思い出せない記憶
今日、ぼくは茂木健一郎『脳と仮想』という本を読んでいた。その中で茂木は生物学者の三木成夫の講演を聞いたことを随筆の中に残している。とはいえ、それは茂木の当の随筆の中でトリッキーな形で残っている。茂木は三木成夫の講演を聞いたことを覚えていなかったという。ただ、さまざまな情報を寄せ集める中で「聞いたことがあった」というように蘇ってきた、と語っている。聞いたことがなかったと思っていたけれど確かに聞いていた、つまり「思い出せない記憶」として自分の中に残っていたということだ。いや、そんなことなら誰の身にだって覚えがあることだろう。ぼくにだってそうした「思い出せない記憶」はある。そうした茂木の随筆が照らす記憶というもののメカニズムが、ぼくをして敬虔な気持ちにさせる。ぼくの中にある「思い出せない記憶」。
いや、それを言い出せばぼくたちの記憶とは必ずしも、10年なら10年分の記憶がそのままの形で詰まっているわけではなく、それは圧縮されたり加工されたりして、つまり都合のいい形で残っているものではないかと思う。現にぼくは今年で48歳になるけれど、ぼくの頭の中を探ってみても48年分の時間を持つ記憶が色褪せないまま残っているなんてことはあるわけがない。大半は忘れ去ってしまっている。ぼくの中で一番古い記憶は4歳の時だっただろうか、坂道からぼくの家を見上げている光景の記憶である。しかもこの記憶は時折嘘をつくこともある。ぼくが自分にとって都合のいいように覚えていることだってありうる。だからこそ日記や文書は価値を持つのだ(このあたり、前に書いた『1984年』を思い出させる)。
ぼくは昔、仕事で魚を捌き刺し身を作って生計を立てていたことがある。今では包丁なんてまず握らない生活をしているけれど、それでも時折包丁を握ると背に指が貼り付き、自分なりに握る姿勢ができて包丁が手に馴染むのを感じる。記憶のメカニズムの不思議がまたひとつ見えてくる。こうして、頭からは完全に忘れ去ってしまっていたことを身体が思い出すということだ。またそれとは別に、オフの日の翌日でも職場に行けば身体が仕事のリズムを取り戻し調子をつかむということだってある。そんな身体の記憶力にぼくは舌を巻くことがある。茂木健一郎が三木成夫の講演を聞いたことだってそうした「身体の記憶」として残っているところ、身体が体感して感動として覚えているところはないだろうか。
そう考えていくとぼくは記憶のメカニズムについて、引いてはぼく自身の神秘について考えてしまう。ぼくがこうして身体を伴って体感したことはきっと何らかの形で自分の中に刻み込まれていて、それは思わぬ形を採って蘇ることもある……そう思うと、一見ムダなように見える地道な修行、苦労だって意味があるのかもしれない。寿司職人が独立できるようになるまでに長い時間かけて包丁を研ぎ、魚を捌く修練を積むのだってそうして身体に日々叩き込む作業を繰り返して身体で覚えているからなのだと思えば、その修練の過程に神秘を感じられるようになる。もちろん、長く苦労すればいいというものでもないだろう。だが、ぼくはこの歳になってやっとこさそうした自分自身が体感して生きた記憶の神秘に気づけるようになった。
記憶の増大 踊る猫 @throbbingdiscocat
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