20年3月。コロナショック。運命は残酷なり
「店長。お疲れさまでした。時間なのでもうあがります」
「うん。今日もありがとね、新田さん。
っとあれ? なんだこれ。ニュース速報だ」
バックヤードのテレビでニュースを聞き流していた店長が、
めずらしく変な声を上げた。
デスクの上でもぐもぐとコンビニ弁当を食べていた箸が止まっている。
時刻は22時過ぎ。ミカの遅番のシフトが終わったタイミングだ。
「にゅーよーく、ダウ?の先物ってのが暴落してるんだってさ。
10年ぶりのサーキットブレイカーってのが発動する予定?」
「え……?」
「欧州の株式は全面安になっていて、為替市場では円高になってるんだって。
なんだこりゃ。俺には全然分かんないけど、やばいってことかな?」
店長がミカの方を振り返ると、上着を着て猛ダッシュするミカの後姿が見えた。
交代で入った夜勤の男の子たちが、目を見開いて彼女に道を開けていた。
猛牛が正面から突撃するかのような勢いだった。
店長もミカのあそこまで取り乱した姿を見たのは初めてだった。
するとアルバイトの大学生の男子がバックヤードに来てこう耳打ちした。
「店長。ここだけの話なんすけど、新田さんって実は投資家らしいっす」
「なんだって? あの真面目そうな新田さんがそんな博打を?」
「新田さんの話では安定した資産運用ってのをしてるらしいっすけど、
あの様子じゃあ、おそらく……」
その大学生の男子は19歳の若者だが、経済学部に所属してる学生なので
株式の恐ろしさはなんとなく知っていた。
その日の23時半、NY市場はサーキットブレイカーを発動。
株式市場はその後、2週間にわたって大暴落し、1ドルは108円に下がった。
ミカは暴落を知ったその翌日、少しでもこの恐怖から逃れようと、
含み損になった銘柄を指値で売ろうとした。だが、
「指さらない……うそでしょ。どんどん株価が下がっていく……」
値を指定したところで簡単には約定しない。暴落時は全銘柄が特売りだ。
不安になりヤフー掲示板でホンダ、ブリジストン、キヤノンを見る。
・キヤノンの株価は1000円割れ、ホンダは800円だな。もう終わりだ。
・マジ自殺ものだわー。おまえら、明日の朝電車止めんなよ?
・俺、インバースのETFを買ってるから楽勝っすww
いったいこれからどれだけ含み損が増えるのか。
20代の時にあれだけ頑張って貯めたお金が、
こうも一瞬で溶けていく。消えていく。
夢であればいいと思った。だがこの悪夢は冷めてくれそうにない。
その次の瞬間、ミカは悪寒に襲われる。背中が妙に寒い。
目の奥が痛くなって猛烈な頭痛がした。
「うっ……」
ミカはトイレに行き、吐いた。
ストレスで吐くのは自動車会社の事務をやっていた時以来だ。
彼女は、三菱を辞めた後、一年間を無駄に過ごしていたわけではない。
正社員の給料に頼らない別のお金の稼ぎ方を学んでいたのだ。
会社では経理事務も手伝っていたからそれなりの知識はあるし、経理や簿記の資格も持っている。そして彼女なりに決算の分析の仕方を学び、企業のIRや歴史を調べてから銘柄を選んだ。雑誌も参考にした。だから銘柄選びに間違いはないはずだが、すでに含み損がトータルで50万を超えてしまった。
吐くと少しだけ気持ちが楽になる。
クッションを頭の下に敷き、絨毯の上に横になって考え事をしていたら、
いつの間にか前場が終わっていた。
テレビをつけると民法もNHKも東京市場の大暴落を報じてる。
スマホでNY先物を見ると、信じられないくらいほど値が下げていた。
(もう、あきらめよう)
なんで株なんかに手を出してしまったのか。
無職だった時に自分に言い聞かせてやりたい。
あの時に無駄な勉強なんてするもんじゃなかったのだ。
だがどれだけ悔やんでも時間の針を戻すことはできない。
