1-6.“神に疎まれしもの”

(いた)

 青ざめ、地にへたり込んで抱き合っていた三人は、郁を見て目を見開いた。てっきりいるとばかり思っていた化け物はそこに見当たらず、途端に郁を突き動かしていた訳の分からない衝動は萎えていった。

 状況に戸惑いながら、郁は泣いている彼女たちに近寄る。

「……大丈夫ですか?」

 こういう場合にはそう言うのだったと思い出して声をかけた瞬間、右後方で木がざわついた。

 規則性のない振動と枝の折れる音――明らかに風ではない。


「っ」

 音を立ててそちらを見れば、闇に染まった森の一部が郁の前に抜け出てきた。降り積もった枯葉を撒き散らして、眼前に着地する。

 夕日を背に立つ、人の倍はある大きな影――郁が正体を見極める前に、影は長い何かで空を裂いた。風圧を直接顔に感じて総毛立つ。

「……っ」

 考えるより先に体が動いた。身を屈めた拍子に急な動きで圧迫された喉がひゅっと引きつれた音を立てる。

 鋭い何かが頭を掠めた。髪に残る感触に青ざめ全身を硬くした瞬間、今度は丸太サイズの、鞭のようにしなる何かが下から郁を襲った。

 咄嗟に胸部をかばう。すくい上げるような衝撃に腕とろっ骨がきしみ、肺から空気が押し出される。浮遊感は一瞬で、直後に背後の古木の幹へと背から叩きつけられた。

「かはっ」

 教え込まれたとおりに体が動いて受け身をとったはずなのに、背に強い衝撃を受ける。同時に自重で押しつぶされた肺から空気が漏れ出た。


 郁は幹に背を預けたまま、木の根元へと崩れ落ちた。剥がれ落ちた樹皮がばらばらと顔に落ちるが、衝撃で咄嗟に動けない。

 それでも必死に目を押し開いた。

 生理的に出てきた涙でぼやける視界の中、血の色に染まった夕空に浮かび上がっているのは、異形の黒い影。身の丈は自分の二倍近くある。鎌のように見える腕らしき部分といい、後方へ長く突き出た腹といい、カマキリのように見えた。

 どこが“目”なのか、それどころか目にあたるものがあるかどうかも、その影からは判らないのに、それが自分を“見て”いると分かった。


(やはりイェリカ・ローダ……)

 ごくり、とつばを飲み込んだ。地に付いた手にぐっと力を込めると、いつでも動けるように体勢を立て直す。あの打撃で枝を離さなかったのは上出来だ。

 影はシャリ、シャリという高い摩擦音を立てて、郁へと近寄ってくる。警戒かそれとも獲物を嬲るためか、ひどくゆっくりと。

 フシューという規則的な音が耳に届く。長く伸びた影が郁の青白い顔に落ちる。


「っ」

 頭めがけて振り降ろされた鎌を、左手に持った二叉の枝で挟んで受けた。が、叉の根本に刃がめり込む感覚があって、郁はとっさに手首を返して鎌の軌道を逸らす。そして、半身になりながら化け物の側面に回ると、長いほうの枝を化け物の横っ腹に突き込んだ。

(――刺さらない……っ)

 ジョッという音と共にその場所はくぼんだが、それだけだった。

 すぐに化け物のもう一方の鎌が飛んでくる。すんでのところで交わして、距離を取った。今度は郁が夕日を背にする形になる。


「……ひっ」

 目線を上げ、赤い光を浴びた異形の全身を見た瞬間、郁は喉の奥で小さな悲鳴を上げた。

 残り日を受けたそれは、郁が知るどんな生物にも例えられない姿をしていた。

 不自然なまでに丸い頭部と思しき場所は、全体が細かい鱗のようなものに覆われていて、夕日を反射し、部分部分がさざめくように光っている。その中央にバレーボール大の赤い球体が二つ。黒い点が無数に散らばったそこは、鱗ではなく白濁した膜に覆われている。

 予想をはるかに越えた異形の姿に、足がすくんでしまってまた動けなくなった。


「……っ」

 その金縛りを解いてくれたのは化け物中の化け物、『神に疎まれしもの』の向こう、必死に自分から遠ざかっていく三人の姿だった。

(……ああ、またか)

 ただ、そうしなくてはいけないと思っただけで、しかもそれは自分のためであって、彼女たちを助けようと強く思っていたわけじゃない。なのに、むなしさが広がっていく。

 郁の視線を読んだのかもしれない。異形の頭部のような部分だけが、遠ざかっていく彼女たちの背へと回転した。

 しばし考え込むかのように彼女たちを見つめた後、それは頭部を郁へと戻す。すると顔の下方にある、直径五センチほどの陥没が左右に広がり始めた。その穴が顔の両端に至って、奇妙に引きつり上がるのを見て、……笑われた、そう思った。

