたが、それは悪気はないことを知っていたから、逆に気持ちが良かった。
しかしハロルドのことを「遊び人」と言っていたことには、少しだけ違和感がある。確かに見た目からしてもかなりモテるだろうし、今や『騎士団長』という最高のステータスがある。だがその要素があったとしても、ハロルド本人から受けた印象に「遊び人」という文字は全く見つからない。むしろ真逆の印象を受けた。誠実、真面目、真剣……。
確かに彼のキスの慣れているような軽率さは癇に障る。それでも彼の瞳や言葉からは不純な雰囲気はこれっぽっちも感じなかった。
「早く礼拝堂行かないと怒られちゃうよー」とエマが声をかけにきてくれた。
「本当だ。もうこんな時間じゃない。ほらルネ、急いで」
「……うん」と言葉の端切れが悪くなる。
今回の百夜通いもまた同じことだろう。過去に挑戦した者の中には、道中の道のりの過酷さや日々の過労が募り募って、「何様だ」とか「お前にそんな価値があるのか」などと暴言を言い放つ奴も中にはいた。勝手に始めたくせに、人間とは本当に自分勝手なもので、自らの失敗の原因を僕になすりつけようとしてきたのだ。僕も人の子なので、少なからず傷ついた。だからもう、ただ見るだけ。期待も何もしない。
ミランダとエマは先に2人で礼拝堂へと向かった。僕もその後を追うように渡り廊下を小走りに駆けていたが、ふと昨日の出来事を思い出して、憂鬱な感情が押し寄せてきた。———ハロルドの唇が触れた頬が、また熱を吹き返す。思い出したくないのにふと記憶が蘇ってくるのは一体なぜだろう。一度リチャードに相談してみるか。いや、彼のことだからすぐ話を広めるに違いない。そうなると図書館で調べようか。
そんなことを考えていると、少し遠くから聞いたことのある声が僕を呼ぶ。
「ルネさん!」
現れたのは僕が飛行に失敗した夜にハロルドの隣にいた、部下らしき騎士だった。くりっとした碧眼と金髪、着崩した軽装の甲冑、相変わらず軽い喋り方。暗い中でしか顔を見ていなかったから、こんな顔だったのかとまじまじと顔を覗き込んでしまった。
「うわー相変わらずの美少女っぷりっすね。そんなに顔覗き込まないでくださいよー。照れちゃうから」と言いながら微笑む彼は、周囲にいる男性とは違う砕けた雰囲気を持っていて、喋りやすかった。
「こんなところで何してるんすか?もうすぐ朝拝って聞いてるんすけど」
「朝食の片付け当番で、手こずって遅れた」
「へぇー当番制なんすね。いいなぁ女の園。絶対いい匂いするわー」と変な妄想を繰り広げ始めた。彼はきっと周囲から愛されて育った人間なのだろうということが、これだけの短い会話の中でわかった。
「ところであなたはここで何を?」
「俺はいつもの見回りっす。こっちも当番制で。あ、俺のことは気軽にジャンって呼んでください」と屈託のない笑顔を向ける。
「そういえばうちの新団長さんが今日から百夜通いするらしくて!想い人はルネさんなんすよね。いいなー美男美女でお似合いじゃないっすか!ロマンチックで羨ましいなぁ」
ジャンは口早に喋ると手を組み、自分の妄想の世界へ再び入ってしまった。
「いや、期待を裏切るようで悪いけど今回も断るつもりだし……」
驚いたように身体をのけぞらせて、「ええ……!そんな!」と悲しげな表情を浮かべる。
「でもすごく優しくて、何をしても完璧でめちゃくちゃ強い人なんで。俺よりも年下なのに、あらゆる試験をすごいスピードで突破していって、今や国内トップの最年少騎士団長ですからね。年下だけど嫉妬とか通り越して、もう尊敬しかないっす」
ひとおもいに喋り倒すジャンは一息つくと、少し近寄って小声になる。
「ここだけの話なんすけど団長は生まれはすごく貧しかったみたいで、ここまで来るのに物凄い努力したって聞いてます」
———驚いた。騎士界は幼少期からの武術をはじめとした英才教育が基盤となり、のし上がっていく貴族階級のものだと思っていた。そのほかにも外交のために語学、経済学などの上層教育も受けなければならない。ハロルドが貧しいところから出てきたというのが本当なら、想像を絶する努力をしたのだろう。