ミカは昼過ぎに店長に電話をして、無理を言って2週間の休みを入れてもらった。
あまりにも急な話だったが、店長は怒るどころか機嫌が良さそうだった。
「いつも休みのバイト君の分も無理をしてくれた新田さんの頼みだから、
今回は気にしなくていいよ。うちの人間だけで店は何とか回すからさ」
「ありがとう……ございます。それと、本当に申し訳ありません」
「あはは。そんなに謝らなくていいってば。むしろ俺が君の今までの働きぶりに
感謝してるんだよ。人間誰だって病気になる時はあるさ。
今はゆっくり休んでくれ。また元気になったら顔を見せてくれよ」
ミカはスマホを持つ手が震え、ポロポロと涙が出た。
コロナショックで資産額が減っている時に店長の言葉は何よりも温かく感じられた。店長は、ちょっと妻と代わるからと言い、電話を保留にした。
「新田さん? 具合が悪くなったって聞いたけど大丈夫?」
「奥さん。すみません。ご迷惑おかけしてます」
「ちょ。あなた、泣いてるの?」
「い、いえ。これは違うんです」
「正直に話してほしいんだけど、仕事が辛いってわけじゃないんだよね?」
「そんなことないですっ。皆いい人ばかりで私は今の仕事が楽しいです!!」
「そっか……。なら安心した。ちょっと話は変わるんだけど」
店長の奥さんが言い出したのは、例の大学生のバイト君から聞いた
資産運用の件だった。核心を突かれたミカは正直に答えた。
「なるほどねぇ。でも落ち込んでばかりいるともっと病気になっちゃうと思う」
「そうですよね……分かってはいるんですけど、もう含み損が70万に」
「ちなみにどんな銘柄を持ってるの?」
「えっと、結構有名な企業ばかりですよ。ブリジストンとかキヤノンとか」
「へー。リーマンの時と似た感じの暴落よねぇ」
「え?」
「驚いた? 実は私の兄が証券会社で勤めてる人なのよ」
奥さんはトレーダーではないが、兄から今回の大暴落の件で何度も電話を受けてるそうだ。兄上曰く、「今は買いだ。現金なんか残しないで、どんどん買っちまえ」
しかし奥さんには投資なんてギャンブルだと思っているから絶対に手を出さない
そうだ。奥さんは親切心から、ミカが苦しみから救われる方法を教えてくれたのだ。
暴落した。なのに買う。
この発想がミカには理解できなかったが、夜お風呂に入りながらじっくり考え、
その日はNY市場の乱高下を横目に見ながらネットで情報収集をした。
ネットの長期投資ブログには、ITバブルやリーマン後に株を買い向った
勇者たちが億単位の資産を築き上げた例が多い。
「なるほど。暴落時って買って嘘じゃなかったんだ。でも私にはお金がない……」
貯金はすでに投資に回して含み損が増えている最中だ。
今月はしばらく休むから来月のお給料も少ない。
投資の初心者のミカには、大暴落を乗り切るための精神力が足りなかった。
頭で思っているのと実際に行動に移すのは違う。
それから時は流れて4月になる。この頃になると暴落は止まり、
実はそこが株価の底だったのだが、当時の人には知る術もない。
ミカは熟慮した結果、こう思った。
「ホンダを100株売ってしまおう」
今売れば損失が7万円。その代わりに23万円が戻ってくる。
このお金を使って、三菱UHJや住友化学を買い増ししようと思った。
(ホンダはもう終わりだって、掲示板や日経新聞が言ってた)
典型的な、売り煽りである。
売り煽られた時こそが、その銘柄の底なのだが、哀れなミカには
そのことが理解できない。彼女は今この瞬間、今まで大切に貯めた
7万円を失おうとしていた。あとは売り注文をするために
マウスでクリックするだけだ。
さあ売れ。売ってしまえ。売って楽になれ。
目には見えない悪魔が彼女の肩にのしかかっているようだった。
