月の砂、望郷の海

伊島糸雨

月の砂、望郷の海


 月の魔術師は時楔じけいの塔を越えて彼方の海へ還るという。風に燻む鈍色の高塔は、壮麗な象嵌の幾何学模様で天井を満たし、複雑怪奇な絡繰と蠢く螺旋に芯を貫かれている。最上には巨大な薔薇窓を嵌め、死者の皮膚に湧く凹凸に似た病月わくらづきを見つめている。宮廷の哀れな道化師、あるいは川辺に足を伸ばす風雅な詩人は語る。


 夜闇の宇宙そらは死者の庭。病みの波濤は時楔をそそぐ。


 時楔の塔を象った月砂の時計は、塔裾都市とうごとし象徴シンボルとして真贋問わず貴人から魔術師、市井の人々の手にまで渡っている。元は原初の魔術師たちが帰還の時期を計るものとして設計したといい、今日こんにちでは病月夜わくらづきよに行われる帰郷の祝祭に合わせてすべての砂が落ちるという。都市を訪れた旅人の多くは土産にこの時計を買って行くが、都市の他では機能しないと知って落胆するのが常であった。

 祝祭は月が都市に最も近づく夜に行われ、人々は静謐の中で熱狂する。家々の戸口には白い月海灯つきみとうの花が咲き、青褪めた望郷葵そらわたりの園では花が一斉に宇宙そらを向く。落ちきった砂の最後の音色が都市に広がり、人々は弔いの祈りを口ずさむ。魔術師の本性ほんせいは夢想家であり、彼らは目を覚ましたその時から果てなき帰郷に臨むと定められている。時楔の塔の先で響く波濤も風も彼らは知らない。それは一種の神話、風化した現実として理解される。故に魔術師の血は呪いであり、伝染する病である。彼方の約束は意義を忘れ、灰に朽ちゆく塔裾都市とうごとしで幾度も時計を逆さに変える。

 生涯に境界を引く自由を永遠とした虜囚たちは、血に刻まれた原風景を忘れてゆく。けれどもしもそれを拒むのなら、砂時計に添えた手を離すことが最善である。月海灯つきみとうは白波に似て、望郷葵そらわたりの冴えた青はいつか見た星を思わせる。魔術師たちは打ち寄せる波を幻想し、潮騒の囁きに耳を澄ます。祝祭が旅立ちを言祝げば、願いの亡骸むくろは星屑となって夜に落ちる。時楔の塔の螺旋を昇る。降り注ぐ光芒が罪を雪ぎ、忘却と望郷に茫漠とした意識の目蓋を優しく下ろす。月光を透過する精緻な薔薇窓は図像を映し、色彩の奥底で月の海が微睡まどろんでいる。散る花弁はなびらは葬送の風。払われた外套から溢れる髪が頬をなぞり、都市の表皮おもてを撫ぜる歌に横臥する。


 夜闇の宇宙そらは死者の庭。病みの波濤は時楔をそそぐ。


 月の魔術師は、時楔の塔を越えて彼方の海へ還るという。しかしその行く末を知る者はなく、都市の在る限り祝祭は続く。青褪めた手が時計に触れる。砂は今も落ち続けている。

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月の砂、望郷の海 伊島糸雨 @shiu_itoh

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