「まぁでも男から見てもあんなにかっこいいんすもん。きっと百戦錬磨の恋愛してきてるに違いないっすよー」
そうだよな。それには手放しで納得がいく。ハロルドの恋愛事情を聞くのはなんだか気分が良くない。心の中がモヤモヤと曇っていくのがわかる。
「……あ、あいつは遊び人なのか?」つい無意識に女言葉を忘れてしまう。
「いやいや!団長が遊び人なんて!あの人めちゃくちゃ一途っすよ。なんでも昔の想い人が忘れられないらしいっす。でももうその人亡くなっちゃったみたいで……」
ジャンは本当に団長のことを尊敬しているのだろう。いたたまれない顔で悲しむ彼の顔には嘘がなかった。
———あいつにそんな過去があったのか。自分のことはほとんど何も言わないから、知らなかった。側近の証言によって「遊び人」の疑いは晴れたけれど、代償として、あまり知りたくなかった彼の過去を知ることになった。
「ルネさんって氷の
氷の
「そう思ってくれたなら嬉しい」と言うと、ジャンは少し顔を染めながら「また話しましょうね!ルネさん」と走り去っていった。
人懐こい子犬のような彼を見ていたら、幼馴染のハルのことを思い出した。ハルもまた、僕の後を何歩も遅れてついてくるような可愛いやつだった。
「ルネ、ルネ!待ってよお」と大きな黒い瞳を潤ませながら、懸命についてくるのが愛らしい、弟のような存在。あの夜の日以降会っていないけれど、今頃どうしているのだろう。10年という月日は、人をどれだけ成長させるのか想像もつかない。
———確か彼の首には大きな切り傷がある。僕と剣術の稽古をしていた際、剣を思いきり振り回して自分の首を切って大騒ぎになった。ちょっと鈍臭くて、綿飴のようにふわふわとした雰囲気のやつだ。きっと今頃、どこか遠くで平和にのんびりと過ごしていることだろう。
「会いたいなぁ」と小さく呟くと、遠くにそびえ立つ時計台が視界に入る。針は8時を回っていて、あぁ完全に朝拝には遅刻だ、と気づく。諦めて医務室でサボることを決め込むとトボトボと重い足取りで歩く。今夜から始まる百夜通いの憂鬱さに胸が痛む。本当にする気なんだろうか。勘弁してほしい。
医務室へ到着すると、リチャードは不在だった。簡素な看板が立てかけてあるだけで、この部屋の勝手を知っている僕は躊躇なく中へと進んでいく。医務室の独特な匂いがしみついたベッドへ深く倒れ込む。最近寝不足だったから、体調は万全ではなかった。瞼はすぐに落ちていき、眠りへとついた。
目を覚ますと、窓の外がオレンジ色に染まり夕暮れを迎えていることを悟る。一体どれくらい眠っていたのだろう。ミランダに小言を言われることは確定したので、憂鬱な気分に拍車がかかる。
食堂へ行くと、ミランダとエマが夕飯の支度をしていた。この修道院の食事は調理師が管理している。色とりどり、栄養バランスが考えてあって、量も申し分ない。その点だけは王立の修道院で良かったと思う。朝ごはんはマンネリ気味だが……。
今季の配膳係はミランダとエマが担当だ。2人はルームメイトの甲斐もあってか阿吽の呼吸で、手際よく並べている。ミランダの顔色を伺いながら、静かに食堂内へ入ると、彼女にすぐに気が付かれた。
「あら、ルネ。具合はどう?ご飯食べれる?今日はあなたの好きなラザニアよ」
内心、今日はお咎めがあるのではないかとビクビクしていたので、彼女の表情を確認してそっと胸を撫で下ろす。好物のラザニアを思う存分堪能して自室へ戻ると、いつも通りにシャワーをすませてベッドへ横たわる。
窓の外はまだ見ていない。
もし本当にあいつが来たらどんな顔でどんな声をして会えば良いのだろう。いつも通りって何だ。いつもどうやって声を出してるっけ?そんなことすらも見失ってしまう。こんなことははじめてだ。どうしてハロルドに対して、他の人にするようにいつも通りにすることが出来ないんだろう。なぜこんなにも心の中が乱される?
