タンソヅ様の通り道

十余一

タンソヅ様の通り道

 その村には年に一度だけ、外に出てはいけない日があった。

 こうして文字に起こしてみると、まるで昔話や怪談に登場する古めかしい村みたいだ。けれども、これは僕が実際に体験した話だ。


 平成の半ば頃、僕はM村という山間の集落で育った。村といってもとっくの昔に合併されてK市の一部となり、M村という名前は地図に残っていない。それでも村の人々は相変わらずM村民であるという自意識のもと過ごしていた。そういう都市部と隔絶された山間部だからこそ、古くから伝わる風習や文化が脈々と受け継がれていたのかもしれない。


 外に出てはいけないのは、初夏のとある日だ。田植えも終わり、爽やかな風に夏の始まりを感じる頃、家じゅうの戸や窓をピッタリと閉じて籠る。普段は早朝から野良仕事に出かける祖父母も、その日の朝は布団に包まってゆっくり寝ている。父母も出勤を見送り、兄も部活の朝練が無いから寝ている。当然、僕も同じだ。当時小学生だった僕は、公然と寝坊できるその日が少し好きだった。


 そして、なぜ外に出てはいけないのかというと、日の出と共にタンソヅ様がやってくるからだ。タンソヅ様が通った田畑では、実りが豊かになると言われている。

 始めは遠くの空にババババとかダダダダといった羽ばたくような音が聞こえ、やがて家の近くに来るとガラスの引き戸と障子が風圧でガタガタと揺れる。春一番や台風の風とも違う、年に一度だけの風音だ。僕はそれをいつも、布団の中でウトウトとしながら聞いていた。

 タンソヅ様が通り過ぎ、静かになると村人たちは普段通りの生活に戻る。けれども、その日から暫くは外にある植物や道具に触れてはいけなかった。山中や野原、そして校庭の遊具で遊ぶ小学生に対して、特に口を酸っぱくして言われたことだ。


 当時の僕にとってタンソヅ様は、寝坊する口実をくれる存在だった。暫く外で遊べなくなってしまうけれど、その間は図書室で本でも読んでいたらいい。それ以上でもそれ以下でもない。不思議と、障子を開けてタンソヅ様の姿を見ようという気にはならなかった。ましてや、外に出てその姿を直接見ようなんて思いもしない。


 同級生たちも、だいたい皆そういう反応だったと思う。その中でただ一人だけ、タンソヅ様に興味を示した子がいた。S.S君だ。運動が得意で少し乱暴者だったS君。彼は村の外れにある大きな岩壁の横穴へ入り、暗い中を探検したことを自慢するような少年だった。タンソヅ様のことも、その姿を見て武勇伝にしようと思ったのだろう。教室の後ろに人を集めて、大きな声で予告をしていたのを僕も聞いた。


 そうして小学四年生の初夏、S君は失踪した。何の痕跡も残さず、忽然と姿を消した小学生。警察の努力も虚しく捜査は行き詰まる。それなりに大きく報道されたから、これを読んで当時のことを思い出した人もいるかもしれない。


 騒然と混乱の最中さなか、祖母が電話口でひそひそと話していたことを覚えている。大した娯楽のない村だ。車の運転も出来ない祖母が、友人と噂話をして暇を潰すというのはよくあることだったはずなのに、どうしてか妙に記憶に残っている。


「Sさんちのせがれどへどこへ行ったがん行ったのかわかんねったろ。ほいでそれで……」


 村の人たちは屋号で呼び合う。住んでいる場所に由来することが多く、西台にしでえ街道けえど向かいむけえという具合だ。けれどもS君の家は比較的新しい移住者だから、そのまま苗字で呼ばれていた。


「おおさ、そぉらんまりその辺りをゆうらいくら探してん探しても履物はいもんの一つもぇったっぺ」


 電話の相手が誰なのか、相手が何を言っているのかはわからない。祖母の応える言葉から、S君失踪事件の話をしていることだけはわかる。


「タンソヅ様じゃねぇだおか」


 僕は心臓がギュッと縮こまるような思いがした。電話を終えた祖母に、思い切って「何かあった?」と聞いてみた。しかし、本当に何でもない様子で「あんでんねぇよなんでもないよ」と返ってくるだけだった。


 S君の失踪にタンソヅ様が関係しているのかはわからない。けれども、タンソヅ様が通る日に、タンソヅ様が通った村でS君がいなくなってしまったことは事実だ。


 最後に、タンソヅ様について僕の考察を書き残しておこうと思う。

 おそらく「タン」は「田の」が訛ったものだろう。そして「ソヅ」は、「そほど」または「そほづ」という案山子かかしの古名が訛ったものではないだろうか。つまり、「タンソヅ様」は「田の案山子」を神格化した存在なのだと、僕は思う。そして「田のそほど」は、古事記では農業の神である久延毘古くえびこの正体とされている。

 農業の神が農作物を守るべく病害虫を駆逐する日が、すなわち「M村の上空をタンソヅ様が通る日」なのではないか。そしてS君はその日、タンソヅ様の前に姿を現してしまい、病害虫と同じ末路を辿ったのではないか。


 進学を期に村を出て一人暮らしを始めた僕は、もうあの村で初夏の朝を迎えることはない。タンソヅ様は令和になった今でも、あの空を悠々と泳いでいるのだろうか。


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