第2章 邂逅 ―惑いの森―
2-1.価値
葦に似た植物に生える近くの沼に、『神に疎まれしもの』こと、イェリカ・ローダの成れの果てを沈めた。元の場所に戻り、土や植生を乱したり手形や足跡をつけたりして、自分たちがイェリカ・ローダに抵抗した痕跡と、引きずられて連れ去られたような痕跡を作り上げる。
気はもう急かなかった。天空に輝く二つの満月と、体中に染み付いたイェリカ・ローダの体液。どちらがより効果があるのかはわからないが、聞いていたとおり他の『神に疎まれしもの』が寄ってくる気配はない。
辺りには虫、これも厳密には違うのかもしれないが、それらしい声だけが静かに響いている。
ゼミ仲間が自分たちを探しに来る気配もなかった。逃げた三人は完全に怯えているだろうし、福地は福地で他人、特に既に死んだ確率の高い者のために、自らを危険におくようなことはしない男だ。みな郁の見込み通りに行動しているのだろう。
「宮部、お前全然怯えてないな」
一人ではなくなったせいではない――郁は、何気ない口調で探りを入れてきた江間を横目で確認する。形のいい、切れ長の目は、あっさりした口調と裏腹に、鋭く郁に注がれている。
「そんなことないこわくてしかたなくていまにもなきそう」
「……また完全な棒読みだな。一体何を隠してやがるんだか」
「正直に言えば、怯えるのにもう疲れた。あとは、イェ、化け物が死んでそれなりの時間が経つのに、他の生物が寄ってくる気配がないから、あれの存在の痕跡――体液なのか臭いなのか、他の何かなのかはわからないけれど、それが魔除けみたいなものになるんじゃないかと」
沼に注ぐ浅い小川の水で、顔や手についた血を落としながら答えた。同じ血で染まったスプリングコートは、滴る血だけ絞って落とし、そのまま乾かすことにする。
「だから洗い流さないでおこうと?」
「強い敵には近寄らない、それを殺す能力のあるものには、さらに近寄らないという仕組みがあってもおかしくない」
半分はちゃんと本当――嘘の常套手段をとった郁に、江間は片眉を跳ね上げると、「なるほどね」と小さくつぶやいた。その様子からは彼がどこまで何を信じたかは、伝わってこない。
遠くに灯っている明かりに気付いて郁がその方向を見れば、江間もそちらを見た。同じ世界から来た四人のいる洞窟の奥で、小さな炎が揺れている。あそこで今どんな話をしているのだろう。
「そういや、ライター、持ってき損ねたな」
「月も明るいし、当面は困らない」
というか、それでよかったのだ。この森で火は下手に使わないほうがいい。確か特殊な木や香を使わなければ、逆に化け物を呼び寄せるはずだ。
この夜が明けたら、それをどう江間に説明するか? 面倒なことになった、と思いつつ、郁は曖昧に頷いた。
「それにしても……」
洗い終えた顔の水を振り落としながら、郁は岸に立つ江間の周囲に散らばった道具類を見つめる。
「ニッパーに金づち、ブースターケーブル、ラチェット、全部車載工具? あの福地がよくこれだけ持ち出すのに同意したね」と呆れかえれば、江間は「止める暇がなかっただけじゃね? 元々うちの家のだし」とそっぽを向く。
「お、この蔓、使えそうだな。ありゃ何かと便利だし……って宮部? 何してる?」
怪訝な顔をした江間を無視し、郁は後頭部の辺りに手を回すと、髪を結んでいたゴムを下にずらし、根元に化け物の鎌を慎重にあてた。両親も親友だと思っていたあの子も、それだけは美しいと褒めてくれた髪――。
「っ、おいっ」
「……っ」
ブツっという鈍い音ともに、頭皮に痛みが走った。唖然とする江間の目の前で、郁は切り取った髪を、化け物の血溜りの背後の木へと鎌で打ち込む。ゴムを回収した後、幹に食い込んだ髪へと血を擦り付けた。
木の幹の傷に生える、血まみれの黒髪――ホラーな見た目に満足すると、郁は中途半端な横髪を適当に切り落とし、残る髪を川の水で洗う。
「せいせいした」
軽くなった頭を少し寂しく思ったことには、気付かないふりをした。
「……もったいねえな、結構きれいだったのに」
≪美しくもないが、取り立てて不細工だとも思わない。だが、髪は美しい≫
江間の微妙な褒め言葉に、“夢の中で会っていた”かつての親友を思い出す。
霧の中、手を伸ばして郁の髪を触ろうとしてきた彼の言葉も、褒め言葉とは到底言い難いものだった。それでも、遊びに来ていた妹が寝ている郁の髪を鋏で切ったと言った時は、ひどく怒っていたのだ。彼の世界では女子の髪は長くなくてはならない、と。
郁は洗い終えた髪をコートの裏地部分で拭いた。簡単に拭き終わるのは悪くない。
「よかったのか?」
屈めていた身を伸ばし、立ち上がったところに、ごく自然に伸びてきた長い腕。なぜか避ける気にならなくて、郁は短くなった髪を江間の自由にさせた。遠慮するように確かめる仕草が、江間らしくない。
「……髪の綺麗さで生き残れるなら、大事にするけど」
「ああ、それはそうだな。きれいでも邪魔そうだし、食えるわけでもないし?」
美しさだけで異世界を生き延びることのできた母方の祖母トゥアンナと、自分の違い。自虐を含んでいた郁の言葉に、江間はあっさりそう応じた。
それに思わず吹き出す。声を立てて笑う郁を、江間は驚いたように見ているが、そう言い放ってしまえる彼の無遠慮さを、初めて悪くないと思った。
トゥアンナや母、妹と違って、可憐でも美しくもないことに郁はずっと引け目を感じてきた。それで髪だけは、と伸ばしてきたのに、なぜか今ふっきれる。
(そうだ、髪ごときだ。長くて頭が重くて「邪魔」なだけで、「食えもしない」。そんなもので私の何が変わるわけじゃない)
「……お前の笑いのつぼは、マジでわからん」とぼやきながら、江間は同じ樹に血で手形を残す。
その様子を見ながら、郁は笑いを収めると、「行こう」と歩き出した。
笑ったせいで出てきた涙で、月が四つににじんでいる。既に固まり始めたイェリカ・ローダの体液に染まった薄手のコートのすそが、吹いてきた夜風にいびつに靡いた。
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