虎次郎は娘想いの父親だ

時刻は22時過ぎ。


「まゆ。電気が消えてるが、まだ起きてるか?」

「なにパパ? 今寝ようとしてたとこなんだけど」

「電気を消してスマホをやるのは目に悪いからやめなさい」

「ん。わーったよ。それで何か用?」

「お前と少し話をしておきたいと思ってな。入るぞ?」


パジャマ姿の父が、娘の部屋の床にドカッと座る。

パジャマはナチスに迫害されたユダヤの囚人が着ていたようなデザインだ。

身長が180を超えるためにそこそこ様になってはいるが。


いつもは黒髪のオールバックだが今日はお風呂上がりのため

髪を下ろしてるので少し若く見える。四角い黒縁の眼鏡をかけ、

その瞳からは深い思慮深さと知性を感じさせる。

職場でPCの使い過ぎのため、年中ドライアイに悩まされている。


「今日の夕食時も騒がしくしてしまい、すまんな」

「別にいいよ~。ママのヒステリーがもう治らないのは知ってるし?」

「……」


虎次郎は深いため息を吐き、眼鏡を付けたり外したりしてる。

まゆは少し待ったが中々話を始めてくれない。


「ねえねえ、顔暗いよ。今日は私に話があったんじゃなくて?」

「そうだったな。じゃあ訊くが、お前は結婚するつもりはあるのか?」

「ないよ」


断言。迷いのない口調だ。なぜだと父が問う。


「女だってちゃんと働き口を見つければ一人でも生きていけるしさ」

「そうか。で、次の就職先は見つかりそうなのか?」

「今のところは、まだ。もう少し時間が掛かりそう」

「そうか。今は就職難だから仕方ないな」


父は口数が少ない。

また黙り込んで長考してしまうのでまゆは暇そうにしていた。


「まゆは」


ようやく口を開いた。実に2分ぶりだ。


「投資だけでは生きていけないことは理解してるか?」


「もち。私が本気で億稼げるって信じてるほどのバカだと思ったのぉ?」


「それを聞いて安心したよ。では今回投資を始めた目的はなんなのだ?」


「会社や組織に雇われる以外でお金を稼ぐ方法があるのかを

 知りたかったのさ。ただそれだけで深い意味なんてないよ~」


「なるほど。まゆにとってはお小遣い稼ぎの一環というわけだな。

 ちょっとパパにお前の口座を見せて見なさい」


さすがに自分の親に口座を見せるのは緊張したが、まゆは言われたとおりにした。


画面を一通り見た後、「ふむ」と父はうなずく。特に問題はないとのことだった。


「まゆは初心者の割には資金管理がしっかりしているな。

 現金の余力が7割。デイでダメだと思った銘柄はすぐ損切りするから

 含み損の状態で持ち続けてない。優待銘柄は売らずに持ち続けてる」


「意外な高評価キタコレ (੭ु´・ω・`)੭ु⁾⁾

 今月なんて利益3,000円しか出てないから怒られると思ってたよ~」


「まゆ。それは違うんだ。資産の運用で重要なのは利益を得ることじゃない。

 損を出さないこと、資産を減らさないことなんだ。

 この一点を知っている投資家は長期的にリターンを出し続けられる」


「ふーん、なるほどね。パパは株やってないの?」


「パパは本業が保険屋だから主に生保の積み立てをやってる。

 それとは別にお前が看護学校を出た後に

 佳子(妻)に内緒で小さな証券口座を作ったが」


「まじでー-!! パパも投資用の口座を持ってたとは!!」


「声を抑えなさい。佳子に聞かれたらまた爆弾が落ちるぞ」


父が持参したIPADの証券口座を見させてもらった。


父のSBI証券の口座は、外貨建て資産(米ドル)だった。

NY証券取引所で取引されているSP500ETF、ナスダックETF、

金ETF(金地金、いわゆるゴールドだ)米国総合リートのETF。

たったの四銘柄しか持ってない。資産配分の4割がナスダックだ。


資産の残高が、円換算で3,800万円。含み益が1,100万以上。

4つの銘柄に膨大な投資口(株数)を積み立てている。


運用を開始したのが2011年だから、

ちょうど2016年以降の世界経済の上昇期にうまく乗れたのだ。

父は妻に内緒で給料の一部を投資に回していたとのこと。


父は相場を見るのがうまく、ギリシャ債務危機やトランプの貿易戦争、

英国ブレグジット問題の際に積み立てる量を増やし、特にボーナスの一部は

必ずナスダックETFの買いに回した。長期的な円安の影響もあって資産額は増えた。


父の口座で凄いのが、コロナ後の暴落を受けたはずなのに

トータルでの資産評価額がマイナスになってないことだ。

超長期投資ではコロナショックなど大した問題ではないのだ。


それにコロナ後の暴落でも7月を過ぎる頃には米国株の回復速度は恐ろしく

早かった。FRBのパウエル議長がFFレートの引き下げを実施し、

実質金利ゼロ付近ではグロース株に資金が入りやすい環境となっていた。

父は当然、コロナの暴落でも積み立て量を増やしている。


(外貨建ての資産は、株価と円安で二重に資産額が上がります。

 逆に株安と円高の際に逆張りで買うと、後でリターンがすさまじい)


「うわっ、なにこれっ、すごいっ!! やばっ!! 

