氷の聖母

 食堂に着くと、すでに数人の修道女たちが食事の準備を始めている。同じ生地のネグリジェを着ているが、着こなしかたは個性が出ていて面白い。

「エマ、フォーク取ってきてちょうだい」

 すらっとした大人っぽい顔つきをした年長者のミランダが声をかける。呼ばれた少女は高い声で「はーい」と返事をして、そそくさと取りに行く。まだあどけない雰囲気がある彼女はじたばたしながら急いで帰ってくる。

「ありがとう、エマ」とミランダが彼女のオレンジ色の髪をふんわりと撫でると、エマの目の輝きはさらに増して、ガラス玉のような大きな瞳はさらに大きくなる。

 現在、エマは『ありがとう』集めをしているらしい。月に100回言ってもらえたら、市街へ遊びに連れて行ってもらうという約束をミランダと交わしている。

 修道院の掟で、15歳までは一人で市街へ行ってはならないことになっている。

 僕がこの修道院にきたのは8歳だったので、この掟が本当に辛くて、何度も破りそうになった。その頃からすでにここで暮らしていたミランダが、外の世界に連れ出してくれた。ミランダは良いことも悪いことも教えてくれる。エマと同じくらい僕もミランダのことを姉のように思い、慕っている。

 エマとミランダのやりとりは毎朝見る光景にもかかわらず、何故か今日は微笑んでしまった。すれ違う仲間たちと朝の挨拶を交わし、自分の席へ着席する。

「おはよう、ルネ!昨日はよく眠れた?」 

 朝食が待ちきれないのであろう、隣に座っていたエマが身を乗り出して元気よく話しかけてきた。急に昨晩の小屋での出来事がフラッシュバックされ、顔の筋肉が引きつる。

「う、うん……。寝れた」何だか不自然な間が空いてしまった。

「ふ〜ん」と疑いの眼差しでこちらを覗き込む。そうは言ってもエマも8歳の立派なレディ。女の勘というものは本当に侮れない。唸りながら数秒考え込むと、名探偵のひらめきかのように親指を一本突き出した。

「わかった!昨日読んでいた本が面白くって寝れなかったんでしょ」

 あんなに考え込んだ割にはすごくシンプルな解答に内心笑ってしまったが、これ以上根掘り葉掘り聞かれるのは面倒なので「そうだよ。バレたか」と朝っぱらから嘘をついて誤魔化した。

「やっぱりそうだー!」と彼女の無邪気な笑顔を目の前にすると、自然にこちらも笑ってしまう。これはエマが持つ魔法なのだ。

「ほらほら、遊んでないで。ご飯並べるわよ」

 ミランダがテキパキと作業を進めている。どんな場面でも彼女は本当にしっかり者で、感心してしまう。

 木目調のテーブルに次々と料理が並んでいく。インゲン豆のミルクスープ、バターたっぷりのオムレツ、こんがり焼けたカンパーニュ、手作りヨーグルト。いつものメニューが、こんなにも美味しそうに見えたのは久しぶりだ。温かいスープが、冷えていた胃にじんわりと染み渡る。自分の体が冷えきっていたことを実感した。あとは単純に体が栄養を欲していたので、食べるペースが上がる。

「わぁ!ルネがすっごく食欲旺盛だ。めずらしー」

 うん僕もそう思う、と心の中で相槌を打つ。

「本当ね。毎朝嫌そうな顔をして食べているのにねえ。今日は雪が降るんだわ」とミランダが悪ノリして、エマと顔を見合わせて笑っている。

 僕が鋭い眼差しで睨みつけると「おお、怖い怖い」と言って2人は再び笑いながら食事を再開した。

 ここへ来て最初の約2年間、ミランダはルームメイトだった。入りたての見習い修道女は第一試験に合格するまで、年長者と同室で生活をしなくてはならない。試験は年に1回あり、みんな試験前は目の下に青いくまを作りながら勉強をするのだ。もちろん僕も必死に勉強した。試験に合格するということは、責任という名のもとに、行動できる自由の幅が広がることを意味した。この閉鎖的な空間で、自由になるということがどれほど難しいかを僕は知っている。