「っ」

 恥辱に顔に血が上る。


 次の瞬間、二つのボールが左右バラバラに動いた。先ほど見たそれの腕、刃渡りとも言うべき三十センチほどの鎌状の部分が郁へと振り下ろされる。空気を切り裂く鋭い音が響き、刃の部分が地平に沈みつつある夕日に鈍く煌く。

「……っ」

 総毛立った。

 咄嗟に枯葉の敷き詰められた森床を転がって、なんとかそれをやり過ごす。もつれそうになる足を叱咤して木立へ走り込めば、背後の枝葉が地面になぎ倒される音が響いた。化け物は明確な意思を持って郁を追ってきている。


「……」

 木の陰で息を殺しつつ、郁は木立の合間から姿を見せた化け物に目線を合わせた。怖いもの見たさなのか、敵を認識するよう備わった生き物としての本能のせいなのか分からないが、そうしないではいられない。

 目と思われる赤い球体が、半透明の白い膜の下で上下左右にぎょろっぎょろっと動いている。が、左右の動きはまったく連動していない。今も片方が郁の方向を中心に左右に動く傍ら、もう一方はぐるぐると円を描いて回っている。

(本当にイェリカ・ローダ――神に疎まれしものだ……。気色悪い)

 吐き気がこみ上げてきて、えづきそうになる。だが、その二つの球体が郁を捉えて同時に停止したことで、胃からせり上がってきた物を息と共に飲み込んだ。


 再び顔の下方の陥没が左右に広がった。周辺の細かい鱗がその動きに応じて波を打ち、直後にキャキャキャキャキャという高音が森に響き渡った。歓喜のように聞こえる。弄ばれていると悟って、郁はぎりっと歯を食いしばった。

「……っ」

 再び鎌が降り降ろされた。二叉の枝で受けたが、支枝が折れる。咄嗟に離しながら、飛びのけば、そこに下から尾が襲ってきた。

 右手の枝を両手で握り直し、正面から受け止めたが、勢いまでは殺すことができず、体が軽く宙に浮いた。


 何とか両足で着地して、焦りつつ距離をとろうとすれば、落ち葉に足を取られて転んだ。その頭上を鋭い鎌が薙いでいく。自分の左斜め後ろでカッと鋭い音が立った。

 冷や汗を流しながら、辺りで一番太い木の陰に転がり込めば、泥と草木にまみれた自分の身が視界に入った。

(……なんてみっともない)

 そう実感したら、怖さも焦りもすべて情けなさにとってかわった。

 自分は誰にも必要とされていない。事実あの三人は自分を二度も見捨てて逃げていった。なのに、まだこんな風に足搔いている。

 あまりに無様でみじめで、郁は泣き笑いを零した。


≪迷ったら、自分を好きになれるように行動するの≫

 唐突にそう告げた時の祖母の顔を思い出した。

≪……私、自分のこと好きだったこと、ない≫

(私のあの返事に彼女はなんと返してくれたのだっけ……)


(……? 襲ってこない……)

 攻撃的と思われる化け物が妙に静かなことに違和感を覚えて、郁は背を預けていた木の幹の向こうに視線をやった。


 日は既に地平に接した。陽光を失って暗く染まりつつある森に、表面の滑らかな物体が何かと擦れて生まれる、耳障りな音が小さく響いている。

 音源は、先ほど郁を襲った鎌とそれが刺さっている古木の幹。鎌の持ち主はまるで人がそうするかのように、黒い突起がびっしりついた後足の先端を幹へとあてがい、反動をつけて上身をくり返し後方へと逸らしている。

 抜けなくなったんだ、と郁が気付いた直後に、その後足も棘の部分が幹に突き刺さってしまったらしい。その生き物は奇妙な体勢で古木へと縫いとめられた。全身を包む鱗をジャラジャラと音を立てて波打たせている。


 手に何かが触れた。あの生き物かそれに追われて逃げていった生物によって折れたのであろう、全く乾いていない生木。先端が歪に尖っている。

「……」

 郁はそれの先を見つめ、手に取った。それから、動きを奪われたまま足掻いている『神に疎まれしもの』へと目を向けた。

 立ち上がって木の陰から出たが、相手はやはり移動しない。息を殺し、左腕と左足を木に囚われているそれの左側、木立の合間へと回り込む。最初の鎌の一撃を避けた後鞭のように飛んできて郁をふっ飛ばした腹とも尾ともわからない部分による攻撃は、これで避けられるはずだ。


(狙うべきは――あの赤い球)

 あれ自体は動くけれど、何かを動かす作用があるわけではなく、体の外側に位置している。つまりあれは外界を認知するための感覚器官だろう。ならば向こうの生物で言う神経のようなものが集中しているはずで、弱点と言っていいはずだ。

