第6話 別れの季節
▽第六話 別れの季節
冷たい風が、俺たちの髪を揺らす。
一面、蒼の草原は殺風景。どこか非現実じみた空間で、俺と義兄とは向かい合っていた。
ゾラの巨体が、もう、よく見える。
「本気で行くんですね、義兄さん」
「うん」
「……義兄さんは頭がおかしい。どうして自己を犠牲にするやりかたしか知らないんですか」
「どうして、だろうね?」
義兄はいつものように苦笑して、でも、少しだけ、いつもよりも明るい。
羽織ったローブがはためく。
彼は背負った弓を俺に手渡してきた。
「もう私には使えないモノだ。これには祖霊の加護が宿っている。《間断なき刃》は私の誇りを切り裂いたつもりだろうけれども、私の誇りは――この弓に――この武器に宿っている」
「武器……」
「そうだ。キミのお陰だ。だから、これはキミが持っていなさい。私の願い、キミをきっと祖霊が守ってくださる」
「俺は祖霊なんて信じていません」
「私が信じているよ」
弓を受け取り、しかし、俺は首を振った。
「俺も連れて行ってください」
「駄目だ」
「弓のない義兄さんでは勝てません。殺されるだけです」
「吹き矢があるよ」
「どうして義兄さんだけが背負うんですか。自己犠牲に走るんですか」
義兄は新しい剣鉈を鞘から抜き、調子を確かめながら言う。
「秘密だ。さ、私はもう行く。お別れだ」
「……はい、義兄さん」
頷きたくなかった。
でも、義兄の言う通りなのだ。
俺がここで頷かなければ、義兄の戦いは無駄に終わってしまう。
ただでさえ報われない義兄の生き方だ。その死に様まで報われないなんて、絶対に許されてはいけないのだから。
気づけば視界がぼやけていた。
ああ。
情けない。
このような子どもに、苦しみ続けてきた子どもに、俺たちは生かされるのだ!
顔を腕で乱暴に拭い、キッと義兄を見据える。
「俺が群れを守る。貴方を見捨てて、貴方に救われた――あの群れを絶対に守ってみせる」
「うん」
「俺は死なない。幼馴染みだって、チトシーシだって、俺が必ず守ってみせる」
「うん」
「だから、義兄さん……勝ってきてくれ」
「うん。キミのような誇り高い義弟を持てて、私は幸せだ」
義兄は気軽に頷き、俺に背を向けた。
小さな背中だ。まだ子どもの背中だ。
(俺がもっと早く生まれていれば、一人で行かせずにすんだんだろうか)
義兄がゆっくり歩き始める。
もぬけの空になった集落から、最後の二人が消えていく。
「義弟よ、ひとつだけ兄の頼みを聞いてくれないかな?」
「なんでも叶えて見せます」
「キミは誰よりも――この草原の誰よりも自由になってくれ。私には出来なかった、眩しい生き方を。自由に、生きてくれ」
「解りました、義兄さん。誇り高き《揺蕩う鏃》ガルギルドよ、俺は――私はこの草原の誰よりも自由になると……そう誓います」
「ふっ、ありがとう。任せた」
義兄はふと振り向き、子どものような笑みを浮かべた。
「ああ、そうか」と義兄は楽しそうに呟く。
「私は自由になりたかったんだなあ」
義兄はそう言って走り出した。
閃光のように。やがてその背中は小さすぎて、見えなくなった。
▽
義弟を置き去りに、私は風になる。
ケンタウロスには元来、強い闘争本能が備わっている。未知の強敵との戦いを前に、私の心は少しだけ踊っていた。
でも。
「……怖いなあ。死にたくないなあ」
昔から、そうだった。
私の父は生まれつきの狩人だった。
その息子たる私もまた出生の直後には、狩人になることを義務づけられていたのだろう。
父は心の弱い人だった。
いつも狩りを終える度、震える手で弓を手入れしていた。
『俺たち弓持ちは祖霊のもとに行けぬ。罪深き魂なのだ』
私も同意見だった。
それがどうしても恐ろしく、同時に悲しかった。
弓を持つため、狩人は祖霊を軽んじていると思われがちだ。でも、私たちほど祖霊に縋っている存在も少ない。
どうか。
どうか、どうか、私や父の魂も――祖霊の元ヘ。
(秘密、か。真実を知ったら、彼は落胆するのだろうか)