蝋燭の灯りを消すと、部屋の床が月の光で満たされる。あぁ、こんなに静かな夜は久しぶりだ。まだこの時間ならば別室からおしゃべりする声が聞こえてくるはずだ。しんと静まり返った空気の奇妙さはいつもなら心地良いはずなのに、今日は胸の奥がずっと落ち着かない。
すると急に窓の外がざわめき始めた。複数の女性の声が連鎖的に盛り上がっていく。きっとハロルドが到着したのであろう。
嬉々として彼に見惚れる声が飛び交うなか、「ルネー!団長様のお出ましよ」と声を張り上げる者もいて、早々と僕の部屋がここだとバレてしまい、深いため息と共に天を仰いだ。
顔は見せないと決め込んでいたが、外野の盛り上がり様に圧倒される。久しぶりの百夜通いということもあってか、今までよりも皆物凄く熱狂している。きちんと顔を見せないと、この騒ぎは落ち着かないかもしれないと思い始める。
どのような顔で会えばいいのかわからない。何度か自分に向けられた彼の熱い視線が思い出される。その視線は僕の身体を少なからず、熱らせては消えてゆく。
おそるおそる窓の淵から覗き込むと、雷が落ちたかのようにバチンッと彼との視線が合わさる。
反射的に影に隠れてしまい、逆に顔を見せるタイミングを見失ってしまった。
「ちょっとルネ!顔くらい見せなさいよー」
「そうよ!せっかく来てくださっているのに」
野次が次々に飛び交うのが厄介だ。静かにして欲しいと思いながら、皆がこの状況に飽きるのを待つ。
もう何分経っただろうか。段々と周囲が静かになっていく。もう一度、窓の外を覗き込むと人影は2つになっていた。
「なんだ?」とつい声が漏れ出て目を凝らすと、ハロルドが修道女に言い寄られている。すると順番に修道女たちが彼の元へ駆け寄っていく。みな頬を赤く染めながら、お菓子や手紙を渡す者もいた。あいつのことだからきっと1人1人に誠実に対応するだろう。何を話しているんだ?言葉を交わしているようだが、会話までは聞き取れずに苛立ちが込み上げてくる。
ようやくその波が落ち着くと、ハロルドの腕の中はたくさんのプレゼントで一杯になっていた。
彼はプレゼントを丁寧に仕舞うと、手帳とペンを取り出して何かを書き始めた。そして手早くその紙を手帳からちぎり取り、大きな手で手際よく折っていく。
みるみるうちに出来上がった紙飛行機は、真っ直ぐと美しいラインを描きながら吸い込まれるように僕の部屋中へ入ってきて、月の光で満ちた床へ着地した。
まるで手品を見ているかの様な感動に近い感覚を得ながら、紙飛行機を手に取る。少しずつ開いていくと、「話したい」と一言だけ記してあった。この言葉の通りに今すぐ階段を駆け降りでもすると、何だか自分が負けたような気がして悔しい。
窓の外を覗きこみハロルドと視線が強く交わると、彼は微動だにせずこちらを見据えている。僕は口を固く結んで、無意識に首を横に振る。彼の反応を確認することなく、再びベッドの方へ移動して深く腰を沈めた。
「明日も来るのだろうか」とふと呟きが漏れる。顔を合わせないと決心していたものの、中途半端に彼の姿を見てしまったことで、決心が揺らぎ、少しばかり彼に対して罪悪感が生まれ始めていることを悟った。
明くる夜も彼は姿を見せた。彼は決まった時間にいつも訪れた。僕が眠りにつくのに邪魔をしない、絶妙なタイミングを見計って。懲りずに紙ヒコーキを飛ばしては、僕の部屋のゴミ箱にその紙屑は溜まっていく。その虚しい光景を見つめながら、むしろ手帳の紙が勿体無いからもうやめて欲しい、とさえ思った。
———百夜通い20日目。
この辺りから挑戦者の顔色は変わっていく。諦め、憤慨、悲しみ、疲労。あらゆる負の感情が、ぼんやりと挑戦者の顔中に滲んでいく。きっとハロルドもそうだろう。ましてや騎士団長という重責な任務をこなしながら、百夜通いをしようなんて正気の沙汰ではない。
そう物憂げに窓の外を見ると暗い雲が空を覆い、冷たい雨が木々を濡らしていた。もうすぐハロルドが来るはずの時間だ。
彼は今日来るだろうか。精神的にまいりそうなタイミングで、この悪天候だ。無理はない。彼がもし来なければ、今まで通りただの騎士と修道女の関係へと戻るだけの話だ。どんな言い訳も聞き入れることはできない。
ただ不思議なことに、今僕の心は「今日ハロルドが来る」という期待にも似た淡い感情と、「今日ハロルドは来ない」という期待を裏切られたような感情が拮抗している。
「あぁ早く楽になりたい」と思いながら窓の外を覗くと、いつもの場所に黒い人影が見える。雨で視界が悪く、ぼんやりとしか見えない。
目を凝らしていると男の叫ぶ声が聞こえる。
「ルネさん!」と切羽詰まっている声色に驚く。
そこに立っているのは、ジャンだった。どうしてハロルドではないんだ?理解が追いつかないまま、ジャンを見下ろす。
「助けてください!団長が!」そう続ける彼の顔は血の気が引いて、見ていられなかった。
