1-7.化けの皮
吐く物が尽きて、地べたに四つん這いになったまま肩で息をすることしばし。郁はよろけるように手近な木へと背を預けた。
日は暮れた。薄暮を残した空の対方、森の木々の間に青と黄の二つの巨大な満月が姿を昇り始めた。
「『大双月』だったのか……」
祖父が言っていた、イェリカ・ローダたちが鎮まる夜――。
(道理で私なんかに『神に疎まれしもの』が殺せたはずだ……)
そう納得すると、郁は汚れていた口元を手の甲で乱暴にぬぐった。血の香りがする。
化け物はもうピクリとも動かない。古木に縫いとめられている左腕の上で、それを自由にしようと動いていた右の鎌が月光に鈍く光っている。よく見れば、木に刺さっている左の方もあとわずかで自由になるところだった。
危ういところだったらしいとぼんやりと考え、それから、使えそうだ、とその鎌を見つめて思った。ナイフにも武器になる。
「……やっぱり生き残る気満々なわけだ」
生きている意味などないと知っているくせに、と郁はまた自嘲した。
(まあいい。生き延びられるところまで生き延びてやろう。ダメならそれまでだ)
落ち着きを取り戻した郁は屍に近づき、鎌を取ろうと手をかけた。
「っ、宮部……っ」
「っ」
その瞬間、遠くから名を叫ばれ、郁はびくりと背筋を震わせた。影が森から勢いよくとび出てくる――江間だ。また長い棒を手にしている。
彼は郁に目を留めるなり、「生きて、る……」と顔を歪め、そのままこちらに走り寄ってくる。
「大丈夫かっ? 怪我はっ?」
「……特には」
瞬間、形容しがたい激情が湧き上がってきた。それをなんとか抑えて郁は短く答えると、伸びてきた腕を後退ってよけた。
「本当か? 全身真っ赤じゃねえか」
「嘘を吐く理由がない」
鼻白んだように、江間が口を引き結んだ。沈黙が落ちる中、郁は歯噛みする――よりによって江間だ。逃げ損ねた。
「……助けに来たってのに、相変わらず愛想も可愛げもねえな」
流石に気を害したらしい江間だったが、彼らしいことにすぐに調子を取り戻したようだ。軽く息を吐き出すと、郁の全身を無遠慮に眺めまわし、傍らで血の塊と化した化け物をしげしげと眺めた。
「すげえな……これ、おまえがやったのか」
その横顔を盗み見れば、興奮のためだろうか、頬がかなり紅潮している。返り血にまみれた郁を見てもぐちゃぐちゃになった化け物を見ても、青ざめたり吐いたりしないのがいかにも江間だった。
郁のすぐ傍らに立った彼の身長は、郁より十センチほど上、多分百八十を越えている。高校はかなりの進学校だったらしいのに、バスケットボールで結構な活躍をしていて、そっちの推薦の話もあったという。噂を裏付けるように体格も運動神経もいい。天は二物を与えずという諺は絶対に嘘だ。実に腹立たしい。
「死んだかもって話だったけど……大したもんだな」
容赦のない言葉使いに顔が歪みそうになったが、それを見られたくはない。郁は咄嗟に顔を背ける。
江間はいつもこうだ。ぱっと見のチャラついた印象からは決してわからないけれど、観察力に長けていて、ひどく冷静で現実的。
それはこっちの世界に来てからもいかんなく発揮されている。最初こそ皆と同じように動揺していたものの、他の人間に比べてその時間は驚くぐらい短かった。「嘘だ」「夢だ」と繰り返す周囲に冷めた笑いを向け、最初に「現実だ。夢みたいな話ではあるけどな」と言い切ったのも江間だ。
その後先ほどのような化け物に襲われ、皆がパニックに陥った時も奴だけは冷静だった。郁と違ってここが異界だと知らないにもかかわらず――。
「ひどい格好だな。水でも浴びてから戻るか?」
そもそも戻る気はない――だが、どうする?
