第5話 ゾラ

▽第五話 ゾラ

「さて、弓の引き方は合格点さ。けれども、弓術において重要なのは、弓を射ることではないよ。矢を当てること……これがもっとも大切なんだ」

「はい、義兄さん」

「動きを読むのだ。獣の呼吸を」


 あれから俺は義兄に正式に弟子入りした。

 狩人を続けようにも、すでにガルギルドは弓を引くことができない。左腕しかない身体では、もう昔のように動くことも難しいだろう。


 バランスが崩れてしまったからだ。


 今、俺たちは草原に隠れている。草原を覆い尽くしている蒼の草は、そこまで背の高い草ではない。

 巨体のケンタウロスでは、草に隠れることは難しい。


 が、義兄は別だ。

 完全に気配を断ち、獣の視線から逃れ、かなりの長距離から矢を射る。ただ伏せているだけなのに、義兄が獣から見つかることはない。


 恐ろしい技術だ。

 草原で万全な状態の義兄を敵に回せば、勝てる者はいない。


「といっても」と義兄は自罰的に微笑んだ。

 頬を掻く指は、わずかに震えている。


「獣の動きは読めても、同族の動きは読めなかったな。あれは、さては弓を使っていても負けていただろうね」

「……」


 あの時、ラタトッパは義兄の読みを超越してみせた。

 そのことを言っているのだろう。


 だが、俺はまったくそうは思わない。

 義兄の腕があるならば、そもそもラタトッパでは接近することも無理だったはずだ。読み合いにさえ至らなかっただろう。


「……今日の収穫は、もうこれくらいで良いですか?」

「そうだね。始めたばかりとは思えない腕前だ」

「義兄さんもかなりの数、仕留めていたじゃないですか」

「私は慣れているからね」


 俺たちの前には、十を超える獲物の死骸が積み重なっている。

 このうち、俺が射たのは八匹。

 ただし、義兄のように一撃、というわけにはいかなかった。何度も外したし、命中しても命を奪うことができなかった。


 獣や魔物はかなり接近してきた。

 そのような獲物に対し、義兄は吹き矢を用いた。片手でも使えるのだ、と嬉々として説明して、実際、鮮やかに実践で用いて見せた。


 俺が倒した八体のうち、五体が義兄が弱らせたところを射貫いた。


「少し風が冷たくなりましたね」

「ああ、もうすぐ季節が変わるよ」


 あの決闘から四ヶ月が経過していた。

 俺の致命傷はすっかり癒え、今や狩りに出ることさえできている。


 三歳のケンタウロスはまだまだ子どもであり、狩りに出ることは許されない。が、狩人がいない今、守護獣さえも倒して見せた俺は、狩人の役目を異例で担っていた。


(まあ、俺以外、誰も弓を持ちたがらなかっただけだけど)


 あの、俺の言うことならば大抵は聞き入れてくれる幼馴染みでさえ、「弓を持たないか?」と言えば無表情で震え始めるくらいである。

 呪いの武器かな?

 いや、ケンタウロス的には武器じゃないのだけど。


 さて、絶賛、俺は修行中である。

 義兄には言っていないけれども、いずれは実兄である《間断なき刃》ラタトッパに決闘を挑み、殺害する予定である。


 それくらい、俺はラタトッパに怒り狂っているのだ。


 が、今、俺がラタトッパに挑むことはしない。

 あの決闘を見たところ、俺ではラタトッパに勝つことは難しい。もちろん、可能性はゼロではないのだろうが、百回挑んで一回勝てるかどうかだ。


 単純に俺の技量不足。

 しかも、俺の命懸けの攻撃も、メタルライノとの戦闘を見ていたあいつは知っている。

 

 さらにいえば、三ヶ月も伏せっていた俺は、かなり体力や筋力が落ちているのだ。この遅れを取り戻すことは、すぐには不可能だろう。


(それでも戦おうと思えば戦えるけど)


 横目で義兄を観察する。

 その表情は昔と変わらないようで、まったく違うように見える。死人が生者のふりをしているようにしか、俺には見えないのだ。


 この状況の義兄を残し、俺が死ねばどうなるのか。

 俺は万が一にもラタトッパに敗北することができなくなった。だからこそ、今の俺はどれほど悔しかろうとも、どれだけ恨みがあろうとも、戦うことができない。


(一番苦しいのはチトシーシと義兄さんだ。俺が我慢しないでどうするんだ)


 本当ならば、俺は義兄たちよりも年上の大人なのだ。

 とはいえ、ケンタウロスになってから、ずいぶんと剣呑な選択肢が当然のように行使できるようになった。


 かつての俺では、ラタトッパを殺す覚悟なんて持たなかっただろう。

 また、義兄のために命を捨てるような戦いも、繰り広げられなかったはずだ。


(もう俺は人間じゃない。が、ただのケンタウロスというわけでもないけど)