 こんなに含み益があるなんてパパ、天才じゃん!!」


特に成長率が高いのがナスダックだった。当時のナスダックの成長率に比べたら、

日本や欧州の株式など成長が10年止まってるも同然だった。

この指数には、世界の覇権を握る米国株の上昇をけん引したGAFAが含まれている。

SP500にしても、GAFAのハイパーグロース株が時価総額の多くを占める。

この当時のテスラの上昇ぶりも常軌を逸していたものだ。


「ハイパーグロースって何? 普通のグロースと何が違うの?」

「そうだな。明確な定義はないんだが、俺からするとこうだな」


・大型株であり、価格変動幅がすさまじい。

・世界の市場を席巻するほどの潜在力を持つ

・経営者の能力が極めて高い。市場の革命者である。


※東証では日本電産やソニーがこれらに該当すると思われます。

 株主は必ず10年単位で保持しましょう。


「最近ではフェイスブック(現メタ)のCEO、

 マーク・ザッカーバーグ氏がその天才の典型例だな。

 グーグルの親会社アルファベットのサンダー・ピチャイ氏もすごいな」


「ザッカーバーグさんって私より少し年上の人でしょ。

 たまにネット記事で見かけるよ」


父は企業を選ぶ時は、まず優れた経営者を選びなさいと言った。

企業を操っているのは経営陣なのである。素人は株価ばかりに注目するが。


「まゆも頭の良い人の本を買うなりして勉強するといい。

 まゆだってザッカーバーグ氏とそんなに歳は変わらないんだ。

 お前だってまだまだ無限の可能性を秘めているとパパは思っているよ」


「いやいや、あんな天才と私を比べられても困るって。私なんて馬鹿すぎっしょ」


「そうかな? まゆは資金管理ができてるだけでも立派だと思うが。

 今のコロナ渦で多くの投資家が大損をしてるのを知ってるだろう。

 正確には退場してるわけだが」


「20年以前から投資を続けてた、

 投機家の人らが追証になったりして破産したんでしょ。

 ネットの噂では電車に飛び込んで死んでるらしいけど……」


「信用取引なんかに手を出すからそうなる。まさに若者だな。

 考えが浅すぎるんだよ。私の口座を見てみなさい。全て現物取引で

 買いオンリー。私はこの10年で一度も売り注文を出してない」


「うっそ!! 一度も売ってないの!?」


「そもそもなぜ売るのだ? 長期の資産形成において売るなど無意味だ。

 生活に困ったなど特別な事情がある場合を除いてな」


まゆは、父の長期積み立て投資の極意を教えてもらった。

そんなこと、まゆの買った本には書いてなかったし、

むしろ長期で持つ方が危険だと書いてあった。だって株を持ち続けたら

いつかは暴落する。その時までに売らないと資産が減ってしまうではないか。

現に友達になった新田さんはコロナで資産額が3割も減った。


しかし父は言った。暴落時にナンピン買いで取得単価を下げれば、

株数も増えるので上昇相場でのリターンが加速するんだと。

デイをしてる人は株を売り買いしてる。利が乗るとポジションを外してしまう。

もしそこが上昇相場の第一日だったとしたら? 