全身から漂う返り血の臭いも、血が肌や髪に張り付く感触も確かに気持ち悪い。だが『神に疎まれしもの』の体液は、別の『神に疎まれしもの』に対しての魔除けになるはずだ。強ければ強いほど効果が高いという。このまま逃げるなら落としたくない。
「俺、こう見えて紳士だからのぞいたりもしないし、背負って帰ったりもしてやるぜ?」
お願いすれば、だけどな、とおどけたように言ってみせた江間の目が、笑っていないことに気づく。
「……向こうで水を浴びていくから先に戻って」
郁の一か八かの言葉に、江間は作り笑いすら顔から消した。やはり引っかからない、と内心で歯噛みする。
「さっきのすぐでそんなことできるか」
「さっきのすぐでまたこんな目に遭うほど運が悪いということはさすがにない」
こちらを見ている江間の顔に月明かりが射す。作り物めいて見えるほど整った顔は、完全な無表情で悪魔のように見えた。
「……おまえ、こっち来てからやっぱ妙だな」
「こんなところにいきなり放り込まれておかしくならないなら、そのほうがおかしい」
「そういうことじゃない」
隠さない舌打ちをこぼした江間が、さらに距離を詰めてきた。
鋭いところだけじゃない。もうひとつ、郁が彼を嫌うのはこういうところだ。彼の人あたりの良さは、誰もが口にすることだ。だが、彼は郁には得意の猫をかぶらない――郁を見下しているから、取り繕う必要性すら感じない。そう態度で露骨に示してくる。
「意味がわからない」
「じゃあ、はっきり言ってやる。お前、わざと独りになっただろ?」
菊田たちから郁が好んで居残ったとでも聞いたのか、それとも郁の意図を正確に見抜いているのか――。
「わざともなにも置いていかれただけだ」
顔が歪んだのを悟られたくなくて、肩を竦めつつ、顔を背ける。
「問題はそこじゃない。自発的にしろ、そうでないにしろ、お前は一人になった、あいつらの思惑通りに。あいつらはこの状況でなおこんなくだらない嫌がらせをする連中だぞ。お前があの馬鹿どもの思惑通りに動いたとしたら、思惑通りになるつもりでなったとしか考えられない」
「買い被り過ぎ」
人あたりがいいと彼を評している能天気な連中に、彼が今郁に向けている目を見せてやりたいものだ。
被害者ぶって見せたのにあっさりそれを否定された郁は、無表情を取り繕いながら内心で江間を唾棄する。
「車を崖の下に落としたのもわざとだろう。不安になって見に行った、そうしたらドアを閉めた反動で落ちた? お前はそんな殊勝なタイプじゃない。で、今度は化け物とやりあった直後だってのに、一人にしてくれてかまわないときた」
「車も今迷惑を掛けていることも悪いと思っている」
江間はやはり嫌になるくらい鋭い。郁は全身を彼から背けながら、自分の愚かさを悔やむ。警戒すべきは『神に疎まれしもの』より『応接使』より、やはり彼だったのに。
「っ」
不意に郁の顎に温かいものが触れた。驚きで視線を跳ね上げれば、江間が驚くほどの至近距離で郁を見下ろしていて息を呑む。
「ちゃんと顔を見せろ――まじめに答えてもらおうか?」
「自殺願望があるわけでなし、こんな状況で好んで一人になるわけがない。車も同じ。不安で何かできないか確かめようとしたら、弾みで落ちてしまっただけ」
「不安、ねえ」
緊張を悟られたくない一心で一息に言いきった郁に、江間は皮肉を込めて鋭く返してきた。尖ったその視線に冷や汗を流す。
「お前の顔は何かを計算している人間の顔だ」
「っ」
さらに距離を詰められた。反射で後方に身を引いたが、化け物の亡骸にあたってよろけてしまう。
倒れると思ったのに、当の江間に腕をつかまれて引き寄せられた。空いた方の彼の腕で背も拘束された瞬間、かっと顔に血が上る。
狭い空間で咄嗟に顔を伏せれば、短い吐息が目の前の口から漏れ出た。
「……宮部、なんか隠してるだろ、いい加減話せ」
「っ」
先ほどの視線と裏腹なやわらかい声が降ってきて、心臓がはねた。
彼はいつもこうだ。近づいてほしくないと思うのに、郁がそう思っていると知っているくせに、お構いなしに近づいてくる。そしていつも彼の思い通りにする。
全力で抗っているのに顎を包み込まれ、無理やり持ち上げられた。江間の端正な顔が上から郁を見ている。息の熱が、体温が伝わってくる。
「――話せ。お前が望むなら何だってやってやる」
背に回された腕の力が強まって体が密着した。自分のものではない香りが鼻腔をつく。
郁の視界に入るのは江間の瞳の黒だけ――。
「……っ」
刹那、何かが郁の中で切れた。
両手を江間の腰骨にあてて押すと同時に、腰を後方に落とす。直後に空いた空間を利用して逆に彼の腰を引き寄せると、膝をその腹部へと打ち上げた。
「っ、宮部っ」
江間は咄嗟に後退ってそれを避けた。郁は空いたその距離を一気に詰め、掌底で江間の顎を狙う。
「っ、てめ……」
顔を逸らして掌をかわした江間は重心を崩す。だが、後ろ足で全体重を支えると、即座に態勢を整えて郁を睨みつけてきた。
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