1-5.訓え

 三人の賑やかな声が遠ざかっていく。日は赤みを増していて、対方の地平辺りに浮かぶ雲も夕日に赤く燃え上がっている。

(早く、早く行って。どうせならあと一時間早くいなくなってくれればよかったのに……)

 彼女たちの背と夕日の高度を忙しなく見比べ、郁は転がり込んできたチャンスへの興奮と忍び寄ってくる夜への恐怖に心臓をはやらせる。


 ここは祖父が言っていた『惑いの森』、あちらとこちらの世界をつなぐという伝説のある場所だ。であれば、西に五日でディケセル国に出られる。

 だが、『応接使』との遭遇を避けるのであれば、南だ。ここから南南西、一時間ほどの場所に、洞窟にあったものと同じ月聖岩の固まる場所があった。とりあえずそこで夜を過ごし、その後『太陽』の南中方向に七日歩いて、ディケセルの南部に出る。


 郁は祖父母がお守りとしてくれた小袋を服越しに握りしめる。同封されていた地図やメモの意味にまたも思考を囚われそうになって、かぶりを振った。

(辺りが闇に完全に覆われるまでに、月聖岩の密集地に行けばいい。それでこの夜を乗り切れるはず)

 江間がいない今を逃す手はない。守り袋の中の月聖石のペンダントの感触を指で確かめ、郁は決意を固めた。


 ここのところ江間が特に郁にかまうのは、先ほど彼女たちが邪推したような理由ではない。こっちに来る時に乗っていたあの車を、三日目の真夜中に郁が深い谷底へと付き落としたのを、彼に見られたからだ。

 自分の家の車を壊されたと思って、怒っているのであればいい。だが、江間は郁を不審がっている。なぜそんなことをしたのか、と。

 気になって見に行っただけ、たまたま近くにいただけで何もしていない、するわけがないと言ったのに、彼だけは今回も騙されなかった。

 『応接使』から逃れる以上に、彼にそれを詳しく追及されることを避けたい。

 考えれば考えるほど、今ここを離れることは合理的だった。中空から徐々に侵食してくる闇の青に萎えそうになる気力を振り絞って、郁は自らを叱咤する。


 菊田たちの姿が茂みの向こうに消えたのを確認すると、郁は洞窟に背を向け、走り出した。

 急げ、あの魔除けの岩がある場所に日が完全に暮れてしまう前に。魔が、『神に疎まれしものたち』が跳梁する闇が訪れる前に――。

 落ち葉の降り積もった森床はただでさえ走りにくく、恐怖と焦りで膝が笑って転びそうになる。それでも前へ前へと必死で足を運び、

「っ」

 森に響き渡った悲鳴に立ち止まった。


 鳥に似た、空を舞う生き物が、背後の黒い森から一斉に飛び立った。

(今の、は、佐野……?)

 遅れて角のあるネズミ似の生き物や全身半透明の小動物がこちらへと走ってきた。それらが去った後、辺りの森は静けさに包まれる。

(ひょっとしてまた『イェリカ・ローダ』……?)

 鍛え抜かれた戦士であるグルドザたちが命を落とすこともあったと祖父が言っていた、あれがまた出たのだろうか……?

 静寂に満ちた夕刻の森の異様な空気に、郁はごくりとのどを鳴らした。


 タスケナクテハ――そう頭に思い浮かんだ。だが、郁は即座に首を横に振る。

(こんなチャンスは多分もう来ない。大体私を先に見捨てたのは彼女たちじゃないか。そもそも戻ったって何の役にも立たない)

 目の前で今まさに死にかけている人間がいると知っていて無視する――その行為を正当化しようと言い訳を考えながら、悲鳴に背を向け、郁は再び歩き出した。

 そうだ、自分は少しこの世界の知識があるだけで、魔法が使えるわけでも、超人のように動けるわけでもないのだ。『グルドザ』だった祖父に護身術を教えてもらったが、あくまで身を護るためで、自分は彼のような戦士ではない。

(第一、彼女たちが私に抱いているのは害意、良くて無関心だ。馬鹿ではあるまいし、わざわざそんな人たちのために死にたくはな……)

「……」

 郁は再びピタリと足を止めた。死にたくない――生きていたい?


