百夜のはじまり
目を開けると月の光が柔らかく顔を照らし、窓の外はすっかり夜を迎えていた。何度か瞬きをして意識を取り戻すと、医務室へ運ばれたことを思い出す。うっすらと灯された蝋燭の方向を見ると、騎士団長が腕を組み仮眠を取っていた。
こんな時間まで付き添ってくれていたのか。なんだか申し訳ない気分も少し芽生えてくる。出会ってからというものの、こいつには借りを作ってばかりだ。何か返さなくてはいけないのだろうが、自由に使える金もないし振るまえるような料理もできない。まぁそもそも僕が頼んでしてもらっていることではないので、知ったことではないが、と開き直ってみる。
窓から風が吹き込み、団長は長いまつ毛を瞬かせながら目を覚ました。
「あっ、すみません。———寝てましたね」
「寝顔、新鮮……」
「お恥ずかしい」少し顔を赤らめ、頬を掻いている。いつもたくましく肩を張っている姿からは想像出来ないほど、耳まで真っ赤に染まっていた。
「ところで団長と呼ぶのは堅苦しいのでやめてもらえませんか。まだ自分自身が慣れてなくて。名はハロルドです」
「あぁ……。私はルネです。……改めてよろしく。」
「敬語も結構ですよ。僕の方が年下ですし」
「……えぇっ!!」
こんなに筋張った大きな身体をしていて、落ち着き払った色気を放つこの男が年下なのか。信じられなかった。ブランデーだって嗜んでるじゃないか。
僕なんて数年前から膝や腕が骨ばってきた位で身体は大きくならないし、声変わりも上手くできず不調気味。内面もどこも成長していない。他人に卑屈が止まらないし、むしろここに来てからというものずっと暗闇にいるようだ。心から笑ったのはいつだっただろうか。そんなことも忘れてしまうほど生きる心地というものをしばらく感じていなかったのに。
全てを上回っていった男と、自分を比べてしまい悲しくなってくる。
———ガサッ
カーテンが勢い良く開くと、この医務室の住人であるリチャードがこちらを覗いてきた。彼はこの修道院の医師だ。チョコレートのような深い茶色の巻き毛と切長の瞳。そして金縁の眼鏡がトレードマーク。剃られていない髭面の彼にくたびれた白衣がまたよく似合う。ちゃんとしていればそれなりに格好いいのに、だらしない雰囲気が時折勿体無く感じる。
「おう、ルネ。具合はどうだ?」
「うん。かなり良くなった」
「そりゃ、よかった」
リチャードは腕を組みながら、ぶっきらぼうな言動をまといながらも、口元を緩めて微笑んだ。修道院で一番話しやすいのは彼だ。落ち着いた口調で紡がれる言葉は、自然に僕を素の自分へと導いてくれる。修道院支援会の婦人の中には、たまに見せる笑顔が堪らないという物好きもいると聞く。
「そこのあんちゃんもお疲れさん」
「いえ、私は何も」
「今日は疲れただろう。ほら医務室特製のハーブティー入れたから飲みな」
リチャードは給湯室からティーカップとポットを持って来て、手際よく注いでくれた。部屋にはラベンダーやセージ、カモミールなどのハーブの香りが漂い、頬がほころぶ。
「ルネはこれが好きだよな」と言われながらカップを受け取ると、冷たかった指先にじんわりと熱が広がっていく。
昔から医務室は心安らぐ場所だ。ここへ来ればいつもリチャードがいて、面白い話をしてくれた。僕の知らない世界中の物語を知っていて、巧みな話術でたくさん旅をさせてくれた。父さんの勉強会を思い出させてくれるような楽しさがあった。
「そういえばお前が騎士様に運ばれてきた時には驚いたよ」
ハロルドはカップに向けていた視線をこちらへ向ける。
「なんたってルネちゃんはわがままお嬢様だからなぁ。初対面の人間、ましてや男になんてまともに会話してくれないからよぉ……俺なんか話しかけても1年くらい、無視され続けて。辛い思い出だよ」
「ちょっとリチャード。そんなこと話さなくていいから」
僕のむすっとした顔を楽しんでいるのか、彼のお喋りは止まらない。幼い頃のエピソードを語る姿はまるで父親のようにも見えた。その様子に呆れている僕に対して、横に座っている色男は何故か関心を持ちながら話を聞いていた。
「でよぅ、隣国まで噂が行っちまったみたいで。今は落ち着いたけど、噂の広まりが早いのなんの。この修道院の名物みたいになってたよな。星色の髪をした花のように美しいシスターがいるって」