 食事が終わり片付けをし始めると、教会のチャイムが礼拝の時間を告げる。遅刻をすると院長にこっぴどく怒られるので、みんなで協力して急いで片付けた。


 祈ることは昔から好きだ。母さんも祈ることが日課で、よく一緒に寝室の十字架へと祈りを捧げていた。故郷にいた頃は大好きな家族と共有している時間がただ楽しかったけれど、今は違う。体の中が空っぽになって、堅苦しい煉瓦造りの屋根を突き抜けてどこか遠くへ行けるような気がするから好きなのだ。

 広い海を渡ると僕の故郷がある。家族や友人にもう一度でいいから会いたい。自由に暮らしたい。それが僕の願い。一体何度願ったのだろう。来る日も来る日も祈っては、叶わない。意外と神様は残酷なのかもしれないと、ここ数年は思うようになった。

 礼拝が終了して渡り廊下に出ると、冷たい風が吹いていて一気に現実に呼び戻される。身震いがおさまらないまま歩いていると、周りの修道女達が猫なで声の甘ったるい声で騒ぎ始めた。

「ほらっ。騎士様が見えるわ!」

「あぁ。やっぱりここの騎士団員はレベル高いわよねー」

「美しくて逞しくて見惚れちゃう……!」

 高い声で色めき立っていて、朝っぱらから耳障りで眉をしかめてしまう。苦虫を潰したような顔をしていると、周りの娘達は「でた!ルネの騎士嫌い」と言いケラケラ笑いながら追い抜かしていく。

「いや、別に嫌いじゃ……」

 騎士が嫌いなんじゃない。むしろ憧れているのに。自分には得られなかった職を全うしている奴らに対する妬みのようなものかもしれない。

 しかも男なのに同性に対してかっこいいとかは普通ないだろうし。そもそもここは俗世と離れた修道院なんだし。ぶつぶつと言い訳を並べても誰も聞いてはくれない。

 修道院内では恋愛とか性の知識は無に等しい。みんなどこから知識を得ているかというと、先輩修道女の入れ知恵話や検閲済みの古い図書からしかないからだ。恋に飢えた年頃の娘達が、騎士団の男達に騒ぎ出すのも無理はない。


「いつにもまして騎士団員の数が多いわね」とミランダが話しかてくける。確かにいつもは30人ほどだが、今日はそれの倍ほどの男達が規律よく歩いている。

「そういえば」とどこからか声が聞こえ、数人が彼女の方を振り向く。

「今日は騎士団長の任命式があるのよ」

 そうか今日だったのか。

 先代の団長は威厳に満ちていたが、穏やかで物腰の柔らかい人だった。騎士団員からの信頼は厚く、修道院の人々や住民からも愛されていた。引退すると聞いた時は後継者は大変だなと思ったが、噂によると先代たっての指名があり、とても順調に決まったそうだ。


 部屋に戻り、漆黒の正装に着替えていると部屋の外から足音が聞こえた。

「ルネ。着替え終わった?ちょっと話があるんだけど」声の主がミランダだとわかったので「開けていいよ」と声をかける。

 ドアノブが回った音が聞こえて振り返ると、ミランダが薄く頬を染めていた。

「もうっ!ちゃんと服を着てから呼んでよね!」少し声を上ずらせ、僕を睨みながら部屋に入ってきた。

「別に気にしないでよ。昔はあんなに裸を見てたのに」

「そういう問題じゃないのよ!昔と今じゃ違うの」彼女は腕を組みながらこちらに背を向けて、着替え終わるのを待っている。確かに昔と今じゃ違うことは自分でも気づいている。腕や脚は筋張ってきたし、喉仏も出てきたような気がする。讃美歌で歌いづらい音程が出てきたのが悩みの種だ。