「私はちょっと……宮部さんなら平気でしょ? ほんと助かるー」

「ええー、それ、私がやるんですか……? 宮部先輩のほうが向いてらっしゃると思います」

 先ほど逃げていった彼女たちの顔が脳裏にちらついた。自分を利用するだけして、真面目しか取り得がない、と影で自分を笑っている人たちだ。それどころか露骨な嫌がらせも散々されてきた。


「佳乃と約束をしてしまったから……郁はわかるね?」

「ごめんね、郁、ご当主様も旦那様もそう仰るし……」

「杏奈にはあまり似ていないな。佳乃と並ぶと哀れなほどだ。せめて男子であれば認めてやってもよかったが、今更波風をわざわざ立てる価値はなかろう」

 それはすぐに両親と父方の祖父母たちの顔に置き換わった。「いらない」と、彼らはことある毎に言葉と行動で郁に突き付けた。


『コトゥド・リィアーレが、嫌がるトゥアンナ王女をかどわかした、それが真実だ。大体おかしいと思ったんだ、ディケセルの王女たる者が国を、責務を捨てて逃げるはずがない』

『私が嘘をつくと言うのって? ……よくそんなセリフが吐けたな。お前の本当の名はアヤじゃない、カオルなんだろ? 真名を騙るのは相手への最大の侮辱だ、最低だな』

『リィアーレにはその理由がない? ヨシノはトゥアンナに生き写し、お前はそのクズ似だと聞いた。大方、王女の美貌に目が眩んだクズがかどわかしたんだろう。お前がヨシノにつらくあたっているのと同じ理由だし、共感できるだろ? まあ、仕方がないな、性格も悪いし、中身も可愛げゼロ。その上その見た目だ。せめて男に生まれていれば、まだ救いがあったのに』

 何千回と夢で遊んだあの子、シャツェランの顔が元家族の顔に並ぶ。ずっと仲良くしていたのに、親友だと思っていたのに、彼も会って間もない妹の言葉を信じた。


「? なぜそんな嘘を、と言われましても……。おばあさまも私もお姫様です。事実と違う……意味が解りません」

「難しいことはいらないんです、お姉様。とにかくおかしいのはお姉様なんです。私はお姫様ですから。お姉様も私の言うことを聞かないとコトゥドみたいになりますよ」

 自分こそが世界の中心で、他人はすべて自分のために存在していると、妹の佳乃は素で思っている。だから彼女は祖父のコトゥドや郁を、蔑ろにしているという意識すらないまま蔑ろにする。そこには悪意も罪悪感もない。事実も正しいかどうかも、道徳も倫理も関係ない。


「ごめん、宮部さん、その、佳乃さんと約束しちゃって……悪く思わないでね」

「佳乃、いい子じゃん。お前、妹によくあんな冷たくできるな。見損なった」

 仲の良かった人、仲良くなれそうだった人たちも、皆その妹を信じて、郁から離れていった。


「おお、同じ学科だ、ラッキー。改めてよろしくな、宮部さん」

「……お前の妹、あれ、かなりうっとおしいな」

「一緒に花火、見に行こうぜ」

 そんな中ようやく普通に接してくれる人、郁の存在を許容してくれる人ができるかと思ったのに――。

「宮部みたいなのとか論外」

 馬鹿みたいだった。我ながら滑稽で、あの後一人涙を流すまで笑ったことを思い出し、郁は視線を地に落とす。


「……死にたくない、生きていたい、生きる理由……」

 ぼそぼそと呟いてみたが、耳に入ってくる単語の一つ一つが胸に突き刺さった。

 祖父母、コトゥドと桜子はもういない。彼ら以外に自分を信じ、幸せを願ってくれる人はこの世にもう存在しない。作れなかったし、この先作れるとももう思えない。


(でも……)

≪迷ったら、自分を好きになれるように行動するの≫

≪自分がすべきであると思うことをしなさい≫

 脳裏に、顔中に刻まれた皺を優しく緩めて、自分を見る祖母の顔が浮かんだ。次いで静かに自分を見つめる祖父の顔が浮かぶ。

 他人によって自分の行動を、生き方を変えるなということだと、理解はしている。現に二人とも、相手が、周囲がどうであれ、自分で自分を見下げなくてはならないことはしない、そういう人たちだった。


「……」

 郁はぎゅっと唇をかみしめると、背後を振り返る。バックパックに刺していた長い枝と、それよりは短い二又の枝を掴むと、来た道を引き返した。

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