自己犠牲の理由だなんて、決まっている。
祖霊のもとに行けない私でも、良いことを行えば、もしかしたら。少しは祖霊も私のことを認めてくれるかもしれない。
そう思っただけなのだ。
大人たちは誰も私に、自己犠牲以外の生き方を教えてくれなかった。
そのような私を義弟は慕ってくれたが、すべては本当は格好つけなのだ。
群れを憎んだ数は知れない。
死んでしまえ、と思った数は知れない。
「でもね、義弟。私はキミに救われたのだ」
生まれて初めてのことだった。
醜い狩人でしかない私が、心の底から認められ、一人の男として敬意を払ってもらえたのは。
思い出す。
まだ義弟が生まれたばかりの頃だ。
ケンタウロスは生まれつき言葉を理解している。だが、義弟は言葉を話すことができなかった。
たまにそういう子も生まれてくるが、遊牧民たるケンタウロスに余裕はない。
そういった子は守護獣に審判してもらう名目で、同じ檻に閉じ込められ、やがて――そうなる決まりだった。
が、義弟は言葉が話せないだけで、妙なまでに賢明だった。
だから、私が待ったを掛け、義弟の面倒を見た。
当初、喋ることもできなかった義弟は、おそらく、今では群れ一番の切れ者だ。
だって、彼は知っていた。
『《揺蕩う鏃》貴方のお陰で俺は処刑されずに済みました。貴方は命の恩人です』
驚いた。
そんなことを言われたのは、生まれて初めてだった。
それからも義弟は私について回り、私は精一杯、彼の前では格好を付けて生きてきた。そうすれば、少しでも、祖霊に認めてもらえる気がしたからだ。
でも、きっと、もう祖霊なんてどうでも良かったのだ。
白状しよう。
かわいい弟の前で格好付けることが、楽しくて仕方がなかった。
「本当はね、私はあの決闘で勝つつもりだったんだよ。キミのお陰で自信がつき、チトシーシとも仲良くなれた。でも、チトシーシの幸せを考えれば、一緒になるには……刃で勝つしかなかったのさ。剣もこっそり練習、してたんだ」
お陰で腕を失ったが、私は――幸福になろうと足掻いたのだ。
「さて」
ようやくゾラとの一騎打ちが始まる。
私は舌舐めずりしながら、吹き矢を手に握り込む。チトシーシが調合してくれた毒が、この吹き矢の弾には塗られている。
装填に時間が掛かってしまうのは、片腕の愛嬌だ。
「あの子の幼馴染みがよく言っていた。我が義弟は祖霊の化身なのだ、とね。だったら私は、私の生き様は報われていたのだ! 届いていたのだ! 私は祖霊に認められたっ!」
駆ける。
「さあ、御照覧あれ! 我が生き様、我が死に様! 私は今、この草原で誰よりも誇り高く、そして自由なのだ!」
ケンタウロスではゾラに勝てない?
勝ってみせよう。
義弟の我が儘に付き合うのも、兄の勤めなのだから。
「我が名は《揺蕩う鏃》ガルギルド! 誇り高き狩人だ」
「!」
ゾラが応じるように、嬉しそうに鼻を伸ばしてくる。三本の樹木の如き棍棒が、私ひとりめがけて振り下ろされた。
大地を蹴り付ける。
右に飛ぶようにして回避、大地がめくれあがる。土埃から疾走にて脱出、私は全力で吹き矢を握りながら、叫んだ。
脳裏に思うのは、勇ましい、義弟の雄志だ。
初めて見たときは、なんて怖いことを言うのだろうと驚いたものさ。
「命を、寄越せえええええええええええええ!」
激突した。
▽
何日も走り続けた。
おそらくもうゾラは追ってこない。
この群れは生き残ったのだ。少しの傷だけで。
「……いずれ、お前が勝つ」
俯く俺の隣、寄り添うようにして幼馴染みがいる。彼女は壊れそうな宝石を扱うように、俺の手を撫でている。
落ち着く。
俺は息をゆっくり吐き出し、草原に目を落とした。
蒼い草原は悲劇なんて知らないみたいに美しい。
今日もこの草原のどこかで、蒼が赤く、染まっている。
季節は変わり、秋。
秋は別れの季節らしい。俺は秋が嫌いなようだ。
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