数年前に偶然この修道院を訪れた司祭が、僕のことを見つけて話を広めたのがきっかけだった。その話は町人にも伝わり、山の下まで参院の列が続くほど影響があったことを聞かされた。数日間は一般公開の礼拝へ参加していたが、耐えられなくなって、しばらく欠席する日々が続いた。
期待の眼差しで訪れる者、ゴシップまみれの好奇の視線、性的な欲をはらんだ羨望。どれもが僕から自由を奪っていったものだったのだ。それからというもの、人の目が怖くなってしまい、自分の部屋に閉じこもる時間が増えた。町に出かけることも、海辺に散歩に行くことも無くなった。
少しの沈黙の後、言葉を発したのはハロルドだった。
「実はそれを聞いて王立騎士団に入団を決めたんです」
先ほどまで朗らかな笑顔で聞いていた彼が、一瞬にして真剣な眼差しでこちらを見据えている。
「うわぁ、あんたもルネ狙いか。悪いことは言わねぇから、早めに諦めな」
「……ルネ、僕は君を守りたい。初めて君をみた時からそう思っている」
直球すぎる一言に僕とリチャードはあっけに取られた。真っ直ぐと見つめる彼の視線は誠意と熱を孕んでいた。
リチャードがばつが悪そうに「じゃあ久しぶりにあれが再開されるのかな」と横目で僕を見ながら言う。
「あれって……?」ハロルドは姿勢を立て直して聞く。
無造作に生えた髭を触りながら「王立修道院名物の百夜通いさ」と物憂げにリチャードが答える。
「100日間連続で、意中の相手の元へ通うことで交際の申し込みができる。相手側はその申し出を、受け取らなくてはならない。なんせ100日通っているんだからな。ただし毎晩、日付が変わる前に会わなくてはいけない。ルールはこれだけさ」
彼はさぞ簡単なように説明を終えたが、実際に達成した者はほぼいない。今まで50人ほどは挑戦しただろうか。挑戦したものはみな口を揃えて、『無理だ』とか『不可能だ』と弱音を吐きながら去っていった。何と言っても、ここは人里離れた山の上の修道院である。日中でも気軽に来れるような場所ではない。最初から期待はしていなかったが、半分も成し遂げるものさえいなかった。自分の仕事を終えた後の疲労感の中、ここへ通うことは真の苦行に近い。意中の相手と恋仲になるという本来の目的から、「百夜通わなくてはならない」という義務感にすり替わってしまうのだろう。
このしきたりを先輩の修道女から教えてもらった時は、当時の僕はまさに一筋の希望だと思った。僕にも愛し愛されるような想い人ができれば、きっとここから連れ出してくれる。———それが自由になる手段となれば。
しかしその希望は早々に砕け散った。
手早くティーカップを片付けながら「お茶、ご馳走さま。そろそろ部屋へ帰るよ」とリチャードに告げて、席を立つ。続け様にハロルドも立ち上がり、「送ります」と精悍な声でこちらを見上げる。彼の意思を聞かないように離れようとしたのに、ついてこられては元も子もない。
僕は「好きにしなよ」と冷たく告げ、リチャードに挨拶をしてから部屋を出る。
廊下へ出ると、寒さは段違いだった。身体の芯から冷えるような風が全身を通り抜けていく。もうすぐ雨でも降るのだろうか、湿った匂いも鼻を刺激した。空を見上げると、暗く重たい雲が渦巻いている。憂鬱な気分を反映したかのような空模様に大きなため息が出た。
整然と並んでいる石畳の廊下には、2人の足音だけが交互に響き渡る。ハロルドは律儀に僕の後ろにぴったりと沿って歩き、歩幅を合わせながら進む。その姿はまるで誠実に飼い主についてくる忠犬のようで、悪い気はしなかった。この感覚は幼い時にも味わった気がして、記憶をたどるがどうも思い出せない。
喉元まで出かかった答えは、遠くで光った稲妻と、その後にやってきた大きな雷鳴によってかき消された。
———ピシャッ、ドォーン、ガラガラ
まるで空を割ったかのような凄まじい轟音が、全身を震わせた。
「うわっと」反射的に声が漏れると両耳を手で塞ぎ、その場で身体がうずくまる。
僕の心は一瞬にして闇の中に引きずり込まれて、幼き日のあの夜を思い出す。
