お気に入りの空

帆尊歩

第1話 お気に入りの空

コンビニの袋を持って、狭いワンルームの部屋に帰る途中、住宅街の中にある小さな公園の前を通る。

そういえば、ここであいつとちょっとだけ話した事を思い出した。

あいつとは彼氏とかそういう関係ではなかったけれど、大学の四年間と社会人となってからも友達として付き合っていた。

男女間に友情は成り立たない、なんて言うけれど、あたしとあいつは親友だった。

大学を卒業してからは、親友と言うより飲み友達に変化していた。

お互いの会社の愚痴を言い合うことは、月一の定例ミーティングとなった。

あいつは、全くと言っていい程男を感じさせなかったし、あたしも極力女を出さなかった。

だから、あいつにとってあたしは男同士の飲み友達同然、あたしに取ってあいつは女同士の飲み友達同然だった。

思えばなぜそういう関係でいられたのか分からない。

あたしにその気がなかったからなのか、あいつにその気がなかったからか。

今となってはどうでもいいことだけれど。


あたしは公園に入ってベンチに腰掛けた。

時間は嫌というほどある。

空を見上げると家々や電信柱、そこに渡る電線、そういった物に切り取られたちいさな空が見えた。


この公園であいつと話したのは、飲んだ後部屋まで送ってくれたときだ。

その日はめずらしく、かなり遅くなってしまった。

送ると言いながら、部屋まで行くことは遠慮したのか、この公園のベンチに座った。

そしてあいつとこのベンチで空を見た。

「空って、青くて綺麗だな」とあいつは言った。

「どこがじゃ、こんな箱庭のような空、それに今は夜だし」とあたしは言った。

「そうかな」とあいつは首をかしげる。

昔、詩人の妻が東京には空がないと言った。

あたしはそんな事を思い出して、かっこつけて、

「こんなの空じゃないよ」と言った。

「そうかな。青くて綺麗な空だと思うけど、夜だけど」

「アルプスの山々の上の空があたしのお気に入りの空」

「そうか。ここではないどこかの空なんだね」

と今まで見たこともないくらい寂しそうにあいつは言った。

東京生まれの東京育ちのあいつが、自分がいつも見ていた昔なじみの空が、あたしにとっての空ではない、と言われたことに寂しさを感じたのかなと思ったが、あたしはそのまま忘れてしまった。


それからあいつとはちょっとだけ、疎遠になった。

月一のミーティングが半年に一度も同窓会のようになった。

あたしは忙しいのかなと勝手に思っていた。

就職して三年、仕事に限界を感じてきたとき、実家からお見合いの話が来た。

仕事に燃えるとか、東京でもっと遊びたいとか、そういう感覚はなかった。

会社と、大学に入ったときから暮らしている小さなワンルームその往復だけの生活。

あいつと月一の飲みのミーティングが、今にして思えば唯一の楽しみだった。

それが半年に一度になって、あたしは寂しかったのかもしれない。


「実家に帰って、結婚する」いつもの居酒屋であいつに言う。

そのときのあいつの寂しそうな顔が、忘れられない。

でもその時のあたしは、飲み友達がいなくなることが寂しいんだと思った。

「誰か他に誘えばいいじゃん。それに彼女とか作れよ、あたしでさえ結婚するんだぞ。あんたは割と良い線行っているんだからさ、あたしが女だったらほおって置かないぞ」

「えっ」とあいつは間の抜けたような顔をした。

「あっ、あたしも女か」と言ってあたしは笑った。

あの時のあいつの顔は今でも忘れられない。

酷く驚いたような、後悔したような顔をしていた。

だけどそれがなぜなのか、あの時のあたしには分からなかった。

店を出ると、建物に切り取られた夜空をあいつは見つめた。

「星が出ているよ。綺麗だな」

「こんなの、うちの実家の空に比べたら」

「いいんだ。俺にとってはこれが、この東京の空がお気に入りの空なんだ」

「ふーん、そんなもですか」とあたしは言った。

その時にはあいつの顔は何か吹っ切れたような顔をしていた。

気分が回復して良かったと思うと同時に、何だかちょっとだけ寂しい気持ちになった。

でも自分がなぜそう思ったのか、その時のあたしは分からなかった。


あたしは、コンビニの袋を横に置いて、家々や電信柱、そこを渡る電線、そういった物に切り取られた、ちいさな空をもう一度空を見上げる。

あたしは明日部屋を引き払う。

おかしいな。

あいつのことを思うと、何だか涙が出てくる。

別に付き合っていて、別れたと言うことでもないのに、あいつと交わした言葉が次々頭に浮かぶ。

あいつに話したこと。

あいつがあたしに話したこと。

あいつの笑い声、怒った声。

そしてあいつの顔、笑うと目尻が下がって、だらしない顔になるのに、そういう時だけはあたしを強く見つめる。

あたしは泣いていることを否定するかのように強引に涙を拭う。

明日、実家に帰るんだ。


その時、家々や電信柱、そこを渡る電線、そういったものに切り取られた、ちいさな東京の空が、あたしに取ってもお気に入りの空になった。

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お気に入りの空 帆尊歩 @hosonayumu

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