1-8.袂別
青と黄の二つの月に照らされ、江間の表情は鮮明に見えた。切れ長の目を鋭く眇めた彼に、郁は「――隠していたらなに?」と微笑みかける。
湿気を含んだ夜風が血まみれの郁を撫でた後、江間の前髪を揺らして通り過ぎていく。
「普通はこうなのに、私の振る舞いはそれに合わない、だから何か隠しているだろう? ――推察にしてはずさん過ぎる」
眉を跳ね上げ、「宮部……?」と呟いた江間に、郁は「証拠もない、論拠も弱い、そもそも理屈としてなってない、話にならない」と冷ややかに笑った。
「話せ……? 仮に私が何か隠しているとして、それをあなたやお仲間に教える義理があると思う?」
呆然と郁を見つめていた江間は前髪をかき上げると、「本性、こっちか……」と呻き声をあげた。
「つまらない台詞」
せせら笑った郁に江間は顔を顰めた。
「なんであんな大人しいふりしてんだよ? 何言われてもあんま言い返さないし、やり返しもしない」
「面倒だから。どうせ大した害はない」
「ありまくりだろうが」
「じゃあ、大人しい人間をただそれだけで軽んじる人間を見分けられるとでも言えば、納得する?」
「はあ?」
愚直と呼べるほどに誠実で真面目だった父方の祖父コトゥドを、その穏やかな性質ゆえに軽く扱った母方の祖母トゥアンナたちの顔を思い出して、郁は嫌悪を露にする。
「実直に誠実に生きている人間を見下し、蔑ろにしていいと思う神経、それがふりだと気づかない観察力のなさ、見下しているつもりでいて実は自分こそ見下げられているのに、そこに気づけない愚かさ――そんな人間と付き合っても良いことはない。江間もいつかあきらめると思っていたのに、ゴキブリ並みにしつこい」
「ゴキブリって、おい……」
顔を盛大に引きつらせた江間を無視して、郁は「もっと早くこうしておけばよかった」と呟くと、イェリカ・ローダだったものに向き直り、その腕に手をかけた。
バックパックから取り出したドライバーを、イェリカ・ローダの鎌がめり込んだ木の幹にあてる。梃子の要領で鎌を手前に押し出しながら、木を蹴り飛ばして鎌を引き抜き、腕を地面にひき下ろした。
「そのドライバー、車載工具のやつか? ないと思ったら、いつの間に盗ってたんだ……」
「借りているだけ。盗むのはこれから。文句があるなら、力づくで奪い返してみたら?」
手ごろな大きさの石をとり、ドライバーをイェリカ・ローダの手首に当たる部分、鎌の少し上にあてがって、思いっきり石を打ち下ろす。じょっじょっという音はするものの、手首の付け根の鱗は小さい代わりに密集していて、ドライバーは中々食い込んでいかない。
「別人……」と顔を引きつらせていた江間は、「まあ、その、なんだ、あんな胡散臭い、大人し気ないい子ちゃん振りを見せられてるより遥かにましか」と息を吐き出した。
「じゃあ、まあ、お前がそうなのはそれでいいとして……」
「こんなわたしをうけいれてくれてありがとう」
「……見事な棒読みだな。むかつくのを超えていっそ清々しい。まあ、それもいいよ。その鎌、回収すんだろ? 手伝う」
江間は「大人しいわけはないと思ってたが、想像を遥かに超えてたな……。やぶへびだったか……」とぼやきながら、郁に近寄ってきた。
「大きなお世話。これは私が倒したんだから、この鎌も私のもの。あなたには何の権利もない。今さら手伝いごときで、大きな顔されたらたまらないの――引っ込んでて」
「……道具はみんなで仲良く使いましょうって、幼稚園で習わなかったのか?」
「道具は皆それぞれに用意される幼稚園だったから。お嬢さまだったの」
「助け合いや協調を美徳とする、小学校の道徳教育は?」
「ああ、能力を活かしたり努力したりして成功しようとする誰かの足を引っ張ったり抑えつけたりすることを時に正当化するあの教育」
「……どんなお嬢さまだよ」
「ちゃんと聞いていた? お嬢さま“だった”――元よ、元」
「その性格ならそうだろうな」
「お褒めいただきまして」
「猫かぶり」
「あなたには言われたくない」
ぐちゃぐちゃになった赤い組織に食い込ませたドライバーの先、しつこく残っていた銀色の骨のようなものにヒビが入った。郁が力任せにそれをへし折ると、横の江間はまたあきれたように息を吐き出した。
「変なの」
それを無視して、月明かりにかざしてみた化け物の鎌はひどく軽かった。金属ではもちろんなさそうだが、表面はそれに近いほど滑らかで、青白い月光を反射して鈍く光っている。血管や神経のようなものが通っている様子はない。骨に近いものだろうか? 持って帰って分析してみたら面白いかもしれないと詮無いことを考える。
「――触るなと言っているのがわからない?」
「なんつー声……ドス利かせんなよ。二つあるんだから、一つぐらいいじゃねえか」
「嫌」
「即答すんな。撥ねつけるにしても、せめて目ぇぐらいこっち向けようぜ」
「いやもうマジで衝撃……」と肩を落とした江間は、それでももう一方の鎌を未練がましく見つめている。
それから彼は郁へと顔を向けた。楽しそうに見えるその表情に郁は眉を跳ね上げる。
「やっぱもらう。もちろん対価はきっちり払う」
月明かりの下、表層の葉だけを時折光らせる黒い森を背景に、江間はにっと含みのある笑いを見せた。彫りの深い顔立ちが陰影を帯びてさらに強調されている。
「俺」
「……は?」
「だから対価、俺。お前、あいつらから抜ける気だろう? 俺もそれに乗る」
「……」
(ばれた。しかも……一緒に来る?)