だが奇跡は起きた。
「おーいお嬢さん。お前さんは、いったい何やろうとしてんだ?」
ミカは文字通り椅子からひっくり返りそうになった。
彼女の自室に、見知らぬオジサンがいたからだ。
「だ、誰ですかあなたは。強盗ですかそれとも泥棒? 今すぐ通報を!!」
「まあまあ待て待て。俺はこの世の人間じゃねえからよ」
「何を言って……って、ええ? うそ……」
そのおじさんの足がの先が透けていた。それによく見ると
体が宙に浮いているではないか。禿げた頭の、60過ぎの
眼鏡をかけたおじさん。もちろん知り合いではない。
霊界に知り合いなどいてたまるものかとミカは思った。
「それよりよぉ。嬢ちゃん」
不審な幽霊がニコニコしながら言う。何がそんなに楽しいのか。
「な、なによ」
「お前が売ろうとした銘柄ってのは、本田技研工業かい?」
「本田技研? ああ、本田自動車の事ね」
「自動車じゃねえ。本田技研だ」
「どっちも同じでしょ」
「ちっ。まあいい。それよりなんで売ろうと思ったんだよ?」
まるで自分の判断を否定されているようでミカはムッとした。
「なんでって、株価がこれ以上下がる前に損切りするからよ。
ホンダが800円とかになる前に売るのは合理的でしょ。
もちろんそのお金で別の銘柄を買うわ」
すると、そのおじさんは口を大きく開いて笑った。
実に2分間も笑った。笑い過ぎて床を転がりそうな勢いだ。
「なんで笑うの? 私が損をするのがそんなに楽しいわけ!?」
「あーっははは。違えよ。俺がおかしいと思ったのはなぁ。
おまえさんがちっとも本田技研の価値を分かってないからだ」
「あなたに株の何が分かるのよ」
「1946年か。浜松の工場が米軍の空種で焼け野原になった時、
工場跡地は原っぱになっちまって、なーんにもなかった。
あの時の絶望はこんなもんじゃなかったなあ。
今回のコロナショックでよ、そこの工場はひとつでも破壊されたのか?
なあお嬢さん。経理が分かるなら次の決算で財務諸表を見てみなさい。
その会社の固定資産はまったく破壊されてないはずだ。
操業停止による減損は出るだろうが、そんなものは一過性だ」
ミカには専門的過ぎて後半の説明の意味は分からなかったが、
変なおじさん相手に負けを認めたくないので知ったかぶりをすることにした。
「へ、へえ。そうなの。だったらこのまま持ち続けて次の決算発表を
待つのもいいわね。次は5月の半ばだったかしら」
「おう。楽しみにしてろよ。だがどんな結果でも売るんじゃねえ。
いいか? 俺は確かに伝えたぞ。本田技研を売るんじゃねえ」
それだけ言ってから不思議なおじさんは消えた。
まるで魔法や超常現象だ。さっきまでそこにいたはずの人間がいないことに
違和感を感じないのだから。まるで初めからこの部屋には自分しか
いなかったかのような。明日からそのおじさんは現れなくなった。
売らない。そう決めたら不思議と食欲が出るようになった。
顔色が良くなってきた娘を見て両親も安心してくれた。
コンビニでの仕事もいつも通りだが、「なんだか後姿に元気がないね……」
と店長と奥さんが心配してくれたのが何よりもうれしく、また申し訳なく思った。
5月の第二週。ついに来た。本田技研の決算発表だ。
「うわ……」
想像を絶する悪さだった。大幅な減益。通期見通しも最悪。
リーマンショック以来の業績悪化だった。それに楽しみにしていた
配当金も半減。掲示板では悲観論一色。
何より追い打ちをかけるように「コロナの2番底論」が台頭。
おそらく7月には日経が14,000円まで下がると言われていた。ならば、
それまでにいったん株を100万ほど現金化してまた買い直すべきだと思った。
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