 人間。

 ケンタウロス。

 両者の気に入った部分だけ、俺は享受するつもりだ。そのような都合の良いスタンスが維持できるのかは不明瞭だが、俺はそうありたい。


「どうしたんだい、義弟?」

「あ、いえ。獲物の運搬が面倒だな、と」

「あはは、そうだね。狩るよりも、こっちのほうが大変かもしれないね」

「狩りで他に気をつけることは?」

「奇襲されないことさ。私たちは狩人、先に仕掛け、すぐに終わらせる。が、向こうから仕掛けられては大変だからね」

「なるほど」

「獲物の運搬が一番に大変なのも、そこさ」


 魔物は血の匂いに惹かれてやって来る。

 かといって、肉は血抜きをせねば食べられたモノではない。その血抜きの間だ、敵を警戒することも狩人に求められる技能のひとつだ。


「索敵も勉強してみようか」


 義兄に言われ、俺は軽く索敵の練習をしてみることにした。

 肉の場所に義兄さんを残し、俺は軽く草原を走り出した。柔らかな土の感触を足裏に感じる。涼しく、やや乾いた空気が身体を撫で付ける。


 ケンタウロスに生まれて大変だったことは多い。

 しかし、この全身で風を切る感覚は、人間時代では味わえなかった快楽だ。


 しばらく夢中になって草原を駆けていれば、ふと嫌な気配を感じた。


(なんだ?)


 視線の向こう、丘が……動いている。地平線が揺れている。何よりも異質なのが、その丘が鳴動する度、大地が悲鳴をあげた。

 巨大な、何かだ。


 まだかなりの距離がある。

 なんらかの危険な生物かもしれない。俺は息を潜め、怪物の正体を見極めようとした。が、すぐに止めた。


 嫌な予感が止まらないのだ。

 この距離で、あの巨大な生物が、俺を見た気がしたからだ。

 俺は逃げ出した。


       ▽

「それはゾラだろうね」

「ゾラですか?」

「ああ、巨大な象の姿をしている。何よりも、あいつの特徴として――ケンタウロスを探しているところがあるね」

「どうして?」

「奴もまた狩人なのさ。私たちが遊牧民たる理由のひとつだろう」


 あの巨大な動く丘――ゾラの狙いは、ケンタウロスそのものらしい。

 義兄は困ったように頬を掻く。


「よく見つけたよ、義弟。少しでも発見が遅れていれば、私たちは全滅していたかもしれない」

「そこまで強いのですか、ゾラは」

「メタルライノよりも防御力は低いが、まあ、私の弓は通らない。もっとも恐ろしいのは、三本の鼻から放たれる攻撃だ。あいつは狩人であり、戦士だよ。単純に戦闘が上手いのさ」


 義兄の弓が通じない。

 戦いが上手い。

 めっちゃでかい。


 なるほど、脅威である。

 身体がかなり大きいゆえ、一歩の量も相応に大きい。移動速度はケンタウロスに匹敵しうるだろう。

 今から逃げ出さねばなるまい。


「しかし」

 と俺は疑問を呈する。

「あれは群れの危機なのですよね? だとすれば、巫女が予知できるのでは?」


 義兄は難しそうな顔で、巫女のいる拠点のほうを見つめた。


「巫女の予知は自主的には行えない。祖霊が必要だと思えば、その時、巫女は祖霊のお言葉を受け取るのさ」

「つまり、祖霊は今回のゾラの襲来を危険視していない? 安全なのですか?」

「否。おそらく、キミが発見していなければ、多くのケンタウロスが死んだだろう」


 思い出すのは、草原竜巻の件である。

 あれは多くのケンタウロスの死者を出した。が、当時、巫女は竜巻の襲来を予見できていなかった。

 だからこそ、あの時、巫女自身も重傷を負ったのだ。


「推測に過ぎないが」と前置きをして、義兄が意見を口にする。

「あの竜巻の時、キミが衛生観念をもたらした。……短期の目線で見れば、ケンタウロスは大きな損害を受けた。しかし、長期的に見れば、あの事件はケンタウロスにとっての福音だ」

「それは……」

「キミの所為、ではないよ」

「祖霊はそこまでシステマチックに機能している、ということですか?」

「かもしれないな」


 つまり、あのゾラの襲撃はケンタウロスにとって、危険ではない?

 あれは何かをもたらす存在なのか?