その言葉を聞いた途端、身体が勝手に動き出していた。そこに押さえつけるような理性など存在しなかった。雨具を着込み、部屋を見渡して使えそうなものを探す。一体何が起きているのかもわからないけれど、助けに使えそうなロープやタオルを手に取り部屋を出た。
廊下を出るとジャンの姿が見えた。この雨のせいで甲冑の下まで体は濡れて、履いているブーツは泥だらけだ。
「何が起きたんだ?」とジャンに尋ねると、真っ青な顔であぁ、あぁと唸り声を上げてばかりでキリが無いので、思いきり彼の尻に回し蹴りで喝を入れる。
「あぁん」と気色悪い声を上げると正気を取り戻したようだった。
「だ、団長の馬が、足元のぬかるみにやられて河の方へ滑落してしまったんです。助けようとしたんすけど、雨でかさを増した河の流れは凄まじくて……。さっき守衛の人にも助けを要請したところっす」
「なんでこんな日に来たんだよ」
「俺も周りも止めたんすよ。でも団長行くって言って聞かなくて。さすがに危険かもしれないってことで、仕方ないから俺が付き添いで来たんすよ」
なんで。なんで。なんで。
なんでこんな日に来たんだよ。生死不明という状況に言葉にならない感情が腹の奥から込み上げてくる。これが怒りなのかはわからない。瞼の裏にはあいつの顔が浮かんできて、離れない。
「ちょっとそこで何しているの!?」と遠くで叫んだのはミランダだった。
彼女は夜間の見回りをしていたようで、手に持った灯籠に照らされた表情は驚きと呆れた感情が半分ずつ入り混じっている。慌ててこちらへ駆けつけた彼女に事情を説明すると、「だとしたら時間がないわ。助けに行かないと」と真剣な眼差しでこちらを見つめる。
「隠し出口があるの。大ごとにしたくはないでしょう?そこを通れば私たちも見つからずに彼を探せるわ」
彼女の提案に少し驚いた。ミランダは誰もが認める優等生で、不正が大嫌いだ。きっとこうして隠し事をすることも不本意だろう。それなのに修道院幹部への報告よりもこうして助ける手段を踏んでくれている。こういう時の彼女は本当に頼りになる。
ミランダの後をついていくと中庭の茂みの中にマンホールが立てかけてあって、人が一人入れるほどの穴が空いていた。
「緊急時の出入り口よ。みんなには内緒ね」と彼女は釘を刺す。
「もちろんさ」と返すと、3人で河へと急ぐ。
雨が降り続いているせいで、通常の倍以上の水の量だ。流れもものすごく速くて、不謹慎だが、いとも簡単に馬や男を流してしまうような力強さだ。
唖然としながら、身体中の血の気が引いていく。自分がこのまま落ちてしまった時の想像が脳裏をよぎった。ハロルドは無事なのだろうか。彼の無事を信じながらも、この河の勢いを目の前にすると小さな希望も涙で霞んでしまう。
———頼む、生きていて。生きていてくれればそれでいい。まだお前のこと何にも知らないんだ。このまま終わりなんてダメだ。なぁ、またその余裕こいた顔で僕の前に現れてくれよ。こんなことなら百夜通いなんてしなくても良かった。
お前となら友達になれた気もする。今更考えても仕方のないことだけど。
あの時ちゃんと会って話していればよかった。話していればこんなことになっていなかったかもしれない。家族を失った日からこんな後悔はもう二度としたくないと思っていたのに。そんな後悔ばかりが泥水のように募っていく。
もうどれくらい叫んだだろう。何十回、いや何百回も彼の名前を呼び続けた。叫んで喉が痛くなってもまだ叫んだ。それも虚しく、彼からの返事は一度も返ってこない。
河の水位が増してきて、これ以上は危険だと判断したミランダに促され、僕ら3人は修道院へ戻ることになった。瞳に光は無く、絶望と疲労が滲んでいる。ジャンは「団長、団長……」と小さく肩を振るわせているのを、ミランダは支えるようにして歩く。無言で歩く道のりは、永遠に修道院に戻れないんじゃないかと錯覚するほど重くて長いものだった。
正門が見えてくると同時に、その横の小さな茂みに何か黒い影が見えた。雨と涙で視界が悪くなりながらも、腕で何度も擦りながら確認する。
———ハロルドだった。
幻だろうか。生きていることを願いすぎるあまり、幻覚が見えてしまっているのだろうか。泥だらけの甲冑を見にまとい草の合間にうなだれていて、必死にここへ帰って来たことを物語っている。近づいて彼に触れると、生きていた。生きていたのだ。目頭に熱いものが流れる。流れ始めると、とめどなく涙が出てくる。このまま僕の身体は干からびてしまうんじゃないかというくらいに涙が溢れてきた。嗚咽にも近いような泣き声が、雨の音にかき消されていく。
微かに意識を取り戻したハロルドは、僕の頭に優しく触れた。
「やっと会えた」と一言だけ呟くと、静かに瞼を閉じた。
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