その後の上昇に乗れずに機会損失となる。


資産運用で最も愚かなのは、本格的な上昇相場に乗り遅れることだ。

資産を大きく増やした人は、必ずこの波に乗っている。

決して途中で降りない。その証拠が目の前にあるではないか。


まゆは呑み込みが早いタイプで興味があることは

どんどん吸収するので父の教えを正しく理解した。


バタバタバタと、佳子が廊下を歩く音が聞こえる。

廊下越しに聞かれるとまずいと思い、ふたりは声のトーンを抑えた。


「まゆ。今から言うことは大切なことだからよく聞きなさい。

 お前もデイをやってみて安定した利益が得られないことは理解したと思う。

 佳子が時間の無駄だと言ってたのは事実だ。朝から東証に張り付くより

 外でアルバイトでもしながら積み立て投資をした方が効率が良い」


「まー確かにね。もう6月の時点で気づいてはいたんだけどね」


「すぐに仕事を探せとは言わん。ゆっくり探せばいい。

 それまで投資のことをじっくり学ぶものいいな。

 一時的に休業したとしても、別の何かを学ぶための時間に費やすのなら

 私は反対しない。おまえは静養期間を得るための貯金を貯めた。

 この時代で500万も貯めるのは大変だっただろう。お前には休む権利がある」


「うん、ありがとう。私に優しい言葉をかけてくれるのはパパだけだよ」


まゆは少し泣きそうになってしまう。

父は過保護すぎるほどにまゆのことを心配してくれる。

まゆが幼い時からこうだった。だから父のことが好きだった。


「あのさ、こんなこと聞くのもあれなんだけど、パパはそれなりの金額を

 投資に回しちゃってるけど、うちの現金預金の方は大丈夫なの?

 ママが生活費がやばいとか騒いでるからさ……」


「それなら心配するな。妻には十分なお金を渡して管理してもらっているよ。

 あいつが給料が少なくなったと騒ぎ立てるのは、

 俺が陰で積み立てをしてることを知らないからだ」


父は勤続年数の長い営業部長だ。専業主婦の扶養手当などもあり、

手取り収入はかなり高い方だった。賞与の額も十分だ。

それにこの家のローンはすでに完済してるが、

わずかにリフォームをすればまだまだ住める。


妻に投資がばれないよう、毎月負担する保険料が高くなったと嘘をついて

手取りを少しずつ減らすように細工をしておいた。長年家に居続けた

妻にはプロの金融マンの手品を見抜く力があるわけがない。


「これも今だから言うけどな、実はまゆが家に戻って来てくれて安心してる」


「そうなの? 私なんてママの言う通りただのニートみたいなもんじゃん」


「収入の事じゃなくてな、俺もこの年になって妻と一緒にいるのが

 我慢ならなくなってきたのだ。今日だって本当は言い返すつもりは

 なかったが、頭に血が昇ってしまい、ついな。

 一時は離婚も考えたが、なんとか努力して克服してきたんだよ」


父の顔に見たこともないほどの悲壮感が漂っていた。

まるで定年後の老人のように老けて見えてしまう。

いったい、ヒステリーの嫁のためにどれだけの苦労をしてきたのか。

夫婦の関係は子供がいなくなってからより険悪化するものだ。

熟年離婚の比率は厚生労働省の調べでなんと50%を超える。


看護師時代のまゆには「早く結婚相手を探しなさい」と

母から矢の催促があったものだ。親戚の叔母さんまで巻き込んだ

騒動にされた時は怒るよりも泣きそうになった。


それが家庭であれ、会社であれ、地域社会であれ、

個人の主張は最大限認めてあげるのが優しさだ。

意見の対立はどこかで折り合いをつけて生きていくしかない。


そして人の生き方も時代と共に変わっていく。

すでに辞めてしまったが、看護師時代のまゆは立派に自立して働いていた。

くだらない女同士の人間関係にもめげず、辛い交代勤務をこなした。


看護師の給料がなぜ高いのか。それは激務だからだ。長く勤まる人の方が少ない。

看護師の人数はどんどん減るが、患者や入院する老人の数は増えるばかり。

大手の病院では短期雇用の看護助手(資格は持ってない臨時のお手伝い)

を多数雇うが、最近では東南アジア人の比率が増えてきた。


なぜ、まゆの口調が底抜けに明るいのか。

それは人を馬鹿にしているわけではなく、患者さんの前では常に笑顔で

明るく振舞わないといけなかったからだ。嘘でも楽天家を演じないと

勤まる仕事ではない。「人のお世話をするあなたが暗い顔をしてどうするの」

新卒時に婦長さんから聞いた言葉をまゆは今も覚えていた。


狭い世間でしか生きてこなかった専業主婦にはそれが分からないのだ。

毎日決められた家事をこなし、近所のおばさんと肩を並べて

井戸端会議を続けても人間としての成長はない。ただストレスが溜まるだけだ。

溜まり続けたストレスは、やがて人間の思考回路まで破壊する。


女性を家庭の中に閉じ込めることを理想とするサウジやイスラム国が

世界の人権団体から強く非難されてることは周知の事実だ。


父親の虎次郎は、自分の娘に新しい時代の女性として

生きて欲しいと心から願っていた。愛する一人娘だからなおさらだ。


「なんか、色々と迷惑かけてごめんね」

「むしろ謝るのはパパの方だな。結婚相手を選ぶのを間違えてしまった」


父のセリフは、まゆが小学生の時からずっと聞かされていたものだった。

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