日が暮れるまで友人たちと路地裏で遊んだ後、突如激しい夕立に襲われた。「また明日」と急いで友人たちに別れを告げると、「今日のご飯は何だろう」などと呑気に考えながら足早に家へ走った。激しい雨に打たれながら、視界が悪いながらも何とか麦畑までたどり着いた。ふと上を見上げると、家は真っ暗だった。いつもであれば、この時間ならまだ明かりが灯っているはずだ。
微かな違和感を抱きながら「ただいま」と家のドアを開けると、部屋の真ん中に横たわる黒い人影があった。窓の外で光った稲妻がその人影を照り返すと、顔面蒼白な母がうなだれるように倒れ込んでいた。彼女の着ている服の裾は黒く汚れて、刺繍のスカートも破れていた。
見渡すと椅子が倒れ、本棚の本は床にばら撒かれていて、この部屋で何かが起きていたことを物語っていた。
その状況に驚きつつ、「母さん!」と叫びながら近寄ると、母は閉じていた瞼を苦しげに開いた。その大きな瞳には涙が溜まり、溢れ出しては止まらない。
「ごめんなさい、ごめんなさい」と何度も同じ言葉を繰り返しては、涙をすすり嘆き続けた。僕は初めてこんなにも取り乱した母を目の前に、ただ抱きしめることしか出来ず、呆然とその状況に立ち尽くした。
数日後、少し平静を取り戻した母から伝えられたのは「父と兄はもう戻ってこない」ということだった。部屋中についた足跡や傷ついた家具から、それは何となく勘づいていた。母の言葉にも「そうなんだ」と驚いたような芝居を打ってしまったことは、とっさに出てきた彼女への思いやりだった。
———「よく気がつくわね、ルネ」と母はよく褒めてくれた。
小さい時から他人よりも「勘が良い」という自覚はあって、その分気疲れすることも多々あった。何でも気づいてしまうが故に、この頃からあえて気づいても見ないように意識し始めた。気づかないフリをすれば、傷つかないから。
父と兄が帰ってこないという事実は、あまりにも現実味がなかった。突然すぎる別れに、悲しさも辛さも通り越したような喪失感だけが心に残っていた。受け入れることが出来たのは修道院に入った頃だった。
それよりも日に日にやつれていく母の姿を目にするのは、もっと心が痛んだ。美しい髪は艶を失い、瞳からは光が消え、笑わなくなってしまった。かろうじて会話をすることは出来たが、彼女の目線の先はいつも窓の外を向いていた。
———まるで2人の帰りを待っているかのように。
家事をするのも困難になり、隣町に住んでいた母の妹夫婦が面倒を見にくるようになった。僕は学校にも行かず、母さんの世話をして、部屋で父さんが残していった本を読んで1日が過ぎていくのをただ待った。全てが元通りになることを朝と夜、空に祈った。
「ルネ、辛いよね。大丈夫?」
「ありがとう、おばさん。大丈夫だよ」
生気を失った母は夜になると暗闇に怯えたり、悪夢にうなされたり、とめどなく泣き喚くという夜を過ごしていた。
そしてそれは次第にエスカレートしていき、ある朝目覚めると母はこの家からいなくなっていた。嘘だと思った。信じたくなかった。
母さん、僕をおいていかないで。机の上には母の字で書かれたメモが残されていた。「あなただけは生きて」と。
麦畑の真ん中で、海沿いの浜辺で、街のベンチで休んでいるんじゃないかと願いながら、探しに行った。
しかし母の姿はどこにもなかった。1日中探して疲れ果てた身体で家に帰ると、妹夫婦が安堵の表情で僕を強く抱きしめた。その後の捜索はおばさん夫婦が行ってくれて、僕は「部屋で待っていなさい」と言われたので夜が来るまで大人しく待った。
待てども待てども、母さんは帰ってこなかった。
半月ほど経った頃、「よく聞いて。あなたのお母さんはきっとどこかで必ず生きているわ。それだけを信じてね」とおばさんは涙ながらに僕に言った。
この言葉は母さんの捜索を打ち切るということを意味していた。妹夫婦はすごく優しくて、とても良くしてくれた。でも彼女たちにも3人の子どもがいて、忙しい生活があるのだ。この生活が限界に近いということを、幼心に理解した。
本当は大声で泣き叫びたかったけれど、きっと迷惑になる。目頭が熱くなり視界が涙で溢れそうになったけれど、おばさん達の困った顔が頭に浮かんでは、ぐっと涙を堪えた。