「まあいい、早く戻って報告しよう。かなり距離があったから、私たちが全力で走れば、一瞬とはいえども撒けるだろう」

「獲物は?」

「運ぶ暇がないね。ただし、獲物の血は浴びておこう。少しでも匂いを消すんだ」

「はい」


 俺たちは血抜きした魔物の血を、身体に擦りつけた。真っ赤に染まる毛並み。気色悪いことこの上ないが、狩りのためには我慢すべきことだ。

 これでケンタウロスを狩るゾラも、少しは誤魔化せるだろう。


       ▽

「この場所を放棄する。準備を進めよ!」

「うむ、守護獣を解放する準備をせよ。今日、狩ってきた獲物で時間を稼げ」

「鍛冶の道具、誰か持ってくれない? ぼく鍛冶以外で疲れたくないし」


 村長、巫女、鍛冶師がそれぞれに指示を出す。

 ゾラの襲来を知り、群れは慌てて逃走の準備を進めている。


 狩人たる俺たちの報告は、当初、まったく信用されなかった。一応、村長や巫女、鍛冶師は信用してくれたのだ。

 が、戦士長――俺やラタトッパの父だ――が俺を信用しなかった。


 そうして村長たちと口論しているうち、斥候を担当した戦士が戻ってきたのだ。


「本当にゾラだっ!」


 途端、戦士長は意見を翻し、群れは逃げる準備に入った。

 が。


「うむ、これは巫女たる儂の責任じゃのう」


 どうやらゾラから逃げられる距離では、なくなってしまったようだ。

 普段、ゾラの襲撃はケンタウロスたちにとって、そこまで致命的ではない。何故ならば、先んじて巫女が注意してくれるからだ。

 しかし、今回は予言がなかった。


 このようなこと巫女たちにとっては、初めてのことらしい。


「……先代は、このようなこともある、と仰っておった。が、儂は祖霊の力に慢心していたようじゃ。すまぬ……」


 地平の彼方、一直線にゾラが見えている。

 まだ薄ボンヤリとしか見えない。が、障害物の少ない草原で、その存在は強く主張してくる。一応、小さな森などもあるのだが、すべてが徒歩で薙ぎ払われている。


 森があるのならば草原とは言わぬだろう、と私は思う。

 が、他のケンタウロスたちが草原と言い張るので、この世界では森があっても特定の条件を満たせば草原というのだろう。


 私が草原について考察している間にも、議論は続いていた。


「餌がいる」


 言うのは戦士長だ。よく鍛え抜かれた巨体。背に負うのは、身の丈ほどの大剣だ。赤色の獣のような頭髪には、しばし白髪が交じっている。

 熊のような男だ。


「この距離のゾラでは、守護獣は無意味。狙われるのは我らだろう。どう見る鍛冶師」

「ゾラは戦いを好む。弱い奴なんてすぐに潰されて終わり。あるていど戦える奴をおいておけば、ゾラも夢中になってくれるだろう。ま、ぼくはごめんだけどね。戦士長はどう?」


 戦士長と鍛冶師が会話している。

 どうやら、鍛冶師の視線的には、戦士長が餌になれ、ということらしい。


 まあ、たしかに。

 戦士長が俺たちを疑わねば、誰の犠牲もなく、逃げ切ることができたかもしれないのだ。すでにゾラは俺たちを捕捉しているようだし、もう犠牲なしに逃げることは難しいだろう。


 俺も戦士長が残るべきだと思う。

 ゾラと戦えるのは、この群れでは戦士長か巫女、あるいは――ラタトッパだけだろう。


「私が行こう」


 俺が戦士長を睨んでいると、隣で、そう声が聞こえてきた。

 義兄が手を挙げていた。

 左しかない、その手を。


「どういうことです、義兄さん。貴方が行く必要なんてないでしょう!」

「いや? 腕を失ったとはいえ、これでも私はそこそこやるよ」

「ですが――」


 否定しようとする俺よりも早く、戦士長が重く頷く。


「だろうな。貴様が行くべきだ。どうせ腕を失った狩人など群れには不要だ。何よりも貴様たちがゾラを連れてきたのだ。すべての責任は貴様たちにある」

「そんなわけないだろ、《破砕せし肉塊》!」

「黙れ、汚らわしい狩人が」


 実の息子に対する声とは思えない。汚物でも見るような目を向けられる。

 俺はともかく、義兄をそのような目で見ることは許せない。


 ゾラは狩人だという。

 

 俺たちが発見しようがしなかろうが、すぐにケンタウロスの群れを見つけただろう。優れた狩人というのは、どのような小さな痕跡さえも見逃さないのだ。

 義兄が敵を狩人である、と認めたということは、奴にもその技能があるということ。


 というか、俺たちは一度、完全にゾラを撒いたのだ。

 本当の意味でゾラを連れてきたのは、戦士長が放った斥候であろう。


 どうにか口論に勝利し、戦士長に戦ってもらわねばならない。

 そもそも、こういうときのための戦士長なのだ。役職をもらっているというのに、その役職に準じないのでは意味がない。


 幸い、こちら側には鍛冶師が付いている。

 鍛冶師は結構、俺のことを買ってくれている。というのも、鍛冶師というのはこの群れでは、鍛冶師だけでなく、学者の面も持っているからだ。


 合金の配合や道具の製作が、鍛冶師の仕事なのだから。


 俺がもたらす知識は、奴にとっては垂涎だろう。

 さて、どうやって切り崩すか、と考え始めたその時。


「もう決まったことだよ。私が行くんだ。すでに私は狩人ではない。つまり、私は通常の戦士になったということさ。その戦士として言わせてもらおう」


《揺蕩う鏃》が宣言してしまう。


「私は祖霊の名において――ゾラに決闘を挑む! 助太刀は無礼と知れ!」


 義弟が言ったきり、群れの重鎮たちは身を翻した。

 もう誰が残るか確定してしまったのだ。であらば、すぐに逃げ出す支度に戻らねばならないのだろう。

 その判断は――正しい。

 でも、俺は間違っていると思った。

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