「大きくなったわね。昔はあんなに小さくて、恥ずかしがり屋さんで。いつも私の後ろに隠れていたのに。もうすぐ身長も追いつくわ」

 ミランダはそう言って小さな子どもを見るような目で僕を見つめた。

 この修道院で僕が男だと知っているのは司祭と院長、そしてミランダ。訳あり修道女の教育係に、責任感が人一倍強く口の固いミランダが選ばれたのであろう。

「今日の剣与の儀はあなたがすることになったわ」ミランダはさらりと告げる。

「えっ……!そっそんなの聞いてない」と咄嗟に反発してしまう。

「だって今伝えたんですもの。新しい団長様のご指名があったそうよ」

「そんな……嫌だよ。やりたくない」

 腹の奥がチクリと刺されたような痛みに襲われる。人前が嫌いなのはこの修道院の人であれば、みんなが知っているはずなのに。誰の目にも触れず、静かに生きていければそれでいい。なんだかみんなに裏切られた気分で、憂鬱さが押し寄せて来て動きたくない。

 この目立つ外見のせいで、好奇の目に晒されることもしばしばある。街へ出ると有る事無い事を噂されたり、言い寄ってくる男もいてうんざりする。母さんに似た顔を恨めしく思う瞬間だ。

「大丈夫よ、ルネ。あなたなら上手くできるわ」

 ミランダの言葉はいつも僕の心に真っ直ぐ届く。彼女の穏やかな瞳はどこか母に似ていて安心感があった。

「———う、うん」

なんとか言葉を絞り出したが、憂鬱な気分は晴れないまま支度を進める。


 任命式が行われる教会へ向かう道の途中で数人の若い騎士達に遭遇した。

「おい。見ろよ。あれが例の……」

「あぁ。噂通りだ。“氷の聖母マリア”と言われているだけある美しさだ」

「一度でいいからあんな美女抱いてみたいなぁ」とこちらに聞こえるような声で騒ぎ始めた。隣を歩いていたミランダとエマがきつく睨むと、男達はそそくさと足速に立ち去った。

「ありがとう。二人とも」

「あのガサツさ嫌いだわー」

 ミランダは眉間にシワを寄せて言い放つ。

「だってルネがすっごく嫌そうな顔してるから成敗しなきゃね」とエマが心配そうに顔を覗き込んでくる。

 この二人には本当に救われている。感謝してもしきれない。

 他人から向けられる無責任な好意ほど、気持ちが悪いものはない。僕の一体どこを見て、何を知っているというのだろう。大抵の人間は上手くコミュニケーションを取れるのかもしれないが、僕は建前も使えず、偽りの仮面を使いこなせない社会的な欠陥品なのだ。他人に良い顔は出来ないし、喜んでもらえる言葉も言えない。ただ生きているだけ。そんな僕に価値があるのだろうか。

 それにしても“氷の聖母マリア”というあだ名には聞くたびに頭を悩まされている。以前ここへ来た騎士が、僕を見てつけたそうだ。みんなの間ではすっかり笑いの種になっていたが、僕自身は本当に嫌で仕方がない。

 ミランダからは「顔が怖くて性格が冷たいからじゃない?」という遠慮のない評価をされた。あまりにストレートな言葉がショックで、数日間は彼女と顔を合わせなかった。

 

 教会に着くと仲間達と別れ、舞台袖に行かされた。院長に薄手のベールを渡されると、身につけるよう指示される。まるでオーロラのように何色もの彩りを持った衣を、修道服の頭巾の上から被せる。

「ルネ。とっても美しい。まるで聖母様だわ」

 院長からもまさかその言葉が出ると思わず、顔が引き攣って上手く笑えない。

「あら、手が震えてる。緊張するけどね、あなたなら大丈夫よ」

 そう指摘されるまで、自分では手が震えていることに気づかなかった。咄嗟に手を後ろに隠すが、今度は膝が震え始めて体温が一気に下がったような感覚になる。

 大人は時にいい加減だ。出来ることと出来ないことの判断基準は、社会のレールの上にだけある。そこからこぼれ落ちた者は、置いてけぼりをくらう。社会で生きていくというのは思ってたより難しいものだな。修道院でぬくぬくと育ってきた罰が今更になって襲いかかってくるみたいだ。