 郁は目標を定め、じりじりとそれに近づく。攻撃圏まで来て、口内にたまった唾液をゴクリと飲み込んだ。不意に赤と黒の斑の瞳がぎょろりと動き、郁を捉えた。下の陥没も同時に動く。

 今度はそれが慈悲を請うているように見えて、郁は息を飲んだ。生木を握った右の拳が震え始める。ささくれ立った樹皮が柔らかい手のひらに食い込んで痛い。

(――違う。これは人の脳が顔に見えるものに、感情を見出そうとする作りになっているだけだ。大体……)

「今更だ」

 郁は左手を右に添え、生木を頭上高く振り上げる。同時に化け物の右の鎌が、こちらへと向かってくる。

「っ」

 無理な態勢のせいで勢いの弱いその一撃を一歩脇によけてかわすと、郁は手にした枝を渾身の力で振り下ろした。


 郁の手元で赤い玉はぶにゃりと凹む。同時に耳元で響いた威嚇するような高音にひるみ、手を離しそうになる。歯を食いしばって堪えると、力任せに木を下方へ押し込んだ。

 一瞬の後に、ぶつりという振動が手に伝わる。生木は勢いを増して、内部にぐずりとめり込んでいった。化け物の絶叫が間近で耳をつんざく。

 ごつっという振動を再び手に伝えて、その木はある深さで停止した。同時に生臭い液体がどくどくと流れ出し、郁の両手を染めた。

「っ」

 生理的な嫌悪が全身に広がり、それに従って右手が生木を離そうとする。

「っ、今更……っ」

 それを左手でぐっと押さえつけ、一気に引き抜いた。赤い液体が吹き出し、周囲へと飛び散った。

 「キシャシャシャシャシャキシャキシャキシャ」という音と共に、化け物の尾が無秩序に暴れ出し、周囲に土ぼこりが巻き上がる。

「っ」

 尾と右の鎌の動きに気を配りながら、もう一度、今度はもう片方の球体へと枝を突き立てた。が、奥まで入らず、歯ぎしりしながらそれを引き抜く。

 目の前の化け物から金臭い液体が吹き上がり、それが自分の顔を赤黒く穢した。右の鎌から弱弱しい一撃が来たが、難なくかわし、同じ場所に枝を突き立てる。

「はい、れ……っ」

 全身の力を込めて押し込めば、今度は手ごたえがあった。そのまま化け物の体内深くへと生木を押し込む。

「……っ」

 化け物の全身が瘧のように激しく震え出し、球体の下の陥没から「ゥボ、ォォ、ボ、ボボボボオボボボボ」と振動音が零れ出た。

「っ」

 恐怖に総毛立った。

 郁は意味をなさない叫び声を上げながら再び生木を引き抜き、再度“それ”の“目”へと振り下ろす。今度は先ほどの感触に、びちゃりという湿った音が加わり、化け物の震えが大きくなる。伝わってくる振動に、臭いに、悲鳴に、木が肉にのめり込んでいく感触に、吐きそうになる。それを抑えるためにまた叫んで、また振り下ろして――郁はそれが完全に静止しても狂ったように同じ動作を繰り返した。



 別の生き物の鳴き声が森に響いた。

 それが完全に動かなくなったことにようやく気付いて、郁は二、三歩後ろへとよろめくと、膝を森床に落とした。身から滴る返り血が一滴一滴、落ち葉をぽつぽつと染めていく。右手は凝り固まったまま、既に鋭さを失った生木を握り締めて、痙攣している。

 どこか空ろなままその生き物に目を向ければ、あのおぞましい赤い球の瞳は跡形もなくなっていた。ぽかりと開いた二つの穴から血が顔から胴体、地面へと静かに滴り落ちていくのが見える。頭部全体に木片が刺さり、ぐずぐずになっている。


「……」

 生きて動いていたものを、生きたいと願っていただろうものを殺し、ぐちゃぐちゃの肉塊にした――。

 この世界に来てから何度か同じことをやった。殺さねば殺された。飢えた。

 なのに、再び全身が震え出す。木を振り下ろす瞬間の、化け物のあの顔が目に焼きついている。肉の塊を突き刺した瞬間の振動が手に残っている。あの絶叫が耳について離れない。

「けがれた、いきもの……」

 イェリカ・ローダの意味するところを日本語で呟いてみて、その響きに余計顔を歪めた。

(本当に穢れているのはどっちだ……?)

 生きていても誰も喜ばないと知っているのに、死にたくないと思っているこれを、他のあれやこれを殺して、郁は今生きている。


 地平線に沈みゆく最後の赤光が、木々の合間から差し込む。だが、化け物の二つの黒い空洞には届かない。

「……っ」

 その暗い穴にじっと見つめられた気がした瞬間、郁は喉を競りあがってきた胃液を吐き出した。ここ数日ろくにものを食べていないせいか、喉と口腔が焼けついた。


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