驚きが顔に出るのを何とか押しとどめる。頷くべきか否か、郁は江間の意図を測って目を細めた。
「一人より二人のほうがいいぜ? 俺、頭いいし、お前と違って力もある。運動神経も上々、顔もいいから目の保養も」
「性格が悪い。お断り」
「大丈夫だ、その点はお前には負ける」
言葉を詰らせた郁に、江間はいたずらっ子のように笑った。
「……私自身が望んでいないものが対価になるはずがない」
「じゃあ、望んでくれ」
≪なんで言わない、なんで望まない。宮部が言えば、望めば、助ける、必ず≫
黒い瞳はかつてと同じようにまっすぐこちらに向けられていて、郁は息を止めた。
江間の発言は、愛され慣れた人間のものだ。断られることを露ほども考えていない。恐れていない。――だから郁は江間が嫌いなのだ。
それでも、できるだけ冷静に江間の申し出を分析しようと試みた。
こっちの人間は、祖父たちのように彫りが深めの顔が多いと聞いた。その点江間はさほど違和感がない。髪の色や肌の色は色々だから問題なし。性格は嫌いだが、確かに頭も切れるし、柔軟性も適応力もある。つまり足手まといにはならない。だが、それは逆に危険じゃないか?
「……私が隠し事をしていると思っているのでは? それを利用した私があなたを陥れるという可能性は考えない?」
自分が彼を疑っていると悟られないよう、裏切りの主体を自分に変えて、郁は江間の表情を注視した。後ろ暗い考えのある者ならば、かなりの確率でなんらかの変化を見せるはずだ。
江間の表情が動いた。だが、それは郁の予想から大きく外れていた。
「……」
彼はさらに笑いを深め、切れ長の目を端まで緩ませると、郁に手を伸ばす。
近づいてくる手を、大きい、と感じた瞬間、額が軽く弾かれた。
「そんなことを考えてるやつは、そもそもそれを口にしない。あんなやつらを助けに戻ったりもしない」
それから江間は郁の肩を二回叩き、「一緒に行こう、宮部」と明るい声で笑った。その顔を見た瞬間、郁は後ろめたい気分になった。
「……それも全部計算ずくかもよ?」
「それならそれでいい。俺の見る目がなかった、それだけのことだろ」
「……」
今度こそ返す言葉が見つからなかった。
裏切られても自分の責任――明るくそう言い切れる江間の気性がやっぱり気に入らなくて……無性にうらやましくなった。
「優等生面しながら、いつも安全なところで様子見する福地にも、何もしないで文句ばっか言うあいつらにも、いい加減うんざりしてきたところだったんだ。その点お前なら退屈しなさそうだし? だからお前が抜けるなら俺も行く」
そう言い放った江間に、郁は息を吐き出すと「好きにすれば」と投げやりに答えた。
江間はいつもこうだ。ノートを借りていく時、鳥の雛を巣に戻そうとした時、その後の屋上への呼び出し、郁の祖父が死んだ時、雪の夜に雪だるまを作っていた時、今回の見舞い……郁がいくら抵抗しても、いつも強引に勝手にやりたいようにやる。
「よっしゃ、契約成立」
月だけが存在感を放つ、異形にあふれた異界の森で、化け物の死体とその化け物を殺して血まみれになった女を前に江間は破顔する。
「……」
彼が目を緩ませてちゃんと笑うのを久々に見た気がして、郁は咄嗟に目を逸らした。
「って、ちょっと、それ……」
江間は上着の内ポケットから取り出したニッパーを、イェリカ・ローダの残る腕にあてると、器用に使いこなし、見る間に鎌を切り離していく。
「……そんな便利なものがあるなら、さっさと言うべきじゃ?」
「手伝うって言ったじゃねえか。お前がいらんっつーのに、押し付けちゃ申し訳ないだろ?」
手にした鎌を満足そうに眺めた江間は、横目で郁を見るとにやりと笑った。
「……」
(こいつと連れ立っていく――やっぱり判断を誤ったかも……)
隠しきれず眉間にしわを作った郁に、江間はくつりと笑うと立ち上がった。
「さあ、行こうぜ――性悪な相棒」
「……江間にだけは言われたくない」
自信満々な江間に舌を出せば、彼は眉を跳ね上げた。少し気分がよくなる。
「さてと。じゃあ、手始めにあっちの沼にこいつを放り込んで」
「代わりに私と江間が死んだと思わせる」
「騙すべきは福地……他には?」
「こちらの人間」
「なるほど、と言いたいところだが、そもそも“人間”がいるとなぜ知っている?」
「漫画や小説の定番だから。生物を専攻している身としては、異世界の知的生命体を夢いっぱいに期待しておくべきかと」
「手ごわいな」
内心の冷や汗を隠して無表情に返せば、江間は顔をしかめた。
夜風に森全体が歌うように揺れる。
江間と郁はどちらからともなく左右に別れ、『神に疎まれしもの』の遺骸を二人で抱えあげる。
青と黄の月明かりが降り注ぐ地には、『神に疎まれしもの』とこの世界にとっての異物――二人の影が落ちて、異形そのものの姿を成している。
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