「院長。ごめんなさい。やっぱり無理……!誰かと代わってほしい」

 か細い声で懇願するも、すでに式典は始まっていたので、無理やり舞台上に連れ出された。舞台から席の方を見ると、埋め尽くすほどたくさんの人がこちらを見ている。足の感覚がなくなってきて、照明の熱でグラグラしてきた。こんなことなら体調不良で部屋に引きこもればよかった。後悔しても、もう戻れない。

 自分の足先だけを見つめながら壇上へ立つと、団長のものらしき男物の靴が視界に現れる。新団長だかなんだか知らないけれど、わざわざ僕を指名してこんな所まで引きずり出すなんて。本当に余計なことをしてくれた。

 睨みつけてやろうと上を向くと、ベール越しに人影が映る。頭二つほど高い身長を見上げるが、その顔は柄の反射で見ることができない。仕方がないのでベールを少しめくり上げると、目の前にはつい数時間前に唇を奪ったあの男が立っていた。

「———っ!!」声にならない言葉が喉から飛び出て、慌てて飲み込む。

「また会えて嬉しい。今日の君は一段と美しいな……」

 彼は僕にだけ聞こえるような小さな声でそう囁いた。

「もしかして新しい団長って…?」

「私だよ。今後ともよろしく」

 出来ることならもう二度と顔も見たくなかったのに、その願いは粉々に砕け散った。

「具合はどう?」

 心配そうにこちらを覗き込んでくる。

「おかげさまで……」

「そうか。よかった」

 男前で凛々しい顔が、柔らかく微笑む。その笑顔をみると、数秒前まで緊張や怒りで全身を縛り付けていた糸が、少し解けていくような気がした。ふと我に帰るまで、彼の顔を凝視していたことに気づき、恥ずかしいような悔しいような感情が押し寄せてきた。一呼吸して、前を見る。

 そこから儀式は、滞りなく終了した。舞台に上がって式典に参加したのは初めてだったので、新鮮な景色が広がっていた。上から席の方を見ると、司祭のやたら長いお言葉にうとうとするエマ、議事録を作るためにメモをとる勤勉なミランダ、そして何人かの修道女は騎士団の方へ目配せをしていた。彼女たちにはきっと想い人でもいるのだろう。そんな人間関係を見るのはちょっだけ楽しい。

 壇上から降りて教会の出口へ向かうと数人の修道女に囲まれる。

「ルネ!すっごくよかったわ」

「ええ、とっても綺麗で惚れ惚れした!」

 甲高い賞賛の声が降り注ぐものの、その声は頭のてっぺんを通り抜けて遠くなっていく。やがて急に足元の力が抜けて、身体がぐらつく。近くにいた修道女に寄りかかって体重を傾ける。

「だ、大丈夫!?顔色が良くないわ。汗もかいてるし」

「んー大丈夫。ちょっと医務室に行ってくる」

 体勢を立て直して歩き出そうとすると、人混みをかき分けて騎士団長が現れる。「失礼」と声をかけながら、僕の手をすばやく取った。

「私が医務室へお連れします」と彼が言うと、僕の膝裏から抱え上げて軽々と持ち上げられる。程よく筋肉がついた厚い胸板に身を任せると、少しだけ高い体温に不思議と胸が高鳴る。

 この心臓の音はなんだ。普段は他人に触られるのが嫌いなのに、なぜか彼は嫌じゃない。むしろ安心感さえ覚えてしまって、ほんのり香るブランデーの匂いさえ心地良い。

 数人の修道女が頬を染めてこちらを凝視していたので、恥ずかしくなって彼の胸に顔を埋める。ぬくもりと彼の心臓の音が同時に伝わってきて、全身がむずがゆさに襲われてどうしようも出来なかった。


 












 

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