記憶の増大
踊る猫
記憶の増大事始め
1998年、ぼくが23歳だった時にフィッシュマンズが「ゆらめき IN THE AIR」という曲をリリースした。ぼくは彼らのファンだったのでさっそく聞いてみたのだけれど、聞いてみて歌詞におかしな表現が登場することに気がついた。というのは、「目をつぶって あなたを 思い出せば/僕の知らない 知らない 君がいた」というところだ。常識の範囲内で考えると「知らない」ものを「思い出」すことはできない。記憶の中から湧いて出るものと言えば、すでにその人が心のどこかで知っていたものばかりだ。それが「思い出」すという行為の謂であり、したがってこの曲の歌詞はナンセンスということになる。だがぼくはこの箇所が妙にぼくにとって気になるところ、つまり「フック」のあるところとして心に残ったのだった。
今日、ぼくはジョージ・オーウェル『1984年』を読み始めた。そしてこの本が描こうとしているのはまさに「知らない」ものを思い出そうとする営為についてではないかと思った。というのはどういうことかというと、「ビッグ・ブラザー」が管理する(だが、そんな人物は本当に存在するのだろうか?)国ないしは共同体において知っていたはずのことは公式記録や人々の記憶から「知らない」こととして抹消される。主人公のウィンストン・スミスはそんな状況に対して「日記」を書くことで抵抗する。この本における「日記」とは、ぼくの解釈によれば個人の良心の拠りどころとなる場所、もしくは個人のアイデンティティが確保されるべき場所を意味しているのではないかと受け取った。その場所を作ったことで主人公は内乱を引き起こすファクターとして処理される危険を冒す。
言いたいことをまとめるとこうなる。ぼくたちが記憶していることはぼくたちの身に起きたかけがえのないことばかりだ。個人がその人生において、その時間にその場所で起きたという意味において一度きりの体験をして、それがこころの中に残った時に「記憶」となる。それはそして、その人にとってかけがえのないものである。たとえ万人がそんなことは起こらなかったと否定するとしても。個人の記憶に内在する生々しさまでは誰にも否定できるものではない。だからこそ「ビッグ・ブラザー」やその支持者たちが躍起になって潰そうとするのだと思う。ぼくの中にはそんな生々しい記憶はあるだろうか。その記憶が自分が今考えていることと結びついて現前した時、それを言葉にして語ることでそれは既知の記憶から脱皮した「知らない」何かになるのではないかと思う。
ぼくの中にある記憶が「知らない」ものになる……いやもちろん、フィッシュマンズはこんな妄想じみたことなど考えずただ語呂がいいからこんな歌詞を乗せただけだと思う。だけどなら、その歌詞はさっそくぼくのような人間にこうしていろいろなことを考えさせてぼくの記憶に新たな味付けを施してくれたということになる。これもまた記憶が脱皮して「知らない」何かに生成されたということになるだろう。ぼくの中でそんな風に眼前の現象と結びついて「知らない」何かに変身するもの。そんなものが誕生することを夢見てぼくはずっと暮らしてきたし、これからもそんな化学反応にも似た生成が起こることを楽しんで暮らしていくのかもしれない。そんな現象のことをぼくは「記憶の増大」と呼びたいと思う。
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