程なくして、母の知り合いを頼って修道院に預けられることになった。修道院には自ら修道士を目指す者、家柄で入れられた者、そして孤児となった者など事情を持った子どもが預けられる。修道院へ向かう長い道中、「あぁ僕は孤児になったんだ」という自覚がだんだん芽生えてきて悲しくなった。その日は太陽が強く照りつけて、僕の意識はだんだん遠のいて目の前が真っ白に染まった。
———あぁまた意識が遠のいている。そして遥か向こうで声がする。
———僕を呼んでいる。誰だろう。
だんだん音量が大きくなってきて、「…ネ、ルネ!大丈夫か」と力強い男の声によって現実世界へと引き戻される。目を開けると修道院の渡り廊下のベンチで横たわっていた。ふと声の主を探して寝返りを打つと、ハロルドの心配でたまらないというような顔が現れる。驚きのあまり「うわっ!」と言って飛び起きる。
「ごめん、また気を失ってた?」と尋ねながら、自分の脆弱さに嫌気がさす。
「ええ。一番大きな雷が鳴った時にグラッと」
大きな雷音や雨音を聞くと、どうしても幼い日に経験したあの嵐の夜がフラッシュバックしてくる。そんな日はシーツにくるまったり、クローゼットに隠れて嵐が過ぎ去るのを待つのだ。もう10年も苦しんできたことだし、リチャードに相談してみたものの「精神的なものだから忘れるまで待つしかない」という診断をされた。どうしようもなかった。
長い沈黙が続き、外の雨が弱まっていたことに気づく。
「良かったら話して。何でも」
そういうハロルドの瞳は優しい眼差しで、慈愛に満ちていた。あの時の院長の正義感に溢れた瞳とはまた違う。
その真剣な声に引きずられて、「あぁ、ありがとう」と反射的に言葉が出てきた。———こいつになら話してもいいかもしれない。
言葉が一つ出ると、自分では歯止めがきかず、あの嵐の夜の話をハロルドに話しはじめていた。もちろん自分が男であることは伏せて。
過去の出来事は誰にも話していなかった。話してはいけないと思っていた。母さんとの約束を破ったような罪悪感が芽生え始めるから。その罪は誰にも罰せられることはないけれど、ただ僕が話してはならないと思っていた。許せなくて、やるせなかった。
そんな言葉にできない感情が次第にあふれ出し、視界の端には涙が溜まっていく。もう我慢できるほどの気力は無く、涙がどうしようもなく頬にこぼれ落ちた。
「なぜお父さんとお兄さんは捕まったの?」とハロルドは聞いた。
「父さんが開いていた勉強会に異端者がいたんだ。そして彼は兄の親友だった。父と兄は異端ではなかったけれど、正教会からあらぬことを根掘り葉掘り疑われた。父さんがその勉強会を通して反乱勢力を作っているのではないかと」
ハロルドは無言で話を聞いていた。
「君も知っているだろう?異端者が受ける社会的制裁が凄まじいことを」
彼は険しい表情で石像のように話を聞き続ける。
話し終えたことを察した彼は「そんなことがあったんだね」と呟くと、僕の頬に手を当て、流れた涙を拭うように目尻にキスを落とした。
まるで高価な宝石にでも触れるかのように、丁寧で細やかなキス。
しかしその行為が、僕には理解できずに混乱する。口付けが軽率すぎやしないか?これは同情なのか慰めなのか———あぁ、そうか女だと思って馬鹿にされているのか。先ほどまで気を許して噴き出していた感情が一気に引いていき、この男の軽さにだんだん腹の底から苛立ちが押し寄せてくる。
彼の手を振りほどき、きつく睨みつけながら「やめろ。そうやって女を落としているのか?」と荒々しく口調で突き返す。
「泣きたい時は思いきり泣くんだ。その泣き顔も全て私が守るから」
「話したのが間違いだった。帰る」とそっけない声で振り切り、立ち上がる。
「明日の夜から会いにくるから」
忘れていた。ハロルドは本当に百夜通いをするつもりなのだ。いや、彼の声からは『つもり』という言葉を超えて、必ずやり遂げるという意思さえ感じられた。
なぜこの男はこんなにも心をかき乱していくのだろう。あの時「こいつになら話してもいい」と思ってしまったのはなぜだろう。彼に感じてしまう謎の安心感の正体を言葉で説明できず、悶々としてしまう。
部屋に戻ると、ようやく1人の静かな時間を取り戻し、無意識にため息が出る。この感情の正体がわからずに、月の光に照らされる天井を見つめながら夜を過ごした。
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